刀剣嫌いな少年の話 拾肆

2022年4月18日

 本当はどこかで気が付いていた。

 あの子供が、今更政府が要求してきたからと言って、全員に演練に来てくれと頼むわけがないことくらい。あの子供なら、たとえ本当に政府が要求してきたとしても、言うはずなのだ。

 所詮、人間の指図だ。来たくねえ奴は来なくていい、と。

 でも、実際は、

〝……嫌ならいいけど〟

 遠慮がちに、しかし可能なら来てくれと懇願するように、刀剣男士たちにそう言った。

 もっと言うならば。もしかしたら、いつもの少年だったなら。政府の命令も関係なく勝手に演練会場に一人で出向いていたかもしれない。どうして審神者だけなんだと怒られたとしても、「人間の審神者に散々酷い仕打ちをされた刀剣連中を全員連れて来いって、馬鹿か?」そう宣ったかもしれない。

 かもしれない。きっとそのはず。そんなわけがない。

 全部仮定だが、それだけ沢山の想像が浮かぶほどに、子供のことを理解できるようになったはずなのに、どうしてよりにもよって昨晩、問い詰めなかったのか。
 違和感を覚えていたはずだ。探るように、己はあの幼い主を見つめていたはずだ。何かがおかしいと、思ったはずだ。

 あの少年は、申し訳ないという顔をしながら、刀剣男士に頼み事をしたりしない。
 演練に行く事になった、急な話で悪い、と頭を下げるくらいなら、はなから頼んだりしない。

 あの少年は、いつもむっすりしているが、何だかんだ表情は動く。なのに昨日は、不自然なほど、動かなかった。ひたすらむっすりとした表情だった。

 それが、意識して作られた表情だったからだと。
 今更になって、獅子王は理解した。

   ***

 備え付けられた装置が円形の光を生み出した。ただの光ではなく、空間に開けられた穴という解釈が正しい。そこから放り出されるようにして、獅子王たちが姿を現した。
 固い床につんのめって転がりかけながらも、持前の把握力で刀剣男士たちは素早く周囲を見回す。

 天井は一面が光っており、フロアを照らしている。磨かれた壁や床が光を反射して、いっそう明るく見える。奥には大きなカウンターが見え、スーツを着た男女が立っている。
 反対方向に目を向けると、透明度の高い、美しい青ガラスの自動ドアが動いていた。頻繁に出入りする審神者と付き添いの刀剣男士に従い、開いたり閉まったりを繰り返している。どうやらこの建物の正面玄関らしい。

「ここは一体……」
「こ、ここは、歴史保護監察施設では……!?」

 誰かが呟く中、こんのすけが声を上げる。

 転送された先は、演練会場ではなく、歴史保護監察施設。

 各所の本丸からの報告書などをまとめ、支援物資の分配や刀剣男士の修行先でのバイタルチェックを行う行政機関の一つである。相談事の窓口もあるため、審神者や刀剣男士がここを訪れることは珍しくない。 
 とはいえ、訪問するにしても大抵は審神者と付き添いの刀剣男士の、計二人くらいのものだ。
 突如、刀剣男士が十人以上、転送で現れたことに驚いたようで、通りすがりの他本丸の者達が目を丸くして視線を寄越してくる。

 だが、そんなことは気にしていられず、獅子王は、平然としている一匹の黒い管狐を振り向いた。大股で近寄り、押しつぶす勢いで掴みかかる。黒い毛並みを乱暴に握った。
 金色の瞳の奥に、言葉では表現し難い焔を灯されている。

「おい、本丸に俺達を帰してくれ、こんのすけ!!!」
「できません」
「早くしねえと主がっ!!!」
「だからできませんって」
「こんのすけ!!!!」
「やりたくてもできねーって言ってるんスよ」

 黒いこんのすけが、腹が立つほど静かに言う。

「あの審神者様が、本丸へのアクセスをブロックしてるんです。正式に主従関係にすらなっていないッスよね、皆さんは。だから、〝主〟の糸を手繰る事も難しい今、我々に本丸に戻る手段はありません」

 とてつもない、汚く下品で横暴な声が口から飛び出しそうになり、歯軋りして堪える。ぎ、と歯と歯が擦れ、微かな悲鳴のように音が鳴る。
 なすすべなく、ただ黒いこんのすけに詰め寄るだけになっている獅子王の後方で、薬研は、彼と共に審神者の刀になりたいと申し出た際、返された説明を思い出す。

〝刀剣男士が審神者を「主」「大将」と呼ぼうと、それで主従関係が成立するわけじゃない。刀剣男士が審神者を「そう」だと認めても、審神者側の了承がなければ、正しい契約は結ばれない。〟

 だから、酷い審神者に絶対的に従う必要なんてない、謀反を起こしたら堕ちるなんて嘘だと、教えてくれたあのとき。いっそ脅してでも、契約を結ばせておけば良かった。刀剣男士を助けておきながら、刀剣男士を嫌いだと戯言を言うあの子供に、刃を向けてでも。
 そうしたら、時間遡行軍が攻めてきた本丸に、すぐに助けに戻ることができたかもしれないのに。

「……初めて、ですね……」

 前田が声を詰まらせながら呟く。今にも涙を零しそうだが、必死に顔に力を込めて堪えているようだった。

「こんなに、あの本丸にすぐ戻りたいって、思うの……」

 前は、出陣で戦場に出ている間、穢れだらけの本丸に戻りたいと思わなかった。審神者との契約関係に怯えていたこと以外を持ち出すなら、仲間がいるからという理由だけで戻っていた節がある。
 今は、こんなにも審神者の身を案じ、すぐにでも戻りたいと願っている。

「このままじゃ……主君が……!」
「前田……」

 平野が寄り添い、唇を噛み締める。審神者の方から、本丸に入ることを拒絶されているのでは、戻る手立てがない。だが、こうしている間にも、子供は時間遡行軍に襲われているかもしれないのだ。
 戦う力があっても、戦場に行けなければ無力と同じ。歯がゆくてたまらない。

「政府のこんのすけっ!!」

 甲高い声を上げて、獅子王の横から黒いこんのすけに向かって頭突きを放ったのは、彼らの本丸を担当しているこんのすけだった。あまりの勢いの良さに、獅子王の手に微かな黒い毛を残して、黒い管狐は横転した。
 構わず、頭突きした側のこんのすけは、全身の毛を逆立てて、叫ぶ。

「どういうことですか! さっき、我々をここに送り込むように審神者様に霊力の手助けをしたのは、あなたでしょう!! 私は何も聞いておりませぬ! 何も!!!」
「はあ。何言ってるんスか。送り込む先は間違ってないでしょう。あんたも聞いてるはずっスけど」
「違います! 送り込む先のことではなく、先ほどの、結界のことです! それに、どうして我々だけがここに送られているのですか! どうして審神者様を置いて我々だけをここに飛ばしたのです!!」
「簡単な話です。昨日の夜から坊ちゃんに言われていた。恐らくこうなるだろうから、あんたら〝だけ〟をここに送ってほしいって」
「~~~だからっ!」
「ねえ、ちょっと待って」

 淡々とした語りように更に言い募ろうとしたこんのすけを遮り、加州が眉根を寄せる。

「昨日の夜からこうなるだろうって……審神者さん、何でそのときから時間遡行軍が来るって、分かってるの?」
「結界にヒビが入ってたらしいッスよ。祠を見たとき気が付いたって。そのときから、あんたらを逃がすことばっかり考えてたんでしょうね」

 秋田の表情が青くなる。
 一緒にかくれんぼの鬼をしていたときだ。途中で、少年は祠にある結界の核を見に、庭へ出て行ったのを覚えている。そこへ走ってきたこんのすけとも平然と会話をしていたようだったし、そんなことになっているなんて全く気が付かなかった。

「ぼ、僕、主君がそんな大変なことに気が付いてたなんて……全然っ……!」

 戻ってきた審神者に、「何で律儀に待ってるんだよ」と顔を顰められて、でもなんだかんだかくれんぼに付き合ってくれたことが嬉しくて、気付かなかった。
 他愛もない話をしている頭の中では、結界が次の日までもつか推測し、どうやって刀剣男士を逃がそうか考えていた。

 まただ。

 またあの審神者は、誰にも相談しなかった。一人で気が付いて、一人で背負って、一人で決めてしまった。

「ねえ、それって……」

 ようやく立ち上がりながらも、黒いこんのすけを隻眼で見つめながら、燭台切が呆然とした様子で言う。

「……おかしいんじゃないかい、何で……僕達を逃がすことばっかりで……主自身は逃げようとしないの……?」
「そんなことも言わないとわかんないんですか。あんたら、本当に坊ちゃんと話をしてないんですねぇ」

 黒いこんのすけはわざとらしく目を眇めた。嘲るようでも、同情するようでもある。

 ――ガン!!!

 突如響いた衝撃音に、皆が身体をびくつかせて注目する。
 鞘ごと腰紐から引き抜いて、床に短刀を叩きつけたのは、不動行光だ。己の本体にそのような仕打ちは、自傷行為にも近い行動だった。不動が怒鳴る。

「どうせ――どうせ折れた奴らをほっとけねえからだろ! あの馬鹿審神者は!!」

 本丸中に散らばっていた刀剣男士の残骸をかき集め、一番奥の広い部屋で弔っていたあの審神者。自分の命までなげうってやることではない、馬鹿馬鹿しいとさえ思う。
 それでもやってしまうのが、あの子供だ。

「あの審神者は刀剣男士のことばっかだ! 嫌いだ嫌いだって言いながらただの残骸になった奴らのことまで〝刀剣男士〟だって言い張る! あんなもん、もうただの鉄屑だって言うのに! あいつは折れた刀を放っておくわけないんだよ!! 折れた刀を放って自分の命を守れるような利口な奴じゃない!!!」

 審神者と一対一で対話したときに、不動は直接訊ねたことがある。粉々に砕け散った薙刀・岩融の修復を無謀にも試みて、ひどく霊力を消耗した少年が臥せっていたときのことだ。

『どうして俺以外のみんながあんたを認めてるのに、どうしてあんたはそれに気づかないふりをし続けるんだよ!』

『恩を売ったって胸張れよ、自分がここまで立て直したんだってどうしてあんたは言わないんだ!!!』

 心を許した皆を突っ撥ねて、相手にも、自分自身にも言い聞かせるように、刀剣男士が嫌いだと繰り返す少年が、心底腹立たしく、悲しかった。だからあのとき不動は、少年の前でぼろぼろと涙を零したのだ。
 泣くなと言って、目尻に小さな指先で触れて、涙を拭ってくれるあの子供が、刀剣男士を嫌っているわけがなかった。

 それでも、少年はあのとき言った。

『俺は刀剣男士が嫌いなんだ。だから、』

 ごめんな、と。あの少年は謝った。

 問い質せばよかった。どうして頑なに刀剣男士を嫌いだと言い放つのか、そこに「ごめん」という謝罪の言葉が添えられたのか。一対一で会話をしたあの部屋でなら、もしかしたら、真意を聞きだすことができたかもしれない。 

 
 後悔しても後の祭りだが、悔やまずにはいられない。頭を抱えて蹲る。泣くな、ダメ刀、と言ってくれた子供の、困り笑いを浮かべた顔が、頭から離れない。
 そっと傍に寄った鯰尾が、震える不動を支えるように抱き締めた。

