刀剣嫌いな少年の話 弐

2022年4月18日

 暗闇なのに、光が見えるような、そんな気がする。
 目を閉じているのに、瞼の裏で目は確かにきょろりと、光を求めて動いていて、嫌になる。視力があると、どれだけ堅く目を瞑ったところで、何処かで光を感知してしまう。それが、煩わしくて仕方ない。どうせなら、いつまでもいつまでも闇の中で良いのに。
 徐に瞼を持ち上げる。障子から漏れだしている、外からの光。朝が来たのだ。部屋の隅に座って寝たのに、光は図々しくも部屋の奥まで踏み込んできている。


(……朝だ……)


 この、朝が来る時間が、どうしようもなく嫌いだ。
 夜が永遠に続いてくれと願うのを、嘲笑うみたいに。実際に朝が来ても、どうせ心に太陽なんて昇らないのは、分かっているのに。


(また、朝が来た)


 動くのが怠い。しんどい。
 唇を噛みながら、抱えていた刀の柄にこつりと額をあてる。


(――――消えたい)

 それでも今日も、朝が来た。

   ***

 さて。今日やらなければいけないこともてんこ盛りだ。てんこ盛りだからこそやるべきことは、まず現状の整理。

 いつも通り刀を背負い、部屋の中を見回す。剥がした血塗れの畳が壁に立てかけてあり、床はボロボロの張り合わせられた板が丸見えだ。だが、他の血だらけだったところは最初に見たときよりも遥かにマシで、見ていて吐きそうになるほどではなくなっている。

 そっか、そういえば昨日、片付けたんだっけ。

 誰かさんに色々手伝ってもらってしまったような気もするし、何なら全く望んでもいない呼び方もされた気もするが、全て幻だったと思うことにする。抜刀しかけていたのに次のときには手入れしてくれなどと申し出て来る奴がいるわけがない、いてたまるか。
 俺では到底届かないところの血も拭き取られているようだがきっとあれだ、妖精さんが手伝ってくれたのだ。

 よし、と気を引き締める。襟巻を巻き直した。
 そんなことより、さっさと本丸を綺麗にしないと…マシになったのはこの部屋だけ。どうせ、本丸全体の結界を張り直したといっても、魔法じゃあるまいし劇的に空気が良くなるわけでもなければ、荒れ放題の庭やら部屋やらの惨状は何も変わらない。
 となると、だ。今日やるのは、まず、


 ――――ぐうううぅ。


 ……。
 溜息を出た。こんな最低な環境下でも、悲しい事に人間は腹が減るらしい。知ってたけど。そういえば、昨日はドタバタしてて何も食ってないんだった。

 うん。飯にしよう。

 その後またクソ管狐でも呼び出して、必要なもん手配して貰えば良いだろ。
 まだ本丸内の厨の様子は全く確認してないので、せめて備え付けの設備は使える状態であってくれと願いながら、いざ部屋を出んとする。

 で。

「…………」

 朝日を受けてキラッキラしてて超目障りな金髪。
 と、真っ黒のくせにこっちもまた朝日を受けて普通より明るめに見えるもっふもふの毛むくじゃら生物。

「…………」

 ――――ぴしゃ。

 一旦閉めた。
 気のせいだ。絶対気のせいだ。何だあれ。昨日わけが分からない展開が続いたから昨日の今日で俺の頭が混乱状態になっているだけだ。いや、昨日わけがわからないことなんて何も起きてないけど。妖精さんがあれこれやってくれただけだけど。そうだ、気のせいだ。あいつが部屋の前にいるなんてそんなわけがない。
 ははは、俺思ったより疲れてんなぁ? 朝から幻覚見るなんて笑えねえ。

 そう思いながら再び障子を開ける。顔だけ出して首を回す。


 …………やっぱりいた。


 内心泣きそうになった。頭抱えて転がりまわりたくなった。
 えええ…何でだよ、何でいんのお前。

 手入れ部屋を出てすぐ横。廊下の壁に寄りかかったまま静止しているそいつは、くうくうと安らかな寝息を立てている。
 溜息を吐きながら廊下に出ると、すげえ寒い。日本家屋で冬の廊下がクソ寒いのは考えてみなくても当たり前だ。こいつこんな中で寝てるのか。まさか一晩中ここにいたんじゃねえだろうな。風邪引くぞ。
 じろじろと見続けていると、そいつの傍らで丸くなっていた、相棒である鵺の方がぱちりと目を開けた。そして、俺の方を睨んでくる。実際、睨んでいるのかは分からないが、こいつ目つきが悪すぎて睨んでるようにしか見えない。

 暫く鵺と見つめ合っていると(すげえ奇妙な感じ)、鵺は別に騒ぐでもなくまた目を閉じてしまう。…お前さ、目の前に人間がいるのに相棒起こさなくて良いわけ。俺が何するかも分かんねえのに。
 溜息を吐く。起きてまだ一時間どころか数分しか経ってねえのに俺は何回溜息吐いたんだろう。溜息で幸せが逃げていくなんて言葉があるけど、もしそれが事実なら俺の幸せは根こそぎどっかに行っちまってるに違いない。


 それにしても、何なんだろうこいつ。俺がこの部屋にいること分かっててここで寝てるんだよな。こうやって見てても全く目を開けないし、狸寝入りかと思うにはしっかり寝てる気がする。
 ……ちょっと、不用心すぎないか。それとも、自殺願望でもあるのかこいつ。わざと隙見せて俺に殺されようって魂胆か? めんどくせえから絶対やらねえけど。

 溜息を吐いた。
 もういいや幸せなんて何処へでも行っちまえ。そんなもん初めから無いに決まってるし。
 
 そんなことより、厨だ。
 今は、腹を満たすことが重要だ。腹減って動けなくなる方が、困るからな。


   ***


 何かがすり寄って来た。最初にそう思ったけど、馴染みある感触にすぐ、ああ鵺だなって思った。起きろと言われている気がして、ゆるゆると俺は目を開ける。ぼやけている視界の中、何回か瞬きをすると鮮明になった。
 俺の脇腹にぐりぐりと頭を擦りつけてきている相棒を見下ろして、思わず頬が緩む。

「んん、おはよ、鵺。―――あー、よく寝たぁ……」

 久々の快眠だ。っていうか、久々って言うのは違う。多分、初めての快眠。
 身体に傷が何も無いと、こんなにぐっすり、気持ちよく寝られるものなんだな、人の身体って。寝ている間も、身体が痛くて夜中に目が覚めるなんてことは無かった。起きた瞬間に「眠いなー」って思うのも新鮮だ。いつも、「痛いな」って思いながら起きるのが普通だったから。

「……んあ?」

 毛布の下から腕を出して、ぐーっと伸びをしようと…毛布?

