刀剣嫌いな少年の話 漆
人間は欲深い生き物なんだと、教えてくれた人がいる。
その人は自身も人間のくせに、随分〝人間〟を見下した言い方をしていた。極端に言えば、人間なんて滅べば良いとも取れるような言葉で、人間を忌み嫌っているように聞こえた。
だから「人間が嫌いなのか」と質問した。
すると、その人はこう答えた。
『欲深くて醜くて、どうしようもねえ生き物である人間でも、愛せる部分はあるのさ』
そう言って甘い匂いの煙を吐きながら笑う男は、人間をけなしながらも、人間が嫌いなわけではなかったらしい。なら、素直に好きだと言えばいいのにと訴えれば、手放しに好きでいられるものでもないのだと、その男は語った。
でも、残念ながら俺には、言っている意味はよく分からなくて、ふうん、と雑な相槌を打った覚えがある。
……人間は欲深い生き物なんだと、教えてくれた人がいる。
その人が言うには、人間はとくに、生きることへの欲が果てしないのだと。どんな窮地に立たされても、大抵の場合人間は心のどこかで、死にたくない、生きたいと願うものなのだと。だから今日に至るまで、人間はしぶとくも地球上に生き残り、あたかも他の生き物より優位に立っているように振舞って見せている。
人間が死にたいと心から願うのは、本当に、ごく稀なのだと、あの人は言った。
――――だがごく稀でもそれを感じることは確かにあるわけで。
少年は思う。
大きく大きく息を吸い、肺をゆっくり膨らませて、
「ほい、主! あーん」
これでもかと言うほど大きく、盛大に、これ見よがしに、吐き出した。
「………死にてえ……」
何故俺は、獅子王にお粥の乗った匙を向けられ、「あーん」を要求されているのか。
本当に、今の感情を説明するのならば、一言に尽きる。
マジで死にたい。
***
どいつを手入れしろだの言ってくるのは、まあ、一旦は全快するために頼むのだと考えれば、理解しがたいことはない。
最初は、嫌いな審神者に直して貰う事自体、屈辱なんじゃないかと思っていた。しかし、獅子王とか薬研あたりに頼まれまくったせいで、もしかすると手入れを頼むくらいは、刀剣男士側としては屁でもねえのかもしれない、と思いつつある。審神者との共存を求められるより、手入れ等のために審神者を利用しようとしているなら、納得できる行動だ。
……そうして納得できてしまうのも、ある意味、一言で示すとすれば、これは〝慣れ〟だろう。
だから、その〝慣れ〟のせいで、違和感があるのだと思う。
今朝、岩融を直そうとしたのを石切丸に「邪魔」されたところまでで、少年の意識は途切れていた。けれど、手入れするように頼まれても、手入れをすることを止められたのは、この本丸に来て初めてな気がしていた。
否、宗三、鯰尾の浄化作業中に小夜と骨喰に止められているが、あれとはまた止められ方が違った。小夜と骨喰は、信頼できないから、審神者ごときが宗三と鯰尾に触れるなという意味で止めた。しかし。
――石切丸は、無駄だからやるなと言ったのだ。
確かに無駄だ。少年自身もそれは認める。あれは、意固地になった自分が勝手にやったこと。だが、嫌いな審神者が霊力を浪費しようと、関係ないじゃないか。馬鹿な事をやっていると思うなら、放っておけば良い。
もしかしたら霊力の消耗のし過ぎで、疲れて倒れるかもしれない。そしたら、あわよくば、殺すことだって簡単なのだから。
結局、不意打ちを受けて呆気なく意識を手放すことになったわけで。これで縛られて首に得物でも当てられてようものなら「嗚呼想定してた状況がやっときた、やはり思った通り、ちゃんと審神者はこいつらに嫌われている」と思っただろうに、残念ながら、そういうわけではなく……念のために先に言うと、俺にマゾヒズム的な側面は無い。
目を覚ましたら、ふかふかの布団の中だった。
審神者部屋だったならともかく、なぜか獅子王と薬研が使ってる部屋に寝かされていたらしかった。白目剥きそうになった。
「主! 起きたか!?」
覗き込んでくる獅子王が、俺が起きてることに気付いた途端桜舞わせながら喜びやがった。だから何でだよ。
……さて。
まず、何故俺はしっかり布団に入れられて看病されてるみたいな図になってるんだと思いながら、兎に角布団から出ようと必死になった。
うん? 獅子王? 嗚呼、勿論止めてきたが?