 全員が、黙り込む。ここでは何もできないのに、気持ちばかりが焦って仕方ない。ひどく重い沈黙が、その場を支配した。

 ――その沈黙を破ったのは、彼らではなく、政府の役人だった。

「失礼いたします。こちらの本丸IDの皆様ですか?」

 ぱりっとした灰色のスーツを着込んだお河童頭の女性は、本丸IDが記載された書類を見せながら問い掛けて来る。
 突然の声掛けに、刀剣男士は戸惑った様子で、互いの視線を交わす。咄嗟に鯉口を切る者もいたが、いち早く気付いた薬研が手で制した。

 黒いこんのすけが役人に近づき、書類を覗き込むや「ああ、そうっスね。間違いないですよ」と代わりに応える。そして、この本丸担当の管狐を振り向いた。

「本当はあんたが確認するんスよ。これ、あんたと審神者様が始めたことでしょ」

 はっと我に返ったこんのすけが、慌てて自身も女性役人の元へ走り寄る。書類を確認して、悲し気に瞳を揺らしながら、小さな声で「あってます」と頷いた。
 この書類を確認するのは、こんのすけにとっては二度目だ。でも、まさかこんな形で確認することになるだなんて。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

 バインダーに書類を挟み直し、女性役人が歩き出した。こんのすけ二匹も、その後ろに続く。一匹は項垂れ、一匹は何てことも無いように。
 狼狽する刀剣男士たちは、彼らについていく他なかった。

   ***

 応接室。本丸の刀剣男士が数多く集まることも想定されているのか、通常よりもかなり広く作られており、どちらかというと会議室を思わせる内装だった。

 そこには、先客が二人いた。

「やっと来た。超待ちくたびれたよ」

 啜っていたティーカップを下ろして声を掛けて来たのは、丸い銀縁の眼鏡をかけた男。ぴょんぴょん跳ねた茶髪は猫っ毛のようで、体格は細い。末広がりの黒いパンツにワイシャツを着ており、裾は外に出している。上からぶかぶかの緩いカーキ色のカーディガンを羽織り、全体的に気怠い雰囲気だった。しかし、その彼から漂う霊力から、審神者であることをうかがい知ることができる。
 そして、審神者の傍に控えているのは、もちろん刀剣男士。

 部屋に入ってその二人を視界に入れるなり、彼等は足を止め、驚愕に目を見開いた。
 刀剣男士は、刀に宿る付喪神であると同時に分霊であり、同じ姿をした者が様々な本丸に顕現されているのは、誰もが知っている事実。ただ、姿形が同じであろうと、各個体において意思があり、心を持つ。備え持つ神気や霊力も、仕える審神者によって変動するため、纏う雰囲気が変化する。

 だから、刀剣男士が、見間違うことはないのだ。

「……清光……」

 そこにいる、大和守安定のことを。

「…………嘘……?」

 加州が、ぼやけた声を辛うじて発する。
 足が竦んで動かない加州に、大和守の方が駆け寄った。全くふらつく様子も見せず、どこにも汚れがない袴と、傷の無い顔に違和感を覚える。記憶の中にいるときの姿と、イメージがずれた。
 だが、確かにその刀剣男士は、同じ姿をした別個体ではなく、――加州がよく知る、あの、単騎出陣から戻ってこなかった大和守だった。

「嘘じゃないよ」

 困ったようにくしゃりと笑い、少し首を傾げる様子は、加州がかつてよく見ていた仕草だ。
 目の前にいるのが、間違いなく大和守だと理解してもなお、やはり混乱を解消されるわけではない。戸惑ったように口を開いた。

「いや……分かってる、嘘じゃないっていうのは。でも。え……何で? だって……安定はあの時、」
「うん。僕は単騎出陣して、その先で折れそうになった。僕は、清光たちのいるあの本丸に帰る事は、できなかった」

 一つ瞬きをして、浅葱色の瞳が、赤い瞳をとらえる。

「でも、僕は折れなかった。僕は、主の……」
 
 
 言葉を区切り、迷ったように瞳を彷徨わせる。
 ややこしいな、と苦い顔をしてから、椅子に座ってこちらを見ている男を示しながら続けた。

「えっと。主って言うのは、あの審神者さんのことで。主の出陣させた第三部隊が、たまたまあの戦場に来ていて、一人でいる僕を見つけてくれたんだ。僕は、主の本丸に保護された」
「多分だけど、ヤッスーはどうせ折れると思って、そっちの審神者が契約を切ったんだよ。審神者のパソコンで見られる管理画面では、まだヤッスーが折れてなかったはずだけど、どうせ折れるくせにって突き放した、みたいにさ」

 机に頬杖をつき、出し抜けに言葉を添えてきた。
 ぽりぽりと頭を掻きつつ立ち上がり、歩み寄って来る。近くで見てみると、身長は大和守や加州よりわずかに高い程度で、少年よりはずっと年上。でも髭も生えていないつるっとした顎は、まだ大人にはなり切れていない微妙な齢であることを示していた。

 ヤッスーとは、大和守の愛称らしい。それを平気で享受している彼を見ても、良い本丸に保護されたのだと分かった。

「初めまして、ヤッスーの元本丸の、きよみっちゃん」
「き、きよみっちゃん?」
「主……それいきなり言われて反応できる刀、いないから」
「細かい事は気にすんなって。それより、きよみっちゃん」

 まさか別本丸である自分にも変な呼びかけをしてくるとは思わず、加州は切れ長の瞳を丸くした。
 この審神者としては通常運転なだけらしく、慣れた調子で大和守が窘める。

「そっちにいた審神者からの仕打ちの話は、ヤッスーから一通り聞いてんのよ。んで、今回ウチにコンタクトとってきたのは、多分、ヤッスーから聞いてる審神者とは別人だと思うんだけど。なんか、こんのすけを使ってヤッスーのこと、探してたらしくてさ」

 加州が、刀剣男士の皆が、思わず己の本丸の管狐を振り返る。
 よろよろと前に出てきたこんのすけは、呆然としたまま口火を切った。

「確かに……私は、審神者様に命じられ……大和守安定様を、探しておりました……」

 初めて本丸で、少年が加州と言葉を交わしてすぐの時のことだ。

『こんのすけ。頼みたいことがある。これだけは、どんなことよりも優先して、進めて欲しい』

 オンボロのパソコンを何とか動かしながら、審神者はこんのすけの方を向いた。別に信頼できない審神者の言う事なんて聞かなくていい、味方じゃなくていい……そう言う発言が非常に目立つ、子供からの頼み。
 こんのすけは、前任のせいで審神者に対して恐怖の感情が芽生えてしまっていたが、決して子供のことが嫌いなわけではなかった。ただ、恐怖心をなかなか拭い去ることができず、いまだに「主様」と呼ぶことができずに委縮してしまうのは、このこんのすけの性分だった。

 だから拒否する気など毛頭なかった。
 子供は、迷いのない目で告げた。

 ……この本丸から単騎出陣して、戻ってこなかった大和守安定の行方を探ってくれ、と。自分も可能な範囲で調べてみるからと。

「審神者様は、申しておりました。大和守安定様の折れた姿が見つかっていない以上、既に〝折れた〟と考えるのは早計だと。それでも、その……行方不明となった刀が無事で見つかる可能性は、かなり低いとお伝えしても、審神者様はやはり、こう申したのです」

 こんのすけは目を閉じる。瞼の裏に、まだ、少年が悲壮感も焦燥感もなく言い切った姿が、焼き付いていた。
 そのときの口の動きに合わせ、こんのすけの口が動く。

「〝俺は信じてる〟」

 目を開ければ、息をするのも忘れた様子で、唖然とした全員の姿が見える。当然だ。こんのすけも言われた時、同じ顔をしていただろう。
 こんのすけは、政府のデータベース等を駆使して、ひたすらに大和守安定の追跡を行った。最後に出陣し、一人きりで時間遡行軍を殲滅した関係で、歴史修正主義者の数が減っているポイントからいた場所を割り出し、その後不自然に消えていることから、折られたというよりはどこかで匿われている可能性を考えて。虱潰しに、星の数ほどある本丸のデータを引きずり出し、何人かのお人好しな政府の役人の手を借りながら、通常とは異なる形で刀剣男士を従えている審神者がいないかを調べ上げた。まさに、寝る間も惜しんでの作業だった。

 そして、見つけた。

 滅多にないケースなので、絶対的な機密事項として保管されている情報であったが、こんのすけは辿り着いた。踊り出しそうな気持ちで、すぐさま本丸へと戻り、少年の元へ急いだ。少年が、本丸を包む結界の核を見ているときだ。

 今思えば、朗報だと騒ぎ立てながら走り寄ったとき、少年は泣き出しそうな顔をしていた。

 少年は、すぐに、手続きをとった。相手の本丸の審神者と連絡をとり、たった一晩で速やかに話を進めた。
 こんのすけは政府の役人に、大和守が保護されている本丸との面会の場を設けるべく書類を作った。

 その後、演練のついでに会いに行く、と、こんのすけは、聞かされていたのだけれど――

「へえ。ウチもそこまでの経緯は知らなかったわ。けどさ、あの審神者、もうやめんだろ?」

 あっけらかんと言い放つ眼鏡の青年は、皆の表情を見回しながら不思議そうに首を傾げる。

「いや、昨日連絡あったときさ、面会の話と一緒に言われたから。事情があって急遽……今日? に、ソッコーで審神者の任を降りることになったけど、まだ本丸の刀剣男士がどうなるか決まってないから、一旦全員預かって貰えないかって。まーウチの本丸はかな~り広いから、部屋余ってるし、賑やかなの嫌いじゃねーから、いいですよっつった。だから審神者がいなくて、刀剣男士は全員いるんだろ?」

 ――違う。

 顔も知らない余所の審神者に頼ろうとした理由は一つだけ。本丸が襲撃されると、分かっていたからだ。

 子供は、刀剣男士の逃げ場所を、作っておいたのだ。

 獅子王は、目を見開いて、強く歯を食いしばり、それじゃ足りずに唇を強く噛んだ。下唇に、血が滲む。こめかみに青筋が浮かび上がり、咆哮したくなったときだった。

「どうしてあの主は俺達に何も言わないんだよッ!!!!!!」

 加州が、その場の空気を震動させる勢いで、絶叫した。びん、と辺りが痺れ、部屋の壁に反響する。
 清光、と気遣わし気に声をかけてくる相棒の肩を両手で掴み、深く俯いた。それは、倒れ込むのを必死に堪えているようでもあった。

 加州は磨かれた床に、ぱたぱたと水滴が落ちるのを見つめながら叫ぶ。

「俺が主を責めたとき、主はごめんしか言わなかった! 現実を受け止めろって! 自分を安定の代わりにするなって! それなのに……!!」

 あの審神者は、大和守の無事を祈り、信じ、探し続けていた。
 そして見つかった時点で、逃げ場所の確保も併せてしてくれていた。本人を除いて。

「主は……俺達を……どうしてっ……!」

 加州は、とうとう膝を折り、崩れ落ちてしまった。大和守も、彼の動きに合わせてしゃがみ、驚いた様子で肩を震わせる姿を見つめた。

「加州さんっ……」

 慌てて後ろから出てきた平野が、後ろから加州の背中に手を添え、落ち着かせるように撫でる。だが、その小さな手も、小刻みに震えていた。平野とて、動揺し、顔色は青ざめている。
 本丸の初期刀と初鍛刀が、どちらも酷い取り乱しようだった。

「……そっか。次に来た審神者は、とっても……良い人だったんだね」

 大和守が俯く。加州たちからも血の匂いはしなかった。怪我を一切していない姿を見て驚かなかったのは、事前に己の主から、前いた本丸の元主は捕縛された話を聞いていて、何かしら手入れはされたのだろうな、と想像していたからだった。新しい審神者も来て、多少はマシになったんだろうなくらいのは考えていた。
 だが、想うがゆえにこんなにも打ちのめされるほど、心を許している相手だとは思わなかった。