「…毛布だ」

 俺の身体に、毛布がかかっている。ちょっと薄汚れてる毛布だけど、こんなのを被って寝てた記憶はない。だって鵺が傍にいるだけであったかかったし、それで十分だと思ったし。
 不思議に思いながら視線を巡らせてみると、

「………何だこれ」

 今度はそこに竹皮で包まれた握り飯が二つ置いてあることに気付いた。一見でも分かるほど物凄く不恰好で、ボロボロの握り飯。海苔で無理矢理形を整えているみたいな感じだけど、固まり切らなかった米が数粒、竹皮の上に落ちている。

 思わず、呆けてしまう。握り飯って、人の子が食うものだよな、確か。じっちゃんも食ってたの見たことあるから、分かるけど。何で人の子が食うはずのもの、ここに置いてあるんだ?

 すると、鵺が握り飯の方へともそもそ動いて行って、細長い足を黒い毛の中から伸ばして竹皮をつっついた。…食いてえの?
 鵺が握り飯を強請るなんて初めてのことで、困惑しながら一個手に取る。ぱかりと口が開いて、鋭い歯が並んでいるのがよく見える。そこに放り込んでみた。

 ばくん、と口が閉じて、咀嚼している。俺が言うのもなんだけど、鵺ってこういうの食って良いのかな。少なくとも、こいつが物食ってるの見るのは初めてだ。暫く食べている様子を眺めていたら、今度は鵺が竹皮ごと、俺の方に残った握り飯を、足で押して寄せて来た。


「…食えって言ってるのか?」


 反応は薄いが、何となくわかる。
 ……食って良いのか、これ。そりゃ、確かに俺、刀剣でも人の身体だし、食えるんだろうけど。顕現してもらって食ったことなんて一度もない。
 刀剣男士が飯を食うってことに果てしない違和感を覚えながら、残った一個の握り飯を手に取った。まず手始めに…匂いを嗅いでみる。とくに臭わない。人間ってどんな風に食べてたっけ。ちらりと鵺を見ると、まだでかい口がもごもご動いてる。

 えーっと…口に入れて…噛む、のか。で、飲み込む。そういえば飲み物もとくに飲んだことねえ気がする。厨で飯作ってる奴はいたけど、全部審神者の分しかなかったし。

 …本当にこれ食って良いのかな。食ったら叩かれたりとかしねえかな…。
 いや、前のあの審神者はもういねえし、そういうことねえのは、分かってるんだけど。あまりに慣れねえことで、らしくもなく考えこんじまう。そしたら、じっと鵺がこっちを見上げてきていた。口はもう動いてない。食ったんだな…。

 …うん。鵺が食って、俺が食わねえってのもな。よし。

 意を決して、持っている大口を開けて握り飯に噛みついてみる。―――と、


「っ!? あ、ま……」


 噴き出しそうになった。知らなかった、握り飯って甘いのか!? とてつもない甘さに噎せそうになる。
 握り飯って砂糖で握るんだ…? …何だろうこの違和感。刀剣男士が飯食う以上に砂糖で握り飯を作るってところに凄い違和感。人の身体で本能的に感じてる違和感な気がする。何が言いたいかって何か違和感しかねえ。

「……ぶ、ふ、くくっ……」

 意味も無く笑えて来た。
 もう一口食べてみて、丁寧に今度は噛んで味わってみるけど、甘さが濃くなるばっかりだ。口の中を蹂躙する甘味と白米は、どうも…こう。合わさっちゃいけない感じ、というか。もしこうするなら、他にやりようがあるような気がするというか。なあ、やっぱこれ、ちょっとおかしくねえ? 握り飯って本当に甘いのか?

「へへ、うわ、本当あっめぇ……けど、」


 ――――どうしよう。うっめぇ。


 何かが、こみ上げてくる。目の奥が熱い。と思ったら、次の瞬間には視界がぼやけた。頬を伝っていく涙に、自分では動揺しなかった。悲しい涙じゃない。それが
自然に分かったから。
 いつの間にか、夢中になって甘い握り飯を齧っている自分がいる。
 絶対に甘すぎるけど、こんなに美味いものがあるなんて知らなかった。ぼろぼろ零れていく涙を、鵺は目を細めながら眺めていた。

 鵺。この握り飯、めちゃくちゃ美味いな。

 そう掛けた声は、吃驚するほど震えていてよれよれだった。鵺は、ふんと顔を逸らした。可愛くない奴。食べかけの握り飯を片手に持ったまま、鵺に抱き付いた。やめろって身体をまた左右に揺らされたけど、絶対に嫌な時はこいつは逃げていくから。
 折角だし、甘えておくことにした。鵺の毛は、今までにないくらい、ふかふかで、もふもふで、あったかかった。

 握り飯を食べ終えて、人間のように両手を合わせてご馳走様をしたあたりには、涙も止まっていた。立ち上がると、相棒の鵺は定位置である肩によじ登る。
 流石に、誰が握り飯を置いてくれたのかとか、毛布かけてくれたのかとかは見当がついていた。
 早くお礼を言いたいやら、やっぱりもっともっと話してみたいやらで、上機嫌で手入れ部屋を開けた。外から声かけても、昨日の様子から言ってどうせ返事はしてくれないだろうと思ったからだ。

 でも、実際に手入れ部屋を開けて覗いたら、中に子供の姿は何処にもなかった。

 あれ、と思って手入れ部屋の中に入り、押入れの中とかを確認したが、いない。引き出しの中を開けてみたけどそこにもいない。大体、人間が引き出しの中に入れるわけもなかった。もっと大規模で、底の深い引き出しとかならともかく。ただ、新しい手入れ道具が丁寧にしまわれているのを見つけては、頬が自然と緩むのだった。


「何処行っちまったのかなぁ」


 とりあえず、ウロウロと彷徨ってみる。
 寝ている間に出て行ってしまったのだろう。しかし、自分も刀剣であるのに人間が部屋を出て行ったことにも、毛布をかけてもらったことにも、傍に握り飯を置かれたことにも一切気付かないとは。どれだけ熟睡してしまっていたのかを嫌でも悟る。

 目的の審神者を探すべく、獅子王は手あたり次第に部屋を開けていく。気のせいかどうか分からないが、どこも微妙に片付けられてるような気がした。ただ、彼とて普段そんなに本丸中を歩き回っているわけではないので、実際のところは分からない。そんな気がするだけかもしれない。
 やはり傷が痛んだこともあって、基本は部屋で大人しく過ごしていた。ただ、近々新しい審神者が来ると聞いて、周りの殺気立ち方に焦って、外に出ただけのことだ。


(んー、掃除しながら本丸中歩き回ってんのか?)


 途中でもしやと思い厨にも入ってみたが、姿はない。握り飯を作るのに使ったと思われる道具もちゃんと全部洗ってあった。流し台の前に見覚えのない木箱が置いてあり、その中にはとくに何も入ってなかったので多分、踏み台として使ったのだろう。
 自分を見上げて来た顔を思い出す。
 遠目で見た印象よりも、幼い顔立ちだった。なのに灰色の目は随分と冷ややかで、何処か達観したようで、ただ身体は小柄も小柄。声だって子供らしい高い声だ。


(でもみんなの剣先を平気で躱したあの動きは、戦いを知ってる奴の動きだった)


 あの子供は人間であるけれど、動き方は短刀のそれを彷彿とさせるものだった。
 加えて、聞こうか迷ったけれど、結局昨日は聞かなかった、背負っている刀。あれはどう見ても打刀で、多分……知っている。何故、あの刀を持ち歩いているのだろう。
 それに、気になることはまだまだいくらでもあった。そもそも、この本丸にあの少年が来た意味。ここがどういう場所なのかくらい、政府にも分かったはずだ。霊力が凄いのは手入れでよく分かったが、にしたって年端のいかない審神者を寄越すのをこうもあっさり了承するものだろうか。

(……審神者だからここに来たのは、分かってるけど。でも、本当にそれだけなのかな?)

