刀剣嫌いな少年の話 拾

2022年4月18日

 布団の脇に座って、手を握り続ける。願うような気持ちで、じっと動かない。
 目に見えた穢れはなくなり、傷もなくなった。部屋の隅に置いてある刀掛けを見やれば、手入れが終わった打刀と脇差があるのが分かる。

 何度確認したか分からない。本当に元に戻っているのか。本当にヒビの一つも残っていないのか。何か細工されていないのか。封印などの呪術を掛けられていないのか。
 自分自身の刀も含め、繰り返して確認した。そして、確認ができるたびに、今度はこのような問いが浮かぶのだ。

 どうして、目覚めてくれないんだ、と。

 審神者も、手入れを終えてから一度も顔を出しに来ていなかった。代わりに、何度か、審神者の周りにいることを決めた刀剣男士が様子を見に来てくれた。きっといつか目覚める、と背中を撫でてくれたり、刀剣男士には必要がないはずの握り飯を持って来たり、黙って隣に座っていてくれたりした。
 でも目覚めなければ意味がない。結局、審神者なんて信じられない。

 そう、何度目か分からないことを考えていたときに、驚いた。
 最初は、錯覚かと思ったのだ。心から待っていたはずの現象を、嘘だ、と最初に否定したのは、まぎれもない自分自身だった。

 それは、現実だった。

   ***

(うっわぁ……)

 頬を引き攣らせて、獅子王は目の前に立つ三人を見つめた。
 そこにいる彼らは紛れもない、同じ刀剣男士で、この本丸に顕現された仲間であったが、それにしても――

「……変わっちゃったな」

 ぽつりと、思わずそんなことを口に出してしまう程度には、様変わりしていた。姿が、ではなく、纏っている神気がだ。これを神気と言っていいものなのかも、微妙なところである。
 彼らから感じられるのは、確かに刀の付喪神たるもの。だが、それは、刀剣男士としての神気ではなく――どちらかと言うと。

 言葉でのコミュニケーションが不可能になった、歴史の敵――

「変わってなんかいねえさ」

 薬研が隣で言い放つ。獅子王の旦那、と胸の辺りに裏拳を軽く当てられた。

「〝最悪はねえ〟んだろう」
「……!」

 覚悟していたはずなのに、思わず尻込みしそうになってしまった。審神者にはあれほど、安心しろと言っておきながら。
 くそ、と毒づきながら、薬研の肩を叩き返す。彼は、不敵に笑って見せる。

「じゃれている暇はないぞ。獅子王。薬研」

 対峙している三人には、明らかに重傷なのに圧倒される殺気があった。戦場で敵から感じたこともなく、演練会場で対戦することになった相手から感じたものとも、まるで違う。殺気に感じられる別の感情は、後がないことによる焦り。
 彼らはもう、背水の陣でこの戦いに臨むつもりなのだろう。

「ああそうだ。長谷部の言う通りだ。じゃれている暇はないぜ」

 長谷部の言葉に応えたのは、獅子王でも薬研でもなく、目の前にいる鶴丸だった。白い――否、どちらかというと赤い彼は、肩に担いだ刀を下ろし、抜刀する。その刃も薄汚れていて、錆びていた。
 手入れを受けないと、傍目ではもう折れる寸前なのではないかと心配になるほど、酷い。だが、彼らは審神者の手入れをよく思っていない。正確には、前任のせいで、本当の手入れの在り方をまだ知らないのだ。
 鶴丸達にとって、審神者の手入れは、刀剣男士にとって、まごうこと無き害である。それをどうして自ら、受けようと言うことがあろうか。

「まさかきみもそちら側だとは思わなかったぜ、へし切長谷部。きみでさえ、あれほど審神者を〝主〟だということに抵抗を覚えていたはずだが……手入れの時に洗脳でもされたのかい」

「籠城生活が続きすぎていたんじゃないか。この俺が、主を見誤ると? 洗脳されている? そんな顔に見えるのか」

「見えないな。だから言っているんだ。〝驚いた〟ってな。聞けば、他の刀剣も随分と仲間に引き入れたらしいじゃないか。あの審神者はどうやって刀剣男士を誑かしてるんだい――嗚呼、何も言わなくていい。さしずめ、もっと巧妙な何かを仕込まれたんだろう? 忌々しい事この上ないな。俺達をこうして同士討ちさせたいなら、善人ぶって手入れなんかしなければいいものを。……無駄だと分かっているが、今一度訊くぜ」

 そう言いながら、鶴丸は、抜刀した〝鶴丸国永〟を獅子王ら三人に向けた。その、錆びながらも鋭く尖った切っ先は、まるで殺意そのものだ。
 こちらを睨みつける目も、積もっている雪よりも更に冷たい温度を宿していた。

「審神者の肩を持つのか。俺達に協力するか。どっちだい?」

 誰からともなく、溜息を吐く。一瞬の静寂。鵺が唸り声を上げる。

 長谷部が打刀を抜いた。
 薬研が短刀を抜いた。
 獅子王が太刀を抜いた。

 鶴丸はそんな様子の彼らを見て、瞳が剣呑に帯びる。くっと唇の端を持ち上げた。

「……交渉決裂――だなっ!!」

 鶴丸が全速力で駆けて来る。手入れを受けていないはずなのに、傷を負っているとは思えないほどの素早さで猛進してくる。
 即座に前へ進み出て、振るわれてきた白い太刀を迎え撃ったのは、