 獅子王が、深呼吸をする。怒鳴って叫んで、暴れまわりたい気持ちでいっぱいだったが、加州の絶叫で少し頭が冷えた。
 顔を上げ、ぽかんとしている眼鏡の審神者の前に進み出る。

「……驚かせてごめんな。実は……俺達の本丸は今、時間遡行軍に襲われてる。襲撃を受けてるんだ」
「……え?」
「主は、俺達を護るために無理矢理本丸から追い出した。本人は残って、時間遡行軍と戦ってる。……だから、俺達を預かってくれって言う申し出は、多分……匿ってくれ、って意味だと思う」
「へ? ん? え、はい?? ま、待ってくれ」

 青年は狼狽えたようにおろおろと手を振り、落ち着きなく周りを見回した。己の頬をべちん、と自分で叩き、ぶんぶんと強く頭を振ってから、改めて顔を合わせる。恐らく彼の落ち着きを取り戻すやり方なのだろう。

「え……時間遡行軍が本丸に襲撃? 何それ? そんな、審神者研修でやった本丸襲撃事件みたいなこと、まだあるの?」
「本丸襲撃事件?」
「二年だか三年だかくらい前にあったやつ。それで、また同じことにならないようにって急遽研修が開かれたことあるんだけど……え、こっわ」

 自分の体を抱きすくめ、ひええ、と情けない声をあげている青年は、眉を顰めながら眼鏡を少し持ち上げた。

「いや、そんで、何で審神者が残るわけ? 審神者ってそんな戦闘能力を備えてるのなんていないよ? たま~に筋肉ゴリラみたいなやっべえ戦闘系審神者はいるけど、チョー稀。稀少。まさかそんなタイプじゃないだろ?」
「僕らの本丸は、あなたの知っている通りで、たくさん、失ってしまった仲間がいます」

 答えようとした獅子王の横から声を出したのは、意外にも小夜だ。大きな三白眼で、審神者を見上げる。

「あるじさまは……その、折れた刀を護るために、本丸に残ったのだと思います。だけど……」
「納得いくものでは、ありませんね」
「宗三兄様……」

 そっと小夜の肩を抱き、目を細めながら儚い微笑を湛えるのは、宗三だ。

「確かにあの子供はとても強い霊力を持っている。でも、あの数の時間遡行軍に対抗できるだけの力を持っているはずはない。……折れた仲間を見捨てなかったのは、穢れに苦しんでいた僕達を辛抱強く待ったあの審神者らしいといえば、らしいですが……」
「生きている俺達を優先してほしかった、一緒に逃げて欲しかったっていうのが、素直なところですよね」

 宗三の言葉を、今度は鯰尾が継ぐ。
 

「こんなこと言う俺は、薄情なのかな?」
「……俺も、同じ気持ちだ」

 骨喰が同調したのを見て、嬉しそうに鯰尾は頬を緩める。

 全員、心は同じだ。審神者がここにいないこと。一緒に逃げてこなかったこと。それが一番、腹立たしい。逃げないのなら、一緒に残って、戦いたかった。

 けっ、と舌打ち紛いのものを吐き出しながら、和泉守が腰に手を当てる。

「あの本丸は、元々俺達の場所だぜ。こんなのは乗っ取りだ。黙ってられるかってんだよ。なァ国広ォ!?」

 何と、素直じゃない台詞か。
 先ほどまで、愕然として血の気も失せていたが、彼のその振る舞いに勇気づけられる。これぞ〝兼さん〟だ。

「そうだね、兼さん! あの本丸は主さんだけのものじゃなくて、僕達のものだから。取り返さなきゃ!」

 あの本丸は、地獄の場所だ。前任の審神者に虐げられ、多くの仲間を失い、傷を負った、辛い経験ばかりだったはずだ。
 しかし、あの本丸を思うと思い出されるのは、食卓を囲んでわいわいと皆で言葉を交わしながら、燭台切が作りすぎてしまった料理を食べて頬を緩める光景や、力を合わせて本丸の修繕に臨んでいたことばかり。

 審神者と関わった期間は、最長であるはずの獅子王ですら一ヶ月に満たないほど短いというのに、こんなにも絆されることがあるものなのだろうか。否、現実問題、もうあの審神者を見捨てる選択肢は、彼らの中になかった。

 獅子王は大きく頷き、薬研を見た。薬研は、口許に不敵な笑みを浮かべ、眼鏡の審神者を見上げる。

「事情は今話したような感じでな。しかも大将は俺達が戻って来られないように、審神者の権限で戻れなくしてるって話だ」
「あ、あ~……審神者のアクセスブロックのこと……? でもあんたら、一応主従関係は結んでるんだろ? なら割と簡単にブロック解除の申請が通る筈だけど……」
「主従関係を結ぶの、嫌みたいで、拒否されちゃうんだよ。俺はまだその気はなかったけど……結びたい刀は沢山いたのに」

 蛍丸が呆れたように首を振る。どうしてそこまで頑ななのかは今も不明だ。自分だって、変なプライドが邪魔をしているが、そのうち主と呼んでいいかなくらいには思っている。

「主とか、大将とか、そういう呼ばれ方、毛嫌いしてはるお人やね。珍しいなぁ思たもんやけど」

 明石が最初に、主はん、と呼んだときの審神者の顔ときたら、すごい表情であった。まるで大嫌いな異形の物体でも見るような目で、お前だけは呼ばないでくれると思ったのにと恨みがましく言われた。どうやら少年からすると、明石があっさりと審神者のことを「主」と呼ぶのは不意打ちだったらしい。
 変わった審神者だという印象くらいのものだったが、こうした状況に置かれると、明確に主従関係を結んでいる者がいないのは、なかなかに痛い。

「??? 状況が特殊過ぎるな……じゃあ王道のアクセスブロックの通過はできねーってこと……? あー……んー……」

 眼鏡の審神者は虚空を眺めながら腕組みをする。ややあって、獅子王たちの本丸のこんのすけを見やると、腕を解いた。

「そっちのこんのすけ。今すぐパソコンとかって用意できたりする?」
「ぱ、パソコンでございますか? ここは政府施設ですので、パソコン類の貸出でしたら書類の記載と、審神者印と……」
「あ、そういうのじゃなくて。今、すぐ、ここ、で」

 とんとん、と机を指先で叩いた。気が抜けているように見えていた審神者から、何とも言えない緊張感が奔る。
 はっとしたこんのすけは、考え込む仕草をしてから、机の上にぴょんと飛び乗った。己の首にさがっている鈴に前足で触れると、光が机に照射され、一気に様々な情報が散りばめられるようにして現れた。表示されているのは、大和守の所在を調べるために開かれた画面ばかりだ。

「こちらに直接触れて頂く形で、パソコンと遜色のない操作が可能です……!」
「上出来。本当は式神用だろうけど、使わせてもらうから」

 眼鏡の審神者が、椅子に座って、机に照射されたプログラムを眺めながら、獅子王たちに向けて口を開いた。

「今から調べてみるわ。その、アクセスブロックになっちゃったときの侵入方法的なやつ? たまに本丸でバグとか発生することあるじゃん。もしかしたら救済措置的な機能は備えてるかもだし。ちょっと待ってて。んで、もし何か妙案が浮かんだら、俺に提言ヨロ。刀剣男士だから思いつく強行突破、あるかもしれないし」

 ぱっと、大和守に視線を移す。

「ヤッスー、フォロー、頼んで良い? いつもと勝手が違うシステムだから手伝ってちょーだい」
「分かったよ、主」

 加州の肩をしっかりと叩き、大和守も審神者の隣りの席につくと、照射された光の中でシステムを動かし始めた。
 きびきびとした指示に、刀剣男士の面々がぽかんとする。同時に、衝撃を覚えていた。
 前任と少年しか、彼らはまだ審神者を知らない。少年を見て、こういう審神者もいるんだなと知った。

 ここで初めて顔を合わせたこの眼鏡の青年は、最低限の状況を把握した上で、即座に調べようとしてくれている。己の本丸のためではなく、他でもない、この本丸のためにだ。

 全ての審神者が前任のような人間ではない。少年に出会って散々思い知ったはずの事実が、改めて目の前に突き付けられているようであった。
 それに任せるだけではない。何か案が浮かんだら話せと、この審神者は言ってくれた。先ほどは、ずっと絶望と悲しみで打ちひしがれていた皆の目、再び火が灯る。

 沈黙して眉間に皺を刻み、懸命に思考を走らせる刀剣男士もいれば、ああでもないこうでもないと囁き合う様子も見られる。

 まだ、できることがあるかもしれない。獅子王も考え込んだ。方法があるはずだ。自分達が顕現された本丸なのだから、正規の方法で戻れないのだとしても、きっと何か方法が……

「……下らないっスね」

 
 ――皆が思考を巡らせ、静かになったタイミングで、ことりと冷たい言葉が転がった。

 黒いこんのすけが、冷ややかに吐き捨てた――否、溜息交じりに呟いたのだ。聞かせるつもりも本当は無かったような気配があり、うっかり口から転がり出てしまったという風情であった。
 その証拠に、刀剣男士たちの視線を受けて、黒いこんのすけは、非常にやりにくそうに、口を噤んだのだ。

「どうしてそんなこと言うの」

 咄嗟に怒鳴る者はいなかったが、黒い管狐の発言が信じ難いと言いたげに、皆眉を顰めた。その中、乱が静かに、恨みがましい声を投げかける。
 青空を反射した湖の水面を思わせる瞳に、はっきりと怒りの色が浮かんでいる。

「ボク達は、あるじさんのためにできることをしたいと思ってるけど、そんなに下らない、おかしなことかな?」

 後藤が腕組みをして、首肯する。

「刀剣男士なら、自分の主だと認めた審神者のために奔走するのは当然だと思うけどな。ずっと聞きたかったんだ。お前、ずっと俺達のことを可哀想みたいな目で見てる……何で?」

 声音は、言葉によるやりとりを求めていて、きちんと問い掛けになっているし、こんのすけの返事を待つ構えがあった。ただし、返事をしないことは許さないという、妙な緊張感を孕んでいる。

 黒いこんのすけは、初めて現れたときからそうだった。少年を見て、刀剣男士のために必死になる姿を嘲るように癇に障ることばかりを、わざとらしく口にした。そのくせ、助力は惜しまない。態度と行動が全く一致しておらず、不自然で気になる部分も多かった。

「……ぼくもきになってました。くろいこんのすけ。おまえは、さにわさまをみたときにいってましたよね。ここにいたのかって。それに、さにわさまも、おまえのことを、れいりょくがつよいこんのすけだって、いってました」

 今剣の舌足らずの幼い声で形作られた言葉には、確信めいた重みがあった。
 小天狗の横に立っていた石切丸が、腰を屈め、膝をついて黒いこんのすけに語りかける。

「審神者殿と会ったことがあるんだろう。でも、審神者殿の性格をよく知っているなら、尚更、きみの態度は不可解なんだ。あの子は審神者として申し分のない素質を備えていて、とても優しい。他にも、言葉で表すことはできない気持ちは沢山あるが、私たちがあの審神者殿を慕うことを、どうして悲しそうに見つめて来るんだい?」

「……っ……」

 黒いこんのすけが、息を詰まらせたような変な音を、喉の奥でさせた。床に視線を落としている。
 ただ冷たいわけではない。事情がありそうなのに、語る事を躊躇している雰囲気だ。