うるせえと一蹴して鉛みたいに重い身体を叱咤して襖開けて出て行こうとする。
……が、そこで俺の足は止まる。溜息を吐いた。
目の前に立ち塞がる、そいつに。
「……起きたのか」
泣き疲れて眠り、手入れしている最中も、その後も眠ったままだった小天狗が、部屋の前で仁王立ちしていたのだ。
溜息と共に吐き出した言葉に、にっとそいつは口角を上げて見せる。
「おきたのか、は、いまはぼくのせりふですよ。さにわさま」
さにわさま。
あるじさま、と呼ばれなかった事に安堵する。肩の力がふっと抜けたことに気付いた。
赤くて丸い双眸が俺を映す。見下ろし返してから、俺が見下ろす立場になるのは珍しいな、とぼんやり思う。どこの今剣も、やはり自分よりは小さい。個体差があるとは言うものの、姿はやはり、皆同じ、〝今剣〟だ。
「…怪我は」
「あなたがなおしたんでしょう」
何を言っているんだと言いたげに肩を竦めて笑って、「ありませんよ」と付け足す。
また俺は、そうか、とだけ返した。
「…そりゃ良かったな。だったらもう用はねえだろ。俺が無力な審神者だってのは充分分かった筈だ」
岩融を助けられなかったのだから。
その一言が喉元まで出かかって、奥歯を噛んで飲み込んだ。何だか、物凄く苦い味がした気がする。
「いいえ、ようならあります」
また、はっきりとした声。嗚呼、嫌になる。
個体差があって然るべきであるはずなのに、この天狗は―――よく似ている。
「うけたおんをあだではかえさない。あなたがくるしいなら、ぼくはそれをみすごせない」
「……俺は何もしてねえ。恩なんか感じるな」
「ていれ、してくれたでしょう」
「俺が勝手にやっただけだ」
「ねえ、さにわさま」
麻呂眉を下げて、困り笑いを浮かべる。見かけは子供だが、その表情は大人を思わせる。
「おんをかんじるのは、あなたではないんですよ」
言外に、此方が感じた恩を否定される謂れはない、と。はっきりと断言された。とても短い言葉なのに、反論の余地を与えない。
「……あーそ」
めんどくせえ。
断言されては、何を言っても無駄だ。聞き分けの無い子供ならゴリ押しで何とかなるかと思うが、理詰めで言い返されるとこの先の言い合いは不毛である。しかもこの子供は、刀剣男士。人の子供とは似て非なる存在だ。
今剣から視線を外して足を進め……ようと思うが、頑として小天狗は動かない。
「……だから、何」
「あなたがくるしいなら、みすごせない」
「……は?」
それはさっき聞いたけど。
そう言い返しかけて、 主、と後ろから肩に手を置かれて、振り向く。
獅子王が銀色の目に俺を映す。ゆらゆらと揺らめいて見えるのは、戸惑いか、悲しみか、怒りか。単なる俺の思い過ごしか。……別に、どれだって良いんだが。
「今、凄くしんどそうな顔してんだよ。鏡あれば分かると思うんだけど、顔色も真っ白なんだぜ?」
思わず、自身の頬に手を触れて、意味も無く擦った。
身体中の重さ。怠さ。頭の中枢が麻痺している感覚は、尋常じゃなく体の調子が悪い事を嫌でも理解させる。だから、しんどそうな顔、顔色が真っ白、という獅子王の言葉は、きっと本当なのだろうと思う。
「……それで?」
「今剣は、心配してるんだよ。今の状態の主を」
「………馬鹿じゃねえの?」
肩に置かれている手を掴んで下ろさせる。
「お前らさ、」
「〝さにわにあんなしうちをうけて、おなじさにわをしんぱいするなんて、なにをいってるんだ〟」
思わず唇を引き結ぶ。
視線を前に戻せば、また、呆れた様な顔の天狗がこっちを見ている。
「……さにわさまがいいたいことは、だいたい、こんなところでしょう? でもね、ぼくたちからすれば、あなたは、ちがうんです」
「……またか。そうやって、一時の優しさで勘違いしやがって」
「いっときのやさしさだけでひょうかをかえるほど、ぼくたちもおろかではありませんよ」
「おい、今剣……」
獅子王が諫めるように今剣に声を掛けている。
分かっていた。直接的な表現はしていないが、今剣は俺を責めている。そんなに容易く勘違いをするように見えているのかと。
……はっきり言って、そんなことはない。そんなつもりは、まるでないし、そんな愚かであるわけがないのだ、この刀剣男士達が。
分かっている。こいつらは俺よりも長い歴史を見ていて、何を言っても人が扱うモノに宿る付喪神で、神様なのだから。
人間よりもきっと、〝人間〟を知っている。人の身の感覚については疎くても、もっと深い部分を知っている。それこそ、真理とも呼べる何かを。
だけど。
―――――だけど。
「――――お前らに何が分かるんだ」
睨みつける。低い声が出る。
二人が表情を強張らせ、身体を竦ませるのが見えた。主、と獅子王の口が動いている。でも声は聞こえない。聞きたくないから、俺の耳が周りの音を遮断しているようだった。代わりに、早く脈打つ己の心臓だけが、いやにはっきり聞こえる。
「…こんな音、」
あの時、止まってしまえば良かったのに。
唇を噛む。
心なしか、悲しそうにこちらを見つめる今剣を押しのけた。別に転ばすつもりはなくて、強い力は加えなかった。それでも退いてくれたから、やっと審神者を引き止めるなんて馬鹿な真似だと気付いてくれたかと、安堵した。