「――あんたの相手は俺だぜ……鶴丸!」
「薬研っ……!」

 同時に、大倶利伽羅が走り出し、その前に長谷部が速攻で回り込んだ。下から振り上げる形で袈裟懸けに斬りかかる。大倶利伽羅が突き出した刃と打ち合いになり、火花が散った。
 月に照らされた彼の刃に掘られているはずの倶利伽羅龍も、錆でよく見えなくなっている。
 そんな刀剣の状態を目にすると、眉根を寄せてから、勢いよく弾き返す。続けざまに逆袈裟に斬りかかると、大倶利伽羅は地面を蹴って距離を取った。蹴った拍子に散る雪を払い除けて、追走する。

「大倶利伽羅……」
「…………」

 そして。
 獅子王は太刀を両手に構え、牽制する。視線の先は、一人、残った燭台切光忠。彼は依然として顔を上げない。どんな表情をしているのか。ただ、分かっていることは……

(……何だよ、このピリピリした感覚は……)

 つ、と汗が一筋、頬を滑り落ちていく。
 肩で鵺が震えている。唸っているからでもあるが、それが攻撃的な威嚇のためではなく、どちらかというと……「来るな」という、怯えによる、防衛目的のものに思えた。

 長く、本丸を見回っていた獅子王だからこそ知っていた惨状だ。

 鶴丸は確かに、審神者に対して不信感を露わにしていた。初めて審神者が、大広間に挨拶で顔を出した際も、我先にと刀を突き出した内の一人は、彼だっただろう。「死ね、人間」と叫んだ一人でもあったはずだ。
 だが、もっと状態が悪い存在は、彼のすぐ傍にいた。言葉を語らず、目は伏せたまま、しかし、どんどん憎しみの感情を蓄積させていった刀剣男士。

 ――ザクッ。

 思考に耽っていたのを中断する。燭台切の黒い上半身が、ゆらりと揺れた。足が、一歩前に出ている。
 獅子王は唾を飲み込む。

(油断するな……どうなるか、分からないんだぞ……)

 本来なら、同じ太刀である彼は、短刀以上の速度で近寄って来るなんて有り得ないだろう。だが、その油断は命取りになる、と教えてもらった。ただの太刀だと思うなと、あの子供は言った。神気も霊力もめちゃくちゃの刀剣男士の能力は化物だとも。

(……でも、もしまだ言葉が届いたら……)

 燭台切との間には、充分な距離がある。抜刀だってしていない。もう彼の声を長らく聞いていない気がするが、もしかしたら、こちらの考え過ぎで。少し穢れが溜まり過ぎているだけで、実際は何も変わらない、獅子王たちのよく知る、気性は温厚ともいえる〝燭台切光忠〟であったなら……

「……なあ。燭台――」

 ――風が震えた。

 気付いたら、目の前に刀の切っ先が、あった。

「――――っ!!?」

 咄嗟に体を逸らしていた。右に避けたか、左に避けたか、自分でもわからなかった。だが、左頬が急激に熱を持ち濡れたことで、己は今、右に避けたのだと遅れて理解する。
 追撃は止まらない。
 大きな黒い手が迫り、顔面を掴まんと指を大きく広がる。銀色の目が、呆けた様にそれを見つめた。が、

「       !」

 鵺が耳元で嘶いた。形容しがたくもいつもと明らかに違う、その空気を割く様な鳴き声は、警告であると瞬時に判断し、また間一髪のところで身を引く。
 一瞬前まで獅子王の胴があった空間に、鋭い刺突が繰り出された。
 跳ね返る様に距離をとり、どうにか一足の間合いを取る。そうして、燭台切を凝視する。切れた頬から流れ出る血を拭う心的余裕もない。

「……まじか……」

 化物という言葉を反芻する。
 太刀は、刀の大きさも相まって、短刀や苦無ほどの速度をもたないはずだ。速度があったところで、近すぎる間合いは短刀や苦無と比べて大振りな得物では不利にはたらく。懐に飛び込み先制することに重きを置く刀とは、相反する戦い方だ。
 なのに、この速さは何だ?

「――っ!」

 燭台切の剣先がぶれた。――来る!