 気遣う様に、石切丸が手を差し伸べる。大きな掌が、こんのすけの頭をぽんと撫でた。

「私たちは、審神者殿を……あの子を助けたいだけなんだ。それを、分かって欲しい」

「――っ分かってますよそんなことは!! 私だって本当は助けたいっスよ当たり前でしょう!!!!」

 出し抜けに、黒いこんのすけが叫んだ。ご神刀の手を、乱暴に払い除けながら顔をあげる。両目からは大粒の涙が零れ落ち、黒い毛をぱさぱさにしていった。
 ずっと淡々とした調子でしか喋らず、事務的なことしか口にしない管狐の叫び声に、誰もが呆気にとられたように双眸を見開いた。
 だが、彼は構わずに、そんな刀剣男士たちを見回しながら続ける。

「でも坊ちゃんが生きたがっていないから! どれだけこのクロが願って縋ったところで、坊ちゃんを苦しませるだけだから!! それが分かっててあんたらに言えますか! 生きろって! 助けに行くって! 坊ちゃんは絶対に悲しむだけなのに!」

 結界でゲートと刀剣男士を覆った審神者。自分は本丸に残るからと、結界の外から、まるで最後の挨拶のように喋り出したときの姿が、蘇る。
 直前まで焦っていたくせに、全員にお守りを渡せたことと、結界の発動が間に合ったことに安堵して、いつも通り――否、いつも以上の、穏やかな顔をしていた気がする。

 歴史修正主義者が間もなく突入してこようとしている本丸の地に、自分がいることを分かっているにも関わらず。

「ずっと生きるのが辛い子に生きろって、どういう地獄っスか! そんな残酷な事できませんよ! 坊ちゃんに生きろって言えるもんなら言ってみろってんですよバカヤロー!!」

 うわあああ、と声をあげて泣き出したのを見て、誰もが狼狽し上手く言葉を紡ぐことができない。部屋の中、黒いこんのすけの泣き声だけがわんわんと響く。
 そこで動き出したのは、白い太刀だった。泣いているこんのすけの前に無遠慮に進み出て、石切丸の隣りに片膝をつき、腰を落とす。

「話してくれ。こんのすけ」
「うっ、……っく……ひっ、うぅ……な、何を……」
「キミの言う、〝坊ちゃん〟のことを」

 鶴丸は、己のことを「鶴爺」と呼んだあの子供の表情が、引っ掛かっていた。どこかの本丸の「鶴丸国永」であることは分かっていたが、こんのすけの発言で確信した。
 この黒いこんのすけは、子供がいた本丸に、いたのだ。

 そして、見てきたのだろう。

 あの子供が全く子供らしく振舞わず、
 生きることに執着せず、
 異常なまでに刀剣の手入れに拘り、

 刀剣男士が嫌いだと宣うようになった、全てを。

   ◇◇◇

 時は五年ほど前に遡る。

 備前国のとある本丸では、歴史修正主義者との戦闘成績も上々、審神者の持つ霊力も申し分のない精度を誇り、多くの刀剣男士が顕現されていた。また、その審神者は元政府の役人ということもあり、政府からも周りの審神者からも、一定の信頼を得ている人物であった。

「……」

 黒いこんのすけは、本丸のゲートの作動音に気付いて、外出中であった彼らを出迎えに走った。
 が、ゲートの目の前に着て、口をあんぐりと開けたまま固まるに至った。
 ゲートの向こうから本丸の敷地へと足を踏み入れ、歩いてくるのは、黒い着物に黄土色の羽織を纏い、甘い香りを漂わせる強面の男と、僧兵の装いである薙刀の刀剣男士。
 固まっている管狐に構わず、髭を蓄えた和装の審神者は、煙管を持つ手を軽く挙げて見せる。

「おう、戻った。クロ」
「あ、はい。おかえりなさいっス……じゃなくて!」

 うっかり普通に応えかけて、黒いこんのすけ――通称クロは、叫び声を上げる。視線は、目の前にいる審神者と、岩融の間に埋もれるようにして立っている、小さな子供に注がれていた。
 短い黒髪の少年で、幼い灰色の瞳が不安げに揺れている。小さすぎる体には少々大きいのか、着ているTシャツとズボンはぶかぶかだ。頬には涙の痕があり、心なしかげっそりと頬もこけていて、顔色は青い。

「何っスかその子供は!? えっ!? 嘘でしょう!? とうとう人攫いしたんスか!?」

 少年はびくりと体を震わせ、地面に視線を落とした。
 眉間に皺を寄せた審神者が、心外だと言わんばかりに舌打ちをした。

「誰が人攫いだこの野郎」
「いやっ、どう見ても人攫いっスよこれは! ほら! 怯えてます!!」
「テメェの声にビビってんだよ」

 容赦なく、クロの頭に拳骨が炸裂する。
 思わず上がる管狐の悲鳴に、とうとう堪え切れなくなった様子で岩融が噴き出した。

「がははははは! いかん、もう我慢できぬわ! いやはや、主が人攫いとは! しかし言われて見ればだな! クロが言う事も分からんではないぞ! 主は強面ゆえ、演練会場でも度々、小さい審神者には怖がられているしな!」
「俺だって好き好んでこのツラで生まれてねえんだわ。あとお前さんにだけは言われたくねえわこの血みどろ僧侶」
「お? だが俺は主よりは皆に信頼されておるぞ? 先日も、主を恐れた審神者が俺の後ろに隠れたではないか」
「お前さんは刀剣男士だからそもそもの顔面知名度が桁違いだろうが! つーか審神者が刀剣男士を怖がるわけねえだろ! あ~~くっそむかつく……!」

 こめかみに青筋を浮かべながら怒鳴る審神者が、八つ当たり気味に煙管を咥える。思い切り煙を吸っては甘い香りを吐き出している己の主を見て、岩融は再び呵呵大笑した。

 しかしそこで、子供が耳を両手で塞ぎ、蹲ってしまったことに気が付いた。
 失敗した、と薙刀が笑いを収めて、申し訳なさそうに鋭い爪のある大きな手を眼前に立てる。審神者は彼を咎めることなく、ただそっと肩を竦めた。
 子供に向き直ると膝をつき、片手でとんとんと小さな肩を叩く。相手は、恐る恐る目を開けて審神者を見た。

「いきなり大声を出して悪かった。怖がることはねえ。ここは俺の本丸だ」
「……本丸……」
「嗚呼。本丸ってもんがどんなところかは知ってるだろ?」
「……」

 口を開きかけたものの、少年は結局何も言わずに閉じた。まだ警戒しているらしい。だが、ちゃんと分かっている風ではあるのが伝わってきた。

「ここにいる岩融以外にも、沢山の刀剣男士がいる。お前さんが会った事ある奴もいるだろうしな。そうだな、例えば……」
「あるじさまー! 岩融ー!」

 甲高い声を上げ、カラコロと軽快な足音をさせながら、一本歯の下駄で走って来る者がいた。赤い目で長い銀髪の、小さな刀剣男士・今剣である。身長だけで言えば、今の少年とほぼ同じくらいだ。

「お、丁度いいとこに来やがった」

 審神者は、駆け寄って来る今剣を顎でしゃくって示しながら、子供に言った。

「こいつも刀剣男士だ。名前は今剣。会った事あるか?」
「……ちょっとだけ……見たことある……」

 小さな声で返事をした少年に、やはり同じくらい幼く見える相手ならば警戒心が緩むのだなと心の中で安心した。
 尤も、小さいとはいえ平安生まれの刀剣なのだから、中身は子供ではないのだが、視覚情報による安心感は大事である。

「? あるじさま。このこはどなたですか?」

 今剣は不思議そうに首を傾げて、少年のことを見つめた。垂れて来る髪を何気なく耳にかけてから、はっとした様子で審神者を見つめる。

「あるじさま!? だめですよ、いくら、おかねにこまっているからといって、みのしろきんのせいきゅうは、ゆるされません!」
「どうしてもお前さんらは俺を誘拐犯にしてぇらしいな? おい?」

 スコン、と頭上に軽い手刀を落とされて、今剣は「いたーい」とわざとらしく文句を垂れた。
 今剣だって分かっている。刀剣男士の数も増えて、増築を繰り返しているこの本丸は、余裕のある経済状況とは言い難い。一方で、長期に渡り好成績を残しているおかげで、政府からの支援も定期的に受けることはできるので、悪に手を染めるほど切羽詰まっているわけでもない。

 ずっと長く、彼は「主」をしてくれている審神者だ。お世辞にも人の好さそうな顔ではなく、どっちかというと犯罪者のそれに近いが、実際には犯罪とは無縁の男である。
 なおさら、こんな子供を連れている理由が思いつかなかった。

「じょうだんはこのへんにして……だれなんですか、このこは?」
「あ? 見りゃ分かるだろ。拾った」
「主よ、それは説明をする気が無さ過ぎるのではないか……?」

 あまりに簡潔すぎる返事に今剣が絶句していると、岩融も苦笑を零す。このまま本丸に入ったら、この子供は誰だと全員から質問攻めになるだろうことは分かっているだろうに。
 薙刀が、ちら、と三白眼を向けると、審神者の方からも視線が寄越された。途端に、岩融はやれやれと頭を振る。言わんとしている意味は汲み取れたのだ。

「……刀遣いが荒いのではないか?」
「頼む」
「ふ、任されよう。今剣、参るぞ。ついでに他の皆にも説明せねばならぬからな」
「ふむ。わかりました! おおひろまにみんなをあつめますね! えんせいぶたいいがいなら、そろうとおもいます!」
「悪いな、二人とも。後から行く」

 今剣を肩車した岩融が、雑に少年の頭を撫でてやってから、さっさと庭の中を進み、玄関へと向かって行った。
 二人の背中を見送ってから、審神者はガリガリと頭を掻いて少年と目を合わせる。少年は、怯えていながらも、ちゃんと審神者のことを見ていた。

「坊主。お前さん、政府に連れてこられた審神者候補だろう」

 少年が俯く。

「その歳で政府施設の下町にいる時点で、色々お察しだ。霊力も、結構いいもん持ってるみたいだしな。でもまあ……俺の場合、昔、政府の役人として働いてた期間があったからよ。お前さんの事情は何となく分かってる。どうせ、本丸のことは〝刀剣男士っていう戦う兄ちゃんたちの、正義の秘密基地〟とか説明されたんだろう」

 そこで、少年はひどく驚いた様子で顔を上げた。まさにそのような説明をされていたのだと、分かる顔だ。
 相変わらず、相手がガキだからって適当な説明してんなぁ、とここにはいない政府関係者に向けて、呆れ声を発する。

「でもお前さん、何がきっかけかは知らんが、気付いたんだろ。正義だの悪者だの言ってるが、俺達がやってることは血生臭い戦争なんだって」

 少年の脳裏に蘇ったのは、一体何だったのか。
 青かった顔色が更に白くなり、泣き出しそうな表情だ。

「最近、焦ってるのか歴史修正主義者も過激化しててな。戦いが激しくなってて、政府の刀剣男士も駆り出されてる話は、俺も聞いてる。……とんでもない世界に放り込まれたのかもって気付いて、怖くなったんだろ。だから、下町まで逃げて、あんな変な路地裏みてえなところで蹲ってた」

 煙管を懐にしまい、両手で少年の頬を挟む。掌に力を込めて頬を潰すと、少年の口がタコのようにすぼまった。
 意味が理解できず、灰色の目を丸くして、何度も瞬く。

「お前さんは頭がいいな。怖ェなら無理して審神者になんかなるもんじゃねえ。審神者不足で必死になる政府に取り込まれる必要なんざねえ。お前さんみてえなガキのために歴史を護るのも、大人の仕事ってやつよ」

