刀剣嫌いな少年の話 捌
冬の太陽ほど、そっけなく、あっけなく落ちていくものはない。
全体が闇夜に沈んだのはもう随分前だった。
審神者の部屋の中にある時計は、審神者が代わってもなお、かつてと変わらず正しく時を刻んでいた。
誰かと会話をしているときは、あるいは何かをしているときは、大して気にならない秒針の音。その音が、いやに大きな音で響くのを、感じていた。気配を殺すべく物音も立てず、また、目標も膨らんだ布団から出る素振りを見せない。乾いた唇を舐めて、息を潜める。
秒針は、文字盤に刻まれた十二の数字を指し示した。同時に、カチリ、と幾分か重い音をもって、全ての針が同じ数字を指し示し、揃う。
――刹那。
ただでさえ静かであったその部屋が、まるで時を止めたように無音になったのは、己の耳が時計の秒針の音をも遮断したせいなのか。
そして。
天井が豪快に音を立てて、崩れた。否、それは、そこに降り立った一人の影が、崩したと見るのが正解なのだろう。
息をつく間もなく、木屑と埃に塗れた部屋の中央の布団に躍りかかった。暗闇の中で一瞬掲げられたものは、打刀と呼ぶには短く、短刀と呼ぶには長い。障子の隙間から入り込んできている微かな月光を、鈍い色で反射する。既にその刃は錆び、鋭利なものと謳うには汚れすぎている。
しかし、その汚れはまるで憎悪を体現するかの如く、鋭利でなくとも物々しい雰囲気を宿し、鋭さに欠けても人一人を殺すには十分な力を有しているように見えた。
それは、躊躇うことなく、布団の主目がけて、振り下ろされ――
信じられない、という思いで目を見開き、此方を見つめる幼い顔。
驚きの表情は、見る間に苦痛に歪み、布団を血で鮮やかな紅に染め上げていく……そんなところまで、想像することは容易だったというのに、
――――ガキン!!
信じられない、という思い出目を見開くのは、己の方だった。
まさか、肉を断ち切る音ではなく、金属音が返ってくるなんて、思いもよらなかった。
……しかも。
その相手が、旧知の者だったなら――――尚更だ。
「……あーもう。埃っぽ……まーたこの服、洗濯に出さなきゃじゃん。手入れじゃ刀とかで切れたとこ以外、直らないんだよ。
―――堀川」
脇差・堀川国広を受け止めたまま、赤い瞳で、加州清光は見開かれている浅葱色の目を、見返した。
情報の処理は、お世辞にも早かったとは言えないだろう。それでも、状況の把握が追い付くまで、刀を払われて突かれる、斬られることがなかったのは、加州が待ってくれていたからなのか。
……余裕のつもりか。
表情を歪める。身体が頭の方から、一気に火照っていくのを感じた。これは、戦場で敵を前にした興奮とは、また違う感覚だ。
渾身の己の一太刀を防がれたこと。それが悔しいという思いは、当然、ある。
しかし、それ以上に、布団の中で寝ていた者が、自分が想定した相手とは違ったこと。その相手が、加州清光であったこと。
「…………っ!」
歯を食いしばる。
歪んだ表情は、見る間に鬼の形相と化した。
かちあったままの刃が鋭く弾き返され、堀川は後ろに跳び退った。 その間に加州も布団から転がり出ると、部屋の障子を全開にする。冬真っ只中の庭は、珍しいほど明るい月光を積雪が受けて、反射し、いっとう美しく輝いている。
外を見やって、周りに障害物が少ないことを確認してから堀川に視線を戻す。隠れるためだったとはいえ、視界の敷いてある布団が少々邪魔だ。
加州自身も決して室内戦を苦手としていないし、劣るなどと考えているつもりもないが、やはり刀の性質上、小回りが利く堀川に対してはどうしても分が悪いことは認めるしかないだろう。
「吃驚した。何だか久しぶりですね、加州さん。随分、元気になったみたいで」
「そうね。審神者さんの手入れのおかげで、ピンピンしてるよ」
堀川の瞳が剣呑に帯びるのを眺めつつ、加州はヒールの高い靴で、足元の布団を軽く蹴飛ばしてどかした。そんなドジは踏むわけがない、と思っているが、うっかり足がとられそうなものは隅にやっておくが吉だ。
「よく分かりましたね。僕が来るって」
「闇討ち、暗殺、お手の物って言ったら、堀川の出番でしょ」
できるだけ、昔のように。軽い調子で言葉を返す。
「――分かっていて、僕の相手に加州さんを選んだのは、やっぱりあの人間なんでしょう?」
よりにもよって、よく知る相手を〝敵〟としてぶつけるなんて。相変わらず趣味の悪い人間ですね。土方さんは例え手を汚しても、こんなこと、絶対にしなかったのに。
人の好さそうな表情は見る影もなく、憎悪を色濃く浮かべながら吐き捨てる。
「残念でした。今ここに俺がいるのは、俺の意思だよ」
びきっと、脇差を持つ彼のこめかみに、青筋が浮かぶ。
加州はその様子に、声には出さずに感嘆した。
(流石、土方さんの刀だよ)