「っだあああ!」

 刀を逆手に持ち替えて、体を大きくねじり、勢いよく横へと振るった。びゅん、と風を切る音が届いたのとほぼ同時に金属音が響き渡った。
 びりびりと刀身から伝わってくる衝撃に掌が痺れる。麻痺している場合ではないと思い、歯を食いしばって堪えた。防戦一方ではどうにもならないことを悟り、燭台切の斬撃を横へ流すと、無防備に晒された脇腹に蹴りを放った。
 燭台切は倒れはしないものの、身体をくの字に曲げて数歩後退る。俯いていて表情は見えないが、腹を抑えていた。

(効かないわけじゃないのか)

 痛覚もなくなったわけではないようだ。ただし、呻き声も、何もないのが気になる。
 頬から流れ出る血は汗と一緒になって幾度も滴り落ちていた。

 まだ問答で何とかなる部分があるのではと期待していたことを、ここに至って思い知る。詰めていた息を、一気に吐き出した。その吐息も震えている。

「……っ何でだよ……」

 剣戟の音がする。薬研と鶴丸が、長谷部と大倶利伽羅が、容赦のない斬り合いをしている。
 仲間と斬り合う覚悟はしていて、大丈夫だと少年に笑って見せた。だが、実際の戦いはこんなにも辛い。太刀を握る手がかたかたと震えた。少年に出会う前なら、鍔鳴りが起きていただろうが、今は静かなものだ。
 伊達の刀達は、振るう度に、あんなにも音が鳴っている。やはり、刀本体にかなり手入れが全くされていない証拠だ。
 手負いの仲間に本気で斬りかからなければならないこの状況を、どうして穏便に打開できないのか。

 審神者への憎しみで刀を振るう彼らも、皆、獅子王たちを助けるためにこんな無茶をしている。審神者を成敗するために。
 獅子王たちも、手入れをされないまま今日まで来ている彼らを助けるために、刀を握ることを選んだ。審神者の手入れを受けてもらうために。

 審神者の信頼を勝ち得ることが今回の目的ではない。最大の目的は、折れないように手入れを施す事だった。誰よりも、とうの審神者がそれを望んでいた。
 お互いを思いやっているのに、刃を閃かすこの状況は――

「……っ何で俺達は闘ってんだよ!! 馬鹿野郎!!!」

 月の浮かぶ夜空に響いた獅子王の叫びに応えたのは、やはり鋭い斬撃だった。

   ***

 人は目に感情が宿り易いもので、「目は口ほどにものをいう」という表現は随分と上手い。
 人の形をとっている刀剣男士も例外ではないが、ばさばさとした前髪で、目が隠れている。さっきからずっとそうだ。刃を重ねている間も、目を見ようとしても、見られまいとしているのか顔を背けられてしまう。
 長谷部は、お互いが弾き返して距離が開いてから、一度刀を下ろした。前に立つ彼を見つめていると、漸く、大倶利伽羅も前髪の隙間からこちらを窺うように視線を向けてきた。

 一瞬でも戦いをやめると、周りの刀と刀が擦れる音が、妙にはっきりと聞こえた。月光を反射した積雪がきらきらと光り、真夜中であるにも関わらず、いつもよりも明るく感じられる。

「……本当に戦うのか? 大倶利伽羅」
「………」
「……これがお前の言っていた、〝お前のやり方〟か」

 長谷部の問いには答えない。
 吐く息が白いおかげで呼吸していることは分かるが、遠目にみていると大倶利伽羅は生気が乏しい。ただ、両手遣いに鞘を握り、腰を落として構えている姿は、隙がない。

「構えろ」
「俺の質問に答えろ」
「………構えろと、忠告はした」
「大倶利伽羅!」
「慣れ合うつもりは――ない!」

 勢いよく地面を踏み切り、一気に間合いを詰めて来る。
 舌打ちをして、長谷部は膝を曲げて構えると、踏ん張った状態で一気に下から掬いあげるように刃を振るった。振り下ろされてきた刀を受け、そのままガリガリと音を鳴らしながら鍔の方へ刃を滑らせる。
 鍔迫り合いに持ち込み、至近距離で顔を突き合わせた。

「本当にお前はあの方を信じてないのか!」
「……」
「お前は主を見ただろう、その目で。確かに! お前は何を見ていた!?」
「……勝手にっ……俺が何を見ていたか、語るなっ!!」

 大倶利伽羅の瞳孔が開いた。その目は、さながら龍のようだ。
 刃を押し合いながら、長谷部は眉根を寄せた。本気で、叩き斬ろうとしている。自然にこちらも力を込める他ない。
 先も、三人と対峙していたときに感じた殺気は、大倶利伽羅も例外ではなかった。腑に落ちなかった。鶴丸は勿論のこと、燭台切も穢れが酷くなっていたので、審神者に憎しみを強く募らせていることは明白だ。
 だが、この打刀は、今まで姿を見かけた際に、審神者に危害を与える素振りは微塵も見せなかった。だから困惑したのだ。

「大倶利伽羅っ……お前を信じている奴もいるんだ!! それをお前はっ!!」

 思い出されるのは、今回の作戦を決行する直前のことだ。
 後藤が、ストラを掴んで引いた。いざ戦場へと集中力を高めていたところだったので酷く驚いた。

『大倶利伽羅のこと。頼むぜ、長谷部』
 

 後藤も、しばしば大倶利伽羅と接触していたことは聞いている。だから、大倶利伽羅は理解してくれると信じていたのだろう。
 しかし、問われた彼は「知るか」と一言で切って捨て、鍔迫り合いから突然刀を引いた。長谷部がたたらを踏むと、その額目がけて唐竹割りの一撃が放たれる。

