刀剣嫌いな少年の話 陸

2022年4月18日

 籠城していたときとはまた異なる、本丸の一室。畳も変えて障子も張り替え、掃除を終えた部屋には前のような陰鬱さを感じない。
 ただ、少しでも瘴気が残っていたらと警戒して、微々たる結界を施すべく、札が数枚、部屋の隅にある柱に張り付けられている。そこに少年の優しさ(と言ったら本人は絶対否定しにかかるのだろうが)を感じて、獅子王は自然と頬を緩ませた。

「しかし、獅子王はよく大将の危機に気づけたなァ」

 感心した様子で言葉を紡がれ、とうの獅子王は、手拭いで髪を拭きながら「ん?」と言いつつ柱から視線を外し、薬研を振り向いた。
 寝間着に身を包んだ短刀は続ける。

「小夜すけと骨喰兄に大将が追われてるって、どうして分かったんだ?」

 藤色の瞳を向けてくる彼もまた、先ほど湯浴みを終えたばかりのため、髪が濡れていていつもと印象が違う。が、本人はあまり気にした様子もなく、拭くのもそこそこに自然乾燥に任せているらしい。冬場でそれは寒すぎやしないかと言ったが、雪の上で無理矢理転がされて叩かれるのに比べれば全然、と全く笑えない返事が返ってきた。
 ……尤も、それに対して獅子王も獅子王で、「あ、分かる」と咄嗟に返してしまったあたりが、何とも虚しい。あの子供が聞いていたらまた凄い目で見られるのだろうなと思う。

「んー……どうしてって言われても、よくわかんないんだよなぁ、俺にも」

 渋い顔をして、脱いでいた羽織を着直した。湯浴みが終わったばかりといえど、時間が経つにつれて冷えてくるし、前掛けだけでは寒い。
 鵺の毛に手をやると既に乾いていたので、内心驚きながらも抱え上げる。


「なんて言うか分かんねえんだけど、すごく嫌な感じがして。その嫌な感じが強い方に走っていったら、あんなことになってたんだよ」
「へえ。俺は大倶利伽羅を追いかけてる途中でたまたま見かけたからなぁ。はっきり言って肝が冷えたぜ」
「だよなー」

 ふいに、廊下から足音が聞こえた。

「薬研、獅子王」

 外から声を掛けられ、薬研が立ち上がると襖を開けた。
 そこにいたのは後藤と、後藤におぶられた五虎退だ。

「交代したぜ。今は加州と秋田が見てる」
「そっか。分かった。お疲れさん。……五虎退、寝ちまったのか」
「はは…ちょっと疲れちゃったみたいでな」

 肩口から覗いている顔を見やって、

「小夜たちのこと看てる途中から舟漕いでたからさ、俺一人でも大丈夫だぞって言ったんだけど…」

 聞かなかった、と笑う。
 少年が先ほど手入れを終えた、小夜、骨喰、宗三、鯰尾の四人は、手入れ部屋では狭すぎるため、もう少し広い部屋に移動させられていた。
 新しい審神者に気を許している刀剣男士は現在、その四人が目を覚ましたときにすぐ説明ができるよう、交代で看病をしてている。

 本来手入れ部屋で、まともに布団を敷いて横になっていられるのは一人が限度。広くないので、四人ともそこに押し込もうと思うとあとの三人は折り重なるように眠ることになる。加州が手入れ部屋にいて、他の刀剣がそこに押し掛けた時だって、ひしめき合うような形になっていた。が、勿論手入れが終わったばかりで、しかも意識も戻っていないのだから流石に頂けない。
 手入れ部屋として利用できるもう一部屋もあるにはあるが、それであと二人はどうするという話。さらには、迷うことなく刀を向けてくるほど気が立っていたのが約二名。まだ、自分たちが安全な場所にいるという認識をしていない二人を引き離して寝かせておいたら、起きたときに大混乱する可能性もある。そうして、広めの部屋に移動させることを決めたのだ。

「後藤も疲れただろ? 早く休めよなー。加州と秋田が終わったら、今度は俺たちだからさ」
「ああ。でも、獅子王も薬研も、ちょっとくらい仮眠とったら? ずっと起きたまま待ってるの、しんどくねえ?」
「俺たちさっきまで湯浴みしてたし、あと何か話題が尽きなくて」
「今日も色々あったからなぁ……」


 薬研が遠い目をしたので、後藤は苦笑するしかない。
 医療の心得がある薬研としては、無茶ばかりする少年の行動はおそらく、他の刀剣男士よりもヒヤヒヤするものなのだろう。

「………んん……」
「あ、やべ」

 背中で小さく声を漏らした後藤は、慌ててあやすように体を揺らす。幸い、五虎退は目を覚ますことなく、少し身じろぎしただけに留まった。

「五虎退も起こしたくないし、俺たちのことは気にせんで良いぞ。それに体調がおかしくなりそうだったら俺が気づけるさ」
「……医者の不養生という言葉があります」
「お? 何だ後藤。売られた喧嘩は買う主義だぜ?」
「頼むからここで兄弟喧嘩しないでくれよー」

 くすくす笑いながら、冗談混じりに獅子王が割って入る。三人は誰からともなく吹き出して、しかし寝ている五虎退を起こさないように小さく笑った。

「じゃあ、後頼むぜ、二人とも。また明日な」
「ああ。また明日」
「おやすみ!」

 軽く手を振って、別の部屋へと引き上げていく後藤を見送る。
 凄いよな、と獅子王は呟いた。

「また明日、だって。今の俺たちは、〝明日〟が来るのが当たり前なんだぜ」
「そうだな。嘘みたいな話だ」

 肩を竦めて同意を示す薬研も、嬉しそうに、切なそうに目を細める。

「…それでも、まだ大将を認められない刀はいる」
「……小夜達みたいに、な」
「ああ」

 皆で笑っていたいだけなのに、今の審神者はこんなにも信じられるのに、そう簡単に分かってもらえないことが悲しい。
 一番悲しいのは、分かってもらおうと躍起になっていない審神者。あの子供は、もっと自分が周りに優しくできている事実に、気づくべきだ。

「……また、あるかな。さっきみたいなこと」
「……残念ながらな」

 分かるから、否定ができない。
 自分たちはたまたま、運が良かっただけだ。運良く、早く審神者を知ることができた。だから今、信じられる。でも審神者という存在すべてを肯定できるかと問われれば、即答の「否」だ。あくまで、信じられるのは、今の審神者があの子供だから。あの子供が、信じられるに値する動きをしてみせたからに他ならない。また別の審神者がきて、子供がいなくなると聞いたら、きっと警戒心剥き出しでその審神者を迎えることになるだろう。

 獅子王はそっと唇を噛んだ。ずっと子供の傍で、もしものことがないかと備えていたいところだが、拒否される。守る必要なんかないと断られる。
 子供は何故か気配にも聡いので、こっそりも難しい。多分途中で、まかれてしまう。