その怒った表情は、かの新撰組・鬼の局長と知られる土方歳三と、よく似ていた。無論、本差である相棒とも。す、と自然に目は後方へと流れる。そこに見えるのは雪に染まった白い庭だ。
おー怖。加州はおどけて肩を竦めて見せる。それから、今更のように思い出す。
そういえば土方さんが本気で怒ったときも、その横であの人は、よくこうやって少し、肩を竦めていたっけ。思い出して、そのままそれが癖になっている自分に苦笑する。
間違いない。今、こうして相対していても、加州も、堀川も、どちらもかつて新撰組という集団の中で、同じ志を持っていた事実は、揺るぐことなくそこにある。
「……俺が相手をするために、ここに立ったんだ」
「へえ? そうですか」
審神者の指図ではないのだと繰り返し伝え、答えた声は不自然なほどに、ひどく固い。鬼の形相はたったの一瞬、しかし、今の堀川の表情は、口許は笑っているが、目が全く笑っていなかった。
きっと、今は何も周りが見えなくなってしまっている堀川には理解できないことだろうが、加州は意外なほど冷静に、嘗ての記憶に思いを馳せることができる。紛れも無い自分自身の思い出が、堀川は仲間なのだと、胸を張って証言してくれる。
そう、俺達は――新撰組だ。
「手入れが受けられたかわりに、あの人間に洗脳されちゃったのかな」
その言葉は、加州に投げかけているのか、それとも脇差の独り言なのか。どちらかは判然としなかったが、どちらでも構わない。
加州は毅然として答える。
「あの子は、前の審神者とは違うよ」
「子供でも、人間は人間でしょう?」
「土方さんと沖田くんだって、同じ人間だけど全然違った」
紐解いてみれば、実に簡単な話だった。
加州も、あの子供に最初は食って掛かったのだ。あの子供を〝審神者〟という大枠に入れて、どうして審神者はこんなことをするんだ、と詰った。答えろ、と叫んだ。だが、酷い仕打ちをしたわけではない子供に投げつけたところで、答えなんか得られる筈も無い。それは、あの子供が自ら言ったし、加州自身も、本当は気づいていた。答えられないであろう相手に疑問を、苛立ちを投げつけることの、何と虚しいことか。知るか、と突っ撥ねられて、然るべき問いだった。
『……ねえ、あんた、あの人と同じ審神者なんだよね』
『……そうだ』
だが、あの子供は最後まで受け止めたのだ。受け止めた上で、その言葉を否定することもなく、答えは寄越さない代わりに、お前が欲しい今の答えはこれだろう、と。自分で直視できなかった答えを教えてくれた。
簡単な、話だったのだ。簡単すぎて気付けなかった、とも言えるのかもしれない。
土方歳三と沖田総司は、〝人間〟という枠に入れた場合は同じかもしれないが、それでも存在自体は全くの別物で。土方歳三にしか持っていない答えと、沖田総司にしか持っていない答えがあった。
『お前は審神者を、許さなくて良いんだ』
審神者が二人いたら、それは別の存在で、別の答えを持つのだ。
「やめてください」
堀川は、加州を睥睨した。
「土方さん達と審神者を、一緒にしてほしくない」
「同じだよ。やってることが違うだけ。土方さん達も、審神者も、どっちも人間だ。俺達は、人間に使われていた刀剣でしょ」
「だから審神者の言う事を聞けって言うつもりですか?」
外から吹き込んでくる風が冷たい。冬の夜風は寒いから、できるだけ襖は開け放しておかないように。夜寝るときにそんなことしたら、人の身なんてあっという間に風邪をひいてしまうんだからな、と。
刀剣男士のことはどうでもいいと言う少年は、夜に刀剣男士とはちあうと、決まってそんなことを言った。刀剣男士も風邪をひくなんて、今までずっと知らなかった。そんなことを気にしてくれる人が、主ではなかったからだ。
「まさか、大和守さんのこと……忘れたとか言わないですよね!?」
「堀川」
大和守のことを忘れたのか。
そう堀川が問う時だけ、彼の言葉には不安と、心配の感情が滲んだ。相棒のことを忘れるとか、そんな恐ろしいことになっていないかと心配してくれたのだろう。
大丈夫だよ。堀川。俺は安定のこと、覚えているよ。忘れてしまうような術式をかけられたなんて事実は、一切ない。
安定が審神者にされたことも、全部、全部覚えている。もしかしたら、忘れているほうが楽なのかもしれないけれど。
心配してくれてありがとう。やっぱり優しいよ、お前は。
でも。間違ってるよ、堀川。
加州は息を吸い込んだ。
まだ、事実を言うには本当は、抵抗があった。それでも言おうと思えた理由は、やはりあの子供だ。
きっと、現実から目を逸らそうとしていた加州に、加州よりも傷ついた顔をしながら、あの子供が気付かせてくれた。
目の奥がじんとして、熱い。酷なことを言わせてたんだなぁ、初対面で、と。唇を開く。
「安定は、もういない」
審神者という人間に不信感があることは否めない。
「安定は、前の審神者に折られた」