 引き続き探すべく、廊下を歩きながら考える。
 見た目が子供、声だって子供、でも中身は子供らしくもない、発言をとってもそうだ。そして、周りの刀剣の殺意を見ても臆さない度胸―――
 そこまで考えて、獅子王はいや、と首を横に振る。あれは、度胸じゃない。


(………あれ? もしかして………)


 しかし、次の瞬間、思考が中断する。

「え? あ、鵺!?」

 肩から鵺が突然離れた。下に軽く着地したかと思えば、ふよふよと見ようによっては浮かんでいる風でもある動きで、細い足を動かしながら、結構な速さで廊下を突き進んでいく。

「おい鵺!? 何処行くんだよ!」

 相棒の突然の暴走に、慌てて己も駆け出す。鵺が自らこんなに動き出すなんて初めてだ。一体どうしたというのか。
 廊下を行く最中、ある場所の床が派手に抜けているのを見て、酷い有様な本丸だと再認識しつつも、今は鵺を追うことが最優先だった。

「鵺、待てってば! 一体どうし―――」

 廊下の角を勢いよく曲がる。そこで、鵺は止まっていた。だが、視線は黒い獣ではなく、もっと奥に釘付けになる。

 ――――ぽたり、ぽたり。床を濡らす鮮血が、赤くて、紅くて。


 視線の先。
 子供は、昨日は背中に差していた刀を身体の正面に引っ掛けていて、自分よりも少しばかり大きい体躯の少年を背負っていた。肩口から、少年の腕が、だらりと力なく垂れ下がっていた。そして、その少年は、小さな背中から今にもずり落ちそうに傾いている。子供もそれには気づいているらしく、腕を必死に後ろに回して、落ちないように支えながら、よたよたと歩いてくる。


 しんどそうに頭が持ち上がり、ばちり、と。お互いの視線がぶつかった。
 瞬間、忌々し気に歪められる。しかし、何処か、青ざめた顔。


 またお前かよ。

 呆れたように、そう言われた。

  ***


 厨で握り飯を作った後、最初に何をやろうか迷ったけど、やっぱり本丸を見回ることにした。だってまず本丸内がどうなってるのかを把握しないと、優先順位もつけるにつけられないし。

 そういえば、飯を作る場まで血みどろなんてことはなく、厨は意外と綺麗だったのは助かったし、さらに案外米が残ってて良かった。幸い米の炊き方くらいなら分かる。日本家屋だけど事実上はめちゃくちゃ最新設備も揃ってる世の中なわけで。ここの審神者は最新設備がある厨を希望したみたいだった。(本丸によっては古き良きを大事にってことで超旧式の場合もある)


 おかげさまで電気も通ってるし何なら米炊くのについては、米洗ってスイッチ一つでお終い。俺、そんなに料理できるわけじゃないからこれは大助かりだ。
 もし米炊くのにまず火を熾してとかそういうところだったら完全に詰んでた。


 他にも何か食えそうなもの残ってるかなって思ったけど、肉とかは傷んでそうだったし野菜も然り。畑で育て直さねえとだめだなあと思ったのは悲しい限り。畑も荒れ放題だったよなぁ…。正直、こんのすけにはあんまり頼りたくないから可能な限り自給自足生活したいところだけど、最新の改良されてる種を使うにしても実がなるまでどれも一週間はかかる。暫くは審神者通販システムで野菜とか取り寄せるしかないな…。審神者室に政府との連絡機械とか生き残ってたりすれば、こんのすけ経由であれこれやる必要もないのに。

 大体な。
 審神者用の連絡関係の機械…つまるところ、パソコンのお届けは後日って。阿呆か。それこそ最優先で準備しなきゃいけないもののはずだろ本来。届けられる日も分かりません、早く届いたらラッキーと思ってくださいって言ってたあの政府の役人、正気か。不出来な宅配業者か。時間かかるのは仕方ないにしてもいつ届くのかくらいは説明しろよ。

 …という文句ももう面倒で適当に答えて終えてしまったのだが。はあ。やっぱりもうちょっと言っておくんだった…。


 でももう、そのときにははっきりと分かっていた。
 この本丸の立て直しを本気で願ったのは、あの管狐だけ。

 この本丸はもう、見放されていた。

 ぐるりと見回す。結界のおかげで若干薄れているが、酷い穢れだ。本格的に浄化作業に入ってないとは言っても、結構かかるかもしれない。


(でも、本丸自体は残ってるのに)


 確かにボロボロの本丸だ。さっきも歩いている最中に床が抜けたりしてだいぶ焦った。でも、この程度で見放される対象になるのか、と。霊力を持つ人間、即ち、審神者としての素質を持つ人間が不足していると喚く割に、見放すのも早いものだと呆れる。


 とくに気配も感じなかったので、適当に部屋を開けて中を覗き込んでみる。ここもまた酷い穢れと血の量だ。でも他の部屋もほとんど似たようなものだから、いい加減慣れてきている。足を踏み入れて、自分の霊力を丁寧に使いながら浄化に努める。血を拭いたりの掃除はまたあとで。全部いっぺんにやろうと思っても俺は一人しかいないから無理だ。

 次に、部屋の中の歩き回ってみて、箪笥とかあればそこも開けた。


「……いた」


 箪笥の裏を覗き込んだら、埃と血を被ったままになっている、折れた刀剣があった。持っていた風呂敷を広げて、破片を一つ一つ集めて中に収めていく。
 さっきから回っていく部屋のどこかに、確実に一口は折れた刀剣があった。

 つまり、今俺がやっていることは、確認した部屋の穢れの浄化と、折れた刀剣の回収だ。

 ものによってはぼっきり半分に折られていたり、破片全部をかき集めるのが困難なほど粉々にされていたり。
 折られ方に差があるのは、前任の怒りを余程買ったか、否かというところだろうか。


「……、」


 口をついて出そうになった言葉を、飲み込む。ぱらぱらと破片を風呂敷の中に落としながら、代わりに舌打ちした。
 ――――何で俺が言わなきゃいけないんだよ。
 喉に力を込めて、押し殺す。無心だ。無心にならなければ。

 全部の破片を集め終えて、風呂敷で包んで持ち上げ直す。綺麗というか、比較的使えそうな風呂敷が今のところこれくらいしか見つかってないので、数口の折れた刀剣をごちゃまぜに中に入れてしまっている。ちなみに破片一つ一つがどの刀剣のだったかなんて勿論覚えてない。無残に果てているのを拾っているのだから、それくらいは許容してほしいところだ。

 思うことは、よくもまあこんなに方々で刀剣を折りまくっているものだということ。折るならどこかに集めていっぺんにぼっきりいったほうが楽なんじゃないの。

 …それとも、

(自刃か)