が。
次の瞬間がやばかった。何かやばかった。
「おはよう、元気そうで何よりだなァ、たーいしょ?」
***
今剣の横を通り抜けようとしたら、頬を掠めるかどうかくらいの距離感で何かが通り抜けていった。ドス、とやたら重々しい音が後ろから聞こえて固まる。
ぎこちなく振り返る。
俺だけじゃなく今剣も獅子王も、似たり寄ったりの顔で、同じように音源を確認するべく首を動かしていた。
部屋の奥の柱。そこに突き刺さっている、柄の白い短刀。
…………これめちゃくちゃ見覚え有るな……と当たり前なことを呟いた。何か頭が麻痺してた。いや元々しんどくて頭の中枢は麻痺しているんだけども、そうではなく。
よくよく見れば、微かに、ビイィィン、と小刻みにその短刀が振動している。これは……あれだ。勢いよく突き刺さり過ぎてその衝撃でなってるやつだ。
「おはよう、元気そうで何よりだなァ、たーいしょ?」
うわ、怖。
めちゃくちゃ聞き覚えのある声なのに、暗黒の大魔王の声に聞こえそうだと思った。暗黒の大魔王の声なんざ当然聞いた事ないが、多分俺だけじゃなくこれも他の奴らも思ったんじゃないだろうか。俺が薬研のことよく知らないせいかも、とちらっと思ったが、すぐにこの認識は合っている事が知れた。だって、獅子王も今剣も、顔が青ざめてた。
「寝てろ」
薬研藤四郎は、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、口許だけは笑みを作りながら、目は全く笑っていない器用な表情で告げる。
目は口ほどにものを言う。
薬研の目は確かに語っていた。
・部屋を一歩出ようものなら殺す。
・布団に戻らなくてもやはり殺す。
「………薬研怖い」
獅子王の言葉に頷いたのは今剣。
このときばかりは俺も心の中で全力で頷いていた。
速やかに部屋の中へと舞い戻った。死ぬことは怖くねえし刀剣に嫌われることも当たり前だし敵意や殺意を向けられることも怖くないけど、あの薬研だけは怖かったと感じた瞬間だった。
かくして、俺は部屋の布団の中にいるしか選択肢が無くなったわけで。
部屋に入ってきた薬研が柱に刺さった己の本体を引っこ抜く。そのときも結構な音がしたのでどんだけ深く刺さってたんだと背筋が寒くなった。
余談だが、布団に戻った俺のところに、ほどなく石切丸がひょっこり顔を出して、
「ああちゃんと寝ているね、良かった良かった」
何も良くねえわボケェ……!
あの御神刀が呟いて頷きやがったのはとてつもなく腹が立った。そもそもお前が俺の意識飛ばしてくれちゃったおかげでこうなってます一発殴らせやがって下さい。
俺の視線の意味を果たしてどう捉えているのか、石切丸は一瞬きょとんとしてからまたにっこり笑うだけだ。
だからその「私は何でも許します」みてえな仏スマイルやめろ。
石切丸はその後「折れた刀を清めて来るよ」と言って部屋を離れていった。
さて、横になっていると、俺の布団の横に今剣と獅子王が座るもんで、つい顔を顰めてしまう。バテてる姿を嘲笑うんじゃなくて、顔に「心配です」と書いてある。お前らさぁ、とあきれた声を出したくなった。
だが、声を出す前に遠くから何やらどたどたと騒がしい音がすることに気が付いた。
石切丸が戻って来たのかなと思うも、即却下。あいつの足で、折れた刀の部屋から戻って来るにはちょいと早すぎる。
では何だろうと思ってまた襖に目をやると、同時にすぱぁんと良い音を立てて開く。開かれた襖の先の廊下に立っていたのは、
「大将、倒れたって!?」
「ご無事ですか、主!!!」
「うるせえよ後藤長谷部コンビ、あと不動どうした」
迫真の顔に俺の方は思わず真顔になった。後藤と長谷部、長谷部の脇に抱えられて脱力している不動。これで不動のことを指摘するなという方が無茶だろう。
どうでも良いがぽかんと口開けてる今剣がやっと外見年齢相応の顔だった。
「……はせべさんが、しゅじんのためにもどってきた…」
ふええぇ、と何やらよく分からない声を発しながら呟く天狗に、成程と思う。
考えてみれば、〝主〟のために奔走する長谷部、というのは、この本丸では元々、あまり見られたものではなかったのだろう。部屋から出てきてからの様子を知っている獅子王と薬研はともかく、今剣からすると「レア」な長谷部なわけだ。
そのことはすぐに、今剣の一言で察することができた。
……いや、〝主人〟が今は何故か〝俺〟になってしまっているのが物凄く訳がわからねえんだけど。
長谷部、後藤、不動は、戦装束で防具をつけていた。どうやら先ほどまで出陣していたらしい。敵勢力が強いと判断されている戦場には行かねえようにしているみたいだし、帰って来るのにもそれほど手間取ることは無かったのだろう。
別段、俺が出陣を頼んでいるわけではないが、こいつらが勝手に部隊編成を決めて行っているようだ。出陣用のゲートを封鎖しているわけでもなければ、刀としては定期的に暴れてえもんなんだろうな、と適当な解釈をして好きにさせている。