「……大丈夫だ、獅子王。あんたは大将の危機に気づける」


 全て表情に出ていたのか、薬研がことさら優しい声で言う。言いながら、敷いてある布団に転がり、書庫から持ってきた医療の本を手にとる。

「あはは、万能か分からないぜ?」

 笑ったつもりが、あまり上手く笑えていないことに気づいて、獅子王はすぐに苦虫を噛み潰したような顔になった。
 横になったまま足をぱたぱたと動かし、枕の上に広げた本を眺める薬研が、頬杖をついて視線を寄越してくる。これは俺の憶測でしかないんだが、と前置いて口を開いた。

「獅子王が大将の身の危険に気づけたのは、なんだかんだ、大将が獅子王に気を許しているって証拠だと思うぞ」
「……主が俺に?」
「ああ。大将は俺たちを認めていないとは言っていたが、最初からずっと一緒にいる獅子王には、俺たちよりも思い入れが強いんじゃないかと思う」
「ええ……そうかぁ……?」

 半信半疑、という様子で眉を顰める獅子王だが、次には口元が緩んで、優しく微笑む。ごろんと布団の上に転がって、片腕に鵺、片腕にふかふかの枕を抱きしめて、天井を見つめながら言った。


「――――そうだと良いなぁ」


 もし本当にそうなら、子供に何があっても、安心だ。

   ***


 さて、こいつは今、何と言ったか。 
 真後ろをとられ、刀を突きつけられたまま、嘆息して、思考を回す。自分が疲れていることについて考えるのはやめだ。この状況で休憩したいなんて言えるわけがない。


 ――――ぼうには、いきてほしいんです。


 頭に、鈍痛が走る。でも気づかない振りをする。嗚呼、そうだ。先ほどこの後ろにいる誰かさんは、「おまちしていました」と言った。
 この声。舌足らずな喋り方。丁寧な言葉遣い。知っている。もしかしなくても、後ろにいるのは、飛んだり跳ねたりお手の物な小天狗だ。「おまちしていました」か、と反芻して自嘲気味に笑う。自分が疲れているせいなのかもしれない。
 ……それにしても、待ち伏せされてたっていうのに、全く気づかなかったなぁ。こういうの、得意分野だったような気がしてるんだけど。そんで、待ってたってわざわざ言うってことは、殺しに来たわけでもないのか? 気づいてなかったんだから、殺す気なら後ろからばっさり斬るはずだもんな。


「……天狗の出迎えがあるなんて思わなかった」
「おどろきましたか」
「まあな。今なお殺されてないことに一番驚いてる」


 息を一つ、吐く。


「――――何の用」


 待っていた、そして、刀は突きつけるけれど、問答の余地は与えて殺さない。無論、不審な動きをしようものならすぐに殺されるのだろうが、現在殺されていない事実だけで充分だ。
 この天狗は、無意味にこんなことをしているわけではない。


「あなたにたのみたいことがあるんです」


 静かに言われて、少年は内心で舌を巻いた。

(幼い見た目のくせに訳分かんねえくらい冷静だな)


 この状況で「頼み」とは、随分である。今、この状況で優勢なのはどう見ても今剣の方。「命令」ではなく「頼み」だなんて、皮肉も良いところだ。

 元々知っている小天狗は、無邪気で、見目通りの子供で、ぴょんぴょん跳ね回って落ち着きが無くて……でもそういえば、妙に大人びたことも言うことも、あっただろうか。最後に見た顔も、笑ってはいたけれど、子供のそれとは違った気も……少し、する。正確に覚えているわけではない。覚えていたいわけではない。本当は。


「分かった。どうすれば良い」


 思考の渦に飲まれる前に、問い返す。
 小天狗は、何の感情も持たない声で答えた。


「いっしょにきてください」


 少年の休憩時間は、どうやらもう少し先らしい。

 背後から短刀の切っ先を突きつけられたまま、小天狗の指示通りに歩みを進めた先にあったのは、この本丸の離れだった。
 前に、薬研に「兄弟を助けてくれ」と頼まれて倉庫に行ったとき、すぐ傍にあったので、その存在の認識はしていた。ただ、中から刀剣男士の気配を感じて、また拒絶する風でもないが歓迎する風でもないように思い、視界には入れないようにしていた。
 見たところ、離れだってぼろぼろだった。だから外から獅子王や薬研の会話は聞こえていたであろうに何もアクションを起こさなかったのだから、こちらからわざわざ触れる必要も無いだろうと思ったのだ。

 離れの前まで来ると、「あけてください」と言われる。命じられるままに少年は引き戸に手をかけ、開けた。
 ああくそ、埃っぽい。
 ただ、想定外なことがあった。浄化をしていない分、酷い瘴気がため込まれているだろうなと警戒していたのだが、実際はそうではない。全く無いとは勿論言えないけれど、今まで見てきた「浄化のされていない本丸」としては最もマシだ。
 小天狗に促され、部屋の中に足を踏み入れる。瘴気はともかく、踏み入れた中の畳はやはりかなり汚いらしい。足の裏がざらついた。


(……あ、)


 部屋の隅に座っている、一人の男。少年は、驚いた様子で目を見開いてこちらを見返している彼に、成る程と一人納得する。彼のおかげで、離れの穢れはこの程度で済んでいるのかもしれない。

「……君は……」

 危うく吹き出しそうになる。君はって。憎い審神者にえらくソフトな呼び方だな。貴様とか、てめえとかなら分かるけど。…でもそういや、お前もあんまり、暴言とか吐くタイプじゃなかったっけ。
 少年が考えていると、ずっと後ろにいた小天狗も離れに入った。驚いている彼を放って、さっさと子供の脇を通り過ぎる。こちらに完全に背中を向けて進んでいく小天狗が無防備に思えるが、決して気を許してはいないのだと全身の神気が告げてくる。

 小天狗は一番奥にある押入を開けて、下の段に置かれていたボロボロの布の塊を取り、少年の前に持ってきた。その場で正座し、布を広げる。かしゃ、と小さな音を立てて露わになったのは……破片と、へし折られた棒。打刀や脇差のサイズでないことは一目瞭然だった。この大きさを誇る刀剣など、一つしかない。飾りのような金色の輪も真っ二つになっている。


「いわとおしです」


 正座したまま、小天狗が言葉を紡ぐ。
 岩融。武蔵坊弁慶の薙刀で、源義経の守り刀である今剣にとって、唯一縁のある存在。


「……嗚呼。すぐ分かった」


 薙刀の形は他の刀剣と比べて特徴的だ。今剣が大切に押し入れにしまっていた時点で、他の薙刀など考えにくい。


「なおしてください」


 一言一句、はっきりと、口を動かした。
 顔を上げた今剣の真紅の目は、少年を捉え、逸らさない。


「あなたは、ぼくたちをたすけるためにきたのでしょう」
「違う」
「うそ。だってぼく、ずっとみてたもん。かしゅうさんのことだって、ていれしてくれたでしょう。ほかのみんなも、そう。あなたはまえのさにわさまとは、ちがいます。あなたは、まえのさにわさまとおなじだというけれど、ぜったい、ちがうんです。あなたはぼくたちをたすけてくれるんです」


