刀剣嫌いな少年の話 伍

2022年4月18日

 金属音が響く。火花が弾ける。
 見えるのは、二つの背中。何で、とか。どうして、とか。そんな言葉ばかり浮かぶけれど、本当は気付いてた。
 そして、自分で自分を嘲笑う。

 何を驚くことがある?
 彼らはお前を信じている。
 それに気づいていただろう? 
 ならば、分かってただろう?―――と。


 ―――視界で、血が、飛び散った気がする。

 嗚呼、


 ……吐きそうだ。

  ***

 まだ日も昇らない早朝。加州は、ゆっくりと目を開けた。
 瞼がぴりっと痺れるように痛む。意識をしたわけでもなく、自然と手が動いて己の瞼に触れた。少し腫れぼったい気がする。そして、もう一度瞬くと目尻からころりと一粒の涙が転がり落ちる。そこで、嗚呼、と声を出した。

 そうだった。俺、泣きまくっちゃったんだ。
 その後……疲れて…気力も無くて、動けなくなって……そしたら、…そう。長谷部が来た。それで、行くぞって。何処にって聞いたら、手入れに、って…。
 ……手入れ……手入れって、何だっけ。

 何度も瞬き、木目の天井を見つめ続け、麻痺している思考を一生懸命回す。
 手入れ。手入れ。―――傷を、直す? 本来は、そういう意味、だったような。

『俺は、大和守安定じゃない』

 ――――あ。

『お前も本当は分かってんだろ』


 瞳の奥に、此方を見上げながら、はっきりと告げてきた小さな子供の姿が甦る。


『ごめんな』


 そうだ。そもそも泣きまくった原因は、あの審神者。
 審神者の姿を思い出したら、ぼやけていた意識が途端にはっきりする。まず、自分は布団の中にいるらしい。布団で寝るなんていつぶりだろう。随分前が最後のような気がする。ここ一年以上は雑魚寝が当たり前だった。
 首を回して周りを見てみた。真っ先に視界に入って来たのは、


「…」


 黒いもふもふ。折角動き始めた思考が再び働くのを放棄しようとする。
 じいと黒いそれを見つめて、遅れて気付く。鵺だ、これ。獅子王の。ってことは
……。視線を巡らせてみると、鵺のすぐ傍で、障子に背を預けて寝ている金髪の刀剣男士が目に入った。


「……獅子王」


 小さな声で名前を紡ぐ。しかし、獅子王は目を開けない。熟睡だ。


「目ェ覚めたか」


 寝ているならば返事はなくて当たり前。そう思った矢先に思わぬ方向から耳に届いて、驚きながら急いで身体を起こした。
 そして、開けた視界にぎくりと肩が強張る。加州が寝ている布団の周りに、沢山の刀剣男士が倒れていたからだ。


「み、みんな……」

 薬研に、秋田に、五虎退。後藤。乱。不動。あと、部屋の隅で獅子王と同じような姿勢で座ったまま目を閉じ、首を垂れている長谷部。
 最近、本丸の奥の部屋に戻って来なくて、姿を見ていなかった刀だ。

「あのな、寝てるだけだから。どいつもこいつも」


 真っ先に頭に浮かんだことを否定するように言われる。そういえば、血みどろの戦装束ではないし、皆、内番着の姿だ。内番着の姿なんていつぶりに見ただろうか。
 そんなことを考えてから一拍遅れて、相手に目を向けた。毛布を抱えて立っている少年は、呆れたようにそっと肩を竦める。


「寝るなら部屋に戻れって言ったんだけどな。手入れ部屋も広くないって何度も言ったし、お前らにとって良い場所じゃねえんだろとも言ったけど、加州が起きるまではここにいたいって言って聞かなかった」


 少年は倒れている刀剣らに毛布をかけて回っている。本人も何処となく疲れた顔をしており、くあり、と噛み殺しきれずに欠伸を漏らした。


「お前、よくあの傷で折れてなかったな」


 布団の周りを固めている刀剣らに毛布を掛け終えると、今度は長谷部のところへ毛布をかけにいく。
 加州は目で追いかけるだけだ。


「足の方の傷は多分やばいんだろうなとは思ってたけど、実際に見たら背中やら腹やら……あんなに喋れてたことに驚いた」


 まあ相棒がいなくなったことで痛覚も理性もほとんど逝ってたってことなんだろうけど。
 付け足して今度は歩み寄ってくると獅子王に毛布を掛ける。最後に羽織を取って、加州の方に差し出した。どうするべきか分からなかったが、戸惑っている間にも「ん」とほとんど押し付けるように差し出されてしまい、ひとまず受け取る。起きるなら着ておけ、ということだろうか。
 確かに今の服装はいつものではなく白い寝間着だ。布団の中にいるならまだしも、起きるとすると少し冷えるかもしれない。


 ……そんな、当たり前のことを考えられることが不思議だった。目の前には審神者がいるのに。身体が冷える、何て気にする余裕は無かった。
 意識の大半を占めていたのに、今は、身体が重くない。怠くない。痛くない。


「……直してくれたんだ」

「長谷部が問答無用で連れてきたから。…折角綺麗になってきてる本丸で、死体の片付けは俺もしたくないし」


 意識が曖昧でよく分からなくなっていたが、長谷部に「手入れに行くぞ」と言われたのは、夢ではなかったらしい。


「お前、この本丸の初期刀なんだってな」

「え? ……あ、うん。一応」

「お前には沢山護ってもらったんだってこいつらが言ってたよ」


 布団に寄ってたかって集まって、すうすう寝息を立てている刀剣男士達。
 加州は眉間に力を込める。確かに、前任の所行に口出しをしたことは何度もある。必死に止めようとして、折らない代わりに夜伽一つで許して貰ったりもある。
 でも止められなかったことも沢山ある。


「……俺、何も、護れてなんて……」


 受け取った羽織を握り締めた。唇を噛み締める。
 折れてしまった刀も……自刃した刀も見た。――――大和守のことも、そうだ。


「失ったことより護れた事実に目を向けろよ」
 

 ぴしゃりと言い放たれる。


「こいつらが護ってくれたって言ってんだからお前は護ったんだろ。後悔は沢山あるだろうけどそんなもんに縛られてたら、こいつらを助けた意味は無かったって言ってるようなもんだ」


 少年が、手入れ部屋の中にいる刀剣男士を見つめた。
 その横顔に、加州はそっと息を呑む。前の審神者には、見られなかった表情だ。


「こいつらが持って帰ってきた資材、加州の手入れに使うって言ったら、凄え聞かれたよ。お前が部屋から出て来たのかとか、どんな状態なんだって。で、手入れしてる最中も周りをうろうろ。鬱陶しいったらねえ」


 ふと加州に視線を戻すと、微かに眉を垂らす。
 手入れをされたばかりの打刀は、困惑気味に見返した。


「…落ち着いて、動けるようになったら、とっとと戻れよ。部屋」


 踵を返し、一瞬獅子王の方を向いてから、音を立てないように障子を開いた。寝ている彼に気を遣ったのだと理解できないほど、加州も阿呆ではない。
 思わず、慌てて呼び止める。


「ちょ…ちょっと待ってよ。もう行っちゃうの?」


 振り向いた少年が怪訝そうに眉根を寄せる。


「…何か用あるのか」


 用、というほどのものはない。ただもう少し話してみたいと思っただけ。
 ただ、そう言ってもこの子供はいなくなってしまうような気がして、ずっと感じている疑問を口にする。


「……あんた、審神者なのに、何であいつとそんなに違うの」


 少年が、灰色の瞳を細める。


「……何言ってんだ。同じだよ」
「そんなわけない。あいつは、手入れなんてほとんどしなかった」
「あーそ。じゃあ手入れするかしないかだけの差だ」


 有無を言わせない調子だったので、加州は言葉を詰まらせる。


「……他の奴らにも言えることだけど、手入れされたくらいで俺に気を許すな。確かに俺は前任とは別人だけど、お前らにとっては、同じ職の審神者だよ。それ以上でもそれ以下でもない」