すべての人間を、審神者を信じるには、やはりこの本丸で刀剣男士として顕現されてからの仕打ちが酷すぎたし、その仕打ちを受けなくなったと言っても数える程度しか日が経っていない。
だが、子供でも分かる理屈だ。
「今の審神者と、安定が折れたことは、関係ない」
前の審神者の恨みを、今の審神者が背負う道理なんて、本来は存在しないのだ。たとえ、あの子供が自ら背負おうとしているとしても。
――なんだ。自分でもちゃんと、言えるじゃないか。
加州はそっと息を吐く。自分で言って、初めてちゃんと自分の言葉になった気がする。頭の中にずっとある言葉は、何だかとても他人行儀で、本当に自分が思っていることなのか確証がなかった。
子供に随分と絆されている獅子王や薬研の影響を受けているだけなのでは? と疑っていたが、少なくともこれは、自分の本当の言葉らしい。
「……分かりました、加州さん」
堀川が、徐に彼の本体――脇差を持ち上げ、切っ先を加州に向けた。その動きには、一切の迷いもない。
「鶴丸さんの言ってた通りだ」
審神者は約束を守らない、と薄く笑いながら言葉を紡ぐ。
約束ね、と口の中で呟いてから、切羽詰まった表情で白状していたあの少年を脳裏に浮かべると、加州はそっと肩をすぼめた。
「あの子はきっと、約束破ってごめんって、言うんだろうな」
ただ、自然と言っただけのつもりだった。謝るところそこなの、と突っ込みたい気持ちも併せて、心の底から思ったことを口に出しただけのつもりだった。
だが、一体その加州の呟きに何を感じ取ったのか、堀川からの殺気が一段と強くなったことに気付き、身構える。
相手に有利な戦場で戦いたいと思う者など、まずいない。加州とて屋内戦は苦手ではないが、堀川の方がその点は何枚も上だ。
「悪いけど、ここで戦うのは俺、御免だよ」
じりじりと後ろに下がり、部屋から出ようと思考を巡らせる。
「そう言われて逃がすと思いますか?」
不敵に笑う脇差のその台詞に、後ろ――つまり、庭に現れた打刀から言葉が続く。
「残念だったな。清光」
振り向くと、血と泥で薄汚れた浅葱色の羽織を纏う刀剣男士が、刀を抜き、待ち構えている。
「庭は、立ち入り禁止だぜ」
ああ――そうだった。二口の刀に挟まれた状況で、加州はうっそりと笑う。
目の前の堀川国広と、後ろの和泉守兼定。
見事な立ち回りで敵を追い込み、目だけの合図であるにも関わらず絶妙なタイミングで間合いを詰めようとしてくる。どちらも同じ呼吸で、加州に斬りかからんと、言葉も無しにタイミングを見定める。
相棒とは――そういうものだった。
脳裏にちらりと、一人で出陣していった片割れが思い浮かぶ。
そして、
「言ったでしょ、俺は――」
部屋の中、沈黙を保っていた押入れの襖が勢いよく開き、二人分の小さな体が突然、堀川に向かって飛びかかった。
咄嗟に脇差を構えた堀川の刀に、二口の短刀の刃がぶつかった。
その剣戟の音を合図に、加州は堀川に背を向け、庭へ飛び出す。そして、驚いている和泉守に躍りかかった。最初に堀川に宣言したものを、より具体的にして改めて、口にする。
「『初めから和泉守の相手をするため』に、ここに立ったんだ」
「なっ……!?」
刀と刀がぶつかり、火花が散る。その後方からも声が飛んだ。
「ダメ刀だからって見くびんなぁ!! もう自棄だ! こっちは任せろ加州!!」
「ほ、堀川さん、あなたの相手は、ぼ、僕達がします……!」
弾かれた二人が、部屋の中で態勢を整え、身構える。
不動行光と、五虎退だ。
「……へえ。二対一ですか」
がう、と獣の鳴き声が響く。一つ鳴いたら立て続けに鳴き声は重なった。五虎退が連れている仔虎達だ。押入れの中から顔だけを覗かせている。
仔虎の威嚇の鳴き声にすら煩わしいのか、脇差が眉間に皺を寄せている。
歪んだ表情を眺めながら、不動は口を開いた。
「卑怯者だなんて言わせないぜ。俺達がいなかったら、そっちだって二人で加州のこと相手にする気だったじゃねえか」
「そ、それに、ぼ、僕達、堀川さん達と戦いたいわけじゃないんです……! その、ちょっとお話がしたくて……」
「余計なこと言わねえの。どうせ話なんかできやしねえよ」
手を伸ばし、低い位置にある銀髪を乱雑に撫でる。
あうう、とよく分からない声を漏らしながらも、五虎退は頷いた。
屋内戦だと言うならば、短刀の彼らほど小回りが利き、絶好の戦場は無い。その力量は、堀川と互角に渡り合えるものだろう。
「国広っ!!!」
「あんたの相手は俺だ!!!」
加州を強引に払い除け、駆けだそうとした和泉守の正面に再び立ち塞がる。ひゅっと懐に入るように、大きく足を前へ。柄頭を向けながら迫り、高速で、逆袈裟に斬りかかろうとして……今度は一歩後ろへ。下からの攻撃に見せかけたフェイントだ。即座に上へと振り上げ、刀を振るう。
―――ガキン!!!