 頬から手を離し、男は少し黒ずんだ歯を見せて笑った。

「だが、行く当てがねえなら、ここにいろ坊主。見たところお前さん、霊力はあるのに制御は下手糞ときた。教えてやっから。もしここが嫌になったらいつでも出て行け。俺は止めん。ただ、外で蹲ってるより、居心地はいいと思うぜ」
  

 多分な、と付け足す審神者。
 子供は子供なりに、どうにか意味を飲み込んだのか、恐る恐るではありつつも、頭を下げた。了承の意だ。

 こうして、煙管をふかしているベテラン審神者の本丸に、非常にイレギュラーな形で、小さな子供が一人、加わった。

   ◇◇◇

 
 小さな少年が本丸にやって来てから、三年の月日が経過した頃。

 キッチンで分けて貰った油揚げを咥え、クロは上機嫌で中庭を歩いて行く。木々を彩る青々とした葉が、穏やかな風に揺れてささやかな音を立てており、耳に心地いい。
 三角の耳をいつもよりも立てて、ぴくぴくと動かしながら、甘く風味の良い、出汁のきいた油揚げを味わう。

「あっ、クロ!」
「んん? はぐ、むむむ……っぷは、ちゃ、北谷菜切様!」

 慌てて、口の中の油揚げを咀嚼し飲み込んでから返事をした。
 声をかけてきたのは、桜色の髪を首の後ろで団子でまとめている、短刀の北谷菜切であった。花の柄がプリントされたシャツの袖から伸びる、細くて白い腕を振りながら走り寄って来る。
 草履で砂利を踏み鳴らし、黒い管狐の正面でしゃがんだ。

「何か食べてたのか? おいしそうだなー」
「油揚げと申しまして、とびきり美味しい食べ物なんです。北谷菜切様はまだ食べてないっスか?」
「まあねー。おれ、ここに来たばっかりだから、まだまだ新しいことはいっぱいなのさー。みんなが沢山教えてくれるから、頑張って覚えないとなぁ」

 彼は、先日この本丸に顕現したばかりであった。だが、人当たりは良い方である菜切は短刀たちとも分け隔てなく接することができているらしい。

 あの素直ではない強面主も、内心では菜切が大丈夫そうであることに非常に安堵しているのではなかろうか。不安などはほとんど顔に出すことがない審神者を思い浮かべ、クロは密かに笑う。
 そこで、はっとした様子で桜髪の短刀は両手を叩いた。

「そうだ、そうだった。クロ、坊を見てないかい?」
「坊ちゃんですか? 見てませんが、坊ちゃんに何か御用で?」
「いんや、御用って言うか、うーん。今、坊も一緒に、非番のみんなでかくれんぼしててねー。おれが鬼なんだけど、坊がなかなか見つからないんだよー」

 どこに行ったのかなぁ、と困った声で言う割に、浮かべている笑顔は嬉しそうで幼い。

「坊が、本丸の中をよく知るのにも、それからみんなと距離を縮めるのにも、かくれんぼがいいって言ってくれてさぁ。みんな、言ってたよー。坊はかくれんぼが大好きで、大得意なんだろー?」

 ああ、とクロは頷く。

「元々、強い霊力も持ってますし、主様が色々教えて特訓してますからね……あと、何だか気配を消すのも探るのも上手いんスよ、坊ちゃんは」
「ふふ、知ってるさー。審神者でも刀剣男士でもないのに本丸にいる人間、とっても珍しいけど、坊が自分から話してくれたんだぁ」

 自ら喋っていたか、と苦笑する。ここにきたばかりの頃はあんなに警戒心を露わにしていて、なかなか言葉の一つも喋らない様な有様だったのに。強面審神者のおかげというか、全力で踏み込みに行くここの刀剣男士たちの賜物というか。
 とにかく、随分と馴染んだものだと思う。

「夕方までには見つけないといけないんだよー。だから、おれ、もう行くね」

 またねー、と手を振りながら離れていく菜切を見送ってから、くるりと後ろを振り向き――ぎょっとした。もし、油揚げを飲み込まずに口に咥えたままでいたら、恐らく砂利の上に落としてしまっていたことだろう。
 そこには、人型の紙人形――式神が浮かんでいた。纏っている霊力で、誰が操っているかは自ずと知れる。

「菜切、流石にまだ俺の式神は気づけねえんだな」
「坊ちゃん!? 何してるんスか、式神なんか使って!!」
「え? いや、折角のかくれんぼだから……応用に挑戦中なだけだけど」
「応用するタイミングがおかしくないですか!?」
「全くその通りだな」

 ふいに、クロの言葉に即答したのは式神(少年)ではなかった。
 覚えのありすぎる声には怒りが孕んでいて、アッと管狐が小さく声を上げる。紙人形でさえ、分かる筈もないのに青ざめたように見えた。
 次の瞬間、紙人形が中心からざっくりと裂け、小さな火を噴きだして燃え尽きる。そして、

「いてててて!?」

 がさがさと近くの茂みから派手な声が聞こえたかと思うと、そこから出てきたのは、二人。煙管を咥えて鬼の形相である審神者と、襟首を掴まれて引きずられている少年であった。

「いて、いてーよ! 離せクソジジイ!」
「うるせえ、そもそも霊力の使い方を教えろって頼んできたのはテメェだろうが。何サボってかくれんぼに興じてんだ。あと結界まで張って隠れようとすんな阿呆。丁度良いから話し合いでもしようや。来い」
「何だよ話し合いって! 話し合いなんかすることねえよ! おい、クソジジイ!」
「誰がクソジジイだ、まだ六十だっつの。クソ坊主が」

 騒がしく喚く少年は、そのまま審神者部屋へ連れていかれた。黒いこんのすけも、いつものことだと思いつつ、一応状況確認のために同行した。

 審神者部屋では、少年はすっかり不貞腐れた様子で、正座をしつつも不満そうに頬を膨らませたまま、下から見上げる形で審神者のことを睨んでいる。
 審神者は、煙管から口を離すと、天井に向けて長く煙を吐いた。

「で? 霊力の使い方を教えてくれって言ってきた張本人が、最近全く身が入らねえようだが、どういうつもりなのか話してもらおうか?」

 審神者の声はいつもよりも格段に低い。怒っている証拠だ。彼は、やると決めたことに最後まで責任をもたないことを非常に嫌う。無責任な対応をした刀剣男士や、余所の審神者をこっぴどく叱っていた姿も見たことがあった。
 そんな彼は、誰でも委縮してしまう程度には怖いはずなのだが、少年はと言うとこちらも負けじと不機嫌な表情を浮かべている。

「……別に」

 これ見よがしに、男は溜息を吐く。
 行き場を失っていた少年を拾ってきたことからも分かる通り、子供には大概甘い性質ではある。しかし、一緒に過ごして来て分かったことは、子供はかなり頭が回転が速いことだ。大人顔負けの言葉の応酬が可能だった。ようは、生まれながらにして天才だったというわけだ。

 それゆえ余計に危うい、と、少年を本丸に迎え入れて数ヶ月程度経った時、男は愚痴を零していた。

「霊力の制御の仕方を、お前さんは二年ちょっとで完璧にしてみせた。だが、制御だけじゃなく霊力の使い方も教えろって言ってきたのは坊主だぜ。途中で投げ出す気なら初めから頼むな」

 どれだけ頭が良くても、巧妙に言葉を使う事ができても、少年はあまり怒られた経験がない。
 何がいけないことで、何がいいことなのか、知識として理解していても、幼いがゆえに感情を優先させがちなのが欠点だった。いけないと分かっていることを叱られても、「そんなことは知っている」と、拗ねる一方だからだ。拗ねなくても、「はいはい」と適当な返事をして、ちゃんと相手の心まで響いていない場合が多い。

「…………」

 少年はつんと顔を逸らした。膨れっ面で真正面から相手の言葉を無視する様子は、何とも幼い。その様子に溜息を吐く。
 かくれんぼで結界を使ってみるくらいであるし、叱ってすぐに投げやりな返事を寄越して部屋を出て行かない辺り、教えて欲しい気持ちはあるのがうかがえる。
 一体何を意固地になっているのか。

「言いてえことは口に出せ。相手に察してもらおうとすんな」
「……」
「……ったく、めんどくせえクソ坊主だな」

 座椅子の背に凭れながら天井を仰ぎ見て、もう一度煙を空気中に吐き出してから、煙管を口から離した。脇にある文机の上の火皿に、とんとんと指を鳴らしながら中の灰を落とす。
 審神者部屋の中は、甘い香りがずっと漂っている。
 煙管を置き、白髪交じりの髪を掻きながらも、視線は少年から外すことはない。辛抱強く、喋り出すのを待っていた。

 自分から話し出さない限り、この時間は終わらないことに気付いたか、少年はじっと審神者を見つめながら口を開いた。

「……あんたは、隠し事が多いから」
「あ?」
「あの日、あんた、何で俺のこと拾ってくれたの」

 膝の上の小さな拳を見つめながら、少年は続ける。

「演練とか、審神者会議とかにも、一緒に連れて行ってくれたりして。色々知っておいた方が今後絶対役に立つからって言うけどさ。こないだ、政府の施設であんた、言われてただろ。審神者候補の子供をそろそろ施設に戻せって」

 審神者の眉に皺が寄る。
 行方不明になった、貴重な審神者候補の子供の行方は、すぐに政府に突き止められた。そのときは、審神者として扱うには無茶があると男が毅然とした態度で役人を納得させ、この本丸に少年がいることは黙認されることになった。

 しかし、時間がだいぶ経った先日の審神者会議で、確かに本丸の役人に呼び止められて話をされたのだ。内容は、子供が言った通りである。子供は先にロビーに向かわせたつもりだったが、しっかりと聞き耳を立てていたらしい。

「あんたは断ってくれてたけど、本当は俺、ここにいちゃいけないんじゃねえの」
「じゃあ何か? お前さんは政府の施設に戻って、審神者になる訓練でも受けてえのかい」
「っ……」

 子供の表情が強張る。すぐに、首を横に振るが、声は出ない。
 少年は未だに、刀剣男士の怪我に不慣れだった。出陣先で重傷者が出たときなど、審神者が冷静に対処する中、真っ青になってガタガタ震えていた有様だ。政府の施設にいる間に、審神者としての知識がまだ十分でない時点で、刀剣男士の怪我を見たり、いなくなったりしたことが、トラウマを植え付けていた。

 尤も、この幼い年齢にして、血だらけの刀剣男士に慣れてほしくはないものだと、こんのすけも思っている。

「だったら、どうしてお前さんをここに置いとくかは、それが全てだ。施設に戻りてえってなったら、すぐに手続きして構わん」
「でもこういう面倒になるって、あんたなら絶対分かってた。元々、政府の役人だったなら、余計に」
「あー……そこかぁ……」

 腕組みをして、首をひねる。
 相変わらず鋭いな坊主、と苦い顔で呟く。称賛ではなく、あまり感づいて欲しいところではなかったのにと恨めしく思っている声だった。
 審神者がこういう顔をしたくなるのも、こんのすけには分かった。

「……はあ。まあ、確かに、気持ち悪いか。俺ぁ困ってる奴を無条件に助けずにはいられないとか、歯の浮く様な台詞は大嫌いだし、そう思われるのも癪だ。……よう、クロよ」
「あ、はい。何スか?」

 ずっと横で何となく二人の会話に耳を傾けていただけだったので、急に呼ばれて慌てて背筋を伸ばした。

「不動を呼んできてくれ」
「……嗚呼、納得。分かりました」

 軽く会釈をして、クロは宙返りをしてどろんとそこから姿を消す。不動行光の神気の気配を探って傍に転移すると、審神者が呼んでいる旨を話して、二人はすぐに審神者部屋へと向かった。

