刀剣嫌いな少年の話 参

2022年4月18日

 手元にあるバインダーに視線を落とし、思案する。そこには、部屋や厨、書斎に風呂場に馬小屋……つまりは、この本丸の内部及び敷地内を構成しているものがリストアップされていた。
 ふむ、と顎に手を当てる。

「西の部屋を……五虎退と…後藤に頼むか。三部屋くらいやってほしいところだが、一部屋の大きさはそれほどじゃねえし何とかなるだろ」

 名指しされた五虎退と後藤藤四郎は、困った様子で眉を垂らしたままお互いの顔を見合わせた。「別にいいけど……」と、拒否するわけではなさそうだが、まだ状況に納得がいっていない様子だ。

「なあ薬研。風呂場はかなり広いし、そこだけやる場合も二人で良いんじゃねえかな」
「そうだな。獅子王の言う通りだ。じゃあ……乱と秋田に頼むか。できそうか?」

 乱藤四郎と秋田藤四郎は、びくりと身体を震わせる。お互いを庇うかのように身を寄せ合い、薬研に縋る様な視線を向けた。
 それに対し、彼は口許に弧を描き、頷いて見せる。すると、二人はやっと、はっきりとまでは言えないが了承の意を示してくれた。

「廊下の雑巾がけはあとで全員でやるのが一番だよなぁ。鵺に頼んでも良いけど……ちょっと厳しいかなぁ」

「広間…は、今行っても火に油を注ぐことになりかねんな。やめておくか。他のところはひとまず、俺達の方で分担するとして。まだ浄化しきれていないところは、大将に先に入ってもらわんと、刀剣にはどうにもできねえし」

「だとしても、この本丸、広さだけはあるからなぁ。穢れ云々抜きにしても、ほら…他の奴らのことで、近寄れないところを外しても結構あるぜ。いっぺんにできるもんでもねえから、今はこれで良いんじゃねえ?」


 横からバインダーを覗き込んでいた獅子王と、考える仕草を続けながら前に並んで立っている彼らに仕事を割り振っていた薬研は、ふと後ろを振り返った。


「―――って感じで掃除をしていこうと思うんだけどさ、主」
「異論はあるか? 大将」

「異論しかありませんが?」


 得意げに笑う二人の顔。現状で考えられる役割分担としては、まずまずではないだろうか―――そう顔に書いてあるのが見て取れる。本当に書いてある。まずまずじゃない。もう本当にわけがわからない。

 腕組みをして立ったまま、灰色の瞳がゆるりと動き、金髪と黒髪の刀剣男士を映した。ぱちり、と瞼を上下させる。
 一連の流れを眺めていた少年が、一刀両断、すっぱりと即答してからもまた徐に口を開き、深い溜息を吐いた。他の刀剣とは異なり、何故か周りをうろつくようになってしまった太刀と短刀がからからと笑う。…だから笑いごとじゃねえって言ってんだよ聞こえてんのか耳腐ってんじゃねえのかこの野郎。

 ――――何でこいつらはここにいる。

 少年は、頭を抱えて不平不満を叫びながら転がりまわるのを、なけなしのプライドだけで堪えた。

   ***

 五虎退、後藤藤四郎、乱藤四郎、秋田藤四郎。彼らが少年と獅子王、薬研藤四郎の前に並んでいる理由は、一日前に遡ることになる。


 血塗れで廊下に倒れていたところを図らずも助けられ、手入れの効果もあり久方ぶりの万全の身体となった薬研は、獅子王の声もあって警戒しながらも審神者の様子を見ることにした。

 薬研からしてみると、俄かには信じ難いことだったのだ。

 彼にとっての審神者とは、私利私欲の塊でしかなかった。人の身を得た自分達のことを物としてしか扱わなかった。否、扱ってくれて一向に構わないのだが、だとしても、物に対しての礼儀を何一つ持ち合わせていなかったあの男。物の何もかもが消耗品、他人に自慢するべき稀少なものはある程度大事にするが、気に食わないことがあればそれすら無下に扱う。
 少年は、同じ人間で、同じ男で、しかも同じ審神者。違うのは大人と子供という年齢くらい。
 
 ―――かつての武将のように、誇り高い存在はもういないのだと諦めていた薬研には、少年の様子見すら無意味に思えていた。でも様子見することにしたのは、他でもない同じ刀剣男士の獅子王が「信じられる」等と宣ったからだ。