派手な金属音と、火花。刀と刀の間から見える和泉守の目は、怒りの光で揺らめいている。
「てめぇ………!」
和泉守の肩が震えている。刀の衝撃を、掌から別の所へ逃がそうとしているのだろう。手が痺れ、取り落としたらその瞬間、負けだ。
加州自身も、びり、と柄から伝わる痺れを感じていた。――思わず口角がつり上がる。
和泉守の目が、血走っている。きっと、不動と五虎退が相手にしている堀川も、遠からずな目をしているのだろう。もしかしたら、和泉守以上に鬼の形相かもしれない。
大丈夫、堀川の戦闘傾向は何度も伝えた。完全にキレている状態だと、果たしてどこまで加州の想定内の動きにおさめてくれるか定かではないが、聞いてないよりはうんとマシだ。それに、不動と五虎退が心配で自分の戦闘に集中できないくらいなら、この二人に堀川の相手を任せたりしない。
さあ、ここからはやることは一つ。
「んじゃ、始めますかね」
堀川国広、和泉守兼定。
この二人を、どうやってあそこへ誘導するか、だった。
***
――時間は遡り、前日昼頃。少年が体調を著しく崩してから、一日と半日後。
少年は、ようやく普通の顔色を取り戻し、きもちまだふらつく様子は見せているものの、歩き回れる程度にまで回復した。激しい運動は望ましくないが、かといって、何から何まで制限していては、少年のストレスにもなるだろう。
審神者の専属医、もとい薬研のそんな診断から、めでたく獅子王・薬研の部屋の布団から離れられるようになった。数日前、小夜左文字と骨喰藤四郎の刃により怪我していた足も、それから腕も、どちらも包帯は巻いているものの、痛みにも慣れてあまり不自由なく動かしている状態だ。恐らく、少年自身の霊力によって回復力が底上げされていることもあるのだろうが。
元々、少年本人は自分の部屋ならいくらでも寝てるなどと言っていたが、誰も信じなかった。少年が刀剣男士の部屋で寝る事が落ち着かなくて言っている口実であることは、誰から見ても明らかだったからだ。
だから、布団を離れてよしとされた時点で、審神者の部屋に戻ることは容易だった。穢れが酷かったあの部屋ももう充分に掃除されており、戻りたくない要素は基本的にはない。そもそも、倒れるまでは審神者部屋を根城に少年は動いていたので、今更部屋に戻ることに抵抗があるわけもなかった。
獅子王と薬研の部屋を離れて以降、なかなか顔を見せに来ないのは(見せに来なくても獅子王も薬研も顔を見に行く、ないしは会話をしに行くのだが)、必然だと思っていた。
ところが。
「少し良いか」
部屋で獅子王と薬研が、現在部屋から出てきて生活をしている、つまりは審神者の周囲にやってきた刀剣男士の名前を書き出して、次の出陣部隊の編成を検討していたところ、その子供はやってきた。
床に臥せっていたときは白い寝間着だったが、今はいつもの見慣れた黒袴に若草色の着物を纏っている。髪も、最初に獅子王が渡した予備のゴムで結んでいた。背中にも、本丸にやってきた当初から持っている刀を背負っている。
ぱっと見では、少し前まで体調が芳しくなかったとは思えないほどいつも通りを装っている。
……加えてその表情は、いつもに増して、不本意そうではあったが、
「獅子王、堪えろ」
少年が、自ら部屋を訪問してくれた。
全力で喜びそうになっている彼の気配を感じ、薬研は筆と墨を少し離れたところに避難させた。そして、ポンと軽く金髪の太刀の肩に手を置く。
おう、分かってる、と返って来る言葉は、完全に喜びにあふれていて、ちっとも分かっていなかった。獅子王から近寄らないこと(それは感極まって動くことすら忘れているのかもしれないが)、あとは、刀剣男士特有の、喜びが頂点に達した際に神気が可視化され、何もないところに桜が満開になる事象が発生していないだけ、辛うじて抑える努力が垣間見える。
「どうしたんだ、主?」
「だから主じゃねえってのに……」
はきはきとした調子で、今にも鼻歌でも歌い出しそうな声に、案の定少年は表情を引き攣らせ、居心地悪そうに巻いている襟巻に顎を埋めた。
獅子王の笑顔は大きくなるばかり。隠す気が無さ過ぎるだろう、と薬研も内心呆れるほどだ。間違いなく、審神者も遠からずのことを考えているのだろう。
とすれば、いつもの流れなら、やっぱ良い、と踵を返すかと思うと……
「この本丸の刀、全員把握してるか?」
質問が返ってきた。再び、獅子王と薬研はきょとりと互いの顔を見合わせる。去っていかなかったのだから、喜ぶべきなのかもしれないが、何か違和感がある。
両方が、ええと、と考える仕草をしていると、少年から言葉が重なる。
「最初、大広間で見たとき、まだもうちょいいただろ。それに、たまたま知った宗三と鯰尾みてえに、俺が気付けてねえ奴も。他にいねえのか。別に、ざっくりでも良い」
真剣みに帯びた灰色の瞳を見返すうち、獅子王も表情を改めた。薬研も同様だ。明らかに、少年の様子がおかしい。
「聞いて、主はどうするんだ?」
酢を飲んだような顔になった。聞かれたくなかったというのが丸わかりの表情だ。
いつもの流れなら、少年は会話を畳む。嫌いな刀剣男士と無駄な会話をする気はない、と言いながら。
「……何でも良いだろ。無駄話は良いから質問に答えろ」
……これは。
「何でも良いなら尚更、質問に答える必要はないと思うぜ。大将」
横から薬研が言うと、少年は分かり易く歯を食いしばり、苛立った様子で睨む。