 追い詰められて、己で己を折ったのか。
 眉間に深い皺を刻んだ。


 ――――随分と楽な〝人生〟で良いことで。


 刀剣の破片同士が擦れあう音を聞きながら、続いて部屋を転々と動く。覗いては、穢れを自分の霊力で浄化し、折れた刀剣を探して回収。ひたすら繰り返す。少年にももう何口の折れた刀剣を風呂敷の中に入れたか分からない。五口を超えたあたりから、数えることはやめていた。

 風呂敷がかなり重くなって来たところで、またある部屋に目を留める。中に誰の気配もないことを確認しつつ、しかしいつでも攻撃を躱せるような心構えで障子を開いた。

「……あ」

 文机。溜まり放題の書類。部屋の隅に追いやられている煎餅布団。
 半開きの押入れ。そこにまた見える、折れた刀剣。割れている刀装。

 灰色の目を、見開く。どくりと心臓が跳ねた。


 ――――広い背中。透明の壁。閉められる襖。飛び散る血。叫び声。


「っ」

 あらぬ場所へ意識が飛んでいきそうになり、慌てて少年は目を瞑る。勢いよくぶんぶんと頭を振った。

 いらないものが見えた。違う。何度も瞬きをして、もう一度部屋の中を見つめた。他の部屋とはちょっと内装が違う。
 枯れた花が花瓶にさしてあり、備え付けてある神棚は半壊している。
 鏡台がある。これも鏡はばきばきに割れている。
 掛軸と思しきものもあるが、墨で塗りつぶされていて何が書かれていたのかは分からない。
 畳も壁も、血で汚れている。ただ、他の部屋と比べれば少ない方だった。


 …ここは、審神者の部屋だ。


「……結構手入れ部屋と離れてるんだな」


 まあ、良い。どうせ折れた刀は手入れをしても何も意味を為さない。折れた刀は元に戻らない。なら、手入れ部屋が近くなくても問題はない。
 審神者の部屋ならここを根城にしてしまおう。悲しいかな、どう見ても壊れてる(画面が割れてる上に中を通っている線とか丸見えだ)けど、パソコン置いてあるし、ここで政府と連絡を取り合うことは可能のはずである。

 ……パソコンが来ない事にはどうにもできないんだけど。

 この広い本丸には離れや倉庫もあった。
 敵意剥き出しの刀剣連中からはできるだけ離れた場所を選びたくて、その辺を根城にしようと思っていたのだが、確認しに行った結果やめることにした。本丸から離れていたせいか、もう折れた刀剣の多いの何の。あれが全部人の姿だったなら死体の山だ。しかも短刀ばかり。折られた刀剣の怨霊でも湧いてそうだと思った。何より、普通に不愉快だ。あんなところで寝られるか。


 ただやっぱり、前の審神者もここで過ごしていたためか瘴気は霊力の穢れはだいぶきつい。そのまま直で祓うには厳しいかな、と札を取り出して手あたり次第にぺたぺたと貼る。擬似的な結界のようなもので……まあ、早い話が空気清浄機みたいなものである。

 押入れの奥に落ちていた折れた刀剣を回収して風呂敷の中に入れ、部屋の端に向かう。新しい札を貼って、小さな結界を作り出し、そこに風呂敷ごと折れた刀剣を置く。浄化して回っているとはいえ、まだこの本丸は穢れだらけだ。穢れから逃がしてやるには今はこれが一番手っ取り早い。


 …都合よく、またそこそこ綺麗な風呂敷、あったりしねえかな。


 どうせまだ見ていない部屋にも大量に折れた刀剣があるに決まっている。それを包む風呂敷が、正直もう二枚ほど欲しい。どうしても無いようなら、こんのすけに頼むしかないが……。

 ダメ元でと審神者の部屋をあれこれ探る。


 ――――怠い。


 探している最中に思った。
 当たり前だ。穢れをがんがん浄化して、結界張って。霊力大安売りも良いところである。短時間にこんなに霊力を使うのは初めてで、言いようのない倦怠感に襲われていた。何なら腹も既に空きつつある。


(……でも昼飯には早いよなぁ)


 疲れを自覚してしまうと次にやってくるのは眠気だ。うろ、と視線を彷徨わせ、部屋に置いてある汚い煎餅布団を見る。

 ………。

 ……お、落ち着け俺。突然でかくなり始めた眠気に頭持って行かれかけてるぞ。まだ全然まともになってないこの空気の中の部屋で寝るって頭おかしいだろ。冷静になれ。それにまだ半日経ってないんだぞ、やることてんこ盛りなんだろ俺。でもあの煎餅布団、汚えだけで一応寝られなくはなさそ……ああああ、どうして寝る方向にシフトする……!

 だめだ。出よう。

 少年は大股で歩きはじめた。
 ここにいちゃだめだ。何で邪魔っけみたいな扱いになってるのに布団敷いてあるんだよ、この部屋。ちょっと予想つくけどそれはまあ良いとして。ここには寝る誘惑がある。普通ならこの程度が誘惑になるとかありえないけど。俺思ったより疲れてる。
 風呂敷は別の部屋で探そう。そうしよう。


 大股で歩いて、そのまま、部屋の外へ出る。
 それとほぼ同時に、

 ――――ガタン!

「……?」

 結構な音に怪訝そうに眉根を寄せた。
 ……今の音は?
 まだあまり足を向けていない先。……ってことは音がしたのは刀剣どもが籠城してる部屋が集まってる方か。また喧嘩売られてもめんどくせえし、行ったところで死ねだの殺すだの消えろだの、近寄るなだの。反抗期よろしく罵詈雑言を並べ立てる姿と声が容易に浮かぶ上、掃除も浄化もまともにできねえのもよく分かっていたから、近寄らないようにしていた。

 また暴れてんのか? なら勝手にやっててくれ。
 俺には関係の無いことだ。面倒ごとは御免被る。

 音がしたのとは反対の方向に向いて、歩きだそうと……

「………」

 …歩きだそうと、思う。思うのに……

「………」

 踵を上げるまでは動くのに、足を一歩前に踏み出せない。

「………」

 覚えのある、音なのだ。さっきの音は。
 何かを叩いたというには、重すぎる音。二回とも続かず、一回きりで終わる音。この音は、何度も。何度も何度も、聞いた。
 …最後に聞いたのも、この音だった。

「………っ…」

 喉元を押さえて、歯を食いしばる。頭がずきずきと、響くように痛む。

 ……くっそ、めんどくせえな

 苛立ちを隠しもせず、勢いよく振り向くと音のした方へ向かった。廊下の角を曲がり、ずんずん歩く。

 歩いて、音の発生源にたどり着いたそこに、


「………だよな」


 腹から大量に血を流したそいつが、倒れていた。

   ***

 視線がばっちりぶつかる中で、マイペースにも鵺は獅子王の肩へと戻っていく。つまりはいつもの定位置だ。

(鵺が察知したのか? わざわざ自分の相棒をここに連れてきた? ほんっとわけわかんねえことばっかしてるな、その鵺)