 どうせ。

 どうせ、少し様子を見たら、分かる。
 結局獅子王は何かを勘違いしているだけ。元々、お人好しの部類ではあったし、こんな瘴気の中にずっといるのだから気が触れただけに決まっている。

 どうせ、何も期待なんてできやしない。

 ……と、少なくともそのときは思っていた。

 審神者室から持ち出されて来た風呂敷包みを、二つほど。それらを抱えて歩く少年の後ろを、少し離れて歩く。
 薬研は朝からずっと、ご飯の時以外はこうして審神者の様子を見ていた。(ご飯の時は獅子王と食べた。審神者は同席したくないと適当に離れて食べていた)対して、少年は声も掛けてこないし、別に薬研を振り切ろうと走り出したり、隠れたりもしない。ただ己のやるべきことを淡々とこなしていた。
 彼の背中に負われている打刀が、少年の体躯の小ささも相まって普通よりも大きく見える。

 少年は審神者部屋から一番離れている、本丸の隅っこの部屋に足を運んだ。そこも穢れが酷く、薬研は思わず顔を顰めた。

「薬研」

「っ!?」


 一度も声を掛けてこなかった少年から声がかかり、文字通り跳ね上がって驚いた。ばくばくと脈打つ心臓に情けないと思うが、警戒しつつ、何だ、と短く問い返す。すると、彼は振り向いた。相変わらず、あまり感情の読めない、無に近い表情だった。


「この部屋入るけど、お前はついてくるな」

「……やましいことでもあるのか?」


 薬研の問いには答えずに、以上、と話を畳んで再び背中を向ける。
 部屋の襖を開けると、勢いよく瘴気が噴き出してきた。それに驚き、思わず薬研は自分を庇うように腕を眼前に掲げ、後退った。どろりとした黒い霊力が身体にまとわりつくように流れ込んでくる。


(っ、)


 吐きそうだった。
 嫌でも思い出す。これは、前の審神者の、あの霊力だ。無意識に体が震え出す。ひゅっと変な風に息を吸った。が。


 ――――ぱし。


「……あ?」

 何かを投げつけられたかと思えば、一瞬で体が軽くなる。どういうことだ、と顔を上げると、自分の周囲に札が二枚、宙で静止していた。それが小さな結界を生み出して、薬研を守る様に覆っていたのだ。

 信じがたい現象に再び審神者を見やれば、ばつが悪そうな顔で少しだけ、此方を振り返っていた。


「…ごめん。部屋の外まで影響あるとは思わなかった」


 即席の結界だけどそれで我慢してろ、と。審神者は部屋の中へと足を踏み入れた。
 その後からすぐ、少年はその部屋の浄化を、殊更丁寧に行った。昼食の時間も無視して、何時間もかけて。
 どの部屋よりも丁寧に作業して、黒く汚い霊力を全て、清浄なものに塗り替えていく。血で汚れた壁も、畳も。浄化をしながら雑巾で拭ったり、剥がしたり。小さな身体のどこにそんな力があるのか、甚だ疑問ではあったが、延々と少年は部屋を綺麗にし続けた。


 そして、最後。万全とは言わないまでも、他の部屋に比べれば驚くほど穢れがなくなったその部屋で、少年は持っていた風呂敷包みを広げた。


 ――――折れた刀剣。

「…なあ、あんた、それ…何で…」


「……」


 畳を剥がした後の床板の上に札を置き、その上に折れた刀剣を順番に置いていく。そんな少年の様子を見て、思わず薬研が喋りかけた。
 折れた刀剣は、札の上に置くと同時に透明の箱のような結界を張り、一つ一つ順番に、覆い隠される。


「……今まで見て来た部屋で回収したやつ。庭に埋葬しようか迷ったけど、土も穢れでひでえ有様だし。でも審神者室に置いたらもっとこいつら嫌がるだろうし」

 だから、審神者室から一番遠い部屋であるここに、安置することにした。そのためにも、他の部屋よりも丁寧に浄化した。いなくなってしまった彼らに、少しでも安らかに眠ってもらうために。