「うるせえな。どうしてわざわざ全部説明する必要がある? 人間であることに加えて審神者なんだ、俺は。殺しにくるかもしれない刀剣男士に備えておきたいだけだ」
「殺されかかりながら手入れしに行くのに、それはちょっと無理があるんじゃねえ?」
確かに少年は普段から、刀剣男士は嫌いだと明言して、突っ撥ねる言葉ばかりを口にする。絶対に、共存を推奨するようなことは言わない。
しかし、獅子王が腑に落ちない様子で言い返した通り、「殺しにくるかもしれない刀剣男士に備える」ために情報を欲しがるのは、最早苦しいものがあった。
加州が一度、この刀剣男士が嫌いだと言う子供の話を周りから聞いた際、頭を抱えてしまうほどに。誰もが遠い目をするほどに。この子供は、己のことなど二の次で、刀剣男士のために奔走していて、言葉と行動が全くと言って良いほど噛みあっていないのだから。
「……結果論だろ。手入れをする気が無くても、手入れをする状況に追い込まれてることがあるだけ。それと、殺されかかるってタイミングが、たまたま重なっただけ」
「なあ、主」
獅子王は少年に歩み寄り、前にしゃがんだ。
目の高さをあわせて、言う。
「……助けられる命があるなら、助けさせろって。主は俺達刀剣男士に言ってくれた」
その言葉をはっきりと口にしてくれたのは、小夜と骨喰が、宗三と鯰尾の手入れを妨害したときのことだ。ずっと、助けるという言葉を使わなかった少年が、このときに小夜と骨喰を説得するために使った。
少年自身もきっと、意図せずに言ったのだろう。あれだけ、刀剣男士が嫌いだと頑なに言い張っているのだから、その刀剣男士を助けるだなんて、きっと口が滑った。その証拠に、目の前の子供は、「それは……」と辛うじて反論するべく口を開いておきながら、その先を紡ぐことはできていない。
反論の言葉が出てこない。
それが、肯定を示すことと同義であることに、果たして幼い審神者は、気付いているのだろうか。
「……前任は、手入れっていう技術をまるで忘れたみたいに、俺達刀剣男士の怪我を放っておくことに何も疑問を持っていなかった」
腕組みをしたまま、薬研が滔々と語る。
元々、そういう本丸に顕現された刀剣男士だ。前任の審神者の仕打ちについて語りずらいことこそあれ、不遇な状況にあったこと自体を大雑把に語ることについては、一切抵抗がないようだ。
「意識が飛んでることも多かったから、誰の怪我がどうってのは覚えてねえが……その辺は獅子王の方が詳しい。怪我してても色々見て回ってくれてたのは、獅子王だからな」
「………」
実際、獅子王自身も、本丸にいる刀剣男士が誰一人として、審神者を殺し堕ちる、なんてことがないようにと全体の監視役を勝手に担い、目を光らせていた部分がある。だからこそ、少年が本丸に来た時点で最初からその行動を見つめ続け、そして少年と最初に会話をするに至ったのだ。
金髪の太刀は、小さな審神者を正面から無言で見据えている。目の高さを合わせたまま、視線を逸らさない。
「……極端な話、怪我してねえ刀なんかいない。主が会ってない刀もまだいる。中には……審神者を物凄く、敵視してる奴もいる」
「当たり前だろ」
「それでも、手入れしようって思ってくれてるのか?」
ぎゅっと子供の唇が真一文字に結ばれた。微かに、灰色の瞳が揺れる。それを逃さないように、獅子王は見つめ続ける。
さっき、少年は助けるという言葉に否定も肯定もせず何も答えられなかった。返事を期待できるとしたら、「助ける」という言葉以外だ。手入れをしようとしている事実があるなら、きっとこの子供は答える。
「主」
もう一押しかと思い、呼ぶ。いつもなら、俺はお前の主じゃない、などと宣うだろうが……一押しには恐らく、充分だったのだろう。今のこの子供に余裕は無いようだから、尚更だ。
「……。……。…………暇潰しだ。それだけだ」
長い沈黙の後に、やっと子供はそう言葉を吐き出した。手入れをしようとしている、という言葉を否定はしない。そのことに、二人の刀剣男士はほっと息を吐き出した。それに、理由は分からないが、少なくとも今、この子供は自分達と会話をする気はあり、勝手に話を切り上げる気はないらしい。
「でも、当たり前だけど大人しく手入れ受けてくれる奴ばっかじゃないぜ。それどころか、もういねえかも。今剣と石切丸みたいに、自分から近寄ってきてくれる奴は」
暗に、小夜と骨喰のときのような危険な目に遭う可能性が高いことを伝えるが、「んなこと分かってる」と一蹴される。
「大体、今剣と石切丸がレアケースだろうが」
「だから、手入れをするには色々、あぶねえ事も多いと思う」
「あーそ。だから?」
手入れをするために他の刀剣男士の情報をくれるんじゃなかったのか、と言いたげに、苛立たしい様子で少年が先を促す。
獅子王としては、そんな危険な目に遭って欲しくないということを伝えたい。勿論、他の怪我をしている刀剣男士がどうでもいいだなんて、手入れに向かわなくて良いなんて露ほども思っておらず。
ならば、申し出たいことは一つだけ。この少年は頭が良いから、もしかしたら頭の隅で予想はしているのかもしれない。だが、仮に予想していても絶対に自分から言いはしないだろう。
だから、少年のことを最初に知った彼は、口を開く。
「次の手入れ、俺も同行させてくれ」
「…………」
こうなりそうだから言いたくなかったんだ、と子供が苦々しく呟いた。
やっぱりもう、予想はしていたのだ。それでも、だから? と言葉の先を促してくれたのは、優しさなのだろうか。