 そして、早足で手入れ部屋を出ていく。
 加州は困ったように視線を落とし、渡された羽織を広げた。柔らかい橙色……杏色、とでも言うのか。洗濯された後のようで、微かに洗剤の香りがする。血に塗れていない衣類。
 腰を捻って後ろを見れば、刀掛け台があり、そこに自分の本体が掛けてあった。手に取り、鞘から引き抜いてみると、綺麗な刃が現れた。


(……本当に手入れしてある……)


 自分の身体自体が不調を訴えていないのだから当たり前だが、まだ信じがたいものがあった。
 だが、刀を握る手から流れ込んでくる霊力は、これまで知るよりもずっと温かい。まるで、あの子供の優しさを表現しているかのような……


「…やっぱり全然違うじゃん……」


 自分は前任と同じだと、少年は言った。何処が? 何が?
 納得がいかず、無条件にもじわじわと苛立ちに似たものが腹の中に溜まるのを感じる。
 

「――――な。全然違うよな」
「っ!」


 肩をびくりと跳ねさせて顔を上げた。
 眠そうな目をした獅子王が此方を見ていた。


「……獅子王」
「おはよう、加州」


 欠伸をして、目許に滲んだ涙を拭う。悪戯をするように、前にいる鵺をもふもふ触っているが、鵺の方は素知らぬ顔だ。目を閉じているように見えるが、己の主人と同じく、もしかしたら起きているのかもしれない。


「もしかして、ずっと起きてた?」

「いや。主に毛布掛けられて起きた」

「…警戒してるから?」

「それも違う。加州がいつ起きるかなって気にしながら寝てたからそもそも眠りが浅かったんだと思う。多分みんなも起きてるぜ?」


 えっ、と思えば、周りで寝息を立てていた誰もがあっけなく目を開けた。てっきり寝入っているものと思っていたので驚く。ずっと瞼の裏に隠されていた目はどれもやはり眠そうではあるので、毛布を掛けられる前までは確かに寝ていたのだろう。


「起きてたなら言ってくれれば良かったのに」

「悪いな。俺達が起きてるって分かったら大将はすぐ、〝お前らで話してりゃ良い〟だの言って逃げちまうからな。まあ、どっちにしてもすぐ部屋を出ていくだろうとは思ってたが」

「ふぁ~……あー、分かる…絶対そうだな」


 眼鏡を外して目尻の涙をぬぐう薬研の言葉に、欠伸をしながら後藤が頷く。


「ボクたちが審神者を怖がってると思って、気を遣ってくれてるのかな…」
「主君が、あの人と違うのは僕にも分かります。本当は、もっとお話をしたいのですが……」


 乱がくしゃくしゃになった長い髪を指で梳きながら言う。その隣で、秋田が眉をハの字にしていた。


「……ねえ。皆にとって、あの審神者って、何なの。みんな、〝主〟って認めてるみたいだけど……信じられるの?」


 一同が顔を見合わせる。慌てて加州が手を振った。

「あっ、違っ、責めてるんじゃなくて! 分かるよ、何となく! 信じられそうって俺も思ったし! ただ、その、あの審神者、何かあんまり話してくれなさそうっていうか、話したくなさそうっていうか……」

 ええと、としどろもどろになりながら、一生懸命続ける。 


「俺、昨日、部屋から出てきたばっかだし…え、昨日だよね?」
「昨日だ」
 

 寝ていたせいで日付の感覚が狂っており、誰にというわけでもなく確認気味に声を発すれば、部屋の隅に座っている長谷部が即答した。
 そういえば子供曰く、自分を手入れ部屋に連れてきたのは長谷部だっただろうか。


「だから、俺、全然まだ審神者と話せてないし……色々、みんなから見た審神者を、教えてほしいっていうか…」


 加州の言葉に、皆の目が獅子王に向く。思わず、獅子王の表情が引き攣った。鵺を撫でる手を止めて、両手で相棒を抱え上げた。鵺が身動ぎするも、全く気にせずに腕の中に抱え込む。


「え、え? 何?」
「し、獅子王さんは……最初に、主様とお話、したんですよね……?」

 五虎退の問いに、他の面々も同じ様に浅く頷いて見せている。同じことを言いたいらしい。
 鵺を抱えたまま、初めて顔を合わせ、会話をしたときのことを思い出す。審神者を監視するためにずっと見ていた自分が、確かに最初だった。


「じゃあ獅子王、長くなっても良いから、話してくれないかな」
「……嗚呼。そういう」


 自分が最初に話をして、最も長く――と言っても他の者とそれほど差は無いように思えるが――審神者を見ている。だから一番よく知っているだろうという考え方だ。
 加州は元々、初期刀だからということも相まって、責任感の強い刀だった。大和守安定について無茶な命令をし、悟り切った目で了承していた、あの決定的なことが起きるまでは、刀剣男士の中でも背筋を伸ばして立とうとしていた刀だった。


(加州のそういう顔、久しぶりに見たな)


 現状を把握し、前に進もうとする。
 度重なる刀解や破壊に悲痛な表情を浮かべ、止めとばかりに相棒を失ってからの彼はまさに抜け殻だった。そこに再び魂を宿してくれたのも……結局、あの子供なのだろう。


「―――おう。良いぜ。あ、でもあくまで話し始めが俺ってだけな! 他にみんなも知ってること、どんどん付け足して良いから! っていうか、付け足して!」

 昨日の出陣中は審神者が何をやっていたのか知らないし、加州が手入れ部屋に来た経緯も分からない。その辺は留守番をしていた長谷部か後藤が知っているだろう。それに、あの審神者を主と認めてからは、監視のつもりは全くないので四六時中動きを眺めているわけでもない。が、自分ではなくとも他の刀なら見ているかもしれない。もう、獅子王自身の言葉だけではあの審神者のことは語れやしない。

 さて、まず話し始めなければならないのは何処からだろう。最初に会話をしたときの内容から? 否、獅子王は、あの審神者を「監視」していた。話していなくとも、もっと前から見ていた。そして何をやっていたのかもちゃんと知っている。
 初めて審神者を見て、てっきり大人が来るものと思っていたのに、子供でしかない姿を見て驚いたとき。それが、本当の最初だ。
 話の順序を何となく決めると、獅子王は徐に口を開いた。

   ***

「……そして、加州。お前が、この手入れ部屋にいる、という話に至る」

 最終的に話を締めくくったのは長谷部だった。今日の出来事に話が入ってくると、必然的に長谷部と後藤が話し手の形になったからだ。あれだけ審神者を警戒していた長谷部が、審神者を「主」と認めた理由も、疑問視していたそれぞれが納得したように頷いている。
 一方、審神者の話をしてくれと所望した加州はと言うと……相変わらず布団の中に入ったまま、しかし半身は起こした状態で額に手を当て、固く目を瞑っていた。必死に現状を理解しようとしている様子であるが、頭が痛そうだ。恐らく、本当に頭が痛いのではなく、気持ちとして「頭が痛い」のだろうが。


「……どうしよう…俺、もしかしてぼんやりしてた時間長すぎて頭悪くなったのかな……」
「どうしてですか?」


 心配そうに秋田が問えば、加州は両手で顔を覆った。


「………みんなの話を聞いてて、あの審神者の〝刀剣男士が嫌い〟にあたる行動が全く見当たらない……!」
「安心してくれ加州の旦那。多分ここにいる全員が思ってることだ」

 それはともかく、すかさずフォローを入れる薬研も何処か遠い目だ。
 獅子王に続き二番目に子供と話した身であるのでほとんどが知っている話だったが、改めて話としてまとめられてみれば、「刀剣嫌い」の言葉がどの行動をとってもちぐはぐであるのを感じた。
 だが、あの子供は、何をやっても最後には「刀剣が嫌いだ」と言い切る。