「……折れた、奴らは……あんたには、関係無いだろ」
「ねえよ」


 どうして、まだ就任したばかりの、しかも折れた刀剣の顔も知らない少年が、そんなことをするのか。理解ができなくて、再び問う。すると、少年は薬研の顔も見ずに答えた。

「でも、関係ないとやっちゃいけねえ決まりはない」
 

 それ以上の問答はしなかった。
 ただ、獅子王の「信じたいと思った」という感情を知ったのは、確かだった。


 審神者に対する見方が変わってしまうと、今まで不可解だとか、何か企んでいるのではないかとかの疑心は露ほども覚えなかった。我ながら単純なものである。

 この審神者は、前の審神者とは違う―――。

 信じたいと思える、審神者だ。

 だから、朝方に洗われ、干されていた洗濯物を、夕方には自然に取り込んでおこうと思った。自分も少年の力になりたいと、純粋に思えた。獅子王に話せば、「だろ?」と嬉しそうに頷いてくれた。ちなみに、洗濯自体の役割を少年から奪ったのは獅子王である。


 洗濯物を抱えて、よし、と気持ちを切り替えて。薬研は、少年に声を掛けた。
 大将、と。
 恐怖も、怒りもなく。そう呼べたことが嬉しかった。

「大将、頼みがある」

「だから誰が大将だってんだよ」

 握り飯を頬張りながら、少年が面倒くさそうに答える。

 厨のすぐ横にある食堂も使える程度まで掃除したため、夕食は三人ともそこで取っていた。獅子王がわざとらしく駄々をこねて、審神者もやむなく二人の近くの席に座っている。
 ちなみに、彼らの前に置いてある握り飯のみ手作りで、横につけてある味噌汁は政府から送ってもらったインスタントだ。


「――――閉じ込められてる奴らがいるんだ」


 前を向いたまま、少年の目が細められる。不機嫌そうでも、怪訝そうでもあった。


「刀剣男士じゃ触れない」


 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
 獅子王は、何も言わずに審神者と薬研を見つめている。 


「……兄弟達を、助けてくれ」


 この本丸には、一期一振がいなかった。そして前の審神者は、一期一振という太刀を欲しがった。なんてことはない。顕現の頻度において稀少である太刀を持ちたかっただけのことだ。演練にでも連れて行って、まだいない本丸の審神者に対して自慢したかっただけの、浅ましい欲。

 弟がボロボロで戦場にいれば、いずれは心配して現れるのではないか?

 そんな前任の思惑から、薬研は過剰な出陣を強いられた。基本、単騎での出陣で。幸い、多少の練度があったこともあり、おいそれとやられることはなかったが、だからこそ謀反でも企てはしないかと前任が警戒したのだろう。そのときに本丸にいた粟田口の刀剣男士が、顕現を解かれて審神者の手元に置かれた。早い話が人質だ。


 行きたくないというなら折る。妙な真似をしても折る。
 一期一振が見つかるまで、出陣し続けろ。


 見せしめのように、最初、何もしていないのに目の前で兄弟が折られた。本当に急だった。折られた事実が認識できなくて、ぽかんとした。思考は完全に止まっていた。
 こんなにあっけなく折れるものだったろうか、刀剣は。


 ――――こいつも三口目だったんだから、別に良いだろう?


 一口目の短刀なんて、ほとんどいない。薬研自身ですら、少なくとも一口目ではない。四口目か。五口目か。正確な数は知らないが、そんなところだろう。
 でも、だからまた次に顕現した兄弟がどうでもいいなんて、そんなことはあるはずがないのに。前任はせせら笑う。
 

 ――――嫌なら早く「兄貴」を見つけてこい。


 絶望し、同時に分かったことがあった。

 この人間の命令に逆らえないこと。
 練度が高かったからこそ、自分が一期一振を探す立場に選ばれたこと。
 出陣して、報告して、また出陣するというサイクルをこなさなければ、人質にとられた兄弟達が折られてしまうこと。

 ……一期一振が見つかり、彼を連れて帰れば、兄も同様の目に遭うだろうということ。

 薬研は、絶対に見つけてやるものかと心に誓った。見つけても、見つけられなかったことにしようと決めた。


 ずっと出陣して、いなかったと報告して、また出陣する。手入れは勿論、されない。でも這ってでもこの繰り返しの行動を続けなければ、兄弟が折られてしまうから。

 昨日もそうだ。前任が政府に連行されたことも忘れて、報告し損ねていたことを思い出して、意識が朦朧とする中で部屋を出たのだ。審神者室に向かわなければと、兄弟達の命は、自分が助けなければならないと、ただそれしか考えていなかった。
 部屋を出た時点で、意識は途切れてしまったのだが。

「――――何処だ」


 味噌汁を啜る音が響いてから、声が聞こえた。
 薬研が、顔を上げて少年を見返す。無表情のまま、少年はまた言った。

「そいつら、何処にいる?」

 優しさなんて到底感じられない平淡な声ではあったが、危うく涙が出そうになって、薬研は喉に力を込めた。
 案内する、と答えた言葉は、震えすぎて、多分、少年の耳には届かなかった。
 少年は一度も、こっちを見なかった。
 代わりに、再び味噌汁を啜る音と、「辛い」と一言だけ言葉を落した。