 よく見ている。自分が疲れていたより、この短刀の隠蔽が異常に高いだけかもしれない。隠れん坊をしようものなら、今剣の一人勝ちではないだろうか。自分はそんなに小天狗に監視されていたのか。

「だから、なおしてください」


 立ち上がり、少年の手に触れる。びくりと少年が肩を揺らしたが、今剣は何度も審神者の手を引っ張った。


「かえしてください。いわとおしを。さにわさまは、えらいんでしょう」


 まえのさにわさまも、そうでした。いわとおしに、むちゃばかりしいて、そのくせ、ぼくをかばっておれたいわとおしを、おろかものと、ばかにしました。できそこないのなぎなただと、いいました。あのときは、なにさまだろうと、ぼくは、いきどおりました。
 でもね。いまなら、わかるんです。
 なにさまって、きまってる。さにわさま、なんですよね。

 きゅっと、少年の手を握りしめる。小さな両手で、小さな片手を包む。おねがいします、と繰り返す。


「えらいなら、できるでしょ」


 なおしてください。
 ねえ。さにわさま。

 ねえ。


「無理だ。今剣」


 俯かせていた顔を上げ、少年も灰色の瞳に、小天狗を閉じこめた。小天狗も、逃れようと逃げることなく、その瞳を受け止める。


「審神者は、霊力があるだけの人間だ。しかも俺は子供だ。偉くなんかない。俺には、何もできない」
「どうして?」


 間髪入れず訊き返され、答えに窮する。加州のときとは違う。今剣は、無茶だと分かっている上で、現状を全て認識しているからこそ、何故と問うてきているのだ。
 心が壊れそうでも、代わりのもので埋めようともせず。自分にとっての彼は、この布の中の破片となっている〝彼〟しかいないのだと、ちゃんと分かっている。おかしくなっているのでも何でもない。純粋に、審神者に助けを求めている。だからだろう。小天狗は、「なおしてください」と繰り返した。


「見りゃ分かるだろ」


 破片を見下ろす。その量と、打刀や脇差にはない長い柄部。ただ、残骸の規模でしか分からない。薙刀だった面影は、無いのだ。


「死んだ人間は生き返ることがないように、折れた刀が元に戻ることはない。ばらばらの肉片がくっついて元通りの生きた人間になることはあり得ないように、粉々になった破片がくっついて元通りの薙刀になることはあり得ない。岩融は、」


 少年が言葉を詰まらせた。はっきりと告げてしまおうかと思ったが、自分の中の良心が制止した。
 加州のときのように、もう相手は何処にもいないことを口にしようとしたのだ。大和守の死体なんてなかったから、あのときは、はっきりと事実を述べて、現状を認識させる必要があった。だが、彼と違って、今剣は現状について自分自身を誤魔化そうとしているのではない。確かに、刀の付喪神である自分とは異なる力を持つ、〝審神者〟という存在の力を信じている。何も明確かつ具体的な解決策を導き出せていない。ただ、解決できるかもしれないという希望に一縷の望みを託している。
 なのに。目の前に粉々の薙刀がある―――すなわち、ばらばらの死体がある状態で事実を告げるのは、あまりに酷ではないか。


(……色々な奴がいるな、この本丸は)


 諦め悪く手を握り、引っ張り続けている小天狗を見下ろして、自分よりも低い位置に頭があるのは珍しいなあなどと、現実逃避まがいのことを思う。 
 色々な奴がいるのは知っている。刀剣男士は分霊だらけで、同じ姿形をした者がごまんといる。けれど、一人一人、細かい性格も違えば個性がある。この本丸の刀もまた、そうだった。

 仲間を失い続ける中、せめて今いる者は誰一人として堕ちさせはしないと、必死に抗った獅子王。兄弟を守るために、死にかけながらも審神者の命令に従い続けようとした薬研。いつ折られるか分からない状況でも、希望を捨てずに居続けて、今では笑うことのできる後藤や乱、五虎退、秋田。他の仲間のために、全てを自分で済ませようとした不動。本来ならば、主命に従うことを至高とした、実に物らしい一面を持つはずであるにも関わらず、仲間を救うことを優先しようとした長谷部。周りを守り続け、心が壊れ、たとえ逃避となろうとも、最後まで相棒を信じようとした加州。もう救うことはできないと分かれば、復讐と最期の止めを差す覚悟を胸に秘めた、小夜と骨喰。無理矢理堕とされようとした段階となっても、訳が分からない状態になっても、護るべきものを護り通そうとした宗三と鯰尾。
 
 元々最低な運営をされていたとは思えないほど、仲間思いなことだ。否、最低な運営をされていたからこそ、仲間との絆は絶大なのか。絆の強さの秘訣なんて、何だって良いけれど。
 きっと。この本丸は、審神者にさえ恵まれていれば。最高の本丸だった。


「なおしてよ」


 何度目か分からない懇願。ただ、言葉尻が、微かに震えた。
 言葉の裏に、言葉が見える。もう貴方に頼るしか無い、他に頼れるものが無い。その貴方が、できないなんて言ってはならない。そんな言葉。


「ごめん」
「なおして」
「ごめん」
「あやまってほしいんじゃない。なおしてって、いってるの」


 叫んだわけでもないのに、怒鳴られたような錯覚に陥った。体の横に力なくぶら下がっている少年の手から手を離し、ぽか、と少年の腹部を拳で叩いた。力のない拳骨だ。

「なおしてよ」

 両拳で何度も、ぽかぽかと叩きつけてくる。

「かえしてよ」

 全く痛くないのに、心は酷く抉られる。

「………今剣」

 ぽかぽかと叩いてくる小天狗の頭を撫でることはしない。何故そんなことができるというのか。この子供の、大事な薙刀を奪ったのは、自分と同じ審神者なのに。汚れきった手でできることなど、何もない。
 審神者は、霊力があるだけで、その正体はなんてことはない、ただの人間だ。


「……いわとおし」


 かえして、とか細い声で続けられた。
 赤い大きな双眸に、涙の膜が張っている。


「………ごめん」

 できない、と。
 返した少年の声も、今剣に負けないくらい、か細かった。


   *** 

 一番近くで手入れを行った小夜・宗三・骨喰・鯰尾の四人は目は覚めていないが、別の広い部屋に移したはずだ。
 手入れ部屋の前まで来ると、障子戸を開ける。すると、案の定中には誰もおらず、手入れをしなければならない刀が寝るための布団が一組置いてあるだけだ。
 首だけ振り向かせ、目をやる。

「…知ってると思うけど、ここと隣りが手入れ部屋。手入れ部屋一つにつき一人分しか俺は手入れ用の結界も張れないし、現状同時進行で手入れできるのは二人まで。だから、今剣と石切丸がそれぞれの部屋入ればできる」