……それは良いとして、不動はどうしたんだ一体、と視線を向けた。一瞬怪我してんのかとヒヤリとしたが、どうやらそうではない様子。顔も少し赤いが、これも甘酒による酒精のためと思われた。顕現時に甘酒を持っているはずのこいつが「飲めない」という状況は、もしかして酷なんじゃないかとこんのすけに送ってもらっていたが、案の定飲んでいるらしい。
さて、こちらからの視線に気づいた不動に、俺が聞きたい、とうんざり気味の目を返された。
俺の知ったことじゃねえが何となく気持ちは察せたので同情しとく。あれだろ、お前、何かしら巻き込まれたクチだろう。
「薬研、お前がついていながら主が臥せる事になるとは何たる…!」
「仕方ねえだろ? 大将が我儘で勝手な子供なのは今に始まったことじゃねえ。全部管理しろったって無茶な相談だぜ。ここに寝かせといてるだけでも良しとしてくれねえとなァ」
どっちが我儘で勝手な子供だ――――
そう抗議したかったがこれも堪えた。薬研の全身から何かおぞましいもんが出てる気がする。取り敢えず逆らわない。俺、いいこ。
長谷部も何かを感じ取ったのか、少し表情が引き攣っていた。
「おい、もう良いだろ、下ろせよへし切」
「長谷部だ。主の安否を確認するのは刀剣男士として当然の事と思うが? それを貴様は何処へ行こうと…」
「うるせえなぁ、俺はこいつを認めた覚えねえっての」
じろりと見上げ、「逃げなきゃ良いんだろ」とそいつは投げやりに言う。
長谷部の眉間の皺が深くなるが、脇に抱えているのを仕方なさそうに下ろした。
「でも大将、顔色悪いぜ? 本当に大丈夫か?」
心配そうな眼差しを向けて来る後藤には「別に」と返して、視線を逸らした。どうしても、こういう目は得意になれない。正面から直視したくない。
何度目だか分からない願いだ。俺の事を心配なんか、するな。怠くて、しんどくて、霊力ははっきりと弱まっていて、こんな絶好の機会に刃も向けず、審神者の心配なんか、してくれるな。
しかし、俺がまともにやりとりをしないという態度を見せても、後藤は全く気にせずに続けた。
「別にったって、顔真っ白なんだから気になるだろー」
「うーん……そういえば、主、飯まだだったよな? 食えそうか?」
今度は獅子王に質問される。
嗚呼うるせえ。面倒くさい。俺はこれにも「別に」と返した。頭の奥もぼんやりしてて、会話するのも結構しんどい。ほっといてくれよ。
嫌いな刀剣男士と、こんなにずっと喋るなんて。どういう拷問なんだ。
「んー……さっぱりしてるもんなら、大丈夫だと思うんだが」
顔色を確認するために覗き込まれて、眉を寄せる。
薬研、お前は何かと顔が近いんだよ。
「あ、それなら、とまとのさらだと、おかゆなんて、いかがでしょう? けさ、みんなでたべたけど、おいしかったじゃないですか! しゅうかくしたてのとまと! おりょうりもきょうは、かしゅうさんがつくってくれてますし、こんのすけがいろいろ、おりょうりのじょうほうをだしてくれたみたいで!」
「加州にばかりやらせないさ。帰って来たからには、俺が主に精のつく食べやすいお食事を……」
食事を経験したばかりと思われる今剣が、半ば興奮気味に提案する。
長谷部はこれに肩を竦めて……いや。待て待て、そんなことより。
「え」
思わず声が漏れた。凄く間抜けな声だったけど、気にしていられなかった。他の刀剣連中が、不思議そうに俺のことを見て来る。でもやっぱりそれも気にしていられない。
「……トマト?」
「? ……はい、そうですが…あ、できるのがはやすぎるって、おもわれてますか?」
「いや、その……」
今剣は首を傾げる。
確かに、本丸の畑では、自給自足できるように、政府の特殊な細工によって通常よりもはるかに早く野菜が育つ。だから、トマトが成っていてもなんら不思議はない。
でも別にそこを疑問視しているわけではなくて。審神者になるのに、流石にその辺の知識は持っていて。
そうじゃ、なくて。
「俺、トマト、嫌い」
***
沈黙が長かった。俺も少し驚いたし、他の奴らも同じ気持ちなんだろう。今、審神者が言った言葉に聞き間違えはないか、互いの顔を見合わせている。
とうの審神者は何故俺達が沈黙しているのか分かってねえ様子で、きょとんとした顔つきだ。聞こえなかったとでも思ったのか、また口を開く。
「トマト嫌い。食べたくねえ」
――――――しゅ、
「しゅ?」
横からの声に首を回す。
「―――――主命とあらば!! 世の中のトマトを全て圧し切ってご覧にいれましょう!!!」
目に見えて感激して体を震わせているへし切に俺はドン引きした。
叫ぶやいなや、部屋を飛び出して(でもあくまで廊下は走らず)いくのを見送る。うわあ……何あれ気持ち悪りぃ……。
暫く他の奴も一緒になって黙っていたが、慌てて後藤と審神者が叫んだ。
「長谷部!? 畑のトマトに罪はないぜ!!」
「俺がいつ主命を出した!? そもそも俺は主じゃない!!!」
後藤が慌ててへし切を追うために走り出した。
でも既に(歩いてるのに)遠くなってる奴の背中に、「早っ! わけわかんねえ!」と突っ込みながら去って行く。でも、焦りながらもその声はどこか、喜びが滲んているのを感じたのは、多分俺の気のせいじゃない。