「ッ!!」

 立ってからでは間に合わない。
 膝をついて刀を眼前に掲げ、叩き込まれる衝撃を受け流す。そのまま、下から斜めに斬り上げる様に振り上げた。同時に膝をついていないほうの足を大きく前へ。
 咄嗟に大倶利伽羅は刀を正面に持ってきてまともに受けた。切れ長の目が細くなり、表情が歪む。微かに上体が反れた。

「大倶利伽羅。お前は、何のつもりで戦っている」
「……」
「だんまりか」

 刀を弾き返す。大倶利伽羅が少し後ろへと跳ねて、また距離ができた。

 ――ドサッ。

 長谷部は目を瞠る。
 積雪が真っ赤に染まり、その血の温かさが雪を溶かしていくように思えた。大倶利伽羅が、膝から崩れ落ちた。倒れたのではないが、己の刀を支えにどうにか倒れ込まないようにしているだけの状態だった。
 驚いたのは、そうなったことにではなく、長谷部の刀に血がついていなかったこと。今斬られたのではなく、元々あった傷口が、更に開いたのだろう。

「……語ることはない」

 唇から流れ出る血に絶句する。言葉を発する度に見える歯は、血で赤い。

「俺は、一人で戦う……それでいい……!」
「……!」

 決意に満ちた瞳は、無駄に真っ直ぐで迷いがない。やっていることは、審神者を様子見したり、審神者に心を許しつつあるのかと思えばこうして対立したり、迷いだらけだ。
 しかし長谷部は、一つだけ気付く。

 
(それ〝が〟いいじゃなく、か)
 

 変なところで素直だ。自分と戦うことは決して目的とするところではないのだろう。彼は今、鶴丸と、燭台切と共に、戦っているはずなのだ。
 大倶利伽羅は全く別の何かと戦っている。

「……分かった。だが俺にも――主命がある」

 誰が主命なんかやった、と幼い声が脳内で反論してきた気がする。一人、小さく笑った。脳内の想像ですら、刀剣男士を従えることを良しとしないのだから、参ったものだ。
 でも頼んでくれたでしょう、あなたは。
 俺達に、この伊達の刀のことを。

「悪いが、勝たせてもらう。大倶利伽羅」

   ***

「ははっ! 遅い遅い。どうした薬研。あの審神者に手入れをされて、充分に動けるはずじゃないのかい?」

 鶴丸の斬撃を躱して、一部溶けた雪の間から露出している敷石の上に着地、とんとんと軽快な足音を立てて距離を取った。
 微妙な間合いは太刀の間合いになる。自分に有利な近さの間合いに詰めることは、短刀の薬研ならば存外簡単に実現できるものだが、だからと言って実行する気にはなれなかった。

(こりゃ、隙がねえな、どうにも)

 ぷひゅう、と胸に溜まった息を、頬を膨らませて長く吐く。
 必ず先制して、距離を詰め、己の間合い、即ち懐に飛び込み刃を振るうことが、短刀の基本の戦い方で、基本に則った立ち回りをしたはずだった。

(まさか、捨て身も捨て身とは思わねえじゃねえか)

 短刀を見下ろす。刃は血で濡れていた。正真正銘、鶴丸国永の血である。だが、この流血は薬研の想定したものではなかった。
 懐に飛び込み、刺突を繰り出そうとした薬研の刃を、抵抗なく素手で掴み、阻んだのだ。
 刀剣男士が傷つくことを嫌がった審神者の気持ちも頭の隅にあったことは否定しない。だから、手合せの際のように、本気の刺突とはいえ、寸でのところで止めるつもりだった。速さも殺したつもりはない。刀の動きを止めるよりも早くそれを阻んだ鶴丸の掌は、相当に深く傷つけられたはずだ。だが、痛そうにした様子も、怯んだ様子もなく、笑うだけ。

「……薬研。こうして戦っても、審神者の味方をするのかい」
「……あんたこそ、その手じゃ刀振るうのも難しいだろ。諦めて降参したらどうだ」
「ははっ。つくづく驚きだな。誰に物を言ってるんだい? この程度の傷、ないのと同じだ」
「…………それこそ、驚いたぜ。他の奴らよりも怪我の程度は分かる俺だから言えることだが、あんた、本当なら折れててもおかしくない怪我してるだろ。血の匂いが酷い」
「嗚呼。どうも、『主は俺の紅白染まった姿が大層お気に召されたらしくてな』?」

 気持ち悪いほどに、何度も笑う。目はちっとも笑っていないのに高笑いする鶴丸は狂気じみていた。全然笑える内容でないのにも関わらず、白い太刀はよく笑う。笑い声だけは妙に愉快そうに。

「今の主と、過去の主をごっちゃにするのは考え物だぜ、鶴丸の旦那。あんたが紅白に染まってるのを求めたのは、過去の主のはずだ」
「……」

 鶴丸の笑みが、唐突に消える。
 肩に刀を担ぎ、底冷えした声を発する。

「薬研よ。審神者は審神者だ。忘れたか? 今までの所行を」
「忘れるかよ。忘れてない上で冷静に言ってる」
「……へえ?」

 担いだ刀を今度は、その場で軽く振る。弄ぶ様に、かちゃかちゃと音を鳴らしながら、己の刃文を眺める。白い睫毛がぴくりと動き、視線を上げた。
 薬研は注意深く、鶴丸を観察し――双眸を丸くする。鶴丸が、片手に持っている鞘と抜き身の刀を見比べたかと思えば、納刀したのだ。戦闘の場面において、理解しがたい行動。