    ***


 
 薬研に案内された先は、離れの傍にあった古い倉庫。
 今にも崩れそうなほどで、とてもではないがきちんと管理していたとは言い難い、荒れ果てたそれ。そこは、簡易的な錠前で施錠されていたが、少年が軽く手を触れただけで崩れ去った。恐らく、前任の霊力で形成されていたものなのだろう。霊力の持ち主の不在により、酷く脆くなっていたようだった。

 中に入ると、太く黒い鎖がかかった木箱が並んでいた。淀んだ空気が息苦しい。封印のようなものをされていることは一目瞭然で、刀剣男士が触れるとすぐに破壊につながる様な、強い呪いの類であることも分かった。

 嗚呼、何て趣味の悪い。
 少年は嘆息しながら、封印を解いた。刀剣男士には拒絶の力を発揮する呪いだったが、人間である少年には効果がないことが幸いだった。


 そこで、無事解放されたのが、五虎退、後藤藤四郎、秋田藤四郎、乱藤四郎の四人だった。少年としては以上で終わり――――のつもりだったが、四人はやはり怪我も負っていたので結局手入れも行った。


(……すげー不本意だったわけだけど)


 何だって怯えてる短刀を手入れしなければならなかったのか。

 獅子王は自ら申し出て来たからやっただけだし、薬研は折れてしまいそうだったから仕方なく。だが、封印されていた短刀勢は別に今手入れしないと折れるというほどではなかったし、自分達から頼まれたわけでもなかった。

 封印を解いてとっとと離れようとしたが、いっそ無様なんじゃないかという勢いで薬研に必死にすがりつかれた。駄目押しに獅子王にもすがりつかれた。


 お前らな……
 こんな子供に男二人で、全力ですがりつくとか、物理的に力の差がありすぎて振り払えねえだろうよ卑怯者……!


 手入れをやると答えるまで離れてくれそうになかったから仕方なく了承した。基本は嫌いな刀剣連中の手入れなんてしたくねえという俺の意思は何処へ。出来る限り頼りたくねえと思ってるのにまたしても管狐を介して政府に資材を要求する羽目になった。もう嫌だ。

 …ここまでは昨日の夜の話だ。
 少年としては、怪我も直った薬研の兄弟達はてっきり刀剣らが集まる部屋に戻ったとばかり思っていたのだが、朝から何故か目の前に並んでいる。しかも知らないうちに本丸内の掃除の役割分担が始まっていた。

(……はあ、)


 本当に、何から何まで思い通りにいかない連中だ。思い通りにいかないだろうな、程度の予想はしていても、それもまた全て斜め上。基本的に刃を向けられてばかりだろうと思っていたところ、何故か知らないがそうじゃない。


 加えて、今ここにいるのが、昨日封印から解いた短刀らだけならともかく、だ。百歩じゃ無理だが千歩か万歩か譲って納得するにしても。
 並んでいる粟田口四人から視線を外して、首を回す。


「で。こいつらも掃除に参加するのか」


 離れたところで突っ立っている、刀剣男士。
 短刀達よりも警戒心を露骨に出しながら此方を睨んでいる。


 へし切長谷部と、不動行光だった。

  ***


 薬研が部屋から出て行ったきり、戻って来なくなった。
 一日戻ってこないくらいは今までにもあった。審神者に引き留められ、口にしたくないような仕打ちを受けていると、別段珍しい事でもなかった。
 ただ、あの審神者はそういう意味では飽き性で、一人に対して延々二日も三日も痛めつけることはしなかった。すぐに標的を変えて、罵倒し、暴力を振るい、嗜虐的に笑う。―――ただ、人質は変えない。そういう男だった。

 だから、二日と戻って来ないとなると、嫌な予感が止まらない。
 薬研は短刀の中でも練度が高く、ゆえになかなか折られることはなかった。でも今回は、もしかしたら何かやらかして、審神者に怒りを買ったのかもしれない、と。

 …あいつが弟達のためにどれだけ身を削り、どれだけ必死になっていたのかを、俺達は知っている。そして、俺達は仲間であるから、放っておくなんてできればしたくない。
 だが、だからといって軽はずみな行動は逆効果だ。少し考える必要があるだろう。