獅子王がそんなことを考えていると、すぐに視線が戻ってくる。幼い審神者は、「断る」と、幾分か強い声音で切った。
「どうして嫌いな刀剣男士なんかと手を組んで歩き回らなきゃならないんだ。それにな、俺と一緒に手入れして回るってことは、最悪、またお前が仲間のはずの刀剣と戦うことになるんだぞ」
――嗚呼、それが本音か。
獅子王はやりきれない思いで、目を細めた。
結局、この子供はそうなのだ。刀剣男士を嫌いだと言いながら、一番刀剣男士のことを気にかけていて。
小夜と、骨喰。二人と刃を交えたときも、もっと厳密には、件の刀二人から庇ったときも、少年は辛そうに顔を歪めていた。
少年は、刀剣男士同士の戦いを嫌っている。仲間同士の戦いが起きるべきではないと考えている。それで、己の命が危機にさらされようと、絶対に譲らない。
『刀剣男士が嫌いだからだ』
『大嫌いだから、俺のために怪我するな』
あのとき、少年は本当に優しく、微笑した。
あんたの刀になりたい。そう獅子王が伝えたら、頷かなかった。審神者側の刀になった時点で、この本丸の他の刀と敵対関係になってしまうことを案じたのだと気付くことは簡単だった。
「もう他の奴らと戦うことなんか覚悟の上だぜ」
「馬鹿か。前任が刀剣男士同士で戦わせるの好きだったからって俺は別に好きでも何でもねえよ、胸糞悪い」
「分かってる。主が、主のために刀剣男士を戦わせたいと思ってない事くらい。そうじゃなくて、俺がしたくてする戦いなんだ」
「はあ? 獅子王、お前頭でも打ったんじゃねえの? 刀剣男士同士で戦いたいってか?」
「手入れを受けさせるには仕方のないことだろ。怪我を放置しておくのは嫌だから、それを無くすための戦いなら俺は望む」
「あのな、俺が手入れをすることと、お前らが戦うことに一体、どういう繋がりがあるわけ? もうめんどくせえから、とっとと他の刀の状況を……」
「大将」
手入れをするために他の刀のことを知りたい。その自身の行動を認めたがらないのには、きっと何かしらの理由があるのだろう。だが、普段ならもう既に会話は切り上げているだろうに、半ば押し問答になりつつも続けている。
……間違いない。この少年は。
「……あんた、何をそんなに焦ってるんだ」
「――っ!」
薬研の言葉に、ぎくりと、少年の表情が分かり易く引き攣る。
それでもその場を逃げ出すことはせず、部屋の前で佇む子供はやはり、他の刀剣男士の情報を聞き出さない限りは、その場を離れられないと言わんばかりだった。
◇◇◇
どれほどの時間が経ってからだろうか。
少年は去ることはせず、ただ獅子王と薬研の部屋の前に立ち尽くしたままだ。
焦っている。そう指摘されて、動きが取れなくなったまま、無言を貫き通す。獅子王が一先ず部屋の中に入ることを勧めたが、短く「いい」と断られてしまった。でも部屋の前と言ったって廊下だ、冬場に床は冷たい上、少年は裸足。冷えてしまうだろうと思い再度申し出たが、やはり短く同じ返事が出て来る。
薬研にも、無理強いをしない方がいい、と窘められて、以降ただ無言を貫き通している状態だった。
ただ、無言だからといって、何か手作業をするわけでもなく、ひたすらに少年の言葉を待っていた。何に焦っているのか、という問いに答えない限りは、獅子王と薬研の方から紡ぐべき言葉は無い。
ずっと新しい文字が増えない紙にのっている刀剣男士の名前の墨は、随分前に乾いてしまったようだった。
(……主……)
体の両側に垂れていただけの手が、黒い袴の上を所在なさげに這ったかと思うと、ぎゅっと掴んだ。そこに寄る皺が、傍目でも分かるほど多い。それだけ、力を込めているということだろう。
手を握り締めて、何かの感情を外に逃がすように、何度も少年は己の袴を握り直す。
……やがて。
「……今日で、一週間なんだ」
長い沈黙を経て、少年はやっとの様子でそう言った。
変わらず袴は握りっぱなしで、深い皺が寄っている。視線はずっと下がっていて、畳の縁をなぞるように瞳が動く。
必死に、言いたくないことを吐き出しているようだった。
「一週間って?」
少年が本丸にやってきて、既に二週間強というところ。一週間など、最初に本丸に来てから結界の張り直しを行った際に、とうに過ぎている。
「……約束してから、一週間なんだ」
「……約束って、どんな約束だ?」
注意をしながら、質問を重ねる。
話し出してくれているなら、そこが会話の糸口だ。逃すわけにはいかない。しかし、無理矢理口をこじ開けて会話させているようなものなので、焦りは禁物だった。先を急ぎ過ぎてしまうと、この少年は逃げようとしてしまう。
刀剣男士が苦しんでいる時は決して逃げたりせずに、正面から向き合ってくれる子供だが、自分の悩みのために誰かと向き合うことは、不本意なのだろう。
「………一週間以内に、出ていく約束をした」
「えっ!?」
獅子王思わず声を上げた。薬研を見やれば、短刀の方も此方に視線を寄越していたため、自然にお互いが顔を見合わせる形になる。
薬研の方も、藤色の瞳を丸くしている。ということは、彼も初耳なのだろう。
驚きながら、金髪の彼は密かに歯噛みする。
今、少年から「約束」の内容を聞いて、その意味を理解することができなかった。そのくせ、心臓は正直に嫌な脈の打ち方をしていたので、意味が分かっている上で、自分の脳が理解することを拒んだのだろう。
まさか、約束を守っていなくなる――?