(旦那は、どういうつもりだ……)

 刀を納めたまま、鶴丸は一歩ずつ確実に歩み寄って来る。丸腰の相手に刀を向けていいものか迷い、納刀には至らないものの警戒心を強めた。
 一歩が大きい。どんどん距離が狭くなる。納刀しているから、いきなり太刀の間合いで斬られることはないだろう。己は今は丸腰だ、ということを示すかのように、わざとらしく両手を広げながら近づいてくる。明らかに何かを企んでいるが、全く予想できない手前、背を向けて逃げ出すのも躊躇われる。思えば、驚きを追求する鶴丸のことだ。もしや足元に罠が――?

「いいのかい、薬研。そのまま後ろに下がって。危ないぜ?」
「――!!」

 考えていた矢先だったため、咄嗟に足元を見下ろし――

「がッ!?」

 薬研の視線が外れると同時に、足音の間隔が一気に狭くなった。慌てて顔を上げる――が、遅かった。咄嗟に見たのは、刀を握る手。そちらは納刀したまま握るのみだった。刀を握っていない方の手が、首に向かって伸びた。完全に意識の外にあった手の動きは、避ける、という判断を下すのを待ってはくれない。

 鶴丸の大きな掌は、いともたやすく、薬研の細い首を掴んだ。そして、軽々と持ち上げる。

「く、そ……!」

 咄嗟に、首にかかっている手に刃を突き立てようと、短刀の柄を握り直す。が。

(………っ!)

 脳裏にちらつく。
 刀剣男士同士が傷つけあう事を、頑なに嫌がった、あの少年の姿。

「ぐっ、あ……!」

 みしみしと、首の骨がきしむ音がする。なんて力してんだ鶴丸の旦那は、と必死に口を開いて酸素を取り込む。律儀にも、人間と同じ体構造で顕現しているその身は、頭は、このままでは窒息死するぞと警鐘を鳴らしている。

「……もういい加減、目が覚めただろう、薬研」

 手の力は緩めずに、底冷えした声で繰り返す。金色の瞳を細め、恐るべき力で首を絞めているとは思えないほど静かに語りかける。

「これ以上、もう仲間を失いたくないぞ、俺は。薬研。俺達の敵は、誰だ? 少なくとも俺達同士では無いはずだ。そうだろう?」

 首が絞まっていて、ただ全く声を出せないほどではない。そう言う意味では問答するために、加減してくれているようだ。とは言っても、首に食い込む細い指を、どうにか解こうともがくが、びくともしない。宙吊りになっている足を懸命にばたつかせ、抗う。

「薬研」
「……っ……は……っ……目、覚ませは、どっち、なんだか……!」
「……何?」

 審神者に絆されていると言われれば、そうなのだろう。
 前任の審神者の所行を忘れたのかと先ほども聞かれたが、忘れるわけがない。絶対に許さないと断言できる。今の審神者がその行動をしないと言い切れるのかと聞かれれば、それも否だ。人間に「絶対」など存在しない。「絶対に覆らない」と信じられていた織田信長の天下が、あの日、一瞬で覆ったように。

 人間に使われていたからこそ、存在するモノ。だから人間の不確実性など、分かり切ったことだ。ましてや鶴丸国永など、長い時間、沢山の人の手を渡り、沢山の人生を見てきたはずで、誰よりも人間の不確実性を感じてきたはずなのだ。

 だから本当は分かっているはずだ。
 新しい審神者が、前任と同じように、「絶対に」あの所行を行うなど、それもまた有り得ないということを。

「……鶴丸っ!!」

 片手に握る短刀を落とし、首を絞めてくる手に己の両手を掛け、渾身の力で緩めさせるように掌をこじ開ける。そして、叫ぶ。

「あんたに大将は殺させねえし、殺せねえ!」

 だってあんたは本当はもっと優しい刀だ。何よりあの子供が――そう信じているのだ。ずっと同じ本丸にいた、俺達が信じなくてどうする。

 目を見開いた鶴丸。突然叫ばれて、驚いたのだろうか。微かに、しかし確かに、手の力が緩んだ。
 好機だと言わんばかりに、薬研は全身の力を使って体をねじった。はっとした鶴丸に再度首を掴まれそうになる。彼の手は、薬研の襟元を強引に引っ張ったが、全力で動く薬研は強引にその手から襟も引き抜いた。引っ掻かれたというよりも、指先が引っ掛かってしまったという形で、喉元に爪痕が残る。
 そうして、やっとの思いで白い太刀の掌から脱出した。地に足を付けると同時に屈み、短刀を拾い上げて即座にその場を離れる。

 鶴丸から少し距離を取ったところで膝をつき、派手に噎せた。急に元通り酸素を吸えるようになると、冷たい空気による喉への刺激も感じた。

(一瞬だが死ぬかと思った……!)