「あー……取り敢えず俺は厨行って、加州に大将の飯を頼んでくる」
「おう。頼むぜ、薬研」
獅子王が審神者を見て、少し微笑む。
さにわさまー、と今剣が審神者の上に跨って、にんまりと笑う。
「さにわさまは、とまとが、きらいなんですか?」
だめですよー。叱る声が、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねている。何を言っているか分からねえと思うけど、俺にはそんな風にしか表現ができない。
「ぼくはとまとすきですよー、はじめてたべたしゅんかんから、ぼくのおきにいりです。とってもおいしいのに、もったいない」
「お前の好き嫌いなんざ知らねえよ……」
ぐったりとしながら答えつつも、「嫌いなもんは嫌いだ」と続けた。ますます、今剣と獅子王が嬉しそうに笑う。
俺は襖のすぐ傍で立ち尽くしたままでいるのもアホらしくなって、部屋の隅に移動して胡坐をかいた。防具は外してすぐ横に下ろす。
獅子王に、もっとこっちに来いよとか言われたが、俺は審神者を認めたつもりはない、と言って断った。
―――むかつくなあ。
ぽつりと、呟く。自分にも聞こえないくらい小さかったから、獅子王にも今剣にも聞こえてねえみたいだった。ただ、不思議な事に審神者は俺の方にちらっと、視線を寄越した。
……聞こえたわけ、無いと思う。たまたまだ。
『俺、トマト、嫌い』
……初めてだった。
初めてこの審神者が、本音で話した。極めて単純で、極めてささやかなことではあるけれど。
それを、言葉を聞いた全員が感じてしまったのが、俺には分かった。多分体の調子が悪いから、いつもより無意識に素直になっているんだろうと思う。昔、蘭丸もそうだった。具合が悪い時は少しだけ、いつもより素直だった。
別にこの審神者と似ているわけじゃねえけど、蘭丸も本音を隠して、ひたむきに頑張りすぎる側面があったから。
本音を頑なに語ろうとしない審神者が、何の前触れもなく食べ物の好みを口にする。頑なに距離を取ろうとする人がそう言う事をしてくれたら、そりゃあ、心を許してる奴らは嬉しくなるんだろう。
心を許している、奴らは。
(……俺は)
お粥を盆にのせた加州を連れて薬研が戻ってくる。
トマトのサラダもしっかりついている。薬研が「食えよ、大将」とにこりともせず言えば、審神者は頷いていた。流石に、怖いらしい。確かにあの状態の薬研は逆らうと豪い目に遭う。……と、思う。昔の朧げな記憶では。
……嗚呼、そうか。今の薬研は、昔と同様に振舞うことができるくらい、「己」を晒してるのか。蘭丸や、信長様の前と、同じくらいに。―――この、審神者に。
(俺には)
粥を匙で掬って、獅子王が審神者に「あーん」を要求している。
審神者は、酷く虚ろな瞳でそれを見ていた。きっと「死にたい」とか思っているんだろう。俺達に世話になることを嫌う審神者の考えることくらい、簡単に想像がつく。
(俺には物凄く不愉快)
この審神者はきっと自覚がない。
今、いつもよりもだいぶ分かり易く、刀剣男士に甘えていること。いつも通り、嫌っている風を装いながら、目は穏やかで。本気で突っ撥ねよう何てしていなくて。
ほら。臥せる前なら絶対にしなかっただろうに、渋々でも口を開けた。獅子王は、喜びが表に出てしまわないように必死だ。全力で喜んでしまったなら、きっと審神者は我に返って口を閉ざすだろう。
粥を食っている審神者が、今剣を見て「お前の内番着は薄着なんだからもう少し厚着しろ」と注意している。「外、雪積もってるだろ」と。
それに嬉しそうに笑っている今剣だって。さにわさま、何て他人行儀に呼んではいるが、きっと本当は。
(〝刀剣が嫌い〟。〝主じゃない〟。………)
鼻で笑いそうになった。
俺が。俺の方が。本心で。心の底から。
この審神者が、嫌いだ。
***
物凄い顔の顰め方をしながら、審神者がトマトのサラダも込みで飯を食い終えた。完食までべったり張り付いていた獅子王は、よし、と満足げに両手を叩く。
「後はひたすら休むだけだな!」
「うるせえなぁ……」
薬研が言っていた言葉をそのまま口にして、掛布団を引き上げ、再び横になるように審神者に促した。
「……何だよ」
「だから、ほら、主。寝なきゃ」
「はぁ? 余計なお世話……」
また、くっだらねえ、最近のやりとりを見れば最早テンプレとなりそうな口論。
それが何となく、耳に入って来る。
――俺達のために沢山頑張ってくれたのは嬉しいけど、頑張りすぎてくれるのは嬉しくないぜ! 今はちゃんと休まねえとな! おい待て何つった? 誰が誰のために頑張ったって? え? そんなの決まってるじゃんか! 主が俺達刀剣男士のために…… おいやめろ不本意すぎる。 不本意も何も本当のことだろー。 本当じゃない、ふざけるな! はいはい大声出さねえの、寝付くまではついててやるからさ! ついててもらう必要ねえよ部屋から出てけ! でも主、見てねえとどうせまた勝手に部屋抜けだしたりするだろ? うるせえ、そんなんてめえらに何も関係ねえだろが!――
「うるっせぇなあ!」