 でも心配なら、と続ける前に、後ろに立っていた石切丸は笑った。

「ありがとう」

 急な感謝の言葉に、思わず何も言えなくなる。代わりに、困惑気味に眉根を寄せた。
 後ろから進み出て、手入れ部屋の中に入った大きな刀剣男士は、背中に負ぶっている今剣を下ろした。小さな刀剣男士の頬にははっきりと涙の痕が残っており、今はすうすうと寝息を立てていた。

「じゃあ、今剣さんはここで寝かせてあげればいいんだね」

 下ろした小天狗を丁寧に布団に寝かせる彼の背中を見つめ、少年はおもむろに口を開いた。

「……正気か、お前」

 布団の中に入れて、ぽんぽんと宥めるように軽く叩いてから腰を上げた。うん? と微笑をたたえながら首を傾げつつ此方を見る石切丸は、とてもこの本丸で顕現されたとは思えないほど穏やかな面持ちだ。
 離れで少年と今剣が会話をしている間も、一度も割って入らず、ひたすら成り行きを見守っていた、奇妙な刀剣男士。

「俺は審神者で、お前達に酷いことした人間と同じだぞ」
「おや。同じだなんて言ってはいけないよ。そんなに綺麗な霊力を持っているのに」

 首を振りながら言う石切丸に、少年は眉間の皺を更に深くした。
 はは、と笑いながら大太刀は肩を竦める。

「君が悪い審神者でないことは、ちゃんと分かっていたよ。霊力は綺麗だし、この本丸を覆う結界だって張り直してくれただろう?」
「気のせいだ」
「嘘は良くないな。私は御神刀だからね、穢れとかには敏感のつもりだよ」

 御神刀だから、穢れも断ち切ることができた。離れが存外まともであったのは、そのおかげだ。

「俺が気持ち悪かっただけだ。前の審神者の霊力は合わなくて」
「でも結果的に、私たちにそれは良い形で作用している。今じゃ瘴気なんてほとんど消えて、月明かりがここにもちゃんと届いて、庭が照らされるくらいには改善されている」

 確かにこの本丸に来た当初は、月の光は本丸の中に届いていなかった。本丸を覆う穢れと瘴気が雲の如く、光を遮っていたためだ。だから日中も通常の昼間より暗かった。
 少年は、唇を噛む。

「結果論だ」
「勿論、それだけじゃないよ」

 にこり、と微笑む石切丸の顔を直視できず、目を背ける。

「ここに来るまでに、君は私の夜目が利かないことに配慮して、少しだけゆっくり歩いていただろう? 離れすぎてしまわないように、時々後ろも見てくれていた」
「足怪我してるんだよ。歩くのが遅いだけ」
「泣き疲れて寝てしまった今剣さんを、慌てて抱え上げようともしただろう?」
「殺そうとしただけかもしれない」

 首を絞めたりしようと、手を伸ばしただけかもしれないじゃないか。

「違うね。君は触る直前になって固まった。私が見ていたからだ」

 審神者が刀剣男士に触れる不愉快さを案じて、そして、石切丸がいると分かっていたから、自分がわざわざ触れるまでもないと思ったからだ。

「それに、自覚があるか分からないけれど、君は岩融さんを見たとき、今剣さん以上に傷ついた顔をしていたよ」
「都合良く何でも捉えてるんじゃねえよ。馬鹿か」

 必死に突き放すのに、大きな体をした刀剣は微笑む。
 
「――――審神者殿」
「……何だよ」
「手入れは明日、お願いしても良いかな」
「…………」

 霊力、随分消耗しているね。これ以上やったら、倒れてしまう。
 今剣さんは岩融さんのおかげで怪我がほとんど無いし、軽傷程度。私も大太刀だからね、短刀の子達のように簡単に折れはしないよ。

 だから、君は一度、休みなさい。


 優しく言葉を並べる石切丸に――――吐き気がした。


「ふざけるなよ石切丸」

 見上げる形で睨みつける。
 自分を気遣うのはやめて欲しい。ここにいる刀剣男士は審神者のせいで酷い目にあったのだから、無理をして気遣われても困る。


「大した怪我じゃなくても痛みはあるだろ。それに何が悲しくてお前等の手入れを後回しにするんだよ。嫌なことは早く済ませるに限るっての」
「………優しいね、君は。でも、霊力の枯渇は酷く負担が」
「うるせえって言ってんだ」


 少年は懐から符を取り出した。視界がぼやける。結界を張るだけで倒れるような気もしたが、気力だけで持たせようと思った。
 休憩? そんなもの知るか。


「お前は隣りの手入れ部屋で寝てろ」


 手が震えてるのも、体が妙に熱いのも、


「すぐに、直す」


 全部全部、気のせいだ。

 ***


 霊力がある。ただ、それだけのために、俺はここに連れて来られた。
 親は元々自分に無関心だったし、俺も俺で訳が分からないまま話が進んで、気がついたら時の政府とかいうのに連れられて時代をとんだ。行った先が二二〇五年だとか言うのを知るのは後になってからで、そのときは「別の場所に来た」程度の認識しかしてなかった。

 子供なりの頭で理解したことは、霊力がある人間は稀で、審神者という職業は人が著しく不足しているということ。だから、子供なのに絶大な霊力を持ってる〝俺〟という存在は、時の政府としても無視できるものではなかったこと。
 あのときの俺は、戦と言われてもぴんと来なくて、政府の人間には審神者が「悪者をやっつける正義のお仕事」だと説明を受けていた。実際それは当たらずとも遠からずで、俺自身「かっこいい」印象を受けていたのは違いない。


 ――――正義のお仕事が殺し合いとかを理解するには、まだ、年齢が足りていなかったと思う。

 まだ子供だからサポート役を置いて審神者として機能させるとか、今思うと多分、そんな相談を政府の役人達はしていたのではないかと思う。暫く政府の施設に預けられて、俺は自由気ままに過ごしていた。軟禁状態というわけでもなく、立入禁止となっている場所以外は基本的に自由に動き回れた。
 

 多分、だが。あくまで、推測の域を出ないのだが。
 その待遇を俺に与えたことが、政府の失敗。


 政府に所属する刀剣男士も存在する。当時の俺には人間と刀剣男士の違いなんていまひとつ分かっていなかった。だから施設の中を歩き回ってて、子供の俺を珍しがって構ってくれる刀剣男士もいて、俺は「かっこいい優しい兄ちゃん」の意識程度でいた。
 繰り返しになるが、審神者とは戦に関わる職だ。戦を実際に繰り広げるのは、審神者が顕現した刀剣男士。政府に所属する彼らも例外ではない。

 ある日、血塗れの「かっこいい優しい兄ちゃん」を見た。
 子供でも怪我をしたら血が出ることくらい知っている。血が流れすぎたら人が死ぬことだって。

 それだけじゃない。「かっこいい優しい兄ちゃん」が、前触れ無くいなくなったこともある。歴史修正主義者との戦いが激化して、血塗れの姿を見ることも多くなった。軟禁されていれば見ずに済んだであろう姿を、沢山見た。
 でも、混乱することはなく、淡々と対応にあたる大人達も沢山見ていて…俺は怖くなったんだと思う。


 軟禁状態ですらなかったから、政府の施設を、敷地を逃げ出すことは子供でも容易だった。夢中で抜け出して、万屋なんかが並んでいる町に出て、誰かが追ってくるような恐怖もあって、必死に逃げて隠れた。
 子供なりの漠然とした怖さ。もしかして自分はとんでもない世界に放り込まれてしまったのではないかという恐怖。

 子供、というのは、大人が思っているよりも存外敏感で、鋭いのだ。

 ただ、この先どうするかなんて勿論考えていなかった俺は途方に暮れた。否、途方に暮れたとは言い難い。あのときは逃げることを考えるので精一杯だった。先の事なんて考えられなかった。

 ――――迷子か?