 しかし、鵺も結局、そいつが刀から顕現されたときと同じタイミングで生まれているやつだ。ならば、きっと鵺も獅子王の一部であることに違いは無くて、つまるところ、獅子王の意思の一部とも言えるのだろう。
 …なおさら、呆れたの一言に尽きる。
 首を振った。自殺願望があるのかないのか定かではないが、部屋の前で寝ていたのだから再び自分の前に姿を現すだろうことは、予想していた。
 だが今は、相手をしてやる余裕は無い。

「な……主、それ一体…!?」
「うるせえ。俺が聞きたい」

 大袈裟なほど、顔を顰める。好き好んでこんな状況になっていない。獅子王が何かを言いたげに口を開閉させているが、実際に声を出すのはこちらの方が早かった。

「悪いが用あるなら、あとにしてくれ。今は時間が惜しい」
「そ、そいつ薬研だよな!?」
「止血もしてねえ状態で廊下に倒れてた」


 ぐったりしたままぴくりとも動かない。
 普通は放置してる間に折れるなんてこたねえと思うけど、まだ瘴気だらけの上この傷だ。万一ってこともあるだろ。
 正直、最初にこいつを背中に担ぎ上げたとき、ばしゃって音がして焦った。ばしゃ、だぞ。血の出る音。たらたら、でもなく、ぽたり、でもなく。人間なら間違いなく死んでいる出血量。
 勝手に腰に差している短刀を確認したが、案の定今にも折れそうなほどの強烈なヒビが入っていた。折れてない方が不思議だ。

 顔を上げる。まだ獅子王は俺を凝視したままだ。
 …あのなぁ、目障りなんだよ。今、時間がねえって言ったろ。邪魔。


「……主、もしかして、」
「審神者様!」

 何かを獅子王が言い掛けたみたいだったけど、別の声が飛び込んできたからそっちに目をやった。獅子王の後ろから走り出てきたのは、こんのすけだ。

「手入れ部屋の結界が整いました! 資材の方も、緊急でしたので少なくはありますが、短刀一口分には充分な量を政府より送っていただきました!」

 薬研を見つけてすぐにやったことは、こんのすけの召還と手入れ部屋の準備、資材の手配だ。獅子王を手入れした時点でもうほとんど何も残っていなかったのは把握していたし、流石に政府もそれくらいの融通はきかせてくれるだろうと思っていたのだが想定通りだったらしい。
 それに、腐っても政府の式神。念のため札も渡していたが、結界の張り方は知っていたようだ。

 …可能なら自力で全部やりたかったけど、資材の調達を今からするのは無理だし、手入れ部屋の準備の前に俺、こいつ運ばなきゃいけないと思ったし。なんか事態は一刻を争う気配が凄かったし。仕方なかった。嗚呼、仕方なかったんだ。可能なら頼りたくなかった。


「分かった。助かる。もう良いよ、こんのすけ」
「っ、…審神者様」

 頭は下げてから言ってやると、やっぱり管狐は戸惑ったような返事を寄越してきた。お前、人間が怖いんだろ、前任のせいで。無理するなっての。前にも言ったけど俺はお前のことも嫌いなんだよ。

 全部口にしなくても、認めてもいない人間と必要以上の関わりは築かなくて良いというのは言外に伝わったらしい。察しがよくて非常に助かる。なんか耳がしょんぼり垂れてたけど気づかなかったことにした。
 無駄な会話を生むことはなく、すぐに管狐から視線を外すと、止めていた歩みを再び進め始める。少年が背負っている薬研藤四郎の体から流れている血が、薄汚れた廊下に斑点を作っていく。

 畜生、重い。俺がちょっとばててるってのもあるだろうけど、かなりきつい。今更のように自分の体の小ささを呪う。
 体格にそこまで差がない、寧ろ俺の方がいくらか小さい。しかも薬研は意識を手放していて、完全に脱力している状態であるのを背負っているのだ。ご丁寧に防具付きだ。重くないわけがない。……防具、外して適当に途中の部屋に置いてくれば良かったんじゃね。ここまで来たら諦めるけど。

 …余計なこと考えてたら、ずり落ちてきた。片足の爪先を引きずっているような状態になって舌打ちしそうになる。もう一回背負い直すかな…。
 そう考えていたら、急に軽くなった。吃驚して見てみると、いつの間にか(多分俺があれこれ思考回してる間に)傍に近寄ってきていた獅子王が、背後から薬研を持ち上げてくれていた。

「…獅子王」
「俺が支えるよ」

 軽々と薬研を抱える姿に、獅子王の方が体格がよくて大きいんだなと再認識した。
 俺を見返して、へへ、と無邪気に笑って見せる。…こいつ、でかいけど何か中身子供っぽいよな…ってそうじゃなくて。何で急に手伝ってくれたんだ? また昨日に続いてお前はわけわかんない気遣いを俺という人間に向けるつもりか―――と考えかけたところで、気づく。
 納得したように頷いた。そりゃそうだ。ちょっと今、焦ってるのか、俺。当たり前じゃないか。部屋の片づけ手伝ってくれちまったせいで、あり得ない勘違いをしかけていた。

「ごめん。俺が背負ってると安心できないよな」

 仲間が人間の背中におぶられているのだ。そりゃ、早く離してやらないとと思うのは当然なのに、そこに思い至るのさえ時間がかかってしまった。
 改めて獅子王を見れば、何か、微妙な顔をしていることに気づく。…疑り深いことで。だけど、多分きっとそれが、正解だ。

「信じなくても良いけどな。運んでただけで、俺は何もやってないぞ」

 冤罪は面白くないし、一応のつもりで言っておく。

「っ分かってる」
「……あーそ」

 強めの声音で食い気味に言われた。何なのお前。

「分かってるなら怒るなよ」

 お前の仲間に触ったこと自体にキレてるなら謝る、と付け足すと、ますます獅子王の顔が不機嫌そうになった。はあ。こいつ、何考えてるのかさっぱり分かんねえ。いても鬱陶しいだけだから、どっか消えてくれよ。
 …とか愚痴垂れるのも後だな。金髪男の腕の中で、ずっと堅く目を瞑っている薬研に目をやる。顔が真っ青で、いくら刀だからといっても血を流しすぎてるのは明白だ。

「とりあえず時間ねえから手入れ部屋まで頼むな」

 未だに変わらない表情のままであるそいつに言って、手入れ部屋に向かう。


「あのさっ」
「あぁ?」


 完全に呼び止めるための呼びかけに対して、隠すことも無く露骨に感情がこもった声が出てしまった。首だけ振り向かせて獅子王を見る。獅子王は、薬研を抱えたまままだ突っ立ったままだった。そのくせ、目は妙に真剣みに帯びている。
 お前、本当に俺の話聞かねえよな。時間ねえって言ってんだぞ俺は。薬研の状態の悪さだと今すぐ折れてもおかしくねえんだぞ。分かってんのか。

「俺もう、心配してねえから!」

「…はぁ?」

「だから! 主が俺達に何かするんじゃねえかとか、心配してねえって言ってんだよ!」

 奥歯を噛む。どうして、今、それを言う。

「手入れなんてやらないって言ったけど、やってくれるんだろ? 薬研のことも。急いでくれてるのも薬研のためだ。俺、ずっと監視してたし、昨日は主の霊力にも触れたから、もう分かるぜ。主は、前の審神者とは違うって!」