 今となっては、随分と昔のことになってしまったが、鶴丸はあの決定的なことが起きるまで、努めて明るく振舞い、皆を元気づけていた。
 今の鶴丸の方が、〝例外〟なのだ。ましてや、仲間である刀剣男士に刃を向けるなど、以前は予想だにしない。それだけ、彼は今、心に傷を負っている。

 何度も咳き込んだせいで、余計に息が上がった。
 肩で呼吸をしながら顔を上げ、首を絞められたことで口の端に微かに垂れていた涎を拭った。

 鶴丸は、薬研の首を絞めていた掌をじっと見下ろしながら、息を吐いた。真っ白に塗られた吐息は、ゆらりと空気中をひとたび漂い、消える。それを合図のように、

「………本当に、おかしくなってしまったんだな、薬研。ここまで酷いとは思わなかった」

 広げていた掌を握り締めて、忌々し気に呟く。呟きながら、納刀していた刀を再び抜いた。
 訴えても、簡単に分かってくれるわけはない。承知の上で薬研は言葉を返す。

「悪いな。だが、おかしくなんかなってねえってのは、あの人と関わってみない限り分からねえだろうぜ。人間に〝絶対〟がねえのは、あんたもよく知ってるはずだ」
「違う。薬研、きみはもう壊れている。分かるだろう? 今回は〝絶対〟だ。命の危機にさらされてもなお、審神者を庇おうとする。前のきみなら有り得ないことだぜ。これが一期一振のことなら頷けるさ。だが、今回は審神者のこと。しかも、その審神者とは関わってたったの一週間程度だ。その程度の時間で命を懸けられるほどの信頼を得られる審神者が、今更いると思うかい。きみは、おかしくなっているから、頑なにそう言うのさ」
「………」

 おかしくなった。壊れている。
 鶴丸は頻りにそう告げるが、今まで沢山の人生を見つめてきた鶴丸が、誰よりも人間を理解しているであろうに〝絶対〟という有り得ない言葉を使う時点で……

「……鶴丸。おかしくなってるのは……」
「俺じゃない」

 握った拳を震わせ、刀を持つ手も震わせる。鈨がカタカタと音を立てる。きしきしと、刃が悲鳴を上げている様に見えた。刀剣男士自身が真っ赤な血を流し続け、全身を汚していることからも明らかで。手入れを受けていない本体は、誰の目で見ても分かるほどにぼろぼろだ。
 顔を上げる。その鶴丸の表情は、やはり、憎しみと怒りだけ――

「……俺は、おかしくないっ……!」

 ――だけ、ではなく。
 悲しみと、やるせなさ。そして……どうして、という疑念で、歪んでいた。眉間に深い皺を刻み、歯を食いしばっている。

 鶴丸の視線が、真直ぐに注がれていた。一体どこを見ているのかと、視線を追いかけてみる。
 行き着いた先は、首から垂れ下がっている――お守りだった。

「……!」

 邪魔にならないように首からかけて内側に入れていたのだが、先ほど首を絞めようとした鶴丸の手に引っ掛かって出てきてしまったのだろう。

(……嗚呼、そうか)

 彼らは刀剣男士だ。刀剣男士としての必要な知識は、いずれも顕現されたその瞬間から与えられる。
 だから知らないわけがない。たとえ、前任の審神者が一度たりともお守りを持っているのを見た事がなくてもだ。

 ひとつ。お守りとは、戦闘で折られるような手傷を負ったとしても、身代わりになってくれ、傷の回復が認められるものであるということ。
 ふたつ。お守りには二種類あり、身代わりになってくれるだけのものと、身代わりだけにとどまらず、その中に封じ込められた霊力によって瞬時に完全なる手入れと同等の回復が認められるものがあるということ。

「……これ、気になるか?」
「………!」

 みっつ。

「知ってるだろ。これは審神者の特権で購入することができるもんで……政府からの基本支給品には、存在しないものだ」
「審神者が、刀剣のためにわざわざ金を? きみ達を誑かすために、そこまでするんだな」

 そっと薬研は息を吐く。溜息だと分からないように。
 どうしたらわかってくれるもんかな
 夜空を仰ぎ見ながら、口の中で言葉を転がした。だが、自分にしか分からない程の小さな呟きは、とことんやりあうしかないんだよなきっと、という言葉を、簡単に続けて転がした。

「鶴丸。じゃあ、この際、誑かされてるって事で構わねえ。だがな」

 首に下がるお守りを握り、迷いなく白い太刀を見返した。

「例え誑かすためでも、俺達の為に金を使い、霊力を使い、尽くしてくれてんなら。俺はそれに報いたい」
「薬研ッ……!」
「俺はこれ以上の問答は不毛とみなしたぜ」

 こうなったら手加減は無しだ。
 此方ももう、今更後には退けないし、あの子供を信じていることは確固たる事実。これを曲げる気はない。薬研藤四郎は、あの子供を「主」として認めたのだ。

 主のために刀を振るう。
 刀剣男士として、当然すぎる在り方。

 表情を歪め、正面で刀を構える鶴丸も、本気で薬研を心配しているのだろう。
 不思議なことだが、薬研自身、鶴丸が己を折ろうと……殺そうとしているとは、微塵も思わなかった。首を絞められて、死ぬかも、と思っても、殺されるかも、とは思わなかった。