 男の声が頭上から降ってきた。
 煙管片手に少し甘い香りを纏う、あのクソジジイに会ったのは、それが最初だ。

  ***


「大将!」
「っ!」


 びくりと体を揺らして目を開ける。
 過去の映像が一瞬でかき消えて、次に見えたのは天井……ではなく、自分の顔を覗きこんできている、藤色の瞳の少年だった。


「……薬、研…?」
「嗚呼。…魘されてたぜ、大将。大丈夫か…と聞くのは嫌味か。兎に角、良かった。気が付いて」


 顔にはっきりと安堵の色を出しながら姿勢を正す薬研を見つめる。頭の中枢が痺れていて、状況が把握できない。


「……今、時間、は……」
「朝だ。多分大将が寝始めて十時間程度」
「……十時間……」

 顔だけ動かして周りを見る。
 枕元に刀は置いてあった。それにほっと息を吐きながら、何とか体を起こした。髪が頬や首の後ろにちくちくと当たって鬱陶しい。この本丸に来て、獅子王に結んでもらってからは結っているのが当たり前になっていた。ゴムは何処だろうと思えば、刀のすぐ横に置いてあった。それにまた安堵する。
 頭がふらついて苦し気に顔を歪める。ぐらりと体が傾く。布団のすぐ横に座る薬研が肩を支えてくれたが、


「……触るな」
「こんな体でよく言えるな?」


 自分の声に覇気が全くないのにも驚いた。身を寄せてきている薬研を押しやろうと思うのに、怠くて体が動かない。自分の体を見下ろして、真っ白の寝間着に、いつ着替えただろうかと思った。というかそもそも布団に入っている事実に困惑する。いつも座ったまま寝ているのに。


「…っ! まさか俺倒れたのか…!?」
「……倒れたと言えば倒れた。この部屋には自力で戻ってきたらしいが…」


 お節介なことに、最後に手入れをした石切丸が勝手に「手入れ部屋を離れていくときに酷くふらふらしていたから、新しい審神者が大丈夫か見てあげて欲しい」と言ったのだと言う。頭おかしい。
 結果、獅子王と薬研で部屋に様子を見に来たら、そこでほとんど行き倒れのような姿勢で畳の上に伏していたらしい。抱え起こしたところ、燃えるような体の熱さから過度な霊力の消耗と疲労によるものだろうと考え、布団に寝かせ、気がつくまで見ていたのだということだ。看病役は医療に明るい薬研が買って出た。


「……じゃあ着替えさせたのも……」
「俺だ。大将は嫌がるかもしれねえが、できるだけ楽な格好にさせておきたかった」
「………」


 少年は自身の首に手をやった。そこにいつもの襟巻きはなく、代わりに包帯が巻かれている。


「……その包帯も、俺がやった」
「見たの」
「………俺だけだ。他の奴は見てない」
「……あーそ……」


 首もとを押さえ、黙り込む。頭がくらくらして眩暈が酷いが、果たして霊力の消耗と疲労だけだろうか。

「大将、とりあえず簡単に薬は調合しておいた。飲めば熱は簡単に引くはずだ。ちと苦いかもしれんが、良薬は口に苦しってことで…」
「薬研」


 首を押さえたまま、少年は灰色の目を薬研に向けた。
 すり鉢の中にある薬を薬包紙に包んでいた手を止める。


「聞かねえの。何も」
「……」


 薬研が口を引き結ぶ。
 見て、分からないほど、彼も間抜けではないだろう。ましてや薬研藤四郎ならば、分かった筈だ。この傷が、どういう傷なのか。
 もう、今更包帯なんか巻く者ではないもの。それでも巻いておいてくれたというのは、恐らく自分が他人に見られたくないと考えていることを察したからだ。


「………話してくれと言ったら話してくれるのか」
「………」
「……だが、それを見て少し分かった気がする。成程大将が俺達刀剣男士を嫌うはずだ」
「違うっ!」


 突然、少年が身を乗り出す。身体が疲れ切っているせいで叫んだとは言い難い声量だが、はっきりと強い声を出していた。
 驚いた様子で薬研は審神者を見返し、困惑気味に眉根を寄せる。


「……違うって、だが、その傷は……」
「……憶測で物を喋るな。お前は何も知らない。そんで、お前が考えてることは誤解だ。『そう』じゃない」


 両手で首を抑え、力を込める。
 傍目では、まるで自分の首を無理矢理絞めているかのようだ。「そうじゃないんだ」「違うんだ」俯いて、少年は繰り返した。

 ――――……助けられる命がある。助けさせろ、馬鹿

「……分かった。そうだな。すまない。取り敢えず、薬飲んでくれ」
「……」
「……この本丸を運営してるのは、あんただ。大将。元気になってくれねえと結界も不安定で……」


 一度、ぎゅっと下唇を噛むように閉じてから、薬包紙に包んだ薬とコップ一杯の水を差し出して、改めて開く。


「『迷惑』だ」
「………、………」

 ぴくり、と身体を揺らして、顔を上げる。首に回している少年自身の手に薬研は手を伸ばし、そっと指を解かせる。強張っている指の関節を解すように軽く揉んでから、手を離した。
 ぼんやりと視線を返してから、少年は妙に安堵の表情を浮かべ、


「……迷惑?」
「迷惑だ」


 間髪入れず言い返す。
 すると、少年は随分素直に、「分かった」と顎を引いた。自分を想って調合した薬なんて、と拒絶されるかと思っていた薬も、簡単に受け取る。それが、薬研はどうも、たまらなくなる。どうして、そういう言葉にしか素直に従ってくれないのだろう。
 子供はもっと、周りに頼りたがるものではなかったか。織田信長の時代でも、子供は大人に頼っていたと思うのに。