 俺はそう考えていたのに。
 考え無しに動こうとした、馬鹿がいた。

「何処に行く」


 横たえていた身体を必死に起こし、下半身を半ば引きずるようにして動き始めた馬鹿。膝が畳を擦る音、それに、細切れな吐息が聞こえて、目が覚めた。
 怠さと痛みでぼんやりしていた頭は、部屋を出ていくそいつの背中を見た途端覚醒した。だから思いの外、素早く動いて後を追いかけられたし、追いついた際にはっきりと言葉を紡ぐことができた。


「……何だ。起きてたのかよ」


 ぴたりと動きを止めて、振り向く。その動作すら何処となく左右に揺れていて、無理しているのは一目瞭然。
 甘酒を飲めるような状況にないそいつの顔は、額から伝っている血で半分ほどが紅い。


「質問に答えろ不動行光。何処に行くと聞いている」
「……」


 ちらり、と。廊下の先を見やる。
 長く息を吐くのは、溜息ではない。不動は毒ガスと思しきものを戦場で吸い込んでしまってから、上手く呼吸ができなくなっていた。声が出るのが不幸中の幸いだが、時々苦しそうに胸を抑えて動かなくなる。
 残り少ない材料でこっそりと薬研が薬を煎じてくれたので悪化はしていないようだが、あくまでできているのは現状維持といったところ。手入れをしてもらえれば済む話だが、俺達に手入れ何て常識はない。


「……適当に、ぶらぶらと」
「どうして」
「…散歩」
「貴様嘘が下手すぎるだろう」


 不動の眉間に皺が寄る。分かり易い奴。こいつほど嘘が下手なのはそういない。今も、昔も、素直すぎるのだ。……はっきり言って、俺にとっては苦手な部類に入る。あの男を未だに誇りとして語るのも気に食わない。
 ……と。今はどうでもいい。こんな奴でも、仲間であることに変わりはない。

 こほ、と空咳を一つして唇を噛み締める。喉の奥で何度もくぐもった声を漏らして、やっと口を開く。


「…分かってるなら、聞くなよ」
「分かっているから止めてるんだ」
「何で止めるわけ? 薬研がどうなっても良いってのか」


 睨まれて、苦虫を噛み潰したような表情を作る。
 馬鹿が。誰もそんなこと言ってないだろう。勝手に思い込みで話を進めるな。

 薬研はあの男――織田信長の懐刀。不動はあの男が傍に置いていた森蘭丸の懐刀。お互いの主同士が近しい存在だったためか、薬研と不動もお互い比較的気を許している。


「―――宗三みたいなことがあったら、どうするんだよ」

「……っ」


 地を這うような声。そこに滲む怒気に、息を呑む。

 薬研に気を許していることもあるが、そもそも不動は元々周りに対して壁を作らない質だった。今は若干ひねくれてしまっているが、織田家関係の刀に対してはとくに、心の垣根が低い。

 その一人である宗三左文字は、今、ずっと眠っていた。
 審神者に良いように使われた、反動で。


「…分かった。薬研のことは俺が探しに行く。お前は部屋に戻れ」
「はっ。こんなダメ刀じゃ助けられねえだろうって? 大体お前が審神者に逆らえるわけ?」


 鼻で笑い、目を三角にして俺を見上げる。ぼさぼさになって下りている前髪の隙間から見える瞳の奥には、昏い光が灯っていた。


 ――――長谷部、主命だ。このクズを、


 ――――何だその顔は。

 ――――逆らうつもりか。

 ――――〝主命〟だぞ。長谷部。

 歯を食いしばる。


「…そうだ。俺の方が練度が高い事を忘れたわけではないだろう。不動行光の出る幕じゃない。足手纏いだ」


 一瞬、驚いた顔をする。だが、不動は不恰好な笑みを浮かべた。


「流石、へし切は言うことが違うなぁ? そのボロボロの身体で何ができるんだよ。立ってるのがやっとのくせに」
「ボロボロなのはお互い様だ」
「それこそ冗談じゃない。ダメ刀だからってなめんな」


 言うが早いか、手が伸びて来た。咄嗟に身を引くこともできない。奴の手が俺の懐に入ると、指を立てて掴まれた。


「――――っぐ……!!!」

「俺より重傷なことくらい、分かってんだ」

 痛みと痺れに、汗が噴き出す。不動の腕を掴み、離せという意味を込めて強く握る。すると、今度は不動の顔が歪んだ。こいつだって満身創痍だ。どうせどこを触ってもこんな顔になる。俺の場合はとくに酷い怪我が懐にあるというだけ、傷の重さは大して変わらない。