嫌な予感は汗となって、背中を流れていく。一瞬呆けかかった頭を叱咤するように、横に控えていた鵺に、前足で背中を叩かれて、はっとする。
違う。きっと本当にいなくなるなら、この子供は何も言わないで出て行ったはずだ。今、嫌々ながらもこうして正直に吐いているのは、出て行けなくなったからだろう。
冷静になれ、と自分に言い聞かせながら、獅子王は少年を見つめた。
「……初めて聞いたぜ、そんなこと」
「当たり前だろ。……言ったのが初めてなんだから」
「……誰としたんだよ。その約束」
「…………」
先日、薬研と共に、審神者を認めてくれない刀がいることによって危険なことが起きる可能性が高いと話し合ったことは、記憶に新しい。
しかし、「審神者を認めてくれない刀」がまさか武力行使以外の方法で、少年にアプローチをかけているとは思わなかった。斬りかかってきたら自分達が護ろう、と覚悟はしていたものの、言葉のやり取りをしていた等と、完全に盲点だ。
「……まさか、今大将の周りにいる刀ってことはねえだろ」
薬研の兄弟達や、へし切長谷部、不動行光、加州清光、今剣、石切丸……。どの刀も、少年に懐きこそすれ、早く出ていってほしい素振りなど、少しも見せていない。
審神者と対面した中でも、未だに信頼を寄せることは難しいのか、小夜と骨喰の二人は、現在も目覚めない宗三左文字と鯰尾藤四郎の看病をしつつ、部屋に籠り続けている。だが、出ていく日を約束しておきながら、急に斬りかかっていくことは無いだろう。また、手入れをした後も彼らが少年と言葉を交わしている様子は、一度も見たことがなかった。「俺がいてもあいつらには悪影響だろ」と、少年の方も全く近寄ろうとしていなかったこともある。
「……誰だって良いだろ」
「言っとくが、誰だって分かったところで俺達はそいつを責めたりしない。審神者に不信感を抱くのは俺達からすれば当たり前だ。そう言うこともあるだろうよってくらいにしか思ってねえ」
「!」
誰に約束したのかははぐらかそうとした。だが、はぐらかそうとした理由を薬研が当然のように言い放つと、少年はぎょっとした顔になる。図星のようだった。
今日の少年は、「焦っている」からか、表情がよく動く。
本当はこれくらい、ころころと表情が変わるのが素なのかな、と考えた。自然に切なく銀の瞳が揺れた。普段から素でいいのにそうしてくれないのは、やはり刀剣男士が嫌いであるせいなのだろうか。
「……獅子王?」
ぴく、と肩が揺れる。
比較的、見慣れた無表情が獅子王に向いている。
「何だ? 主」
「……いや。変な顔してるからどうしたのかと思っただけ」
視線を逸らされる。この少年は、こういうところがずるい。刀剣男士なんか嫌いだから知った事かと突っ撥ねる癖に、本当にささやかな変化にも気づく。とくに、負の感情になると殊更敏感だった。
ほんの一瞬黙ったり、ほんの一瞬眉を寄せただけでも気付く。心配事があるのか、何を考えてる、などなど。一足飛びに解釈して、俺はお前らに無茶を強いたりしない、という心配事を払拭させるべく、言葉を添えてくれることも多い。尤も、少年が酷いことをするのではないかと疑う刀は、今のところ彼の周りにいる中には一人たりともいないのだけれど。
「それより、約束したの誰なんだ? 教えてくれよ」
やはり少年は渋い顔をした。しかしこの顔を獅子王と薬研の両方が知っていた。――刀剣男士が嫌い、という建前のときに、この子供はこういう顔をするのだ。
『あの方は嘘を吐くのが下手だ』
長谷部がはっきりと言い切ったことを思い出す。併せて、
『刀剣が嫌いというのも嘘だろう』
そう言っていたことも。
獅子王としては、今も少年が背負っている刀を叩きつけようとした姿を見ていた分、未だに「刀剣男士が嫌い」と言う言葉の意味を、測りかねている。きっとあの姿を見ていなければ、獅子王も「どうせ嘘のくせに」と思っていただろうが。こんなにも審神者を見ているつもりなのに、全然分からないことがあるなど、難儀なことだ。
少年の首に巻かれている襟巻に視線を向ける。その首につけられている傷は見てしまった。(一応、表向きは薬研だけが見たということになっているため、口が裂けても指摘できないのだが)
首を刀剣男士に傷つけられたら、刀剣男士を嫌いになっても仕方ないとは思うのだ。だが、それは少年が必死に否定したという。
(……なあ主、刀剣男士のこと、本当に嫌いなのか? それとも……)
「……鶴丸国永」
自分自身よりも少し高い声に、我に返る。
え?