我慢できなくなって叫んだ。ぴたり、と同時に硬直して言葉を止めた。柄にもなく叫んでしまい、俺は少しだけ居心地が悪く感じた。
そっと伏せた目を上げて審神者と獅子王を窺ってみると、二人も似た様な顔で俺の方を窺っていた。
一度叫んでしまったからには、取り消すことはできない。
……俺はこの審神者と話したいんじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、渇いた唇を舐めた。
「………うるっせえんだよ、ぎゃあぎゃあ騒ぎやがって。別に獅子王が絶対に審神者のことを見張る必要はないだろ。どうせ、薬研とまた何かとやる事あるんだろうし? 俺みてえなダメ刀と違って?」
自分でも練るに練って言葉を紡いでいるわけではないのに、どうしてこうも他人を不快にさせる言葉しか選ぶことができないのか。
自己卑下は今に始まったことではねえし、俺なんか、とは常に思う。だが、まるで獅子王までやっつけるような言葉遣いには、自分でもほとほと嫌気が差した。
「けどよ……じゃあ誰が主を見張るって……」
何かとやる事がある、というのには曖昧に頷きつつも、困り果てた様子で獅子王が唸った。
俺は溜息を吐く。
「だーかーらぁ、俺が見てりゃいい話だろ」
「え」
獅子王の目が丸くなる。
常に、審神者を嫌い、認めない、と言っている俺の申し出だから驚いていることは知っている。
だが、一応俺も、若干ヤケクソ気味ではあるが、意図があって進言している。
「俺が見張る」
「いや……でも、不動、主と二人きりになるの、嫌だろ?」
気遣う視線を投げて来るが、「俺が見張る」と繰り返した。
もう、他の刀連中が、審神者と仲良しこよししているのは見飽きた。うんざりだ。そして、うんざりする理由も、不本意ではあるが俺は察しつつある。それは、この審神者と一対一で喋って明らかにしたいことでもあった。
「何だよ。ダメ刀には審神者の子守りもできませんってかー?」
「別にそういうわけじゃ、ねえけど……」
困った様子で獅子王が首を傾げる。と、
「どうせこいつ馬鹿真面目なんだから、やるっつったらちゃんとやるだろ」
まだ少し顔色の悪い審神者が、金髪の刀を見やりながら肩を竦めて、さも面倒臭そうに溜息を吐きつつ、そう言った。
俺の気持ちがざわつく。
「織田信長の小姓として仕えてた森蘭丸の刀が、いい加減に任務こなすわきゃあない。こいつが残ってる方が監視の力はあると思う。物凄え迷惑な話だけどな、俺にとっては」
織田信長の小姓として仕えてた―――
「っ」
力を込めて、爪で無意識に手の甲を引っ掻いた。
深く俯き、わなわなと震える唇を必死に弾き結び、堪える。
「おい、爪立てるなら畳にしろ。無駄な手入れさせる気か」
「うるさいんだよっ……」
そういうところが、気に食わねえ。
前髪の隙間から審神者を睨みつけて、俺は低く呟いた。それをまるで軽くあしらうかの如く、審神者はそっと肩を竦めてから俺から目を逸らし、傍に寄り添う太刀の方を向くと、顎をしゃくっていた。外へ出ろ、と促している。
一瞬、獅子王が俺を見た。
こいつは、俺と話がしたいらしいから、今は出とけ―――。
そんな風に、審神者に見透かされて、審神者自ら、二人で話す場を設けようとしてくれていることに、また心底腹が立った。腹が立ったが、感情任せになりつつある俺は、その審神者のはからいに任せる他になかった。
***
獅子王が、いかにも後ろ髪を引かれますという面持ちで(あいつもうちょい表情に出さないとか隠すとかの対応はできないもんなのか。素直すぎるだろ)、もだもだと部屋にいたが、結果、そいつの相棒ともいえる鵺が、半強制的に己の主を部屋の外へと押し出していった。
……今更ながらあの鵺、凄え活動的だな、と思った。鵺にも個体差とかあんのか。あんなん知らねえぞ。
部屋で二人きりになって、布団の横に座っている短刀をそっと見やった。
どうせ座るなら、胡坐でもかいて楽にしていれば良いものを、跪座の姿勢であるあたり、元の主人だった森蘭丸を彷彿とさせる。自分は主でも何でもないのだから、敬意を払う必要は全くないと言うのに。
――否、やはり武士の刀たる者、いつ、何時であろうとも敵襲に対応できるように、跪いて腰を下ろす姿勢は、最早当たり前なのだろうか。
……見るからに、俺と話がありますって様子だったくせに、いざ二人になったらだんまりかよ。膝の上で拳を握り締めたまま、不動は斜め下を見つめて口を閉ざし、何も話しださない。
赤ら顔のくせに、目の光は決して酔っ払いのそれではないから、きっと言葉を選んでいるか、話の順番でも考えているんだろうが……
(……俺は別に気にしねえんだから、適当に話し始めればいいのに)
酔っ払って、雑に見えても、ひとつひとつの所作が丁寧なのはこいつだ。本当に荒いときは明確に意思がある。苛々していたり、そうでもしないと気持ちを落ち着けることができなかったり。
こうして座りながらも、ぴんと伸びた背筋にはその真面目さが見え隠れしていて、分かり易いな、等とどうでもいいことを考える。
「……話でもあるわけ」