「一週間と二日」


 視線を前に戻して、声だけを投げる。
 獅子王が息を呑んだ気配を感じた。


「俺がここに来てから一週間と二日だ。それでお前と喋ったのは昨日が初めて。それで怪しい動きもしてねえし手入れもしてくれたからきっと大丈夫だろうって?」


 馬鹿か、こいつは。昨日も、今日も、監視されてる間も、ずっと思っていたが。嗚呼、苛々する。何だってすぐに人を信頼する? それでも人斬り包丁かよ。お人好しめ。
 人間はそんな簡単な生き物じゃない。上辺だけを取り繕うことなんて簡単にできる。そういや、管狐も言ってたな。最初、指導している間は前任も普通の審神者に見えてたって。はは、何だ。俺意外と話聞いてたんだな。でも実際はまともなんかじゃなかった。それと同じだ。
 俺は、前任とさして変わらない人間として目に映って、然るべきであるはずなんだ。―――なのに、お前は、それを。


「確かに何て単純なんだって思われるかもしれねえ…でも主、俺は」

「呼び方困ってるなら〝主〟で良いけど、俺お前と主従関係築いた覚えもねえわ」


 背中を向けているせいで、獅子王がどんな顔をしているのかは分からない。でも傷ついた顔をしているわけがないと思う。
 だってお前、人間嫌いだろ?


「そうやって他人をすぐ信じるの、もしお前の性分なら直した方が良いよ。よく分かんねえうちに勝手に俺の事を理想化してるみたいだけど、そもそもの問題として」


 ――――俺は刀剣男士が大嫌いで、全く信じてねえからな

 何も返事をしなくなった獅子王に、早く行くぞと促して廊下を走り出す。
 数拍遅れたが、後ろからの駆け足の音もちゃんと耳に届いた。やっと動き出してくれたらしい。何て不毛な会話をしたんだろう。時間の無駄にもほどがある。


 分かったら俺に気を許すような発言は、二度とするな。

  ***


 意識が浮上する。目を開くと、天井が見えた。最初は意識がぼんやりしていたが、自分の状況を把握しようと視線を右、左と巡らせている内に徐々にはっきりしてきた。視界もすっきりとした…


「……え?」


 視界が、霞まない?
 違和感を覚え、ぱちぱちと瞬く。見える。はっきりと。天井の木目も数えられそうなほどに。起き上がって周囲を見回す。


「っ!!」


 …手入れ、部屋……。
 全身に力が入り、ぶわりと冷や汗が身体中から噴き出す。どうして、ここに。…そういえば、部屋を出ようとしたところで、倒れてしまったような。もしかしてそこを見つかって、連れてこられたのか。どくどくと脈打つ心臓が、耳に五月蝿い。身体が無意識に震える。
 ……いや、自分で良かったというべきか。今度は、ここで、何をされるんだろう。焼き鏝を押し付けられる? 爪を剥がされる? それとも殴られる? 首を絞められる? あるいは、目でも潰される? どれにしたって、兄弟にそんな目に遭って欲しくない。俺は、大丈夫だ。きっと耐え切れる…。


 ……あれ。


「……痛く、ない」

 ふと、気付く。黒い手袋はそのままだったが、寝間着と思われる白い着物に身を包んでいた。
 考えてみれば、さっきから思考を延々回し続けているが、その意識に靄がかかることもない。しかも、普通に起き上がることができている。こんなに自然に身体を起こすことができるなんて。これでは、まるで……手入れを受けて傷を直してもらったかのような。
 …有り得ない。あいつは、俺達がどんな傷を負っても、手入れ何てまず思い浮かべもしなかったはずだ。じゃあ、


(……死んだのか? 俺)
 

 死んだから痛みを感じなくなっているだけか? 混乱しながら自分の身体のあちこちを触ってみる。手をぐーぱーと動かしてみる。腕も骨が折れていたはずなのに、普通に動かせる。痛すぎて最早痺れた様な感覚になっていた腹の傷は綺麗に消えている。血の匂いがしない。
 試しに、頬を抓ってみた。痛みを感じなくなっているなら、と思って一気に、容赦なく。


「いって!?」


 どうせ痛くないと思ったのに普通に痛い。手加減もせず抓ったから予想以上の感覚に大声が出た。
 …俺、生きてる? 生きてるなら、どうして痛みがねえんだ? 怪我が、無くなってる?
 枕元に視線を落とすと、短刀が置いてあった。紛れも無い自分の本体だ。手に取り、鞘から引き抜いてみると、ひびが入っていた刀身が綺麗になっている。ぴかぴかと表現しても差し支えない状態だ。


「……どうして……?」


 状況が読めず、また腑に落ちないことばかりでどんどん混乱していく。
 そのとき、障子がカタリと音を立てたので、慌てて身構えた。手に抜き身の短刀を持っていたこともあって、牽制するように切っ先を向ける。
 細く開けられた障子から、ぬっと出て来た顔。


「…………」


 見つめ合って数秒。思わずぽかんとする。予想もしない顔だった。でも見たことがないわけじゃあない。知ってはいる。
 別に何も反応を見せていないが、さっと引っ込んでいく黒い物体。


(…? ………??)


 続けて、ぱたぱたと足音が聞こえてくる。どうしても癖のように身体に力が入って、一瞬下ろしかけていた短刀を再び構えてしまうが、次に障子を大きく開けて顔を出してきたのは、馴染みのある顔だった。


「お、やっぱり! 薬研、気が付いたんだな!」
「獅子王……」


 嬉しそうな様子で近寄って来た獅子王の旦那に、幾分安心して構えを解く。
 肩には先ほど顔を覗かせていた鵺が乗っている。さっきの今なのでつい鵺の方を凝視していると、その顎を(顎というか顎がありそうな位置の毛を)獅子王が指で撫でながら笑った。鵺の方は、嫌々と身動ぎしているようだった。

「鵺が教えてくれたんだ。顔、出しただろ?」
「……ああ。一体何かと思って焦ったが」
「う、ごめんな。俺とかが傍にいた方が良かったかな」


 部屋に入ると、布団の横に胡坐をかいて座った。俺も、短刀を鞘におさめてから布団の上に座り直した。
 …気のせいだろうか。獅子王も随分元気そうだ。いつも苦しい毎日の中で、みんなを励ましてくれたりした存在ではあるが、それでも疲れ果てた気配は隠しきれていなかったのに。今は、無理している風ではない。


「身体は? もう大丈夫そうか?」
「ああ、何とか……獅子王、その。いまひとつ状況がつかめてないんだが…」
「へへ、大丈夫ならよかった! じっちゃんがな、手入れしてくれたんだ!」
「じっちゃん?」


 お互いの会話の中に沈黙が生まれる。


「……違う! 間違えた! じっちゃんじゃなくて、主が!」
「主?」


 折角言い直してくれたところ悪いが、全然意味が分からない。
 変だ。主、と言う時、獅子王もどこか怯えていた様子だったのに、何でそんなに嬉々とした声で言えるんだ?