「あの方は嘘を吐くのが下手だ。刀剣が嫌いというのも嘘だろう。ただ、意味も無く言っているとは考えにくい」
「うーん……全部が嘘っていうわけじゃないと思うけど……」


 考える仕草をしながら唸る獅子王に、皆が怪訝そうにする。
 だってそうだろう。誰よりも長く、言葉と行動が不一致である子供の行動を見てきたのは獅子王のはずだ。そして、言葉ではどうとでも言える。実際に行動に起こしていることが皆に変化を与えているのだし、ならば言葉が「嘘でない」と言うなら何だと言うのか。


「…俺さ、見ちゃって。主が刀、叩きつけようとしてるところ」
「刀を…?」


 誰からともなく問い返す。


「ほら、不動が怒られた時」

 獅子王は首肯して答え、不動に目を向けた。
 やはり、怒られた自覚がある分居心地が悪いのか、不動が少しだけ身体を縮める様に膝を抱え直す。


「主の様子がおかしかったから、俺が見に行ったんだよ」


 歩き去った審神者の後を追いかけた先で見たもの。
 それは、外に出た少年が巨大な庭石を前に俯き、佇む姿。後ろ姿でも分かるほど、全身から、全てに対する拒絶を感じた。だから獅子王は、駆け寄って声を掛けることができなかった。
 拒絶の意思自体を目の当たりにしたのは、初めてではない。他でもない自分自身、周りにいる仲間の刀剣。人間に対して「拒絶」を見せるのは、寧ろ普通の事だった。だが、少年が纏っていたものは、それらよりもはるかに強いものだった。はっきりとそう感じ取ることができたのは、彼の霊力を感じていたからなのか、はたまた別の要因なのかは分からない。ただ、漠然とした確信だった。

 ひたすらそこに立っていた少年は、徐に動き出す。背負っていた刀を下ろしたかと思えば、両手で鞘と柄を掴んだ。そして、勢いよく、振り上げる。
 獅子王は、息を詰まらせたまま見守った。どう見ても、叩きつけようとしている動作だというのは分かった。分かったけれど、とても止めに入ることのできるものでもなく。恐らく、その場にいた者にしか分からない、異常な空気が少年の周囲を支配していた。


 しかし少年は結局、叩きつけることなく、刀を下ろした。代わりに、その刀をまだ幼い細い腕で抱え込み、蹲った。泣いていたのかもしれない。違うかもしれない。
 ただ、見ていた背中は、丸くなって、小刻みに震えていた。
 

『……いつからそこにいた』


 暫くして、漸く落ち着いたと見える審神者がふいに口を開いた。
 獅子王はぎょっとしながらも、歩み寄った。果して嘘が通じるだろうか、と思いながら、しかし見てはいけないものを見たような気もして、咄嗟に「今さっき」と答えた。


『……あーそ。なら良いや』

 嘘を見抜かれたかは不明。ただ、少年はいつも通りの声のトーンで返し、当たり前の様に先ほど叩きつけようとしていた刀を背負い、感情の読めない灰色の瞳で淡々と言葉を連ねて、再び活動を再開したのだった。

「…あのときの主が何考えてたのかは知らねえけど……刀を叩きつけようとしてる姿見て、もしかしたら本当に刀剣男士が嫌いなのかもって、思った」


 獅子王が腕を緩めると、捕まっていた鵺がするりと腕の中から抜け出す。しかし、離れるようなことはせずに、相棒の後ろへと移動し、ぴっとりと寄り添って四肢を折り畳んで座った。


「だけど、嫌いでも、酷い事する審神者じゃないっていうのは、もう分かってたから。信じたいなって。あの審神者に色々、賭けたいって思ってるのは、本当だ」

「……なるほどね。有難う、獅子王。嫌だったでしょ、その話するの」


 礼を述べた加州の口許は緩んでいるが、笑顔と表現するには何とも中途半端なものだ。


「信じたい審神者が刀を叩きつけようとしてたなんて、悲しいもんね」


 申し訳なさそうに、軽く頭を下げる。
 初期刀の真摯な対応に戸惑った様子で、慌てて獅子王は手を振った。「いいって」と早口に告げた。ただ、やはり悲しくないとは言えないらしく、此方もまた微妙な顔で俯いてしまう。


「あの、その叩きつけられそうになってしまった刀は…?」


 ふいに浮かんだ疑問だが、これもきっと秋田だけではなく皆が頭の何処かで抱いていたものだ。
 審神者ならば顕現させる力があるはずなのに、そうしないでずっと背負っている打刀。恐らく、この本丸には顕現していない刀だ。どうして肌身離さずずっと持ち歩いているのだろうか。それとも、刀剣男士が嫌いだから、刀剣男士として姿を与える事を、子供の方が拒否しているのだろうか。
 結局、誰も答えらしい答えが浮かばずに、黙り込む。


 改めて加州は指先を顎にあてて、思考を巡らせた。


「……そういえば、俺も引っ掛かる部分があって」
「お前はまだ主とそこまで話していないだろう?」
「それはそうなんだけど……あの審神者って、他の本丸とここを掛け持ちしてたりする?」


 長谷部を初め、誰もが訝し気に眉を顰めたので、念のためにと「別に狂ったわけじゃないよ」と言葉を添えておく。


「有り得ないだろ、それは」


 薬研が即座に否定するのも、当たり前だ。
 この、本丸という場に身を置き、戦争に身を投じている彼らには当たり前すぎるものとして備わっている、基本の知識の一つ。審神者は二つ以上の本丸の掛け持ちでの運営は、不可能だということ。だからこそ、それをしているのかと尋ねる加州は余程滑稽に見えたことだろう。加州自身、自分以外の誰かが宣ったならば、きっと同じように訝し気にしただろうと思う。
 まず、一つの本丸を運営するのだけでもかなりの霊力を消費する。二つの本丸の運営できてケロリとしている審神者がいたなら、それはもはや化物の領域だ。そして、あの少年は確かに霊力の使い方には年齢にそぐわず大変長けているようではあれど、化物じみた霊力を保持しているわけではない。そもそも、そんなものを放出されては、霊力の供給過多で刀剣男士側が耐え切れなくなってしまう。早い話が破壊状態になるだろう。

 つまり、ここにきたあの子供は、審神者としての知識と素質を充分に備えた「初心者」であるということになる。
 霊力の強さは分かる。使い方が上手いのも天性というものはあるし、変なことではない。子供とはいえ勘の鋭さがあれば、別段おかしいことはない。一人一人の刀剣男士の名前を知っているのも、資料を読み込んで記憶力さえあれば、容易いこと。
 だが、それでも腑に落ちないことがある。


「あの審神者は、俺にこう言ったんだ。〝加州が相棒を見間違えるわけがない〟って」


 〝加州清光〟と〝大和守安定〟が、それぞれどのような刀で、どんな姿で顕現されるのかは書類でいくらでも確認できる。持ち主が元々同じであったことも確認できるから、お互いが相棒のような間柄にであることも想像するに難くないだろう。
 だが、少年は確かに〝加州清光〟と〝大和守安定〟の、相棒としての深い繋がりを理解していた。紙の上に連なる文字を舐めるだけでは到底持つことのできない温度を、言葉に滲ませていた。


「…え? じゃあ、主さんはここに来る前から、審神者だったってこと? 何処かの本丸で?」

 縋る様に見られて、後藤が眉をハの字にする。

「いやいや……そんなこと有り得るのかよ? 聞いたことないぜ。だって、普通審神者って……」
「うん。普通、審神者は下ろされることはないよ。此処みたいに無茶な事ばかりして無理矢理下ろされたら、二度と審神者の任に就くことはないはずだし、そういう事情が無い限り審神者をやめることは許されてない」