 不動は、審神者部屋の前で膝をつくと、閉まっている襖を軽く叩く。

「主」
「おう、悪いな。入れ」

 失礼します、と言いながら襖を開けて入ってきた不動は、顔を覗かせると同時に驚きで、桔梗色の瞳を見開いた。

「坊もいたんだ!? ごめん、全然気づかなくて」
「んーん。平気。……っていうか、爺さん。何で不動呼んだの」
「こいつが最初に俺を刺したやつだからだ」

 一瞬の静寂。全員が固まり、一番早く石化を解いて叫んだのは不動本人だ。

「あああああ主!? 何でそれいきなり言っちゃうの!? 何で!?」
「いや、坊主が色々話聞きてえらしいから、まずはこの本丸の成り立ちからと思って」
「主!! 順序! 大事! だよ! とても!!! 修行前ってだけでも黒歴史なのに!!」

 顔を覆って震え出した不動は、今にも人の姿が無くなって刀に戻ってしまいそうな勢いで神気を乱し、蹲り、土下座の姿勢になって畳に額を擦りつけた。

「その節は本当に申し訳ございませんでした……」
「あのときはしゃあないっつってんだろ。いい加減、責任を感じるんじゃねえよ。鬱陶しい」
「無理……あのとき主が死ななくて本当に良かったと今も思ってる……」

 状況が全く飲み込めない子供は、突然土下座を始めた不動も意味が分からないし、審神者の言った「最初に刺した」言葉の意味も分からなかった。
 変な顔をして男を見るが、彼は肩を竦める。

「……坊主。この本丸はな、お前さんがここに来るよりも更に前の頃、酷い審神者で運営されてた場所なんだ」
「は……? あんたが、酷い審神者……?」

 審神者は、どんな些細な傷であろうと、刀剣男士を手入れ部屋に突っ込む。何のための資材だ、と言いながら、いっそ過保護とすら思えるくらいだ。無論、必要とあらば傷を負っていても敵の大将の首を討ち取ってくるまで進軍を命じる場合はあるが、折れそうなときは絶対に帰還命令を出す。
 酷い審神者、という印象は全くなかった。

「いや。俺じゃなく、前にここの本丸を担当してた審神者だ。その時俺は、政府の役人としてここの監査に来てた。……で、まあ……細かい話は端折るが。ようは、この本丸にいた刀剣男士は、人間不信に陥っててな。不動は、最初に俺に刀を向けてきた奴なんだよ」

 俄かには信じられない話だったが、ますます小さくなって、申し訳なさそうに眉を下げている不動が、その話の裏付けになっている。

「俺は政府の役人をやめて、ここの本丸を引き継ぐことに決めた。……ただ、こう、この本丸にいた連中は、どいつもこいつも死んだ目をしてやがってなぁ。人間不信は健在なくせに、人生迷子ですってツラして蹲ってるのばっかでよ」

 だから、まあ、と言いにくそうに少し目を彷徨わせて、少年を見つめる。

「……重ね合わせちまってな。ここの奴らと、坊主を。……だから放置して帰るのも忍びなくてよ。気付いちまったもんは仕方ねえし。一緒にいた岩融も、見捨てられないって感じだったしな」

 ふと、思い立ったように審神者が膝を叩いた。

「そうだ。ついでだから教えてやる。こいつぁ、元役人だからこその特権だぜ。不動、お前さんも聞いていけ」
「え。凄くやだ。主、良くない事を思いついたときの顔をしてる」
「最初に刺された時、結構痛かったぜ」
「アッ、もう本当に嫌だ……聞きます……」

 くつくつと喉の奥で笑いながら、審神者は頬杖をついた。不動の言う通り、非常に意地の悪い顔をしている。彼の性格を知っている者でなければ、犯罪者の顔だ。

「実はな。〝刀剣男士〟が、〝主〟たる〝審神者〟を襲えるわけがないって思いがちだろ。でも、実際はそうじゃねえ。こんな審神者についていけねえって思ったら、刀剣男士は主を殺しても問題ないんだ」

 これにはこんのすけがひっくり返りそうになった。「主様!!!」と叫ぶが、男はしれっと聞き流している。これは政府の関係者しか知らない極秘事項だ。

「刀剣男士ってのは、顕現されるときに自然に、歴史修正主義者から歴史を護らにゃならんってのを認識してくる。でも同時に、趣味の悪い暗示があるみてえでな。それが、審神者と結ばれる主従関係だ。確かに、そこには正しい契約は結ばれるが……絶対的なもんだと、どいつも思ってる節がある。恐らく、ある程度の統率が図りやすいように、顕現の術式に組み込まれてるんじゃねえかってのは俺の憶測だが……もし己の主人の審神者を殺した結果、歴史修正主義者に堕ちるとか思われてんなら、そいつぁ誤解だ。正しい契約ったって、絶対的な拘束力をもつもんじゃねえ」

 審神者の目が、不動に移った。

「だから、俺がもし、ろくでもねえ審神者になっちまったと思う瞬間が来たなら、不動はあん時みてえに、俺に刃を向けていい」
「――っ!」

 不動の目が見開かれたかと思うと、素早く立ち上がって、拳を振り上げた。
 審神者は逃げたり迎え撃ったりせず、大人しく頬を殴られた。
 バキン、と派手な音を立てて男の頭が揺れたが、堂々と座る姿勢は変わらない。

「ばっっっかにすんなよ!」

 怒鳴って、入ってきたときとは対照的に、荒々しく足音を立てながら不動が襖を開けて飛び出していく。
 子供は思わず、目の前で起きたことに体を固くしていたが、審神者が平気な様子で口の端から滲んだ血を拭っているのを見て、恐る恐る声を掛ける。

「……だ、大丈夫……?」
「ん? 嗚呼、平気。不動なら多分ブチ切れるだろうなと思いながら言ったからな」

 立ち上がって、審神者が開けっ放しになっている襖から半身を廊下に出し、不動の歩き去っていった方角を見やる。

「まあ。怒りながらもあいつは真面目だから、ちゃんと頭のどっかに残るだろ。俺がボケてとんでもねえ運営し始めねえとも限らないし」
 

 部屋に引っ込み、襖を閉める。座椅子に再び腰を下ろした。

「さっきクロが騒いでたのでも分かると思う。これは通常、審神者は知り得ない情報だ。だが、俺は審神者も刀剣男士も、本当は知っていていいと思う。契約だろうが何だろうが、強制された上下関係なんざクソくらえだ。だから坊主にも話した」

 甘い香りはずっと部屋に漂い続けているが、先ほどよりは薄くなっていた。
 審神者は、少年のことを案じていた。どこかに行きたいと思うようにならない限りはこの本丸にいればいいと考えていたが、永久にその生活を送るわけにはいかない。加えて、やはり審神者の素質を充分に備えた希少な子供なのだ。時間遡行軍との戦いが終わりを迎えない限りは、いずれは審神者の任につかなければならない運命である。

「組織であり、指示する奴がいねえとまとまらないから審神者がいるってだけの話で、俺からすりゃ、審神者と刀剣男士は対等だ。それを忘れるな、坊主」

 はいと答えるのが正解なのか、その話はまだ難しすぎて現実感もなく、理解が十分か分からないと正直に答えるべきなのか。
 困った様子で少年が俯いていると、審神者は小さな頭をわしわしと頭を撫ぜた。

「だいぶ俺の話はしたぜ。これでも隠し事が多いかい。ん?」
「いや……そんなこと……ない」
「よし」

 じゃあ早速だがな、と懐から呪符を取り出し、空中に浮かべてやると、霊力を放出した。
 一瞬にして、美しいドーム状の光が現れ、男は自らを包んだ。すると、存在そのものが座椅子ごと目の前から消え去り、誰もいないかのように見せられた。

「茂みの中でお前さんが張ってたのと同じタイプだ」
「……すっげ……」

 声だけが聞こえてきて、明らかに出来が違うことに驚嘆する。

「だが、さっきみてえに式神を出すと……」

 審神者が取り出した紙人形が、ぴらりと現れる。すると、結界の光が薄くなり、ぼんやりとだが男の姿が視認できるようになった。

「霊力の行先が分散されるせいで、周りから見えなくなるための結界の方が疎かになる。できねえこたねえが……かなり高度な技術だからまだお前さんには無理だ。それと、式神を出さんでも、今会話が成り立っていたように、声だけは隠すことができん。喋ったら、隠れるって点では、結界はほぼ意味がないと思え」

 審神者が結界を解いた。彼の霊力の使い方は一級品だ。少年の素質がいいのも確かではあるが、制御の仕方も教え方が上手いからこそ、できるようになったのだ。

「あと、未熟とはいえ、かくれんぼで結界を使うのはほぼ反則だろ。とくに菜切はまだ人の身にすら慣れてねえってのに」
「う……」
「謝っとけよ」
「……分かった」

 不承不承といった様子で頷く。

「次に。俺がまず教えた結界は、姿が見えねえようにするもんだが、それは結界を張る時の霊力の使い方を知るための、基礎を学ぶためのもんだ。実際に使うのは二種類」

 人差し指と中指の二本を立てて見せてから、少年の前にマッチの箱と、老眼鏡のケースを置いた。
 マッチの箱を指先で叩きながら言う。

「外部からの攻撃とかから身を守るための、守護の結界」

 次に、老眼鏡のケースを叩く。

「刀剣男士の手入れをするための、治癒の結界」

 どちらも難易度の高いものだ。結界を張れるほど、見事に霊力を使いこなすことができる審神者は指折りで数えられるくらいしかいない。
 しかしこれを教えるのは、少年もできると見込んでのことだろう。

「俺は、守護の結界をまず教えて、それから――」
「治癒の結界を先に教えて欲しい」

 言葉を遮って、突然そんなことをいうものだから、審神者は面食らった様子で両目を瞬かせた。

「治癒の結界の方が難しいぞ。手入れ部屋まで来られない重傷のやつとかに、たまに使うんだが……手入れをしている間、結界の方にまで気は回せない。つまり、放置しても大丈夫なように、綿密に霊力で練り込む必要があるからな」

 少年は、拳を握り締める。

「じゃあ、治癒の結界の方がやっぱり、俺も役に立てる。治癒の結界を先に教えてくれ」

 長らく本丸に一緒に暮らしていて、刀剣男士の皆も家族のように仲良くしてくれているが、きっと自分だけ何もできないことに焦りを感じていたのだろう。
 審神者は逡巡する様子で腕組みをしていたが、

「途中で投げ出すなよ」

 少年の額を指で突いた。
 丁度そのタイミングで、審神者部屋の外から声がかかる。

「主、戻った」
「開けていいかな」
「おう」

 審神者がちらりと子供に目をやるが、子供の方は気にした様子もなく立ち上がる。
 開いた襖の向こうには、襤褸を被った金髪と、マントを銀灰のマントを身に着けた銀髪の刀剣男士がいた。二人とも、少年の姿を見て、双眸を丸くする。

「……坊。……すまない。取り込み中だったか」
「タイミングが悪ければ、出直すけど」
「平気。爺さん、これから絶対、教えろよ。絶対」

 小さな指を指し向けて、妙に偉そうに宣言をしてから、子供はばたばたと二人の刀剣男士の脇を通り抜けて、廊下へと駆けていく。

「……何か嬉しそうな顔をしてたけど、何かあったのかい?」

 部屋に入りながら山姥切長義が尋ねると、審神者は肩を竦める。

「まあ、色々とな。で、二人とも遠征お疲れさん。記念すべき初の二人旅はどうだった?」

 挑発めいた口調で、しかも笑いを堪えた様な声音に、長義の眉がつり上がる。深呼吸をして、こめかみをぴくぴくと震わせながら、引き攣った笑みを浮かべた。

「申し訳ないんだけど、今後こういう悪ふざけはやめてくれないかな? 俺が偽物くんと並べられる謂れはないと思――」

 ――ガツン!!

