刀剣嫌いな少年の話 拾伍
――襲撃された本丸が静かになってからも、黒い管狐はただ必死に、審神者たちから託された少年を護らなければと、必死に霊力を込めて結界を維持し続けていた。
政府直属の部隊が応援にやってきたのは、クロが霊力を使い果たして結界が解けてしまった頃だった。それが、一体どれだけの時間が経ってからのことだったかはわからない。はっきりわかっていることは、夜が明けていたことくらいだ。
押し入れの中にいた少年とクロは、政府の役人と刀剣男士によって救出された。
いろいろな声をかけられたし、謝られた。時間遡行軍が、狙ったようにさまざまな時代に進軍を開始していたため、対応が遅れてしまったことが主な理由だった。
当然だった。
歴史上の最重要人物に関わる事件と、本丸の襲撃を天秤にかけられれば、本丸側に皿が落ちることがないくらい、分かる。数ある中の、「ちょっと優秀な」本丸が一つだけ、落とされただけだからだ。
それを理解できてしまうクロは、何も文句を言えなかった。残念な結果になりましたね、と言われれば、はい、とか細い声で答えるのが、せいぜいで。
本丸を後にするとき、少年とクロは自分たちがいた本丸を見た。
残っているのは、押し入れがあった審神者部屋のみ。部屋自体にも特別な結界が施されていたらしく、不自然にそこだけが無事だった。
屋根はほぼ落ちている。廊下や部屋だった場所には、無残に折れた刀が散乱していた。また、庭には刀の破片のほか、白い布をかけられたものが置かれていた。政府の者たちが囲い、合掌して俯いている者もいた。大きさからして、大人の男一人分程度。姿を確認することはできなかった。ただ、人の手と思しきものが、布の下からちらりと見えた。
もはやそこに、かつての本丸の面影はない。ただの残骸の山だった。
それらを見た少年が、泣き叫ぶことはなかった。
クロは、担当していた本丸の消失により、政府所属の管狐となることが決まった。
少年は、審神者の適正としては十分であったが、心へのダメージが大きすぎることや、クロの進言もあり、当分の間は政府施設で保護されることになっていた。
元々同じ本丸にいたということで、少年への面会にとくに制限はなかったクロは、頻繁に子供のいる部屋を訪れた。
「坊ちゃん……今日は、政府で、書類審査を避けている本丸への催促に行ってきたっスよ」
「……」
「……新米審神者だったみたいで、書類の書き方が、わからなかったらしいんです。いやぁ……大変っスよね、やっぱり。研修もなかなか行き届かないみたいですし」
「……」
少年は、何を話しかけても答えないし、虚空を見つめるだけになっていた。視線も合わない。審神者に託された淡い紅藤色の襟巻と刀剣を横に置き、部屋の隅に蹲ったまま動かない。幸い、食事や飲み物を与えれば食べるし飲むので、生きることをやめた様子はなかったが、ひどく機械的だった。
与えられた部屋にあるのは、ベッドと、刀剣男士や審神者について書かれた本が数冊入った本棚、机、備え付けられたシャワー室、トイレ。
だが、少年はどれも自ら使おうとしなかった。用を足すことですら、クロが促さないとできない有様だった。
「坊ちゃん……」
クロは時折、散歩のために少年を政府施設の外へ連れ出した。反応はしない代わりに、役人の手を借りれば歩行くらいはしてくれた。景色を見回すでもなく、操り人形のように従っているだけではあったが、頑なに動いてくれないよりはマシだった。
役人も同情しているようで、壊れ物を扱うように少年に触れていた。
「かわいそうな子」
女役人が担当したときは、母性でも刺激されるのか、そう呟いて少年を抱きしめる者がいた。少年は、無表情だった。