 初期刀として、前任が審神者になったとき、共にこんのすけや政府の役人から話を聞いたので、その辺のシステムはよく覚えていた。
 審神者の素質を持つ人間は一握りだ。だから色々な時代から審神者の素質をもつ人間をスカウトして、時間遡行軍との戦いが始まった二二〇五年に連れて来る。よって、よほどのことが無い限り審神者を政府が手放すことは無いのだ。本当に、何もかもを逸脱して、本丸が機能を果たせないような状況になる最低の運営でもしない限り。審神者の病気等でごく稀に下ろされることはあっても、当たり前ながらそんな審神者は二度と政府からも呼ばれないし、戻ろうとしたところでまた途中離脱されては困るため、認められない。

「でも、何かあの審神者、俺達刀剣男士のこと、よく知ってる気がするんだよね……明らかに、前から刀剣男士と喋ったことがある感じっていうか……」

 考えてみれば、この場にいる誰一人として、審神者に自己紹介をした者はいない。最初に顔を合わせて、会話をした時点で、子供は当たり前のように自分達の名前を呼んでいたから、自己紹介の必要が無かったのだ。
 ……書類を読んで知っていたから? 審神者として、刀剣男士の知識を身に着けていたから、当たり前に名前を呼んだ? 本当に?

 あの子供は、不可解な点が多すぎる。
 どうして刀剣男士が嫌いなのかも、どうしてその嫌いな刀剣男士を助けようと躍起になってくれてるのかも、ここに来る前は一体何をしていたのかも。何も分からない。

「……僕……主様のことを、もっと知りたいです……」


 五虎退の周りを、小虎たちがじゃれるように動き回っている。
 不可解な点は多すぎる、ゆえに、何かを企んでいる可能性も充分に考えられるのが現状だ。でも皆、賛同する様に頷いた。もう彼らは、審神者を信じたいと思ってしまっていた。

 話していて、それぞれがもう随分前のことのように思えていたが、よく考えてみるとまだ数日程度しか経っていない。
 短い期間の中で、人間不信に陥っていたはずの刀剣男士がこれだけ、審神者の処へ集まった。手入れをしたくらいで気を許すなと、あの子供が何度言おうと、結局はそういうことだろう。


 あの子供は、信頼に足る人間だ。


 ――――カタッ。

 会話が途切れると、突然物音がいやにはっきりと響いた。音のした方に目を向けると、自然に障子を見ることとなった。そこに、長身のシルエットが浮かび上がっている。
 子供のシルエットではないということは、刀剣男士以外に考えられない。とはいえ、障子越しでは誰であるかまでの判別は難しい。……が、


「……大倶利伽羅?」


 後藤の口から、ころりと名前が転がり出る。
 何故分かるんだと周りは不思議そうにしているが、自然に彼だと認識した。昨日の夜、審神者部屋の前で見かけたせいかもしれないが、身長がぴったり一致しているような気がする。

 影がゆらりと動き、廊下を歩き去って行く。


「大倶利伽羅!」


 慌てて立ち上がり、障子をすぱんと開けた。
 ここは手入れ部屋だ。その前に来たということは、やはり怪我を直してくれと頼みにきたのではないか。やはり、仲間がずっと怪我を負っていると言うのは、辛い。折角その気になってくれたなら、引き留めて、今すぐにでも審神者を呼んで、手入れを受けてほしい。
 廊下の角を曲がっていく背中だけをぎりぎり目で追えた。


「後藤、今の影、本当に大倶利伽羅か?」


 薬研が尋ねると、後藤は半分廊下に出てるような体勢のまま振り向いて頷いた。


「昨日の夜も、審神者部屋の前にいたんだ。大倶利伽羅も、結構深手負ってるみたいで……」
「…でもまだ大将を信じきれなくて、ってところか。分かった。応急処置には俺が向かおう。状態によっちゃ俺からも説得する」


 医療については明るい薬研だ。すっくと立ちあがると、宥めるように後藤の肩を軽く叩いて、白衣の裾を揺らしながら小走りで出て行った。
 粟田口の兄弟のやりとりを見守っていた獅子王が、ぴくり、と肩を揺らした。銀色の目を、何度か瞬かせる。


(……?)


 自分でもよく分からない感覚に、眉を顰めた。
 目敏く気付いた長谷部が、問いかける。


「どうした、獅子王」
「……いや、何か……ぴりぴりしてて……」


 頭の中に、一本の線が通っているのを感じる。それが、これでもかと言わんばかりに引っ張られている。きりきりと音を立てて、切れそうになるほど強く。


(何だ……?)


 身体に力が入る。心臓の脈打つ音が、徐々にはっきりと聞こえて来る。
 この感覚は初めての感覚ではない。そう、例えるなら、戦場で感じる緊張感―――


 脳裏に、突然、少年の姿が、浮かんだ。

「――――ッ!!!」


「獅子王!?」


 誰に名前を呼ばれたのかは分からない。確認する一瞬の時間も惜しかった。
 鵺の毛が逆立つ。肩の上で、唸り声をあげる。何も確証はないけれど、本能が叫ぶ。だから獅子王は己の本体を手に立ち上がり、手入れ部屋を飛び出した。走る方向は、大倶利伽羅と、薬研が去っていった方向。

 歯を食いしばる。間に合え、と思う。
 でも、何に間に合うのかは、自分でも分からなかった。

  ***


 手入れ部屋を出て、まだ暗い廊下を進む。向かう先は審神者部屋でも厨でも風呂場でもない。できるだけ近づかないようにと心がけていた、刀剣男士が籠城する部屋が集まっている場所だ。
 少年は、溜息を吐く。


(何やってるんだ、俺は)


 自分に呆れながら、前に進む。
 裸足でぺたぺたと歩きながら、足の裏に感じる冷たさを鬱陶しく思った。いっそのこと動けなくなるくらい、冷たくなってしまえば良いのに。こんな小さい足、氷漬けになってしまえば良いのに。そんな、普通の冬の冷たさでは有り得ないことを幻想した。

 嗚呼、らしくない。やめれば良い。こんなこと。
 さっさと審神者部屋に戻れば良い。他に、沢山、やらなければいけないことはいくらでもある。


 ――――お前まで失くしたくないと言ってるんだ!!!


 頭をがつんと殴られたような錯覚に陥る。声が頭に響いて、こびりついて離れない。拳を握り締めて、結局自分はこんなことのためにそこへ向かおうとしているのかと、心の中で嘆く。
 くそが、と毒づいた。余計なことを聞いてしまったと思う。
 霊力で探りながら、目当ての部屋の前にまでやって来る。一番奥の部屋ではなかったことに安堵した。まだ籠城している刀剣男士が襲い掛かってきたとき、もし一番奥の部屋だったら廊下の突き当りとなるため、追い詰められる可能性が高い。逃げ場が多いに越したことは無いのだ。


(…ま、それも、そうなったときはそうなったときだけど)


 部屋の前で足を止めてから、ふと、苦笑が漏れた。あれこれ考えていて、大半がやめておけば良いという思いのはずなのに、一度も足を止めていなかった自分に気付いた。
 本当に、ままならない。
 なぜか周りをうろつくようになってしまった刀剣男士の行動は全く意味が分からないが、こうなってくると自分のことすらよく分からない。逆に分かることは、何なんだろうか。


 とりあえず、霊力で探ることをやめる。身体は冷えているのに、つ、と汗が頬を伝った。ずっとこんなことをしていてはあっという間に身体が疲弊してしまう。

 さて。身構えながら、襖に手を掛け、そっと開いた。中から微かではあるが瘴気が零れだした。本丸全体を覆っていたのと比べれば微々たるものであるが、既にほぼ浄化されている本丸内で晒されると、結構きついものがある。
 中を窺ってみると、部屋の奥の薄い布団の上に横たえられている二人の男が見えた。男、というにはどちらも華奢な体つきだが、どうせ人間ではないのだからその辺は気にする必要もない。……それに、少年は彼らを知っている。