間の抜けた声を零しながら反応が遅れた。思考があらぬ方向に飛ぼうとしていたのだと、そこで初めて気が付いた。
「……鶴丸国永だ。白い太刀の」
薬研が息を呑む。
獅子王も名前を認識すると同時に、息をすることを忘れた。
「……そっか。ここの鶴丸は、名前出すだけでお前らにそういう顔されちまうんだな」
少年が、ふ、と寂しそうに目を細めた。そうか、あのびっくり爺さんがなぁ……。
目の前の二人の刀剣男士に聞かせるためではなく、ごく自然に零れた呟き……否、呟きと言うにはどこか、途方に暮れたものだ。これは言うなれば、そう――ぼやき、だった。
(〝ここの〟鶴丸)
追及しようか、迷った。
子供が、妙に刀剣男士のことに詳しいのは既に皆が疑問を持っているところだ。初めての審神者にしては、刀剣男士を知り過ぎている、と。仮説の一つに、実は前に他の本丸で、審神者をやっていた、あるいは今、掛け持ちしているというものが挙がっていたが――少年は無意識なのか、その仮説を裏付けるような発言をした。
(〝ここの〟鶴丸って……じゃあ、主は〝どこかの〟鶴丸は知ってる?)
追及していいか。今の会話の趣旨からは完全に逸脱してしまう。だが、少年のことを知りたい思いは強い。他の刀剣男士よりも会話し、長くコミュニケーションをはかることができている自負があっただけに、その思いの強さは一入だ。
「獅子王。薬研」
なあ、主。そう声を発しかけて、飲み込んだ。先に少年が口火を切ったからだった。
先ほどの、追憶にふける顔からは一変、少年は迷いのない目で見つめて来る。
「あの鶴丸国永、前任のせいで一体どんな目に遭った?」
全て話せ、と言外に訴えて来る。
助けようとしてくれているのは分かったが、もし即座に喋ってしまったなら、きっと少年は勝手に納得して、また一人で勝手に無茶をしでかすに決まっていた。
既に、一週間の約束とは何の話か、という話の趣旨からは逸脱した。きっと問い質しても鶴丸の話を優先させたがり、全く相手にしてもらえないことくらい明白だ。もう、この少年のパターンは掴んだ。
胡坐をかいたままだった薬研が立ち上がり腕組みをする。
「鶴丸国永の話をするなら、他の奴らを集めた方がいい」
意味が分からないと顔に書いてある。お前らが知っている事を語ればいいだろう、集める必要なんかない、と反論される前に引き続き言った。
「鶴丸の爺さんの状況を、より深く知りてえなら他の奴にも聞くべきじゃねえか? 今あんたの周りには、前よりも刀剣男士がいるんだぜ」
分かり易く顰められる、幼い顔。
構わず口を開く。――怯むな、言いたくない言葉でも、投げかけたくない言葉でも、今は審神者をこちらにのせることの方が……大事だ。
「嫌いな刀剣男士を集めるなんて嫌なのは分かってる。それに、俺達も〝人間〟に勝手に行動されるのは、ちと抵抗がある。〝審神者〟なんて最も信用のおけない生き物だからな」
「薬研、何言ってんだよ!?」
「獅子王もその為にあんたを見張るんだ」
「違っ……」
「……薬研、お前」
少年が、淡く微笑む。
「――嘘、下手だなぁ」
……悲しい嘘を言ったときだけあんたはそうやって優しく笑うから。指摘なんかしてくれるな。
薬研は眉間に更に深く皺を刻みながら、兎に角、と強めに言った。
「全員集める。異論はねえな? 審神者」
半ば意固地になって、大将と言う言葉をも封じて、せいぜい威嚇するように凄んだ。
少年は、やはりどこか安堵した表情をしながら、やがては不本意そうに眉を寄せて。
「……好きにしろ。お前らの本丸なんだから」
もう、黒い袴に皺は寄っていない。握ることをやめているからだ。
獅子王が唇を噛み、
「鵺、主が何処にも行かねえように見張っといてくれ」
少年の目は見ずに横を通り過ぎて、部屋を離れていく。恐らく、他の刀剣男士を呼びに行ったのだろう。
薬研も続いて、部屋を出ていく。すると、部屋の中には黒い毛玉だけが取り残された。
「……それ、見張ってるってことになるのか?」
足に纏わりついてくるでもなく、鵺との間にはそこそこの距離がある。
いつも金髪の太刀の傍にいる妖は、何も語らない。どこを見ているのかもよくわからないし、表情も読めない。己の主人とはまるで正反対の分かりにくさで、ただ畳の上でじっとしている。
少年が屈むと、そっと小さい手を差し出した。
鵺はゆっくりと動き出し、近寄り、その小さい手に黒い右前足を乗せる。
「……犬かよ」
微かに笑ったような吐息が漏れる。屈んで俯き、鵺の前足を弄ぶ少年の表情は、鵺の位置からしか確認することはできない。
ごめんな、と小さく言葉が転がり出て来る。
少年の小さい口から転がり出た言葉は、畳の上に落ちて、跳ねて、真っ黒い毛の中に吸い込まれていく。
おかわり、と続けて言葉が出て来る。
鵺は、右の前足を引っ込めて、左の前足を毛の中から登場させると、また少年の小さな掌に載せた。
犬かよ、と再び出てきた少年の声は、笑っているようにも怒っているようにも、泣いているようにも聞こえるような震え方をしていた。そんな少年の表情は、やはり、黒い毛に覆われた妖怪にだけ見えていた。