一年以上、少年は抜け殻のように過ごしていた。審神者の素質があるにも関わらず、全く機能しない子供に、政府は少しずつ嫌気がさしてきたようで、積極的に関わらなくなっていった。少年の方も、かつてのように施設から脱走するような素振りはなく、本当に「施設にいるだけの子供」として認識されるようになっていた。
だが、ある日。
クロがもはや日課のように、少年のいる部屋へやってきて、今日は仕事でこんなことをした、これを頼まれるなんてひどいと思う、昼に食べた油揚げはまあまあ良かった、などなど語っている最中のことだった。
「ねえ」
飛び上がりかけながら、クロは蹲っている少年を見返す。ずっと、言葉を忘れたかのように無言を貫き通していた子供が口を開いた。一瞬は空耳かと疑ったが、うろ、と動いた光のない灰色の目が、あの日以来、初めて黒い管狐に向けられた。
無邪気で、頭がいいくせに我儘な、かくれんぼ好きな少年のときと比べれば、目つきはすっかり変わってしまった。それでも、言いようのない嬉しさが込み上げる。
喋ってくれただけで、少年が生きていると感じられた。
「な、何スか? 坊ちゃん」
「……クソジジイが言ってた、最悪な運営をされた本丸って、何」
久しぶりに声を発したからか、記憶にあるよりも掠れた声で聞き取りにくかった。
クロは面食らった。少年から声をかけられることもそうだが、あの審神者の話題に触れてくるとは思わなかったのだ。
「えー……、……何、と言いますと……」
「クソジジイは、神気も霊力もむちゃくちゃの刀剣男士の能力は、化け物だって、それくらいしか言ってくれなかった。ほとんど、愚痴みたいな感じだったけど。刀剣男士って、そんな風になるの」
「ええ……」
何を聞かれてるんだろう、と困惑する。だが、少年の目はこちらをとらえて離さない。
あの本丸のことは全て知っているので、クロは正直に話し出す。
「そうっスね……あそこは、元々は規則に違反した行動を起こす審神者が運営していた本丸でした。複数の審神者から通報が相次ぎ、色々あって、当時政府の役人だったあの方が、監査のためにあの本丸に向かったんです。でも……酷いものでしたよ。穢れだらけだし、刀剣男士全員が人間不信で……何度も死にかけてましたし」
黒いこんのすけは、目を細める。
あの人が、政府の役人なのにその職を捨てて審神者に転向、必死に本丸を立て直す姿を見て、勇気づけられた――ことは、ほとんどなかった。どちらかといえばヒヤヒヤしっぱなしだ。何度止めたか知れない。
彼は、刀剣男士に数えきれないほどの回数、刃を向けられていた。
憎しみを刃に乗せる刀剣男士も、斬られても刺されても立ち上がるあの引継ぎをした審神者も、どちらも見ていられなかった。諦めるからこの本丸は解体でいい、とクロが叫んだ時に、本気で怒鳴られた。あの男は、元来短気な気質で怒ることは多かったが、恐らく記憶の中で一番怒っていたのはあのときだ。
『審神者のせいでこうなったこいつらを、問答無用で刀解して本丸解体!? 寝言は寝てから言え馬鹿が!!!』
『ですが審神者様!!』
『この本丸は俺が引き継いだ。テメェにつべこべ言われる筋合いはねえよ、クロ』
『でも、ボロボロじゃないですか! 審神者様が死んでしまうかもしれないでしょう!!』
もうやめてほしいと訴えたとき、審神者は、深く切られた体の至る箇所に包帯を巻いて、腕は首からつっていた。頬にはガーゼを当て、着物の胸元から覗く白い包帯には止め切れていない血が滲んでいた。
だが、これでも軽傷になるのだろうなと思うから恐ろしい。
この審神者は、政府役人として働いていた頃に身に着けた術式を用いて、自分の自然治癒力の底上げを図っていた。本来ならば人間の血はすぐに止まらないし傷も塞がらないが、全身に己の霊力を特殊な形で巡らせることで、人間離れした回復力を身に着けていたのだ。それでもなお、治りきらずに包帯だらけな点が、傷の深さを雄弁に物語っている。