(……そいつも一緒だったか)


 あまり見ない組み合わせだなと思いつつも、組み合わせ云々考えてられるような環境下ではないところに顕現されているのだから当然だと考え直す。 
 部屋に足を踏み入れた。畳に砂や埃、あと血が混ざっているようで、足の裏のざらついた感触は、地面に立っているときのものとさほど差を感じなかった。掃除したいな、と頭の隅で思う。
 暗い部屋の中で、注意深く周りを観察した。
 飛び散っている血や吐瀉物の残骸なんかはもう他の場所でも飽きるほど見たので、今更何も感じない。
 


(……他に気配は感じない。消してるのか、本当にここにいないのか……)

 ――――折れた、のか。


 前に視線を戻す。布団に横たえられている二人に歩み寄って、腰を屈めた。眉間に力を込める。思っていたよりもずっと、状態が悪い。


(…前任の所行か、これ。頭イカれてんな。…今更か)


 しかも二人かよ、と独り言ちた。思ったよりしんどそうだと嘆息し、手を翳した。自分の霊力を以て、応急処置のつもりで浄化作業を施す。怪我も酷そうなので手入れも行いたい。この作業が終わったら一人ずつ運ぶか…いや、その前に加州達が今手入れ部屋にいるはずなので、彼らが出て行ったことを確認しなくてはならないだろう。
 この本丸は手入れ部屋として利用できる部屋が二つしかない(どちらも元は手入れに使われていなかったようだがそれはもう今更だ)。一つの部屋で手入れできるのは一人まで。同時進行でやろうと思ったら二つの部屋を同時に使う必要がある。


 あれこれ考えることが多くて面倒臭いことである。
 浄化作業を施しながら、少年は顔を顰めた。どれだけ、穢れを含んでいるのだろう、この刀剣男士の神気は。応急処置のつもりだったのに、それだけでもだいぶ時間がかかりそうだ。


(…半端なところでやめると、結局祓い切れなかった穢れに押し戻されちまう)


 諸々のことを考えるのは後回し。今は、この作業に集中しなければ。

 それから、どの程度時間が経った頃だろう。まだかかりそうだな、と思った。意外に手こずっている。呪いに似たものまで掛けられているのだから、浄化を施せば施すほど、前任の頭のおかしさに此方まで眩暈を覚える。仮に、刀剣男士を無碍に扱って苦しむ姿を見るのが楽しみだったのだとしても、寧ろよくここまで面倒臭い事をできたものだ。


 気持ちの切り替えの意味も含めて、息を吐く。
 きっとあと少しで、この刀剣男士らが破壊状態になることはないはずだと、自分を奮い立たせようとしたそのとき。
 音も無く、気配も無く、少年の背中に覆いかぶさる二つの影。


「―――――死ね」


 襖を開けっぱなしにして部屋に入ったことが、功を奏した。まだ薄くなりながらも光を保つ月明かりが、その影をさり気なくも浮かび上がらせてくれた。
 目の前のことに改めて集中しかかった頭にブレーキをかけて、振り向くと同時に懐に忍ばせていた符を背後に飛ばす。それは、空中に静止して、簡易的な結界を生み出した。

 振り下ろされてきた二つの刃は、ばちばちと音を立てて結界に阻まれた。四つの目が、驚きに見開かれる。
 一瞬怯んだうちに、少年は足に力を込め、二人の脇を通り過ぎ、部屋の入口へと舞い戻った。結界も本当にその瞬間しかもたず、安っぽい音を立てて崩れ落ちる。二人はぎらぎらとした瞳で、子供を睥睨した。


「……見つかったか」


 大事な仲間を、動けない刀剣男士二人を、そのままずっと置いておくなんてあるわけがない。誰かしらがくることは当たり前のことだろう。
 目の前の彼らは、此方を睨みつけながら、本体を構えた。少年は唇を舐める。いつの間にかすっかり渇いていた。


(短刀と脇差)


 じり、と後ろに下がる。結界の壊れる早さや、結界に食い込んだ刃の強さ。この二人、そこそこに練度は高そうだ。


(分が悪いな)


 動きが遅ければ、自分の方が早いのでどうにでもなる。けれど、やはり自分はただの霊力がある人間でしかないわけで、短刀の動きの早さにはどうしたって敵わない。しかもここは、狭い室内。短刀も脇差も有利に動ける場。
 ちらり、と彼らが背中に庇っている、布団の上の二人を視界の端にとらえる。
 途中まで浄化作業をしたと言っても、まだ、放っておいたらどうなるか分からない状態だ。できれば早めに何とかしたいが。


「……俺を殺してもそいつら助からないぞ」


 殺気がさらに鋭くなった。やばい、刺激した。言葉選びを失敗したことを悟り、思わず天井を仰ぎそうになる。あーくそ、めんどくせえ。
 助かる手段はまだある。だけど殺されたら当然ながらできない。
 自分が逆の立場だったらまず信じない。だって、他でもない審神者が彼らをそんな状況に追いやったわけで、自分は同じ審神者だから。
 でも言わねばなるまいと、口を開く。


「助け方を知ってる。今は見逃せ」


 前に立つ二人は、何も言葉を話さない。刃毀れしてるくせに、無駄に切れ味が良さそうな刃が、威嚇するように光る。
 審神者と言葉を交わすのも嫌ってか。はは、そりゃいいや。俺だって刀剣男士と喋るなんて御免被る。あいつらがイレギュラーなんだ。嗚呼、この、刀剣男士と審神者の間にある壁をどうにかしてやろうなんて、露ほども思っちゃいない。だからこれが当たり前。
 喋らなくて済むなら、俺もそれには大賛成。――――だけどな。

「その耳と口は飾りかよ。小夜左文字。骨喰藤四郎」


 今は、違う。
 話をしないとそいつらを助けられない。


 正面から見つめ合う。しかしその瞳に宿る意思は、是とするものではない。頑なに口を開かず、嫌悪感だけはしっかり露わにしている。
 器用なことだ、と感心した。


 ――――トッ、


 軽い、足音。視線を下げた。自分より低い位置にある、青い髪。
 殺してやると、前髪の隙間から覗く目が語る。


(早ッ……!)


 ほとんど反射で半歩引いた。同時に刃が下から上へ、斜めに切り上げられる。前髪が一部、ぱらりと落ちていく。変な体勢になったせいで転びそうになりながら、廊下にまで出る。
 続けざまに横から脇差を突き出され、何とか身を捻って躱したが、かなりぎりぎりだ。足をもつれさせ、壁にぶつかる。背負っている打刀ががしゃりと音を立てた。


(さて、どうするかな)


 小夜と骨喰がいては、奥にいるあの二人に纏わりついているものの浄化ができない。自分の力で小夜と骨喰を気絶させられるだろうかと思うが、まあ無理だろうとすぐに却下する。
 一度引いて、追いかけてきてもらって、上手い事撒いて、先にここに戻って来るか。否、この二人、俺がいることに気付いたときも、衝動的に飛びかかってくるのではなく、わざわざ気配を消して近づいてきたくらいだ。自棄になっているわけではなさそうである。純粋に審神者に敵意を抱いているだけだろう。ならば考えは見抜かれている可能性が高い。どちらかが追いかけてきても、どちらかが残るとかされては打つ手がない。


(厄介だな。めんどくせえ)


 一旦庭に出られるところまで逃げようと、走り出す。すぐ真横に、小夜が追い付いてくる。だから早えよ。
 短刀を突き出される。もう良いや左腕くらい。
 小夜の刃は少年の左腕を抉った。すぐに第二撃を放とうとしていることくらいは分かった。右手で符を投げつけ、また申し訳程度の結界を張る。連続で攻撃しようとしたなら小夜の中には一つの流れができているはずだ。それを遮れば……