「……大将」
「にっが……」


 顔を顰めながら薬を飲んでいる少年が、ちらりと此方に視線を寄越す。


「……俺にはあんたが、分からん」


 一瞬、子供は灰色の目を丸くした。年齢相応の顔に見えるのはこういうときだ。ふっと、表情を和らげる。


「……分かってもらってたまるか。お前らなんかに」


 何故、こんなにも優しく笑える子なのに、口から出る言葉は寂しい言葉ばかりなのだろう。

   ***


 ぐつぐとと煮える音がする。ぷかり、と泡のようなものが顔を出しては、ぷちんと弾けて消えていく様を、ぼんやりと眺めた。

「……獅子王。火を弱めろ」
「………」
「……獅子王」

 ぼんやりしたまま動かない金髪の彼に嘆息し、長谷部が横から手を伸ばす。かちかち、と音を立てて火を弱めてやれば、やっと獅子王が顔をあげた。

「……あ、悪い、長谷部……ぼーっとしてた…」
「分かっている」

 出してある塩と卵に目をやり、ええと、と言葉をこぼす。

「…次、どうするんだっけ?」
「卵は溶いておく。塩はもう少し飯の方が柔らかくなったら一摘み」
「そっか。りょーかい」

 器を出して卵を割り入れ、菜箸で卵黄と卵白が一緒になるように溶きほぐす。
 そんな作業をする彼の横顔からも浮かない表情であることが窺え、長谷部は一人密かに肩を竦めた。

「……お前に非は無いと思うが?」
「ん? うーん……そうかもしれないけど……」

 凹んでるの、ばれてた? と獅子王が決まりが悪そうに笑うのに、ばればれだと即答する。もし隠していたつもりならあまりに下手すぎるのではないだろうか。

「……やっぱり、無理矢理でも部屋に戻るまでは、主について行けば良かったと思って。ついて行ってたら、多分……」
「あの方は、ご自身の事になると俺たちの話は聞いてくださらない。仮にお前がついて行っていても、あまり今と差はない結果になったと思うぞ」
「長谷部は優しいなぁ…」
「事実を述べているだけだ」

 鍋の中の米にだいぶとろみがついてきたことを確認すると、獅子王は指示通り、塩を一摘み入れる。溶き卵の器を持ち上げ、その中に回し入れた。
 卵は湯の中で、軌跡を描くように糸状になっている。
 冷蔵庫から葱を取り出した。今の獅子王に頼むと指まで切り落としかねないと思い、長谷部は自分で細かく刻む。


「邪魔するぜ」
「あ、薬研。主の容体、どうなんだ?」
「薬は飲んだ。その後も適当に会話はしたが、疲れたのかもうちょい寝るって言ってたな」


 獅子王も、審神者が素直に薬を飲まないのではないかと懸念していたのだろう。厨に顔を出した薬研の言葉に幾分安心した様子だが、少し残念そうに、完成間近の卵粥に視線を向ける。


「そっかぁ……じゃあ後の方が良いかな?」
「んー…どうだろうな……でも一旦持って行ってみようぜ。大将、いつも眠り浅いみてえだし、美味そうな匂い嗅いだら、案外あっけなく起きるかもしれないぜ。なら出来立て食わせた方が良いだろ」


 言いながら、食器棚から小ぶりの器を取り出す。
 人間の体の具合を見ることができる彼がそう言うのならばと、獅子王も再び鍋に向かって調理を再開する。
 刻み終えた葱をまな板の隅に避けて、流しに包丁を置きつつ長谷部は口を開いた。

「……主の首の傷のこと。お前は聞いたのか」
「………」


 厨に置いてある折り畳み椅子を広げて、股を大きく開いてどっかりと腰を下ろす。


「……一応、見たのは俺だけってことにしといた」

 大きく前のめり、自身の膝に肘をついて難しい顔をする。
 薬研のそんな表情を横目に、獅子王が火を止めた。器の中に卵粥をよそい、長谷部が切っておいてくれた葱を添える。ふと思い立って、棚の一番下の段を開けた。


「……やはり、あの傷があるからあの方は……」
「俺もそう思ったんだけどな。匂わせる程度にカマかけてみたら、すぐに否定された。そうじゃないってな」
「……だが、じゃああの傷はどう説明する?」


 長谷部の声を聞きながら、棚から常滑焼の梅干し壺を取り出して、中から適度な大きさのものを箸で挟む。卵粥の上に添えようとしかけて、いらないと言われたときのことを考え、やはり新しく小皿を出すと、その上に乗せた。
 次に、お盆を出してきて卵粥の器と梅干の小皿を乗せ、その脇に冷水を入れたコップを置く。全体を眺め、一人頷いた。初めて厨であれこれした割に、また、長谷部に手伝ってもらったとは言えど、一応様になった。


「あれは、刀剣男士の付けた傷だろう」
「………」


 彼らも刀剣男士だ。同じ存在がつけた傷を、見紛うはずがない。だから、刀剣が嫌いというあの少年の言葉は、嘘じゃなく本音なのかもしれないと思った。刀剣男士に殺されかけたことがあるなら、当たり前だと。ただ、優しい少年は、拒絶しながらも最低の審神者に苦しめられたその存在を助けようとしてくれている。
 そう考えれば、確かに、色々と合点はいったのだ。


「……そうじゃない、違う、って。しんどそうに大将はそう言ってた」


 あの言葉の後ろに見える意味。『刀剣男士は悪くない』『刀剣男士が嫌いな理由はこれじゃない』。


「……大将…あの子供は、身体の大きさに見合わねえもんを背負いすぎてると思う」
「同感だな。頑なに俺達の事は認めないと言っている理由も、そこにある気がする」
「関係ない」


 お盆を持ち上げて、金髪の太刀が振り向いた。
 表情は複雑そうだが、迷いのない銀色の目で、きっぱりと言う。


「認めてもらえなくても、俺はあの人の刀だ」


 お盆を持つ手に力を込める。
 歯軋りして、眉間に皺を刻み、低い声で続ける。


「次は絶対に、気付いてやる……」


 失敗したなぁ、と薬研は思った。
 軽い気持ちで、そして何となく確証はあって言った言葉ではあったが、今回獅子王は、審神者の危機に気付けなかった。だが、小夜と骨喰のときは、審神者と獅子王の間に何らかの糸があったからだとしか、説明がつかないのだ。今回そのセンサーもどきは働かなかったのは、理由があるような気がする。
 自分なら気付けるかもしれなかったために、彼は責任を感じてしまっている。
 最近、新しい審神者のおかげで気持ちの余裕もできていて、軽はずみなことを口にしてしまった。


「そうだな。俺も、大将のことは注意するように気を付ける」


 獅子王は小さく笑い、頷く。
 すると、長谷部が空っぽになった鍋を持ち上げて流しに置き、水道の蛇口を捻った。冬場の水は凍るような冷たさだが、気にせずに手を突っ込んでスポンジを手に取り、ざぶざぶと洗い始める。