霊力の使い方に長けている彼だからこそ生きているが、極めて例外だ。普通の人間なら、間違いなく死んでいた。
『だったらそういう運命だった。そんだけだ。でもここで俺が諦めたら、俺はずっと、こいつらを見捨てたって思いながら生きなきゃならねえ』
『っ……審神者様……』
『俺ァまだ三十だぞ。人生の折り返し地点まで来ちゃいねえ。その残りを後悔で染めたかねえんだよ。わかったら二度と言うな』
――この本丸は、俺が立て直す。
……思えば、あれから本当に審神者は本丸を立て直して、良い成績もあげて、さらに三十年、年月を重ねていたのだ。
紆余曲折があって幸せをつかんだはずの、あの本丸が。
たったの、一晩で。
「……あーそ……」
クロの話を聞き終えた少年は再び膝に顔をうずめた。聞いてきた割に、興味がなさそうに相槌を打たれる。
また黙ってしまったかな、とクロが残念そうに耳を垂らすと、くぐもった声で呟かれる。
「……じゃあ、そういうところなら、刀剣男士は俺を殺してくれるのかな……」
喋ってくれてよかった――なんて、喜んでいる場合ではなかった。クロは愕然とする。黙り込んで、塞ぎ込んだこの一年、少年が考えていたことに気づく。
慌てて駆け寄り、たしたしと前足で少年の足を叩いた。
「だめですよ、坊ちゃん! そんなこと言っちゃ。それより、坊ちゃんがこれからどう生きていくかを考えないと!!」
「うるせえんだよ! 触るなクソ狐!」
はっとして、前足を引いてからクロは、子供の顔を見上げる。
自分に向けられている目は、虚ろでありながら、確かな感情の光で燃え上がっている。紛れもない、激しい怒りの光だ。
「お前が、あのとき結界に霊力を込めなければ……俺は爺さんたちと戦えたのに」
「それは……あの時は……坊ちゃんを生かすことが、主様たちの願いで!」
「俺の願いは?」
静かな声で問われて、言葉が詰まる。
押し入れの中で、大粒の涙をこぼしながら、封じられた声を必死に張り上げて、叩いてきた幼い手を思い出す。
「何で、どいつもこいつも……俺に生きろって。俺の気持ちも知らないで……」
察しのいい子供だった。あの本丸の審神者と刀剣男士が、何を願っていたかなど当然分かっていた。だが、受け入れられるかは別問題だ
少年は喉の傷に手を触れた。
あの審神者が言っていた通り、喉には大きな刀傷がはっきりと残り、消えなかった。ぐっと爪を立てて、未だに痛むように喘ぎ、短く息を吐いてから顔を覆った。
悲痛な声で、叫ぶ。
「またかくれんぼしようって言ったのに! 宴もしようって、言ってたのに!! 爺さんだって俺に力を貸してくれって言ったのに!!! みんなみんな嘘ばっか!!」
「坊ちゃん、そんなこと言わないでください!! あの時はどうすることもできなかった!」
「みんなを犠牲にしてまで俺は生きたくない!!」
手を下ろし、改めて管狐を睨んだ少年は、今までに見たことがないほどに歪んだ表情をしていた。泣き出しそうなのに、自分に泣くことを許さないと言わんばかりに、眉間にひどく力を入れている。みんなと遊ぶのが楽しい、と幸せそうに笑っていた少年の姿が、遠い。
子供は小刻みに震える唇を少し開いて、息を吸った。
勢いよく立ち上がると、管狐の首根っこを乱暴につかんで持ち上げる。
「出ていけ!!!」
部屋から廊下へと投げ捨てるように放られた。続けてけたたましい音を立てて、扉が閉められる。
呆然として、されるがままになってしまったクロは、慌てて扉にすがる。前足でがりがりとひっかきながら声を張り上げる。
「坊ちゃん! 坊ちゃん!!」
必死に叫んでも、少年は決して扉を開けなかった。
政府の仕事があることも忘れて扉の前で呼び続けたが、子供が部屋から出てはこなかった。