 どうして戦うのか、等と問い出したらキリがない。
 戦わないと分かり合えないから、戦う。それだけだ。

「ぶっすりいかせてもらうぜ……鶴丸国永!」

 言うが早いか、雄叫びを上げながら薬研が飛びかかる。一気に間合いを詰めた彼に目を見開きつつ、短刀を振るう腕を掴むと地面に強引に叩きつけた。
 しかし薬研は鶴丸の腕を掴み返し、腹筋で海老のように体を跳ね上げる。勢いをつけて、上段回し蹴りの如く足を側頭部に見舞う。鶴丸も咄嗟に片手に持つ鞘を掲げて蹴り技を受け止める。そちらを耐えるために抑えつける手の方の力が、微々たるものだが緩んだのだろう。ぱぁん、と音を立てながら手を払い除けて、鶴丸の下から滑り出る。

「まだだ!!」
「っ!!」

 叫びながら間髪入れず肉薄する。止む暇もなく響く金属音に、鶴丸はひたすら短い刃を受け止め弾き、何度も斬り結ぶ。その度に、薬研の胸の前で激しく揺れるお守りが、目障りだった。
 あまりの激しさに、速さに、残像が見える。半分以上、刀としての本能がどうにか、反射的に薬研の斬撃を受け流しているようだった。思わず、歯を食いしばる。
 先ほどとは全然違う速さに鶴丸は内心舌を巻いた。初めて見たかもしれない。万全の状態の、薬研藤四郎の本気の動きを。

 斬り結ぶ間も、嫌でも見えていた。美しい薬研の刃を。刃毀れも何もない――完璧な、刀。
 刀剣男士自身が、ここまで回復させることは無理だ。なら、誰がやったか。

(嘘だ)

 弾き返しながら、心の中で必死に呟く。

(有り得ない)

 真っ直ぐな藤色の目を見返す。怖いほどに真っ直ぐで、本当の気持ちで薬研は鶴丸と戦っているのが分かってしまう目だ。
 嘘だ、ともう一度繰り返す。
 鶴丸の中で、審神者は絶対的に悪だった。これが自分の主だなんて、と何度絶望したか知れない。今まで多くの人の手を渡って来て、刀として振るわれるのではなく鑑賞されることがほとんどになって。退屈だなと思っていたら、「人」の形で顕現されて、自ら動くことができるようになって。わくわくした。退屈だった世界が一瞬にして広がったような気がした。
 しかし己が呼び出された先は――地獄だった。

(審神者は悪じゃない? ふざけたことを)

 もう、審神者に期待することは諦めてしまった。そして、審神者に対して募った怒りや憎しみは、全ての人間に向いた。これまで渡り歩いてきた人間も、きっと本当は同じような存在だったのだろう。人に良いように使われることに、今更ながらぞっとした。
 しかし、審神者のために刃を振るう目の前の短刀は、こんなに迷いがなく、美しい。

(薬研は騙されているに決まってるんだ)

 肉薄する薬研に、即座に後退って短刀の間合いから逃れる。逃がすか、と見かけによらず低い声が鋭く飛ぶ。
 迷いのない彼の姿が、こんなにも羨ましいだなんて、嘘だ。

(そうだ。薬研は騙されている。こんな)

 猛進してくる薬研が、唐突に鶴丸の視界から消えた。否、消えたのではない。薬研藤四郎という刀剣男士は確かにそこにいるが、鶴丸は薬研を注視することをやめていた。
 注がれる視線は――彼の胸元で揺れる、お守り。

(――こんなものがあるからだ……!)

 審神者が本当にお守りを用意するわけがない。お守りは審神者にとって金がかかるものだ。刀剣男士を折ることに抵抗がない審神者が、折れた刀剣男士を助けるためのものに金をかけるわけがない。ましてや、顕現方法が決して難しくない短刀の薬研藤四郎『なんか』に、お守りを渡すはずなどない。
 このお守りは、偽物に決まっているのだ。
 鶴丸の瞳孔が開く。歯を食いしばり過ぎて、顎の骨が軋む。

「ずえりゃああああッ!!!」

 咆哮と共に渾身の刺突。
 しかしそれすら、鶴丸の視界に入って来なかった。無意識に手を伸ばし、短刀の間合いで間近になった薬研藤四郎の、首に下がるそれを掴む。そして、力任せに引っ張った。
 強引に首を引っ張られた形になった薬研の口から、咆哮から打って変わり、蛙の潰れた様な声が出た。つんのめってバランスを崩した短刀の後頭部が、無防備に差し出される。

(しまった―――……!)