「そう! 新しい審神者のこと。主ってすげーんだぜ! 身体はちっさいのに霊力は強くてさ、俺も手入れされたとき吃驚しちまった! 薬研のことだって、倒れてるの見つけて、身体ちっさいのも構わずに背負って―――」


「ちっさいちっさいうるせーんだよ」


 話すのに夢中になっていた獅子王が、急に前のめりになる。背後から突然、背中を蹴られたのだ。

 ――――人間………!!!

 認識した瞬間、かっと頭に血が上る。目の前が真っ赤になる感覚。いつもならば恐怖が圧倒的に上回るが、今はそれ以上の怒りと憎しみが膨れ上がった。身体が万全の状態になっているから、萎えていた戦意が甦ったのかもしれない。細かいことも考えずに腰を上げて短刀に手を伸ばす。が、

「いってぇ! 何すんだよー主!」

「お前がうるさいのが悪い」

「事実言っただけじゃんかよー!」

「蹴るぞ」

「もう蹴っただろ!!」


 当然のように、しかしどこか楽し気に文句を垂れる獅子王に、俺は刀を抜くまでの動作を続けることができなかった。
 立っていたのは子供で、幼さの残る顔だった。若干長い黒髪を一つに結っている。黒い袴に若草色の着物。桜色より少し濃いくらいの…赤みがかった藤色とでも言うのか、そんな色をした襟巻を巻いていた。目つきは、柔和とは言い難い。
 灰色の瞳が動いて、俺を捉えた。咄嗟に動けなくなる。


 ……これが、新しい審神者。


 一部の奴から話は聞いていたが、審神者が挨拶に来たとき俺は全く動けなかったから広間には行ってなくて、ちゃんと見るのはこれが初めてだった。

「…起きたのか。動けるならさっさと部屋戻れ。鬱陶しいから」

「主はまたそういうこと言うんだもんなぁ…」

「うるせえな、お前もだぞ言っておくけど」

 頬を膨らませて唇を尖らせる獅子王を一瞥して、肩を竦める審神者。


「……あんたが、手入れを?」


 探る様に、確認する様に、問う。


「どうして手入れした? 俺を直して、何を企んでる?」
「おい、薬研」

 獅子王に制されても、そう簡単に口を閉じることができなかった。不可解すぎる。人間は俺たちを痛めつけることしか考えてないんだろう。苦しむ姿を笑うんだろう。怪我を直すことはその真逆じゃないか。よっぽどの事情があるとしか、思えない。
 手入れをしてくれたことを無条件に感謝できる段階にはもういない。何か裏があると、警戒してしまう。そして実際、裏は、あるんだろう?

 黙って表情も変えずに質問を聞いていた子供が……ふ、と。眉を下げた。前の審神者には見られなかった表情だ。


「…勝手に直して、ごめんな」


 どの質問にも答えないで、それだけ。
 言いながら、審神者はばつが悪そうに目を背ける。憂いのある表情は、子供を、子供たる印象から遠ざける。

 踵を返して、手入れ部屋から離れていく。
 きっと押しつけられるだろうと予想していた、あらゆる無理難題とは異なる返事。しかもただの謝罪ときた。呆けていると、ふいに頭に掌が乗った。俺の頭を撫でるようにぽんぽんと軽く叩く獅子王は、困った顔で笑っている。


「変わってるだろ、あの子供」
「何か……予想外だった、色々」
「うん。俺も最初吃驚した。鶴丸が聞いたら喜ぶだろうなぁ」


 前の鶴丸ならだけど、と苦笑をこぼす獅子王に、嗚呼、気が触れたわけではないのかと内心安堵した。少し悲しげにする表情で安心するなんて、仲間として酷いものだと我ながら思うが、新しい審神者と喋っている間、随分嬉しそうだったから。もしかして、妙な術でもかけられて洗脳されているのではと懸念していたのだ。
 …でもそうじゃないなら、あの嬉しそうな様子は、紛れもない獅子王自身の素直な反応ということになる。


「獅子王、聞いても良いか」
「良いぜ! ……でもきっと、主のことだろ?」
「ああ。あの審神者は、何だ? 俺たちをどうする気なんだ?」


 俺の頭から手を離し、考える仕草をする。


「わかんねえ。主は俺たち刀剣男士が嫌いなんだってずっと言ってる」
「じゃあなおさら、手入れをする意味が分からないだろ」
「でも手入れしてくれた事実は変わらないだろ?」
「手入れの一つで獅子王は前の審神者が…いや、人間がしたことを、全部水に流せるのか?」
「まさか。それくらい単純になれたら楽だろうけど、流石になぁ」
「でもお前は、あの審神者のことを〝主〟って呼んでる」

 主と呼んでいるということは、自分の所有者であることを認めた証だ。
 俺たちは刀。人に振るわれることがあるべき姿。だから、己を振るってくれる主を求めるのはごく自然な事だ。
 それでも、納得するには、今までの扱いがあまりに悪すぎた。

「…うん。呼んでるな、俺。あの子供のこと、〝主〟って」
「〝主〟って呼べるほど、信じられるのか? こんな短い期間の中で」

 そこに今はいないのに、先ほどまで子供が立っていた場所に獅子王が目をやる。やがて、首を振った。横に。

「本当に信頼できるのかって聞かれたら、分かんねえや」
「じゃあ、主って呼ぶことを強要されてるのか?」

 問いにまた、首を横に振った。

「寧ろ、やめろって言われてる。俺が勝手に呼んでるんだ」
「…でも、信頼できるか、分からないんだろう」
「うん。分かんねえよ。でも、信じたいと思った」

 頬を掻いて、決まりが悪そうに笑う。
 そんな顔するなよ、男前が台無しだぜ。そう言われるものだから、俺は今どんな顔をしていたんだろうと思った。

「あれだけ散々な目に遭わせられて、未だに人間を信じたいと思う俺って、滑稽に見える?」
「…少しだけな」
「あはは、だよなー」
 
 不思議なんだよ。獅子王が続ける。


 もう人間なんか信じたくないって思ってるのに、気が付いたら信じたいって思ってて、気が付いたらあの審神者のことを主って呼んでた。裏切られたら怖いって思う。信じるなんて無駄だからやめておけって、理性は叫んでる。でも心が、信じたいと叫んでるんだ。一つの身体の中にある二つの部分が、正反対の感情を持ってるんだ。
 頭と心って、必ず同じ方向を向いてるわけじゃないんだよな。心とか、頭とか、そんなこと考える暇もなく、どっちもボロボロにされたせいで、全然気づかなかったけどさ―――。


「俺は主と色々話してみたい。あんまり取り合ってくれねえかもしれねえけど」
「…そうか」
「薬研はどうする?」


 みんながいる部屋に戻るか。
 それとも、今の審神者と少し接してみるか。
 

「お前の好きにして良いと思うぜ」


 よいしょ、と腰を上げた獅子王を目で追う。


「薬研、腹減らねえ?」
「は? …え、何て?」
「あはは、やっぱりそういう反応だよな。でも絶対感動するから、俺持ってくるな、飯!」
「おいおい、何言ってるんだ……飯を食うのは人間の風習だろう…」
「だと思ったんだよー俺も。でもこれが案外そうでもなさそうでな。ま、騙されたと思ってさ! ちょっと待ってろよ!」
「お、おい獅子王!?」

 返事も待たずにさっさと部屋を出て行ってしまった。また新しく訳の分からない事を言っていったな…何だよ飯って……。しかし、あれだけ活き活きしている獅子王を見られるとは思っていなかった。今までずっと、陰鬱な表情が多かったから、つい此方も頬が緩む。
 一人になって、やれやれと肩から力を抜き、額に手を当てる。さっきまでよりは遥かに良いが、かと言ってまだ状況が飲み込めてない部分が多い。ちょっと疲れた。


 ――――薬研はどうする?