待てど暮らせど、口火を切る気配のないことに、俺の方が痺れを切らした。黙ってる間は面倒だし観察でもしてやろうと思ったけど、流石に観察できるものも尽きた。怪我を隠している様子も無さそうだし、気にするものはこちらとしては無い。
「……別に」
顔には「話あります」って書いてあるのにそう返すのは天邪鬼かなんかですか。
「とてもそうは見えねえ顔だから聞いてんだけど」
「うるせえなぁ、体きついんだろ、寝てろよ。俺が獅子王に叱られるだろぉ」
まだ上体を起こしていた俺は、出し抜けに差し出された手で肩を押されると、あっけなく枕に頭を落ち着けることになった。
咄嗟に抵抗しようとして、全く体がついてこなかったことに、自分でも苦笑が漏れる。俺、だいぶ消耗してるな……。
天井を見つめながら、自然と深い呼吸をした。意外に体を起こしていただけでも疲れているらしく、肺は必死に新しい酸素を求めて活動している。
そこからまた、暫くお互いに無言のまま、俺は天井を見つめていた。しかし、視界の端にどうしても、そこにいる短刀の頭が入る。
……嗚呼嫌だ、まるで看病されているみたいなこの構図、早く脱したい。落ち着きたい。刀剣男士に看病されるなんて、どういう悪夢だ――
「ピリピリしてんじゃねえよ」
唐突に、棘のある声を掛けられて、流石に鼻で笑った。
何言ってんだ。ピリピリしてんのはどう見てもお前だろ、うるせえな。
「……殺すなら、今がチャンスだぞ」
視界の中にいるそいつは、ゆっくりと桔梗色の目を見開く。何だと、と唇が動いているのが見えた。
不動がピリピリしている原因であろう俺を殺すなら今だ、と言っただけなのに、どうしてそんな顔をするのか。
……嗚呼。そうか。お前らもしかして、勘違いしてるのか。
「知ってるか。『審神者を殺すと堕ちる』って思ってるなら、その認識は間違ってる。勿論、堕ちるときの最大の要因にはなり得るけど、あくまで最後に鍵となるのは、刀剣男士自身の明確な意識だ」
刀剣男士が顕現されるとき、わざわざ此方から説明をしなくとも、自然に彼らは「歴史修正主義者の目論見を阻止するために呼び出された」と認識し、彼らと戦うことに何も疑いをもたない。
彼らがそこに「刀剣男士」として生まれるとき、果たしてどんな刷り込みや暗示があるのか、俺は知らない。でも、もし己の主人を、審神者を殺すことで謀反とみなされ、歴史修正主義者に堕ちると思われているなら、それは誤解だ。
きっと、そう誤解しているなら、頭の回る彼らにそう誤解させるような、巧みな暗示がかけられているのだろうが、実際そうではないことは知っている。
何故なら俺は。あの人に聞いたから。
「確かに、『歴史を変えたいから審神者を殺す』だと、もう意識そのものが歴史修正主義者のそれだから、刀剣男士として課せられたもんから完全に逸脱してるし、堕ちることにはなるだろうけど。他の刀剣を審神者から護るためってんなら、そしてそれが、明確な意識をもって行うことなら、堕ちることとはまず直結しない」
だから、前の審神者が政府に拘束されるより前に、仮に殺していたとしても、お前らは堕ちたりすることはなかった。お前らは、我慢していないと自分を見失い、堕ちると恐れていたのかもしれねえけど、そんなことねえんだよ。
俺はここの本丸を預かる審神者にはなったけど、お前が俺に気を遣う理由なんて、何もありはしね………
「うるせええええええええええ!!!」
***
唇は震え続けた。心臓はどくどくと脈を打つことをやめなかった。頭が沸騰するように熱くなった。
前の審神者に、薬研や宗三が酷い仕打ちを受けたときと似ていた。でも、刀剣男士となった俺は、この感情を知っている。怒りと憎しみだけのものとはまるで違う。これは。
気付けば俺は大声で怒鳴って、審神者の言葉を遮っていた。
子供はぽかんとした顔で、俺を見ている。どうしてか視界が滲んでいて、子供がどんな顔をしているのか、いまいちわからなかった。
「黙って聞いてりゃ審神者を殺すのと堕ちるのとは関係ねえとか! あんた何が言いてえんだよ、わっけわかんねえ! 何全部知ってるみてえなツラで語ってんだよ、ガキのくせに!! 蘭丸とは違う、ただのクソガキのくせに!!」
あんたを殺すなんて話をする気なんかなかった。
「俺は良いよ、ダメ刀だからな! それにあんたを認めたつもりも一切ねえよ! あんたなんか主として認めてたまるか!!」
俺はあんたが不愉快だ。俺はあんたが大嫌いだ。
だって、
俺は、審神者の胸倉を掴んで無理矢理引っぱり起こし、顔を近づけながら、力の限りに怒鳴りつける。
「どうして俺以外のみんながあんたを認めてるのに、どうしてあんたはそれに気づかないふりをし続けるんだよ!」
あんたのおかげで、薬研の怪我が治った。
あんたのおかげで、他の刀剣男士の怪我も治った。
あんたのおかげで、蔵に封印されてた奴らも解放された。
あんたのおかげで、へし切が〝主命〟を得られた。
あんたのおかげで、本丸の空気が清められた。
あんたのおかげで、みんなが、笑うようになった。
「みんなあんたのおかげだろ! それなのにあんただけが何もしてないってツラしやがって!! むかつくんだよ、恩を売ったって胸張れよ、自分がここまで立て直したんだってどうしてあんたは言わないんだ!!!」