(それに、お前の方は息をするのがやっとじゃないか)


 どちらの方が傷が重いか、何て話を始めたらきりがない。ただ、短刀のこいつよりは打刀の俺の方がもつかもしれない。
 しかも不動の悪癖を知っている。こいつは仲間を気遣えるが、自分には全く無頓着だ。最悪、折れる覚悟をしているかもしれない。


(貴様のようなどうしようもない奴でも、もう失うのは御免だ)


 元々力は俺の方が強い。それに不動も俺の傷を悪化させる気はない。懐に突っ込まれていた手は簡単に離れた。だが、奴の腕はつかんだままだ。


「…離せよ」
「離したら、逃げるだろう」
「逃げない」
「間違えた。薬研を探しに行く」
「離せってば」
「そこは行かないと言え」


 不動が苛立ってきているのを感じる。だがお前は思慮が浅すぎる。今行っても、何もできない。負っている傷を悪化させるだけの未来が見える。


「っ、離せよ!」
「くどい」
「もし手遅れになってまた犠牲者が出たらどうするんだよ!」
「今のお前が行ってもどうせ変わらん」
「ダメ刀だからって」
「そうじゃない」
「へし切!!」


「いい加減にしろ!!!!」


 不動の身体が竦んだ。俺も、声を荒げたのは久しぶりだった。傷に少し、響く。

 審神者が何かをしたとき、お前は冷静に対処できるのか? もし、薬研が酷い目にあっているのを見たら、お前は激情に任せて刃を振るうだろう。
 冷静な頭を残していない奴を一人で行かせることなんて、できるわけがない。


「お前まで失くしたくないと言ってるんだ!!!」

「――――っ……」


 その顔が、泣きそうに歪む。……俺も、似た様な顔をしているのかもしれない。

 思えば、最近の審神者は酷かった。我ら刀剣男士への虐殺に近い行為が激化してきていた。
 俺達とて、神の端くれだ。あの人間が、自ら生み出す瘴気と、穢れとでどんどん狂ってきていることくらい、ちゃんと分かっていた。だが、全知全能でもなく、ましてやあの人間に呼び出された付喪神には、どうすることもできなかった。

 どんどん仲間が減った。
 見知った顔がいなくなった。


「……でも…でも薬研だって! 俺達の仲間だろ!!」


 胸を抑えて、微かに前かがみになっている不動は、また少し息苦しくなっているんだろう。こんなに続けて言葉のやりとりをするのは久しぶりだから、きっと呼吸が追い付いていないのだ。

「……俺もう嫌だ……宗三のときみたいに、戻ってくるの待って、戻ってきたら、ほとんど壊れてて……何もしないで待ってるの、嫌だ……」

「………」

 手を離すと、不動の腕はゆっくりと下りていく。いきなり駆け出していなくなるなんてことはなかった。…だが、考えてみれば、こいつが急に駆け出せるほどの体力があるとは思えなかった。俺の頭も結局、そこまでちゃんとは回っていない。


「……嗚呼。俺も、もう黙ってされるがままではいたくない」


 俺達は刀。主あっての刀。だが、あの男は、主と呼ぶにはあまりに無茶で。主命をくださっても、それは下劣なものばかりで、結局まともに遂行できた試しもなく。

 ――――もう、諦めて良いのかもしれない。
 ――――主の力になるべく、刀を振るうことを。


 何故なら俺達は、言葉を。意志を。感情を、持ってしまった。

「……俺も、行こう。…共に薬研を助けに行こう」

 不動が、目を丸くした。
 驚いているのだろう。俺も、口にして、自分で……素直に言って、落ち込んでいる。

 はっきりと、審神者から〝助ける〟という表現を使ったことが無かった。人間を敵とみなすことに、まだずっと抵抗を覚えていた。顕現したとき、俺は、今の主のために、この力を使うのだと信じていたから。そしてその希望をずっと捨てきれずにいたから。
 俺は、痛めつけられるのは構わない。己の身体を傷つけろと主が仰せなら、喜んでやろう。だが、主命に従わないまでも、逆らうことはしたくないと思っていた。やりたくないことは。
 例えば、俺以外の誰かが傷つけられるというなら、土下座をし、懇願した。何でもするからそれだけはやめてくれと、きっと願った。