「っ!」


 二撃目を結界に阻まれて、小夜の表情が歪む。
 流れを無理矢理止められると、怯んだときの隙は大きくなる。左腕が使い物にならなくなったがちょっとは距離を離せた。


 ――――良いか、結界ってのはこうやって張るんだ


 頭に響いた声に、うるさい知ってる、と口の中で言葉を転がす。
 庭が見える場所までそう遠くないはずだ。そしたら庭に飛び出して……。

 風を切る音がした。足首に鋭い痛みが走った。
 あ、と思ったときには遅く、前傾姿勢で全速力で走っていた身体は派手に転び、廊下を転がった。足首から血が出ている。見れば、転んだ自分よりも更に前に、からからと音を立てて、床の上を回転している脇差があった。
 〝骨喰藤四郎〟だ。

 そこでやっと状況を理解する。


(本体投げるとか正気かよ)


 結構な痛みに、呻いた。その間に、骨喰が横を通り抜け、落ちている本体を拾い上げる。そして振り向いて、再び歩み寄って来る。

 左腕と足から流れ出る血が、廊下を汚す。嗚呼もう、折角廊下磨いたのに。また掃除しなきゃいけないじゃねえかよ。
 庭に出ればいくらでも身を隠せるから、何とかなると思っていたが、廊下でこの有様ではどうしようもない。

(参ったな。俺を殺してすぐ堕ちるってことは無い筈だけど)

 あの、先ほどまで浄化していた二人は、事情が違う。故意に堕とされようとしていたのを、何とか保っているだけ。あれだけは、今何とかしなければならないのに。
 短刀を片手に、倒れている自分に歩み寄って来る青髪の少年。逆方向から、脇差を片手に、歩み寄って来る白髪の少年。
 ラスボスかよと苦笑を漏らす。お前らどっちも鏡見ろよ。その憎悪に満ちた顔、完全に悪役のそれだぞ。下から見ると、尚更、圧が凄え。


 ……命乞いでもすれば呆気にとられてくれるだろうか?
 こんな弱い人間なら何もできるはずはないと思って、殺すのを先送りにしてくれるだろうか? あの二人の浄化作業をやらせてくれたり、しないだろうか。

 ふは、と吐息と共に笑いが落ちる。

(小夜左文字も、骨喰藤四郎も、そんな甘い刀じゃなかったな)


 無駄だと分かり切っているのに、何を考えているのだろうか。 
 骨喰が、無感情な目で此方を見つめている。脇差を振り上げる。


 ――――……馬の世話。一緒に、しないか


 小夜が、憎しみに満ちた目で見つめている。短刀を持つ手を引く。


 ――――……干し柿。一緒に、食べませんか……


 嗚呼。
 何て……馬鹿馬鹿しい―――
 
 

 金属音が、響いた。

   ***

 金属音が響いた。肉や骨を断つ音ではなく、金属と金属がぶつかり合い、擦れあう音。同時に、火花が弾けた。
 目を、見開く。思わず、ぽかんと口が開いた。

(……は?)

 小夜と骨喰が、息を呑んだ。二人の刃は、同じく二人分の刃に防がれていた。
 見えたのは、二つの背中。

「そこまでだ。剣を引け、小夜すけ」
「薬研…!」


 薬研に制され、動揺した様子を見せながら小夜は慌てて飛び退る。


「まあまあ、落ち着けって、骨喰」
「………獅子王……」


 眉間に深く皺を刻んで、全く納得できていない顔のまま、骨喰が数歩後退する。


 獅子王と、薬研。
 どちらも武装していないが、本体を構えて、少年を背中に護るように立っている。


(……何してる?)


 どくりと、心臓が脈を打つ。


(……何で俺を庇ってる?)


 耳鳴りがする。


「……退いて、薬研」
「刀を下ろしてくれるならな」
「……それは、できない」
「…そうか。小夜すけらしいな」

 薬研が困り眉で、小夜を見返した。殺意はまるでないが、刃を向けて牽制することは忘れない。

「……なあ。どうして刀を下ろすことはできないんだ?」

 きゅっと、小夜が唇を一度引き結ぶ。
 復讐を求める彼も、刀の切っ先は向けたままだった。

「……審神者は兄様達を傷つけた。復讐されて当然だと思う」
「宗三を傷つけたのは前の審神者だろう。この人間じゃない」

 薬研がちらりと、後ろにいる少年を見やった。
 その目に、心配そうな色が宿る。

「…薬研の言っていることは分かる」

 骨喰が答える。

「だけど……違う人間でも、同じことを繰り返されてしまうかもしれないなら、許容できない」

 いつも骨喰の傍にいた刀。
 その存在を思い出して、獅子王が苦し気に表情を歪める。

「……鯰尾は……まだ起きないんだな」

 薬研の表情もまた、痛そうに歪んだ。

「……もう起きない。鯰尾も。……恐らく、宗三も」

 骨喰が言う。無感情に、淡々と。そこには悲しさも怒りも無かった。
 彼だけではない。小夜も、憎しみこそあれ、他の感情はもうほとんど空っぽだった。もう、大事な仲間が助かることを諦めているのだ。
 思わず、骨喰兄、と呟く薬研の声は、掠れた。


「っ…何だよ、まだ分からないだろ! もしかしたら案外何でもなく起きて、」

「獅子王」


 何も感情が乗っておらず、また声を荒げたわけでも叫ばれたわけでもないのに、脇差の声に遮られ、何も言えなくなる。


「気休めは……やめてほしい」


 骨喰も、小夜も、もう散々願った後だった。いつか目を覚ましてくれ、声を聞かせてほしい。そう願った後だった。だが、傍目でも分かるほど、鯰尾も宗三も穢れに呑まれていた。ただ時間が二人をゆっくりと、刀剣男士という存在から堕としていく。その姿を見守ることしかできない。
 

「…最期には、僕達が自分で、兄様達に止めを刺す。堕ちて終わりになんて、させない。……だから、これ以上、兄様達を苦しめることは、許さない」


 小夜の持つ短刀の切っ先が、骨喰の持つ脇差の切っ先が、床で倒れている少年に向けられる。
 獅子王と薬研は、唇を噛んだ。
 宗三と鯰尾が受けた仕打ちを、二人も勿論知っている。だからこそ、小夜と骨喰は現状維持を求めて、こうして刃を向けている。だが、この新しい審神者が、前の審神者と同じ様に見られているのは悔しかった。そして、それと同じくらい、小夜と骨喰の言わんとしていることが分かるせいで、酷く息苦しかった。


「……骨喰、小夜。頼む、聞いてくれ。この審神者は、」
 

「………ゴチャゴチャぐだぐだ、うるっせぇんだよ」


 苛立った声を発し、よろよろと少年が立ち上がる。
 当然のように、小夜と骨喰の表情は険しくなった。何をする気だと警戒している。


「あ、主、」
「黙れ金髪馬鹿」
「だま、え、きんぱっ!?」

 片足を引きずりながら歩み出て、「邪魔」と肩で薬研を退かす。
 小夜の正面にまで近づくと、躊躇うことなく少年の手を取って、本体の刃を喉元に自ら突きつけた。予想のできなかった行動に、小夜の方が硬直する。


「小夜左文字。本当に諦めてるならこのまま俺を殺せ」
「……な、にを……」
「安心しろよ、罠じゃない。別にこの襟巻、防刃機能なんかない。ちょっとでも前に今押し込めば、お望み通りお前の嫌いな審神者は目の前で死ぬ」

 小夜の手を持つ己の手に、力を込める。


「けど、もしちょっとでも諦めてない気持ちが残ってるなら、俺を殺すのは後回しにしろ。審神者殺すのなんてお前らだったらいつでもできる」
「大将あんた何言ってんだ!!」