「……早いところ、主のもとへ持って行って差し上げろ。きっと、喜ばれる」
「長谷部は?」
「俺は片付けをして出陣の準備をする」


 今日は、一昨日の出陣部隊にいた中で、獅子王と薬研、不動、乱に代わり、長谷部と後藤が加わって出陣だ。部隊を構成する人数が四人となり二人少なくなるが、出陣先は選ぶし大丈夫だろうと踏んでいる。無茶だと判断したら即帰還の予定。資材がまたしても足りなくなりつつあるのは既に把握済みなので、昨日のように皆で掃除やら洗濯やら畑当番やらに精を出すわけにもいかない。立て続けの手入れがあったので、仕方ないのも分かっている。

 加州はまだ一応体の感覚を取り戻すために本丸に残ることになっているし、小夜や骨喰を見る係も必要。審神者が伏せったことにより、今はこうして看病にあたっているが、頃合いを見て獅子王と薬研も畑当番や洗濯等をやる必要がある。新たに現在、手入れ部屋で寝ている今剣と石切丸の様子も定期的に見る必要もあるし、若干人員不足である。出陣の方に人数を割けないというのも妙な話だが、今は彼らで回すしかないし、寝ている刀を叩き起こして手伝わせるわけにもいくまい。(人間不信に拍車をかけるだけだ)


「そっか。これ、作り方教えてくれてありがとな!」
「別に構わん。早く行け」
「おう! 行こうぜ、薬研!」
「嗚呼」


 獅子王と薬研は二人揃って厨を出ると、真っ直ぐに審神者の部屋へと向かう。
 考えてみれば、奇妙な事だ。この廊下も、厨も、怪我をしないで歩くことなんて今までなかった。薬研に至っては、廊下なんて這って移動していたことの方が多い気がしている。何もかも、審神者のせいで。
 しかし、今は審神者のために卵粥を作り、それを持って行こうと歩いている。身体は万全、ふらつくこともない。外を見て、雪がよく降るなあなんて考える余裕まである。

「なあ、薬研」


 歩きながら、ふと獅子王が口を開く。


「何だ?」
「俺さぁ、主に笑って欲しいんだ」


 この本丸に来てから、獅子王はずっと審神者を見ていた。けれど、まだ一度たりとも、無邪気な笑顔なんて見ていない。いつも無表情で、大抵浮かべる表情と言えば苦しそうなもので、笑うことはあれど、それは此方を想っての笑顔であったり、何かを誤魔化すような笑顔であったりする。
 自分が楽しいから自分のために笑う。前の審神者は得意であったのに、今回の審神者の何と不器用なことか。時折表情筋が死んでいるのではと思うほどだ。


「どうすりゃ良いと思う?」
「んー……」


 薬研は顎に手をあて、思案しながら歩を進める。


「…一緒に笑ってくれって言うか…」
「素直に笑ってくれると思うか? あの主だぜ?」
「………美味すぎる飯を作る」
「今のきいたら長谷部がすげー怒ると思う」
「……くすぐる……」
「殺されねえかな流石に」
「……満面の笑顔を向けてつられて笑うまで待ってみる…」
「俺達の負けで終わると思わねえ?」
「……大将の前で一発芸を……」
「真顔で終始見て最後に蔑む目で見られて終わりな気がする」
「……変顔……」
「薬研……」
「…………最終手段、笑い薬を……」
「薬研、それ反則」

 二人は、どちらからともなく溜息を吐いた。
 ただ笑って欲しいというだけなのに、何も案が浮かばない。ならば審神者の事情をどう解決してやろうかとか、そんなことも考えるだけ無駄のようで。そもそも案なんて浮かぶわけもないような気がして。


「……前途多難だな」


 遠い目で呟く獅子王に、「違いねえ」と返す薬研も、どこか途方に暮れていた。
 ……そして、その数分後、二人は更に途方に暮れることになる。


「………え?」


 そう呟いたのもまた、一体どちらが先だったか。
 入るぞ、と言って開けた襖の先。布団は見事にめくられていて、その中はもぬけの殻。刀もゴムも無くなっている。若草色の着物と黒袴だけは畳まれたまま残っていたけれど、襟巻は何処にもない。


 暫しの間、呆然とした後。
 粥の盆を置き、審神者の部屋の前から太刀と短刀が恐るべき速さで走り出すのは、当たり前のことだった。

   ***

 汗が噴き出し、寝間着が肌に張り付く。背中をつーっと伝っていくのに不快感を覚えながらも、目の前に広げているそれを見据える。


 ――――粉々に砕け散った、薙刀の破片。


 符を翳し、それが宙にふわりと浮かび上がる。薙刀の破片を覆うように小さな結界が張られたことを確認すると、改めて両掌を向けた。
 掌の中心に、青白い光が小さく灯り、ゆっくりと破片を包み込んでいく。破片が小さく震え、隣の破片と擦れあい、カチャカチャと音を立てる。風がゆっくりと部屋の中に巻き起こり、汗で額に張り付いていた少年の前髪が揺れ、首に巻いている襟巻がふわふわと靡いた。


 身体が熱い。震える。奥歯が勝手にぶつかり合って、音が鳴った。
 精神を集中する。元の姿の薙刀をイメージしながら、パズルのように破片同士を組み合わせるように描く。破片の一つ一つが微かに、順番に輝く。輝いて、光が強くなって、風も強くなって、そして――――

 ばちんっ! と。


「っ!!」


 両手が勢いよく弾かれる。同時に結界があっけなく割れ落ちて、強かった光は一瞬にして消え失せて行った。

「………っ……くっそ……」

 隠すことも無く、舌打ちをする。肩がガタガタと震える。強い衝撃で後ろへと倒れ込んだ少年は、何とか身を起こした。呼吸を懸命に整える。
 四つん這いで再び、破片に近寄った。宙に浮かんでいた符は既に燃え尽きていた。新しい符を取り出して、結界を張る。少し場所がずれている破片の位置を直して、もう一度。
 掌を向けて、精神を集中し始め……


「やめなさい」


 声が聞こえた。誰なのかはすぐに分かった。穏やかなのに、どこか圧がある声。
 少年は無視をして、掌を向け直し、目を閉じる。掌に、白い光が集まり始め……というところで、手首を掴まれた。集中が途切れ、光が消える。
 鬱陶しそうに少年は顔を上げた。


「やめなさい」
「うるさい」

 石切丸を睨みつけ、すぐに破片に視線を戻す。

「直せるかもしれない」
「直せないと今剣さんに最初に言ったのは君だろう」


 唇を噛み締める。離せ、と手を強く振るが、弱っている子供の身体と、手入れが終わっている大太刀の握る力とでは、差は歴然だった。


「直せるかもしれない」
「直らない。岩融さんは折れてしまった」
「直せるかもしれないっ!!!」
「馬鹿なことを言うんじゃない!!!!!」

 怒鳴られて、はっとする。手が震え出す。
 手首を掴んだままの石切丸は、子供を諫めるように静かに見つめていた。

「……折れた刀は戻らない。昨晩、君は今剣さんにそう言ったね。……でも一番それを信じたくなかったのは、君なんじゃないのかな」
「………」
「………君はこの離れを出るとき、岩融さんを置いていけって言った。もしかしてと思ったけど、来て正解だったよ。最後までずっと、『これ』に気をかけていたからね」
「………」
「死者は戻らない。刀も人もそこは同じ。今剣さんも本当は分かっていると思うよ」