「……薬研が、もし、宗三みたいなことに、なりそうになってたら。俺は間違いなく、審神者に、刃を向ける。ダメダメだって、分かってても、俺はその覚悟を持ってる。

 ―――お前、良いの」


 ……〝主命〟をくれるはずだった人間に、刃を向けて。


 不動は気づいていたのだろう。最悪、謀反を起こすような行為に繋がる。悲しいかな、その可能性は極めて高い。だが、その行為に俺を加えたくなかったのだろう。きっと、へし切長谷部が、苦しむからと。誰よりも、主の力になりたいと願いながら顕現した俺に、気を遣ったのだ。


「……誰に物を言ってるんだ」

 笑って見せる。こんな状況下で、俺に気を遣ってどうする。


 ―――嗚呼、でも。そういえば。
 ―――森蘭丸も、そういう男だっただろうか。

 今更だ。
 主命に従い仲間を斬るようなことはしたくない。そう思った時点で、俺はもう主命に従うという希望は捨てるべきだったのだ。ずっと行動をせず、ただいなくなっていく仲間を見続ける事。何と、馬鹿げていることか。


 
「遅れを取るなよ、不動行光」
 

 薬研が戻ってこない理由。それはもう、一つしかない。きっとあいつも、宗三と同じ目に、遭っている。
 そして。もしかしたら、何て思わない。確実だ。不動は確実に、審神者を討つ気でいる。その覚悟の光が、目に宿っている。そこに共に参ると、今、口にした。


 肚は―――括った。


 俺は。きっと。恐らく。
 今日。〝本来は力になりたかった人間〟に。刃を……向け、


「何だ、騒々しいと思ったら長谷部に不動か!」

「「………へ?」」


 散々話題に上がっていたかの短刀が、軽い調子で手を挙げる。

「よう。何だか久しぶりな感じだな?」

「「…………」」


 へし切長谷部、不動行光。

 絶叫が上がるまで、あと二秒。

   ***


「ややややややげやげやげやげやげおぇっげ、うぇ、」

「おーおー不動落ち着け、呼吸おかしくなってるぞ」


 屋根も飛ぶではないかという大絶叫の後、突如現れた薬研に人差し指を向けて、大混乱のまま名前を呼ぼうとした不動。だが、呂律と心と興奮しきった脳味噌が見事なオーバーヒートを発生させ、結局まともに名前を呼ぶことすら適わない。倒れ掛かり、あっけなくその場にしゃがみ込んだ。
 耳の鼓膜がいまだに震えたままで、少し頭をくらくらさせながらも、薬研はいたって冷静に不動に歩み寄り、同じくしゃがむとよしよしとその背中を撫でる。


「長谷部、こりゃ一体何の騒ぎだ? というか、あんたらが外に出てるなんて珍しいな。何かあったか?」

「何かあったかだと……」


 長谷部を振り返れば、此方も半ば呆然としている。薬研は不思議そうに首を傾げた。


「うぇ、けふっ…けほ、けほ、何、か、けほ、あった、か、おぇ、俺、ら、」

「あー喋るなって。過呼吸みたくなってんじゃねえか。焦らんでも俺は逃げないからゆっくり呼吸してみろ」


 あまりの息苦しさに涙目になりながら必死に喘ぎ呼吸する自分に、半ば呆れ気味に苦笑を向けて来る短刀。だが、他でもないお前のせいでこんなことになっているんだぞ、と言いたげな目を向けてみるが、残念ながら伝わっていなさそうである。
 対して、薬研はあくまで自然な動きで、とんとん、と一定の間隔をもって不動の背中を叩いた。

 ひゅうひゅうと嫌な音を立てながら呼吸をする不動が心配であること。己もまずは落ち着かなければならないこと。それを理解していたので、ひとまずは長谷部も口を閉ざした。
 黙っている間、ゆっくり思考を回すことに努め、薬研の様子を眺めた。
 彼がこうして不動を落ち着かせているのは、別段珍しい話じゃない。だが、不思議と違和感があった。何故だろう? 長谷部は考える。元々世話焼きな性格であるし、弱っている刀を放っておけない、嘗てあの男の懐に収まっていた刀。加えて、この本丸は状況が状況だ。
 状況、というのは。つまり。

(………この本丸は、酷く……)
 

 ――――酷く……?