「いったぁ!? 何をする!? ……うっわ……」

 容赦なく長義の頭上に降ったのは、審神者による拳骨だ。あまりの不意打ちで、無様にも全くダメージを殺せずに受けた銀髪の彼は、涙目で顔を上げた途端、小さな声を漏らした。口許を歪め、眉間に皺を寄せて睨んでくる様は、般若を思わせる。

「別にそいつのことを認めろとは言ってねえよ、山姥切長義。だが、お前さんの減らず口は何とかならねえもんかね? 心の距離を近づけろとも言ってねえんだよ、もっとちゃんと相手を見て考えやがれっつってんだ」
「主……俺は、別に構わない。写しは、偽物とは違うが、それでも――」

 ――ガツン!!

「ぐっ…!? あ、主……!? ……うわ……」

 長義と同じ反応である。やはり審神者は、同じ顔をしていた。つまり般若だ。

「テメェもテメェだ、山姥切国広。相手が本科だか何だか知らねえがお前さんらは対等な刀剣男士なんだよ。変なところで遠慮ばっかすんじゃねえ。そもそも――」

 審神者の説教が始まってしまい、二人の山姥切はお互いに目配せをして、仕方なさそうに正座した。ただ遠征の成果を報告に来ただけだったのだが、こうなると長いのだ。
 眺めていたクロも、ああこれは長いぞ、と感じて、いそいそと審神者部屋を出る。

 先ほど、わだかまりもなくなって気分よく結界の指導が受けられることを喜び、上機嫌で部屋を出ていた子供は、何処へ行ったのだろう。少年の霊力を探りつつ、クロはまた軽くその場で跳ねると、くるりと体を回転させて転移した。

 転移した先で、かくれんぼをする短刀たちに再び加わり、北谷菜切に先ほど結界で隠れていたことを謝りに行く子供を見つける。
 素直な言葉はなかなか出てこないが、審神者に言われたことをすぐ実行する子供は、律儀で真面目だ。

「楽しそうっスね、坊ちゃん」

 また、隠れる場所を探している少年に声を掛ける。

「あいつらと遊ぶの、すっげー好き」

 あの日、審神者が子供を拾ってきたときは、一体何を考えているのだと思ったものであった。だが、当時の子供の姿を思うと、本当にこれで良かったと思えて来る。
 嬉しそうに、心底幸せそうに笑う子供が、眩しくて仕方なかった。

 ――その幸せが、年の暮れに、唐突に崩れ去った。

 至る所から、剣戟の音がする。
 冬の真っ只中だというのに、視界のどこも赤くて、熱い。本丸中が炎に包まれているからだ。

 寝間着のまま、少年の息が乱れる。足元には、黒いこんのすけ。
 そして目の前には、二人分の背中があった。どちらも武装が間に合っていない。片やワイシャツ一枚と半ズボン、片や黒のパーカーとズボンの状態だ。

「くそ、まさか結界が破られるなんてな……」
「これはきっついぜ……どうする? 薬研」

 少年と管狐を背中に庇った状態で、刀を抜いて牽制する視線の先には、赤い光を灯した化物の大軍。烏帽子や編み笠を被った者、角を生やした巨躯の者、昆虫のような出で立ちの者――本来ならば、本丸の中では出会わないはずの、歴史修正主義者だ。

 短刀を咥え、空中を浮遊する骸骨の急襲を躱し切れず、すっぱりと斬られた頬から血を流す薬研が、唸る。

「……どうせ、どこもかしこも敵だらけなんだろうが……大将の部屋までたどり着かせるわけにはいかねえ。動けそうか? 獅子王の旦那」
「へっ、大丈夫大丈夫。眠くなっちまってたから、ちょっと強めに叩き起こされたと思えば、何てことねえよ」

 隣の獅子王も、突然天井から降ってきた大太刀のせいで、額から赤い血が垂れ落ちていた。

 昆虫の姿の歴史修正主義者が動き出す。六本の足を駆使して、見かけよりもはるかに速いスピードで迫ってきた。携えているのは脇差だ。
 即座に薬研が前へと飛び出し、軽く跳ねて天井の梁に手を引っかけてぶら下がる。空中で、思い切り敵の脇差を蹴りあげて軌道を逸らし、その隙に短刀を突き出す。

「柄まで通ったぞ!!」

 確かな手ごたえと共に上がる太い声。黒い靄を出しながら、敵脇差がぐしゃりと潰れ、塵となって消え失せていく。
 しかし、その横から気配。ぐあ、という呻き声と共に、薬研が床に叩きつけられた。

「薬研!!」

 獅子王が太刀を振るい、薬研の上からのしかかっている編み笠を被った歴史修正主義者を弾き飛ばした。腕を引っ張って、薬研を引き上げる。
 ぜえぜえと肩で息をしながら、二人は少し後ろへと下がって、再び少年と管狐の前に戻ってきた。

「クロ、坊を早く奥に! 主の部屋なら幾分か安全だと思うから!」
「!! わ、分かりました! お二人とも、お守りは!?」
「俺も薬研も持ってる! いつも手放すなって主から言われてたからな!」

 太刀で牽制しながら、半ば叫びながら話す獅子王は、常時のあたたかみのある声とはかけ離れていた。そのおかげで、クロのパニックを起こしていた意識が覚醒する。
 子供が悪夢を見て、厠に行くのが怖いからと言うから、一緒に部屋を出てきただけのはずなのに、とんでもないことが起きていた。

 ――本丸が、襲撃されている。しかもこんな夜中に。

 ここにいても足手まといだと理解し、管狐は踵を返した。

「坊ちゃん、こちらへ! 早く!」

 途端、呼吸を忘れていた少年が、はっと息を飲む。

「待って! 俺だって……俺も、俺にも! 治癒の結界を張れる! できるようになったんだ! 二人の怪我、ちょっとなら治せるから……ジジイほどじゃねえけど、でも、だから!」
「こんな時に我儘言うな、坊っ!!!」

 薬研の鋭い叱責が飛ぶ。聞いたことがない、緊迫した余裕のない声だった。
 顔だけ振り向かせた短刀は、藤色の瞳を申し訳なさそうに細め、苦笑した。

「また弟たちと一緒に、かくれんぼするんだろ」
「……っ……でも、薬研も獅子王も、二人とも酷い怪我……!」
「大丈夫だ。これくらいの怪我、戦場だとよくあるんだぜ?」

 白いワイシャツのせいで、出血した部位は鮮やかすぎるほどに紅い。
 時間遡行軍が、唸りを上げる。薬研と獅子王が視線を前に戻し、二人同時に叫んだ。

「「坊! クロ! 走れ!!!」」

 泣きそうになりながら、必死に堪えた。弾かれたように走り出し、廊下を行く。一体いつの間に火を放たれたのか、色々なところが燃え上がっている。障子もいくつも倒れている。ガラス戸も粉々だ。
 前を走る管狐にだけ集中しながら、少年は審神者部屋に向かってひたすらに走った。だが、

「!!!」
「坊ちゃん!!!」

 大広間の前を抜けていこうとして、そこから突如、歴史修正主義者が顔を出した。数は一匹で、苦無を咥えた空中を浮遊する骸骨だ。
 人間の足では間に合わない。クロが走って戻ろうとするが、迫って来る苦無に、子供は思わず目を瞑る――

「させません!!」

 獣の鳴き声と共に、高い声。そして金属音。
 子供が目を開けたそこには、目にもとまらぬ速さで苦無と刃を交え、火花を散らす短刀の刀剣男士がいた。大きな白虎が、少年を護るように立つ。

 ふわふわとした白銀の髪を揺らしながら、一度苦無を鋭い斬撃で弾き飛ばして、着地する。短刀の五虎退だった。

「坊、大丈夫ですか……!?」
「五虎退……! お、俺は平気! だけど……!」
「分かってます、ど、どうしよう……で、でも、僕も戦えるので……!」

 ぱっと苦無に向き直り、うう、と小さく声を零す。

「い、一騎討ちなんて……ううん、嫌、だなんて、言ってられないです……! 僕達の本丸を、よくも……!」
「あはは、こいつは驚いた! 勇ましくなったなぁ、五虎退!」
「ふえぇ!?」

 出し抜けに声がして、驚く。相手の苦無ですら、思わぬ大音声におろおろとした動きを見せた。声は、燃えている襖で仕切られた奥の部屋からだった。
 間もなく、襖を豪快に蹴り倒してそこから出てきたのは、体の半分が赤く染まった鶴丸国永だった。本体の太刀を左手に持ち、肩に担ぐ姿勢で歩いてくる。

「鶴爺……!」
「よっ、坊! 緊急事態の中、泣かずにいられたとは、偉いぜ! よく頑張った!」

 少年の前でしゃがんだ鶴丸は顔を近づけると、まるで猫にじゃれるかのように、額と額を重ねてぐりぐりと押し付けた。彼と子供が時々やっているスキンシップだ。
 額を離し、にっと歯を見せて笑うと、五条の太刀は五虎退の隣りに並び立つ。

「さーて。五虎退と一騎討ちってとこ悪いが、俺も邪魔させてもらうぜ? 敵さんにこれだけ派手に驚かされたんだ。今度はこちらが驚かせてやる番だよなぁ」

 しかし、敵が苦無だけかと思いきや、周囲から気配を感じて視線を巡らせる。敵の薙刀や脇差が、ぞろぞろと集まってきている。
 ひぃ、と叫ぶ五虎退の背中を支えるように、真後ろに立ってやりながら、鶴丸は眉根を寄せた。

「……は。調子に乗ってくれるなよ、時間遡行軍。行けるかい、五虎退」
「は、はい……! が、頑張ります……! 多分、いち兄も、他のみんなも、どこかで戦ってますし……恥ずかしくないように、頑張らないと……!」
「そうだな! 坊も急いで審神者部屋に向かってくれ! 主の采配が必要だからな!」

 明るく言われても、直感的に少年は、この刀も自分を審神者部屋に逃がそうとしていると感じた。
 鶴丸の右手は、だらりと体の横で大人しくしている。きっと動かないのだ。彼は利き腕をやられている。また、体の半分が赤く染まっているのは、返り血ではない。そう思った。

「まって、鶴爺! やっぱり俺だけ逃げるなんて……あの、俺、治癒の結界がっ」
「何、片付いたらみんなで宴会と行こう。俺が驚きの一発芸を披露して見せるから――な!」

 畳を蹴り、薙刀の懐へ飛び込んでいく。
 それでも動けないでいる少年に気付くと、五虎退は暫し迷ったように俯いた。だが、己の虎とアイコンタクトをとると力強く頷き、顎を高く挙げ、叫んだ。

「虎くん! 坊を、お願いします!!」
「!?」

 白虎が嘶いた。素早く動き出し、少年の襟元を噛むと、そのまま持ち上げて審神者部屋の方角へ走り出す。クロは大きな背中に慌てて飛び乗った。

「鶴爺! 五虎退!!!」

 少年の叫び声は、虎が走り抜けた廊下に崩れ落ちた、焼けた天井の瓦礫の音で、かき消された。

   ◇◇◇

 審神者部屋周辺は、まだ火の手も回り切っておらず、幾分いつもの様相である。ここに敵が至らないよう、いかに本丸の様々な場所で刀剣男士が死力を尽くしているか物語っていた。
 虎は二人を下ろしてすぐ、来た廊下を駆け戻って行く。