 薬研が叫ぶが、少年は眉を少しも動かさずに、ただ目の前を見据えた。
 復讐を望む短刀の喉仏が、微かに上下した。本体を持つ手を、今、掴んでいる少年の掌。それは、小さい身体である自分と大差のないもの。幼い人間。

「……あなた、は。兄様達に、何をする気」
「俺なら助けられる」


 きっぱりと告げられて、今度こそ小夜は固まった。


「さっきも言っただろ。助け方知ってるって」


 ダメ押しのように言ってから、少年が振り向く。そこに立っている骨喰も、驚きに目を見開いて固まっている。その顔があまりに間抜けで、審神者はきょとんとした。すぐにまた無表情に戻ってしまったが、

「……助けられる命がある。助けさせろ、馬鹿」

 やっと昇って来た朝日が窓を通して差し込んでくる。
 朝日に照らされた少年の顔は、何処か悲しそうな色を残しながらも、苦笑を浮かべているように見えた。

   ***


 宗三左文字と鯰尾藤四郎にはそれぞれ、この本丸にかけがえのない刀があった。無論、この本丸にいるすべての刀が仲間であり、嘗ての歴史を見れば長い付き合いとなる刀も、気を許せる刀もいたが、それでも殊更に大事な存在だった。それが、小夜左文字と、骨喰藤四郎だった。
 しかし、運が悪いことに、この二人は戦場でもよく発見される刀で、また鍛刀によっても現れることは少なくは無かった。


 ……だから前任にとっては、「よく姿を現す玩具」程度にしか、映らなかった。


「……で?」


 荒い息に混ぜて、非情に雑な口調ではあるが続きを促された。
 一瞬迷うが、話さないと殺すくらいの眼力で睨まれては従わざるを得ない。獅子王はやれやれと息を吐いた。


「……よく姿を現す玩具は、あいつにとって消耗品だったんだ。…それで…えっと、…だから……」
「刀剣男士、同士、を、戦わせるのが…好きだったん、だろ。どうせ」


 冷水に浸された手拭で、少年の顔面を濡らしている汗を拭った薬研が、怪訝そうに問い返す。


「…どうして知ってるんだ?」
「この本丸……折れてる量も、頭おかしいし……堕としてやらせたかったことって言ったら……だいぶ…限られて来る……」


 ぐったりと壁に身体を預けて浅い呼吸を繰り返す。
 ここは手入れ部屋の隣りの部屋。手入れ部屋の中では今、宗三、小夜、鯰尾、骨喰の四人が眠っている。小夜と骨喰の傷は大したことのないものだったが、宗三と鯰尾の手入れにはかなり苦戦した。
 結果的に、昨夜から今朝にかけてはほぼ徹夜で加州の手入れをし、それからあまり間を置かずして四人分の手入れを順に行った結果、またしても夜までかかった。手入れに丸一日費やしたことになる。
 そんな無茶な手入れを立て続けに行った結果、少年の身体も流石に悲鳴をあげたらしい。先ほどからずっとこの状態で、怠そうだ。本人は手入れ中いらないとか、余計なお世話だとか何度も言っていたけれど、食事だけは手入れの合間に薬研が無理矢理とらせた。

 霊力の大量消費によって審神者の顔色はかなり悪い。本当なら気を失うように寝るところだろう。だが、あろうことか少年は、宗三と鯰尾の仕打ちについて話を聞かせろと言ってきたのだ。心配でずっと傍に控えていた獅子王としては、一度寝てからの方が良いのではないかと提案したが、まるで聞く耳をもたなかった。
 でも、話すことにしたのは……嬉しかったからだ。少年から、何があったのかと尋ねてきたのは、初めてだった。
 
 ―――そして、刀剣男士を〝助ける〟と言ってくれたのも、初めてだった。


 獅子王は、手入れ部屋のある隣りの部屋の方に目を向ける。この一枚壁の向こうで、寝息を立てている四人の刀剣男士。最初は、小夜も骨喰も戸惑っていたけれど、少年の手入れで酷く安心したようで、糸が切れた人形の如く、眠り込んでしまった。


「宗三は、小夜を折れって命じられた。鯰尾は、骨喰を折れって命じられた。でも二人とも拒否したんだ。どんな風に痛めつけられても絶対に頷かなかった」


 ならば俺がやろう、と前任は二人の目の前で、小夜と骨喰を折ったこともあった。絶望する二人の前で、また新しい小夜と骨喰を顕現すると、同じ命令を下した。だが、やはり拒否をした。その繰り返しだ。


「痺れを切らしたあいつは、じゃあ魂が堕ちれば仲間を折れるようになるかって、とんでもないことを考えた」


 審神者としての顕現を乱用し、宗三と鯰尾にどす黒い霊力を注ぎ込み、訳が分からなくなるほどの穢れで魂を染めつくした。
 最終的に二人は倒れ、目を覚まさなくなったが、そんな状態になるまでも一度も命令にだけは従わなかった。目の前でかけがえのない刀を折られて、涙を流すこともできなくなっていたが、理性が完全に飛ぶことはなかったのだ。

 やがて、前任は動くことも無くなった宗三と鯰尾を痛めつけることに飽いた。一方、ひたすら護られ続けた小夜と骨喰は、審神者に復讐せんと誓い、この最悪の状況下でも出陣をしては経験を積み、練度を高めていった。

「……強いんだな」

 ふー、と息を吐き出して天井を仰ぐ。少しだけ、呼吸が整ってきた。
 少年は左腕に巻かれた包帯に手を添えた。幸い、小夜に抉られた傷は骨にまでは達しておらず、危険な血管を傷つけられたようではあれど大事には至らなかった。全く動かせなくなるということは無さそうだ。また、足の傷も同様だった。因みにどちらも薬研に無理矢理治療された次第である。
 未だ伝う汗は、襟巻に吸い込まれていく。外そうか、と薬研が聞けば、少年は首を横に振った。

「……俺が殺されてやった方が、気分、晴れたのかなぁ……」
「……主」
「だって、そうだろ。助けられるって言っても、結界と俺の霊力使って穢れを追い出すだけだ。目を覚ますかはあいつら自身の気力の問題でしかない。なら、殺されてやった方が、本当は良かったのかなぁ」
「大将、そういうこと、あんまり言わないでもらえるか」


 ゆるりと薬研の方を向く。
 男前の短刀は、やりきれない顔つきだ。


「……何でお前がそんな顔すんの」
「大将が、そういうことばかり言うからだ」
「そういうことって」
「〝殺したければ殺せ〟、〝殺されてやった方が良かった〟。〝自分で出陣する〟とも言ったよな、昨日。大将は死にたいのか?」
「……そう聞こえてたならそれで良い」
「良くないな。俺達がどれだけ、あんたに恩義を感じてるか、分かってないだろう」
「知るかよ。恩義? 馬鹿か」


 眉間に皺を寄せ、歯を食いしばる。握った拳が、小さく震えた。
 またそうやって突き放すのか。


 ――――本当は突き放す気なんてないくせに。


「今回のことも、不動が言ってたのを聞いてたからなんじゃないのか。宗三が、やばい状況だって。だから大将は自分から、あの部屋に行った」
「知らねえな。たまたまだ」


 知らばっくれてんじゃねえ。
 苛々と、もやもや。どちらともつかない感情が、腹の奥に、積もっていく。まだしんどそうにしている少年は、誰のために、こんな風になっているのか。

 刀剣男士を助けるために、辛い思いをしているんじゃないか。
 俺達は、そんなあんたを。


「あんたもう、気付いてるんだろう。俺達はあんたを、あんたという審神者を主として認めてる。刀は、人間に振るわれて初めて意味をなす〝モノ〟だ。放置されてたんじゃただの鉄屑と変わらない。俺達はあんたに使われたい」
「獅子王、薬研。言い忘れてた」