(……どうする、か……)

 今更人間と語ることなんてないと思う。ただ、何故だか分からないが即答もできなかった。
 手に持ったままの短刀を握り直す。…まだ、微かに霊力が残っている。馴染みのない霊力で、きっと手入れを行った審神者のものだが……

(……あったかい……)

 自分の本体を纏うそれは、嫌いではなかった。 

   ***

 祠の中を覗き込み、結界の核に異常が起きていないかを確かめる。順調に本丸自体の浄化は進んでいるようだが、穢れが酷すぎてどうも浄化作用の進みは本来よりも鈍化しているらしかった。


(核がぶっ壊れそうってことは無さそうだし、大丈夫かな…)


 何より霊力の使いすぎで今も体が怠い。薬研の手入れを終えた後に少し仮眠をとったが、まだ完全には回復していなかった。


(別に困らないから良いけど)


 もしこれで核が壊れかけていた、なんてことになったら、ここでまた霊力を使わなければならないところだった。正直勘弁してほしい。わざわざ疲れる事をしたくない。
 核となっている玉を一撫でして、立ち上がろうと思った矢先。気配を感じて、俺は動きを止めた。…あーあ、めんどくせえな。やだやだもう。


「新しい審神者だな、キミ」


 振り向いたらこりゃ殺されるわ。そうと分かる威圧感に満ちた声と向けられている殺意。馴れ馴れしくくっついてこられるよりかはマシだけど、疲れている時に出てこないでほしい。
 相手に背中を向けて、祠を覗いた姿勢のまま答える。


「そうだけど何か」
「いつまでここにいるつもりか聞いても良いかい?」
「聞いてどうするんだよ。ずっといるって言ったら殺すのか?」
「よく分かってるじゃないか。キミにはさっさとこの本丸から出て行ってもらいたい。これ以上仲間を傷つけられるのは見てられないんでなぁ」


 部屋に籠城中の刀剣引きずり出して傷つけるって? 誰がそんな果てしなくめんどくせえことするかよ阿呆か。
 でもまたそれも言ったら激昂されるのが目に見えてたので、溜息を吐くに留める。


「キミが結界を張り直してくれたのは知っている。瘴気が少しずつ薄れてきているのもな。何を考えてのことかまでは知らないが、薬研や獅子王の傷の手入れもしただろう。だが、それで俺達を油断させようったってそうはいかないぜ」
「あーそ。で、俺にどうしろと」
「二人の手入れをしてくれたことに免じて、一週間の猶予を与えよう。その間に荷物をまとめてここを去れ」


 ウロウロしてる間、そんで手入れしてる間も視線を感じてたわけだが、今度は獅子王じゃなくてお前だったか。お前らの観察って流行り?
 祠を眺めて、これも少し修理しないとだいぶ傷んでるなあと考える。祠が崩壊すれば結界も壊れる。それくらい、前任も分かってただろうに、ここまで荒れてしまっても放置とか驚きを通りこえて感心してしまう。

 ……確か、今俺の背後をとっているこいつも、本来は驚きを追い求めてたっけな。確かに、急に現れたから驚いた。声もまさかかけてくるとは思ってなかったし。流石だな。くだらなすぎるしかったるいから、話しかけようなんてできれば考えないで欲しかったけど。

「俺達に審神者は必要ないと最初に言ったはずだ。一週間のうちに去らなかったら、斬り捨てられても文句は言えないよなぁ?」
「……」


 ――――坊


「…無視かい? それとも、自分に都合の悪いことは耳に入らないのか。人間ってのはどいつもこいつもそうなんだとしたら、呆れるな。その耳と口は何のために付いてるのか教えてもらいたいもんだ」

「分かった」


 立ち上がる。自分の襟巻に触れながら、頷く。雪がちらつく空を見上げた。今日もよく冷える。息が真っ白だ。

「覚えておく」


 背後から向けられている殺気が強くなる。
 びりびりと空気が震えている様に感じられるのは錯覚だろうか。

「忘れてくれるなよ、その言葉」

 低い声だった。怒っているのが、よく分かった。返事をしなくても怒って、返事をしても怒るなんて、まるで子供の駄々ではないか。
 頷いて見せると、少し間があってから、かちん、と金属のぶつかる音が耳に届いた。納刀した証拠だ。それから、気配がだんだん遠ざかっていくのが分かった。

 一週間ね、と。口の中で言葉を転がす。
 一週間経ってもここにいたら、殺してやる。と。そういうことだ。

 長い長い溜息が出る。灰色が、どんどん闇色に染まっていく、空。暗くなっていく本丸。闇の中の白。積もっている雪が妙に目立っていて。

「……そんなに嫌いなら声かけてこないでくれよ」


 嘆く俺を置いて、一日が終わろうとしていた。
 きっと変わらず、また朝は来るんだろう。


(………考えるのやめよ)

 ごん、と自分の頭を拳で叩く。
 思考を回しまくってても埒が明かない。一週間のことも今考えても仕方がない。今日も今日とて、薬研の手入れに時間がとられたり、その後の霊力回復のための休憩に時間がとられたりと、結局思い通りに過ごすことができなかった。やるべきことはてんこ盛りのはずなのに後回しにしているものが多すぎる。
 今度こそ、やるべきことを優先的に片付けるのだ。


(……まずは、洗濯かな)


 部屋にある布団とかは勿論、血塗れの薬研を背負って歩いたせいで、今着ている着物も結構血で汚れている。襟巻なんかは斑模様だ。ちゃんと落ちると良いけどな…大体、洗濯用の洗剤とかってあるんだろうか。その辺はまともに確認できてない。順番に気付いてしまうせいで、当初よりもまたやるべきことが増える……。

「…他の刀剣と喋ることが、もうありませんようにーっと…」


 
 やることが増えれば増えるほど、願わずにはいられない。あんな奴らに時間を割いてやるのは無駄でしかない。喋るとしても、妙に絡もうとしてくる獅子王だけで充分だ。どうせあいつ話聞かないし。あれすらいらないけれど。

 刀剣と必要以上の関わりを持ちたくない。
 だって俺は、刀剣が嫌いだから。勘弁してほしいのだ。

   ***


 翌日、夕方。


「大将、かわいた洗濯物は何処に置くべきだ?」

「何で大将呼びになってんだよ」


 ……本当に、勘弁してほしい。


 切実に、そう思う。