もし、審神者が皆に、己を慕う様に強要し、霊力を使って催眠状態にでもしていたなら、刺し違えてでもこの場で殺す。そして、皆を呪縛から解き放つ。そんなこと、迷うわけがない。
でもそうじゃない。
この子供は、頭が良かった。見るからに、明らかに。
年齢にはそぐわない判断力を備え、他人の心に聡い。だから、これだけ、これだけの――仲間が。この少年に、絆されたのだ。
だから、気付かないわけがなかった。
皆が、一瞬の気の迷いでもなく、心の底から、この少年を慕っていることに。少年自身が、気付かないわけがない。
そして少年はそれを享受することではなく、突っ撥ねることを選んだ。享受することのほうが、ずっと楽で、ずっと幸せであることは、明らかなのに。
「不動行光」
小さい手が、伸びて来る。
ぴとりと手を頬に添えられて、ああ、やはりこの審神者は、子供じゃないか、と思う。織田信長よりもずっと子供で、森蘭丸よりもまだ体が小さい。成長しきっていない掌が、それを実感させる。
「泣くな」
胸倉を掴まれているのに、少年は困り笑いを浮かべている。
目尻に指先が触れるのを感じながら、言葉を聞く。
「俺は刀剣男士が嫌いなんだ。だから、ごめんな」
先ほどまでの言葉に対する返事だということは、分かった。
それが、どういう意味だと問い質すことはできず。
泣くな、ダメ刀、と重ねて言われても、涙を流し続けることしかできなかった。
このとき、〝刀剣男士が嫌い〟という言葉の真意を問い質さなかったことを、
不動行光は後に、後悔する事になる。
***
不動の叫ぶ声は、障子一枚で全て遮断できるようなものではない。だが、すぐに声は小さくなり、中から出て来る音は嗚咽のようなものに変わった。
微かに少年の声と思しきものも聞こえるが、何を言っているかまでははっきりしない。
「……」
音を立てないように、踵を返し、部屋の前から離れる。
前のように荒んだ本丸のままであったなら、音を立てないようにと思っても廊下はぎしぎしと音を立てたのですぐ気付かれただろう。だが、裏から板を当てたり等の修繕が施されて、床の鳴き声は随分大人しくなっていた。
「今日も会わないで行くのか? 大倶利伽羅」
足を止める。
そんな彼の後ろから、数歩離れた位置にいるのは、まだ少し青いトマトが入った籠を抱えた後藤だった。
「会っていけばいいじゃん。大将の事、気にしてくれてるんだろ」
「別に」
「……ちぇ。そういうとこ、大将にちょっと似てる」
振り向きはしない。相変わらず手入れは受けていないようで、少し離れていても体が血にまみれていることはすぐに分かった。何を言っても、刀剣男士なのだから、血の匂いにはすぐ気付く。
「なあ、大将の周りで何でこそこそしてるんだ?」
刀は持っている。が、いつも直接会う事はせず、周りを嗅ぎまわる様にうろついて、結局何もせず離れていく。
今のところ、大倶利伽羅がどのような意思を持って、少年の周囲に現れるのか、理由が分からない。
「大将は、会ってくれるぜ。干渉されたくなかったらそんな風に言えば、きっとそれも頷いてくれる」
「…………それでも、新しい審神者も、前と同じ〝人間〟だ」
それを言われると、言い返しにくい。同じ思考があった分だけ、理解できてしまう。でも、と呟くが、その先のいい言葉が思い浮かばない。
「……兎に角、いい加減、その傷辛いだろ。一回、手入れしてもらうついでに、ちょっと喋ってみればきっと……あ、いや、今はちょっと大将、調子悪くて難しいんだけど……」
かっこわりい、しどろもどろにしか話せない。
今の審神者は信用できる、というのは簡単だが、その根拠は実際にあの審神者に関わってみないことには伝えずらいのだ。薬研や獅子王に何回も「良い審神者」と説明されても、後藤とて恐る恐る言葉を交わしていた。恐い、という気持ちが先行した。
何ていうか、とまた決まらない言葉を投げかけながら、たどたどしく言う。
「……見てられねえんだよ、その、前の審神者の酷さも分かってるけど、今の審神者知っちまってから……そういう、大倶利伽羅みてえな怪我……」
刀剣男士らしくねえのは分かってるよ、怪我を恐れるだなんて、と言い訳がましく付け足しながら、続ける。
「でも、俺達みんな、綺麗に手入れされてて……何だかんだ、大将も必ず俺達に怪我ないか確認してくれてて……だから。見てるだけで、前の自分見てるみてえで痛くって……それ、もう重傷だろ。そのままじゃ、いずれ折れちまうって……」
「余計なお世話だ」
冷ややかな声が返ってきて、彼は首だけ振り向かせて此方を見た。
蜂蜜色の瞳は、何か決意じみた光を灯している。戦意喪失したような目とは、まるで違う。
「どこで死ぬかは俺が決める」
視線を前に戻し、息を吐き出すとともに、
「俺が、決めるんだ」
最後は自分自身に言い聞かせるように。
そして大倶利伽羅は、やはり審神者には会わずに、その場を離れた。
後藤は、抱えている籠の中を見下ろす。
主命(推定)を受けた長谷部による伐採から救済したトマトは、まだどこか青臭い。
甘く熟すまで、時間はもう少しかかりそうだと、他人事のように思った。