「爺さん!!」
「主様!!」

 子供とクロは、断りも入れずに襖を開けた。
 中では、審神者は難しい顔をして、煙管を吹かしていた。また、その前には今剣、厚藤四郎、三日月宗近、次郎太刀が控えている。

 座ったままの男がゆっくりと顔を上げて、「来たか」と短く言った。
 少年は大股で歩き、縋りつく。

「敵が……時間遡行軍が! 早くしねえと、みんな、折れちゃう!!」
「分かってる。落ち着け」
「落ち着けるかよ!! こんなところで座ってんなよ! あんた、この本丸の主だろ!!」
「……」

 審神者は、少しだけ表情を歪め、すぐに改めた。クロに、目配せがいく。最初は意味が分からず動けないでいると、磨り膝で近づいてきた三日月が、小さな小さな声で耳打ちした。

 ――愕然とした。声が出ない。驚きすぎて、絶望して、でもそれが最善だと理解した。

 ――理解できたことが、クロは、悲しかった。どうしようもないほどに。

 項垂れる管狐から少し離れたところで、少年は、審神者と話し続けている。
 

「そうだな。俺はこの本丸の主だ。だから……坊主」
「っ……な、何だよ」
「お前さんの力を貸してくれ」

 思いがけない言葉だったのだろう。少年の返事は少し遅れた。問い返した声は、どこか喜びに溢れていた。できることがあると、思ったのだろう。

「もう一度言う。坊主の力を貸してくれ」

 少年の顔に、安堵が滲んだ。皆と共に戦う事ができると、気合を入れた。
 もちろんだ、どうすればいい、と笑う子供の前で、いかにも、それらしい顔で頷いた男は立ち上がる。

「守護の結界も少しはできるんだったな?」
「ああ。できる……本当に少し、だけど」
「じゃあ今この瞬間、全部覚えろ。いいな」
「っ」

 いつもならば、そんな無茶なと騒ぐところだ。
 治癒の結界を完璧にできるようになって、守護の結界に取り組み始めたのはまだごく最近だ。それで「少し」でもできるのは類まれなる才能のおかげだが、すぐに崩壊してしまう弱い結界しか作ることができない。
 
 だが、今は状況が違う。だから少年は、深く頷いた。

「お前さんに今から教えるのは、ごく小規模の結界だ。一瞬で崩れて良いが、瞬間的な耐えられる透明の盾を作る、といえばイメージできるか」
「えっと……使い捨ての盾、みたいな……?」
「そうだ。で、それがある程度できれば、霊力の消耗は激しくなるが、短い集中でもまあまあ使えるようになる。でかい結界は、それをもっと拡大したもの、と考えてくれりゃいい」

 審神者は懐から呪符を何十枚も取り出し、少年の懐に押し込んだ。呪符は自分で書いたり、書いてもらったりしているが、こんなに沢山貰うのは初めてだった。
 少年が驚いた様子で見上げるが、男は素知らぬ顔で、残った数枚を片手に持った。

「良いか、結界ってのはこうやって張るんだ」

 審神者が符を空中に投げつけ、霊力を瞬間的に一気に込める。すると、申し訳程度の小さな結界が現れた。だが、確かに攻撃の一つ二つは耐えそうな、霊力濃度の濃い結界だった。まさに、透明の盾だ。
 少年は真剣に、審神者の全ての動きを目の奥に焼き付ける。頭の中で、先ほどの動きを丸ごとコピーするようにイメージしながら、渡された符の一枚を空中に投げつけ、一気に霊力を込めた。すると、

「うわ、坊、すげえ!」
「へえ、やるねぇ坊ちゃん!」
「ほう、これは。素晴らしいな、坊」

 厚と次郎、三日月から、大袈裟すぎるほどの称賛の声が届いた。
 自分でも驚くほど、上手くできた。少年は目を輝かせる。これなら、みんなを助けられる――そう思った。

「じゃあ次のレッスンだ。さっき言った、これよりもでかくて頑丈な結界の張り方を教えてやる。しかも、ただの丈夫なやつじゃなく、二つの結界を重ねた応用だ」

 いきなり難易度が跳ね上がっていて、全身からぶわりと汗が噴き出る。
 それほどの結界ができなければ、この場では皆の力になれないということだと理解して、緊張した面持ちになる。

「わ、分かった」
「……だが、その前に、やらなきゃいけねえことがある」
「……?」

 たん、と畳を蹴る音がした。何かと思い、少年は振り向く。
 目の前に迫っていたのは――小天狗の、短刀。何故か刃はこちらに向けられていた。赤い大きな目に、大粒の涙が浮かんでいる。 

「――え」

 激しく血が――飛び散った。
 喉の熱さに少年は目を丸くする。同時に審神者の大きな手が、少年の喉を覆った。男が何か言霊を乗せる。喉の周辺で、キン、と小さな音が鳴った気がした。
 驚いた事に、抉るように斬りつけられた喉は、痛くない。ただ、寝間着の前面が、己の喉から迸った血で真っ赤に染まっていた。喉を抑える。

「……ぼうには、いきてほしいんです」

 涙で揺れる、今剣の声がする。

 混乱しながらも、どういう意味、と返事をしようとしたが、何も出てこない。

 ――声が、出ない。

「――!!!?」

 何だよこれ、と口の動きで言っているのが分かる。でも、言葉は出てこず、音にならない。
 審神者は無言で少年を担ぎ上げると、審神者部屋の中にある押入れの中に押し込んだ。

「!!、!!!」

 おい、クソジジイ、と叫んでいる。いつもの悪態だ。だが表情はいつもの悪ガキではなく、本当に、切羽詰まったものだ。

「悪いな、傷口から体の内側まで、術式を投入したから、傷の治りは早くなってるはずだ。痛みもねえように喉の方は細工した。その代わり、三日位は声が出ねえようにさせてもらったから、許せよ。ちゃんとその内出るようになるから、安心しろ」

 どれだけ暴れようと、やはり子供では、大人の、しかも男の力にはかなわない。

「声を全く出ねえようにするには、喉の内側から霊力をぶちこむやり方しか知らねえんだ、俺は。すまん」

 少年は、怒鳴る。でも声にはならない。

「喉の傷も多分、残る。だからこいつで隠せ」

 押入れの中で抑えつけながら、片手で淡紅藤色の襟巻を渡す。

「あと。こいつを、連れて行け。俺からの……まあ、何だ。餞別……みてえなもんだ。きっとお前さんを護ってくれる」

 鞘に納められた刀を、渡される。見覚えがあった。今朝方、会ったはずの刀だった。いつの間に顕現を解かれていたのか。
 全て、何もかも、意味が分からない。どうして、何で、と怒りの形相であった少年の目が、潤んでいく。聞きたくてたまらないのに、口を開けても訴えられない。

「今から最後の手本を見せてやる。二度はねえ。よく見とけ」

 審神者が、呪符を三枚取り出し、空中に静止させた。片手で少年を抑えつけたまま、片手から光を溢れさせる。言霊を乗せる。複雑な文字が現れ、流れる。抑えつけてきた男の手が、離れたと思ったのもつかの間。
 一瞬で、少年と――遅れて押入れに飛び込んできた黒い管狐を包むように、淡い輝きをもった結界が現れた。それだけでは終わらず、更に透明のドーム状の光が重なって来る。

 二重の結界が出来上がると同時に、クロの全身から、霊力の光が溢れだす。結界の光が、強まった。

 ――今まで、手本で見せてもらったから、分かった。
 重ねられたのは、これまでの中で難易度が最も高く、一番強度の高い守護の結界と、隠れるための結界の、二つ。

「……これで終いだ。覚えたか?」

 ――〝声だけは隠すことができん。喋ったら、隠れるって点では、結界はほぼ意味がないと思え〟

 脳裏に、蘇る。いつだったか、審神者が教えてくれたこと。
 少年が、震え出す。大きく見開かれた灰色の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれて来る。

 自分は、護るために隠されている、と嫌でも気が付いた。

 クロも、泣いていた。泣きながら、絶対に緩めてはならないと思いながら、結界に霊力を注ぐことに必死だった。これだけは、何があっても壊されてはならない。

「坊。いつも、ジジイの話に付き合ってくれて、ありがとうな。共に食べたおはぎは美味かったなぁ。礼を言うぞ」

 三日月が、どうせ結界で何も見えてないだろうに、押入れを覗き込み、ほけほけと笑う。

「へへっ。かくれんぼしたりさ、鬼ごっこしたり。大阪城の小判、整理するのも一緒にやったっけ? ありがとな、坊!」

 厚が鼻の下をこすりながら、照れ臭そうに笑う。

「アタシはちょ~っと物足りないかなぁ? 坊が大人になったら、一緒に飲むの楽しみにしてたんだけど……ま、仕方ないよねぇ! おっきくなったら、いい酒飲んで過ごすんだよ!」

 次郎が、明るく笑いながら手を振る。

 離れた位置で、今剣がこちらを見ていた。もう涙は溢れていなかった。不格好に笑って、会釈をしてくる。

「俺達の誇りは、お前さんが持って行け」

 透明の壁を必死に拳で叩くが、びくともしない。外に出られない。
 結界の向こうで、子供の頭を撫でる仕草だけをして見せる審神者がいた。とめどなく溢れる涙が、顎に溜まっていくつも落ちる。

 やだ、と唇が動く。幼い顔が絶望に歪む。

「じゃあな。坊主」

 結界の中に閉じ込めたまま、審神者は駄目押しのように、押入れの襖を閉めた。
 中は真っ暗になる。少年が泣き叫んだことに、クロは気づいていた。全く声は出ていないが、号泣していると分かった。

 霊力を注ぎ込んでいるクロのせいで、結界が内側から破れないのだと気付いたのだろう。力いっぱい、少年が叩いてくる。だが、クロも屈しなかった。

 ――爺さんっ!!!!!

 聞こえないはずの声が、耳の奥に届く。クロは耳をきゅっと閉じながら、歯を食いしばる。

 三日月は耳打ちした。審神者の代弁でもあった。

 この本丸は確実に負ける。不意を突かれたことと、最近激化してきている時間遡行軍の中でも選りすぐりの者たちによる急襲で、どうあがいても勝ち目がないことが明らかだった。
 本丸の結界を適当にしていたわけでもない。ただ、敵がひたすらに強かった。シンプルにそれだけだ。

 だから、必死に抗っても全滅してしまう。手入れをしても恐らく間に合わない。政府に応援要請をしたが、そのとき時間遡行軍は政府にも殴り込みを行っていたため、対応がどうしても遅れることになっていた。

『坊を生かすことだけを考え、我らは動く』

 ただ負けるのは無駄死にが過ぎる。全滅するのだとしても、誰か一人は生かしたい。
 そして審神者は、少年を生かすことを選んだ。未来ある子供の方が、人生を折り返している自分よりも可能性を秘めていると審神者は言った。今後の時間遡行軍との戦いのために、それがベストだと結論付けた。反論する者はいなかった。

 クロは、結界で閉じ込めた少年が、外に飛び出していけないように、ただ何も考えずひたすら、霊力を込めてくれと頼まれた。
 遺言に等しい、最後の審神者の願いを、無碍にすることはできなかった。涙はずっと、止まらなかった。

 押入れの外で、戦いの音がする。
 叫び声や、怒鳴り声や、心配する声や、気合の声が響き渡る。ガタン、と重々しい音も、繰り返し聞こえた。続けて、パキン、という音。

 少年も、管狐も、震えが止まらなかった。

 そして――最後に。

 ガタン、と大きな音が、たった一回だけして。

 本丸は。静かになった。