 ひゅっと少年が息を吸う。かすれ声で、言う。


「……あいつはちゃんと現実を受け止めてた。岩融が折れてるってちゃんと分かってた。でも俺を訪ねてきたのは、俺ならどうにかできるんじゃないかと思ったからだ」
「……うん、そうだね。難しいと思うとは、私からも言っていたんだけど」
「………何かの間違いで、元に戻るかもしれない、だって審神者には霊力がある」
「霊力は万能じゃない。それは君も良く知っているだろう」
「あいつは俺に望みを託したんだ。だから後生大事に破片を守った。元に戻るかもしれない、それだけを」
「……うん。それは、否定はしないけれど」

 突然、小さく、小さく。自嘲気味に笑う。口の端を歪めて、破片を見つめて。


「……本当、俺は何もできねえのな……」
「そんなことはないよ。君は、もう沢山の刀剣男士を救ってくれている」
「折れていく刀助けられなくて何が〝救えてる〟だ!!!!」


 
 少年が怒鳴った。
 しかし石切丸の方は、表情は変えない。徐に手首から手を離す。少年の掌が再度、破片の方には向かなかった。代わりに、床に両手を付けて、深く項垂れる。

「どいつもこいつも俺のおかげ、俺のおかげって何言ってんだ、寝ぼけるのも大概にしろよ、主とか大将とかうるせえんだよ! お前ら自身のおかげに決まってるのに何で俺のおかげにしたがる!!! 俺は―――」


 石切丸が少年の肩に手を触れて、ゆっくり起こした。大きな懐に、すっぽりと入れる。若草色の袂で少年を覆い隠すように包んで、ぽんぽんとその頭を撫でた。


「……離せ、触るなっ」
「じゃあその背中の刀で私を斬ると良い。振り払うだけでも良いよ。その程度の力しか加えていないから。もっと簡単に、突き飛ばしてくれれば離れよう」

 ガタガタと震える手を持ち上げ、石切丸の胸に手を置く。ぐっと、力を込めて、押す。


「……。…それは、一応、突き飛ばそうとしてくれているのかな?」


 問いかければ、少年は顔を上げた。ぎりぎりと歯を食いしばっているのが分かる。口許が強張っていた。
 今にも泣きそうに、歪んでいるのに。
 石切丸は眉を下げる。


「……君は、自分自身が泣くことも許してあげないのかい」


 少年が目を見開く。そのとき、随分間の抜けた顔になっていた。同時に、大きく息を吸う。微かに小さな口が開いた。それを見た石切丸は鋭く目を細め、


「嗚呼…それはいけないな」

 ちょっと、寝てなさい。

 言うが早いか、少年の首筋にとんと手刀を入れる。すると、少年は呻くことも無く、ただ少し驚いたように固まってから、あっけなくその場に崩れ落ちた。
 完全に意識が飛んでいる事を確認してから、大太刀の彼はやれやれと息を吐く。膝の上に寝かせるように抱え直してから、一度、岩融の破片に目をやる。
 ばらばらになった破片。あれを直そうと考えるなんて正気の沙汰じゃない。同じ刀としての目線から見ても、あれは……そう。「あれ」としか言えないほど、もうただの物言わぬ残骸でしかないのだ。


 膝の上に乗っている、小さな頭をゆっくり撫でる。
 こうして見ていても、やはりこの子供の霊力は強く、綺麗だ。前の審神者とは比べものにならない。前の審神者と同じだと言っていたけれど、此方からすれば完全に別物だ。


(……それにしても、舌を噛み切ろうとするとは)


 子供が思いつくことじゃないように思う。一体、この子の過去に、何があったというのか。
 石切丸は、獅子王と薬研が離れにやってくるまで、ずっと少年の頭を撫で続けた。

 ***


「……秋田じゃん。なーにしてんの。こんなところで」
「あ、加州さん」


 部屋の前に一人でいる秋田を見つけ、加州は不思議そうにしながら歩み寄る。
 秋田はしっかり武装していた。確か間もなく出陣の時間だったはずだが、ここは一番奥の部屋。出陣の門からは、本丸内でも一番遠い場所と言っても差し支えないところだ。


「今日出陣でしょ? 早く行かないと長谷部に怒られるよ」
「えへへ…はい、そうなんですけど……行く前にご挨拶しておきたいと思って」
「ご挨拶?」


 秋田が丁寧に襖を開ける。中は、清浄な気で満ちていた。そして、沢山の箱の形を模した結界が畳の上に並べられていることに気付き、あ、と加州は声を上げる。


「もしかして、これ? 薬研が言ってた、折れた刀を弔ってるのって」
「はい。主君が、本丸中にあったのを見つけては、ここに持ってきて浄化してくれているんだそうです。ここには、僕が会うことのできなかった兄弟も、いっぱいいるって聞きましたから……」
「……そっか。偉いね。俺も見習わなきゃなー」


 無邪気に笑う秋田の頭をよしよしと撫でやりながら呟けば、短刀ははにかみながらも肩をそっと窄めた。
 折れた刀を全て集めて浄化するなんて、よくやるものだ。しかも折れた刀らのために、一つの部屋を使うなんて。広い本丸ではあるけれど、その気になれば審神者のための部屋としていかようにもできるはず。


(ほんと、優しいよね。あの人はさ)


 聞く話から見ても、実際に話してみた印象でも、こんなに優しい人間はなかなかいないのではないかと思う。
 大和守安定は単騎出陣して、戻ってこなかった。だからここに割れた残骸も無い。分かってはいたけれど、無意識のうちに探そうとしていて思わず苦笑する。まだ抜けきっていないな。そう考えて、両手を合わせている秋田の隣りで、順番に折れた刀を眺めた。

「………あれっ……」

 ふいに、声を出した。

「どうかしましたか?」

 合掌をやめて此方を向く秋田に、どう答えたら良いものか分からず、答えに窮する。だが、ちゃんとここで向き合おうとしているならば大丈夫かと思い直した。


「…いや…あんまりいい話じゃないんだけどね」
「? はい」
「……俺の知ってる範囲での話になるんだけど……」


 途中から、色々な反動もあって動けなくなり、碌に周りを見られなくなってしまったけれど。勿論、そんなもの、数えていたわけでもないけれど。ここで、初期刀として、延々どうにか見逃してもらい、皆を護らなければと思い、生きて、眺めて……そうしていた中で。知っている、折れた刀の数だけでも、ここにある量と比べて、違和感がある。
 もう一度、目の前の結界の群を見つめる。


「……折れた刀って、本当にこれだけだったっけ………?」