 薬研の言葉を遮り、目を閉じて、少年が口を開く。

「俺はここの審神者になった。でも、お前らの主にはなってない」


 知ってるか。刀剣男士が審神者を「主」「大将」と呼ぼうと、それで主従関係が成立するわけじゃない。刀剣男士が審神者を「そう」だと認めても、審神者側の了承がなければ、正しい契約は結ばれない。
 もし、未だに主従関係が成立しているのだとすれば、前任との間にだ。尤も、前任は審神者としての権限は剥奪されているはずだから、それも無いだろうが。

 お前らは、審神者にもう縛られてないんだよ。
 そして俺も、お前らを認める気はないんだ。


「……そういうわけで、俺に気を遣うのはやめろ。今日みたいに俺を庇うのももう二度とするな。不愉快なだけだ」


「――――っだから何であんたは……!」
「薬研」


 怒鳴りかけた薬研の肩に、獅子王が手を置いた。銀色の目が少年を映す。少年も瞼を持ち上げて、正面からその瞳を見返した。
 獅子王は思う。
 どうして気付かなかったんだろうか。この子供の灰色の目に、光らしい光が灯っていない。ずっと淀んだまま、現実を見据えているように見えて、夢現を見ているかのような、不安定な眼差しに。


「……主。冗談抜きで、あんたの刀になりたいって言っても、ダメか?」
「ダメだ」
「それは何で?」
「刀剣男士が嫌いだからだ」


 少年が、うっそりと笑う。


「大嫌いだから、俺のために怪我するな」


 そう言った少年の微笑が。今までで一番、ちゃんとした笑顔に見えただなんて。
 こんな悲しいことがあってたまるかと、獅子王は涙を飲んだ。


 少年を庇ったとき。
 喜ぶでも驚くでもなく、辛そうに顔を歪めていたということに、彼は気付かないふりをして、何かの間違いだと思い込もうとしていたけれど。
 きっと事実だったんだと思うと、どうしようもなく辛かった。

   ***


 井戸の前に立っていた。
 流石に夜なら誰も来ないだろうと思ってたのに、雪をざくざくと踏む音が、近づいてくる。もしかして、部屋でも見張られていただろうか。尾けられたのかもしれない。


「大倶利伽羅」


 無視して井戸桶で汲み上げた水に柄杓を突っ込む。冷たすぎる水をぐびぐび飲んでいると、案の定、後ろから声がかかった。
 振り向けば、そこに立っているのは長谷部だ。無関心そうに一瞥してから、再び大倶利伽羅は井戸に向かって水を飲んだ。
 話をしようというときに背中を向けられてしまったが、別に不快には思わない。元々この打刀は、こういう性格だった。あと、こっちを見ていなくても割とちゃんと耳は傾けられていることも知っていたので、構わず言った。


「今朝方のことなんだが」
「知らない」
「何も言ってない」


 食い気味に言ってる時点で知ってると言ってるようなものではないか。言葉少なのくせに何故こうも嘘が下手くそなのか。まるであの子供のようだ、と思ってから、すぐに今いる審神者と比べてしまうあたり、自分はだいぶ絆されているらしいと感じた。だが、もう子供を主だと認めた時点で、絆されていること自体には喜びすら感じる。
 主を第一に考えられる。へし切長谷部として、これほど嬉しいことはない。刀は、主に使われて何ぼのものなのだから。

「主が危険だということを知らせるために、わざと手入れ部屋の前に来たんだろう」
「……」
「薬研が言っていたぞ。お前の後を追いかけたら、その途中で、主が小夜左文字と骨喰藤四郎に追われているのを見つけたと」
「あんたも新しい審神者のことを〝主〟って言うんだな。驚いた」


 全く驚いていないトーンで言って、井戸桶の中に柄杓を入れた。口許の水を手の甲で拭う。やや身体をふらつかせながら、井戸から離れ、歩き去ろうと足を進める。


「おい、大倶利伽羅」
「俺は俺のやり方でやる。それだけだ」


「……それは、どういう意味での〝やり方〟だ?」


 確信があるような問いかけ方に、一度、大倶利伽羅は足を止めた。振り向く。ぼろぼろの姿はいつ見ても痛々しい。見慣れていることもまた、何とも言えない気持ちである。


「……慣れ合う気はない」
「……そうか。お前はそういう刀だったな。じゃあ好きにしろ」
「嗚呼」


 再びを足を進める。数歩進んだ先で、「大倶利伽羅」と声が掛かる。
 今度は振り向かなかったが、足は止めた。


「……無茶をするなよ」
「………」


 大倶利伽羅は、呟いた。どうでもいいな、と。

  ***


 足を引きずりながら、審神者の部屋へ向かう。だいぶしんどい。考えてみれば、昨日の夜から今朝まで夜通し加州の手入れをして、今度はやっと日が昇って来たと思ったら夕方辺りまで延々鯰尾と宗三、小夜と骨喰の手入れを行っていた。合間に食事をとったといっても、薬研にほぼ捻じ込まれる形だったので、はっきり言って余計に疲れた。
 何があったのかの話を聞いたりしている内に、すっかり一日は終わりに差し掛かっている。洗濯や諸々のことは、勝手に傷が癒えた加州や、物好きな短刀連中がやってくれたらしい。全然頼んでいないが、今日は自分が全く動けなかったので助かると言えば助かる。……大変不本意だが。

(嗚呼……やっと休める……)


 視界がふらふらしていて落ち着かない。ちょっと歩いただけなのに息も切れる。獅子王と薬研に、審神者の部屋までおんぶしていくと何度も言われたが丁重にお断りした。
 あんな会話したあとなのになぜその気になれる。構うなと、主従関係にないと何度も言ったのに。あと子供扱いされるのも物凄く気に食わない。いや、子供なのだけど。
 問答無用で抱え上げようとしたから本気で拒絶したらやめてくれた。無駄に凹んだ顔してたから、仕方なく明日の飯の支度と手入れ部屋にいる四人の看病だけ頼んだ。あと勝手に過ごしてくれていたそれ以外の奴らのことも。頼んだら全部帳消しにするほどではないとはいえ、嬉しそうにされた。キチガイか。審神者に頼まれたもんで喜ぶなよ。あと頼ったんじゃないからな言っておくけど。

 ……それにしても、本当に散々な一日だった。
 嫌いな刀剣男士の手入れ、手入れ、また手入れ。挙句の果てに庇われて命を長引かせるという現実。悪夢か。悪夢だな。


(今回は俺が自分で動いたってのも悪いけど……)


 別に親切心なんかじゃない。
 あれは、そう。何となく、不動と長谷部が揉めていたのを覚えていて。宗三がやばそうだとかその辺理解しただけで。魔が差しただけだ。たまたま何となく足が向いただけ。

 危うく倒れ掛かって、壁に手をついて足を止めた。
 時刻はまだ夜の八時くらいといったところだろうか。まだ活動できる時間はあるが、とてつもなく眠い。今日は早寝と決め込むしかないというか、もうそうしたい。この際、布団なんか引かなくて良い。横になって寝られれば、もう何だって。
 壁に手をついたまま、ゆっくり進んで、審神者室の前までやっとたどり着く。

 ――――かちゃり。


 刀の構える音。軽いけれどそれなりの音がして、刀装具が緩んでいるのだろうと思った。だいぶ傷んでいる証拠だ。その音は、とても近くに聞こえた。
 耳の、近くで。


「おそかったですね」


 溜息が零れた。くそ、疲れたし眠いし、霊力も使い切ってぼろぼろなのに。次から次へと。厄日かよ、今日は。もういっそ来ても良いから、今日は勘弁しろよ。一日に何人、嫌いな刀剣男士を相手にしてんだ、俺は。
 あと一歩だった。障子さえ開ければ、あと一歩で、審神者部屋の中に入れた。

「まっていました。さにわさま」

 小天狗は、平淡な声でそう言った。