 急所を晒している事実に、冷たい汗が頬を伝う。
 鶴丸は夢中になって、お守りの紐を素早く刀で切ると、そのまま薬研の後頭部に柄頭を叩きこんだ。がつん、と大きな音が響き、機敏であった薬研の動きが突然、止まる。小さい体躯が力なく倒れ込んだ。

「ぐっ――……つ……るま……」

 起き上がろうと、必死に腕に力を込める。横目で鶴丸を仰ぎ見る。その目もまた闘志に燃え滾っていて、しかし、次第に焦点が定まらなくなると、瞼を下ろし、動かなくなった。
 鶴丸は荒く息を吐いた。手に握っている薬研のお守りを徐に見下ろす。見下ろして――息を呑んだ。
 乱暴に握ったお守りの布が破け、中から粉の様な黄金色の光が零れていた。それは、ゆっくりと鶴丸の掌の傷にしみ込んでいき、

「…………!」

 ぱっくりと薬研の刃により裂けていた掌の傷が、塞がった。
 全身の傷が治るまでには至らないが、確かに掌にあった傷は、跡形もない。

「……は、はは……驚いた……本物の、お守りじゃないか……」

 破けたお守りは、それきり沈黙する。きっと、破けてしまった関係上、〝折れた〟わけでもないのに「誤作動的」に、効力を発揮したのだろう。
 膝が笑っていて、ほどなく崩れ落ちる様に座り込んだ。倒れている薬研を見つめながら、小さく笑う。

「…………壊れていたのは、俺の方だったか……」

 顔を覆う。参ったな、と呟いても、薬研はぴくりとも反応しない。しかし存在を保っているので、折れたわけではなく気を失っただけであることは明白だった。人間ではなく刀剣男士なのだから、後頭部に一発、強めの打撃がきたところで死ぬというものでもないだろう。
 そっと、小さな頭を手で撫でる。そんなことすら長らくやってきていないなと気が付いた。

「……おめでとう、薬研藤四郎。――きみの勝ちだ」

 刀剣男士となって、初めて塞がった傷は、ひどく熱く感じられた。

   ***

「燭台切……」

 刃を交えるばかりで、目の前の太刀からは、刀剣男士らしい反応が何もないことにどんどん嫌な予感が膨らむ。
 何か、答えてくれるものはないか。燭台切が、答えてくれる言葉は。
 何か。何か――

 きゅっと唇を噛み締めてから、相手の斬撃を受け止めながら、慎重に口を開く。

「俺……話したぜ」

 ひとつ、息を吸って。

「太鼓鐘のこと。今の審神者に」

 燭台切の肩が揺れる。隻眼が妖しく光り、心なしか、赤に染まっている。淀んだ色の、赤だ。

(反応した!)

 明らかに重くなった斬撃を、真正面から迎え打つ。手首に強く響く震動に、歯を食いしばる。ああ、先ほどまでも強烈だったのに、まだこんなにも力を出せるだなんて。
 それだけ獅子王の言葉が許せなかったということだ。
 でも、

「聞こえるんだな! 燭台切!!!」

 刃を交えている間、近くなった顔に大声で叫んだ。ぎらついた目が、こちらに向く。焦点の定まらなかった瞳は、はっきりと獅子王を映していた。

「聞こえてるなら無視してるんじゃねえよ! 俺は審神者に全部話した!」

 唾を飛ばしながら、言葉も選ばずに必死に大声を出す。絶対にこの距離なら聞こえるはずだ。しかし心まで届くかは分からない。
 食いしばる歯が見える。先ほどまでよりも明らかに、反応がある。虚ろで、まるで中が空っぽかのように振舞っていたのが心配でたまらなかったが――
 まだ、救いがある。燭台切は、何も分からなくなっているわけではないのだ。

「鶴丸も、大倶利伽羅も、燭台切のことも……太鼓鐘のことも全部話した! でもあの審神者は、絶対に助けてくれる!!!」
「ドウシテ?」

 目の前の燭台切が、口を開いた。そこから零れた声。
 無機質で、まるで機械だ。どんな感情が乗っているのかもさっぱり分からない、およそ生きている者が発せるものではない。
 動いて、生きて、喋っているはずなのに、瞬時にそう感じた自分にゾッとした。

「ドウシテ僕ラカラ奪ウノ?」

 喋る口の中に見えるのは、鋭い牙。元々、顕現したときから獅子王に生えている八重歯とは、鋭さが格段に違う。
 歴史修正主義者と同じ……獣のような鋭さだ。

「……燭台切……」

 ずっと……獅子王は、皆が堕ちてしまわないように、審神者を殺してしまわないように、ただ、同じ刀剣男士である皆を護るため、ずっと、新しい審神者の監視をした。

 けれど。結果はどうだろう。

 今、本丸内の一部屋で眠り続けている宗三左文字と、鯰尾藤四郎は、元々審神者に穢れた霊力を注がれたことで、無理矢理堕ちるように仕向けられた。今それを食い止められているのは、あの子供が穢れを祓い、清め、手入れを施したからだ。
 そして、目の前の燭台切光忠は。自ら、堕ちようとしている。
 彼は、時間を巻き戻し、きっと前任の審神者を、あの瞬間に殺す事を心の底から、望んでいる。今は、その手始めに過ぎない。

 何故なら、今この本丸を統治する〝審神者〟を排除しないことには、勝手に時代を飛ぶことなどできないから。

 ――燭台切光忠は。

「獅子王モ、奪ウノカイ?」

 ――太鼓鐘貞宗の自害を、なかったことにしようとしているのだ。