 はっとする。当たり前に思っていたことを反芻しようとして、奇妙な点に辿り着く。


 ――――この本丸は酷く、非情だ。

 ――――手入れをしないことが常識となるほどに。


「……薬研」

「ん?」


 再び薬研が顔を上げる。
 

「…お前、怪我は、どうした」


 長谷部の質問に、え、と声を上げたのは不動だ。まだ肩で息をしているような状態ではあるが、幸い、少しずつ、落ち着いてきてはいる様子。だからこそ、長谷部の言葉を聞き取り、反応できたのだろう。
 一瞬はきょとんとした顔をしていたものの、薬研は微かに目を細める。


「……まあ、そりゃ、そういう反応になるわなぁ」

「ちょ、薬研、見せろ」

 ふらつきながらも折り畳んだ身体を起こした不動が、困った様に眉を垂らしている薬研の肩を掴んだ。頭の先から、足の先まで視線を巡らせ。

「……本当だ…へし切の言う通り…直って、る……」

「…ああ」

「何で…? いや、良かった、けど、どうして……」

 目の前の短刀だけではない。横に立っている打刀の彼もまた、珍しくもはっきりと混乱の色を瞳に宿している。何が起きているのか分からない、そう顔に書いてある。
 だが、刀剣男士の傷は刀剣男士自身ではどうすることもできない。ましてや、全部、元通りに直すなんてことはできるわけがない。人間の怪我が「治る」のと、刀剣男士の怪我が「直る」のでは、本質的に全く違う。
 応急処置は人間の真似事で多少効果があっても、「直る」に至ることは有り得ない。


「……先に言っておくが、俺は狂ってねえからな。手入れをしてもらったんだ。だから今までの傷はもう全部癒えてる」

「っ、それで」

 長谷部の拳に力が込められる。強い声音で続きを促されて、「それで?」と問い返した。


「ただで手入れをして貰えたわけがないだろう。俺達に…仲間に変な気を遣うのは止せ。お前は一人で戦っているわけではない」


 手入れをする代わりに、何を要求されたのだと。そう、尋ねられているのは分かっていた。

 自分が、獅子王と会話したときも似た反応をして見せたなと、思う。そして、実際に手入れをしてくれた審神者と対面したときも、礼を言おうとは露ほども思わず、真っ先に尋ねた。「何を企んでいる」と。


(残酷だよな)


 残酷で、悲しい事だと思う。怪我があることに安堵して、怪我がないことに困惑し、それが不安のタネになること。
 自分達の怪我は直してもらえるはずのないものだと、認識していること。


「安心しろ長谷部。何も要求なんかされてない。ただ手入れをされただけだ」

「そんなことあるわけないだろっ!!」


 不動が興奮気味に、半ば薬研の言葉を遮るように叫んだ。


「お前は一旦落ち着け」

 今度は長谷部が不動を窘める。ただ、彼も同じ思いでいるのは明白だ。その証拠に、そこまで強くは制していない。


「薬研。お前が部屋を出て行って、何日経った?」

「ん? あー……ええと…二日、くらいか」


 頭の中で日数を数えたのだろう。視線を空中に投げて、頭の中で数えながら言葉を紡ぐ。と、薬研の双眸が丸くなる。それから、納得した様に頷いた。


「そうか。あんたら、俺のこと心配して出てきてくれたのか」

「当たり前だ。だからこそ、正直に話してくれと言っている。審神者に、一体何を言われた」


 あくまで冷静に状況を分析しようと言葉を重ねて来るこの男も、実のところはきっと冷静ではない。固定観念にとらわれて、薬研の言葉を飲み込めないでいる。

「もう一度言うが何も言われてない。怪我が直ってる、本当にその事実しかない。ただ…まあ、先に一度話しに来るべきだったよな。今までのことから考えても、心配されるのは当たり前なのに、不注意だった。悪かった」


 立ち上がり、未だしゃがみ込んだままの不動と、腑に落ちていない様子の長谷部を交互に見つめてから、そっと肩を竦めた。
 まだ二人は何かを言いたそうにしているが、実際に口を開かれる前に、手を出すことで制する。今の言葉だけで分かってくれとは思わない。薬研とて、獅子王にどれだけ説明されても理解できなかった。ただ、言葉を聞いて、少しだけ興味を持ったから、試しに審神者の行動を観察してみただけ。獅子王の言葉を理解できたのは、それからだ。


 今は、自分を前に困った顔で笑っていた獅子王の気持ちが、よく分かる。獅子王はこう思いながら、自分を前にしていたのだろうなと、簡単に想像ができた。


「二人とも、騙されたと思って、俺についてきてくれねえか。きっと、俺があれこれ言うよりも、その目で確かめちまった方が、いくらか早いと思う」


 心配かけといて今度は一体何なんだって、思うかもしれねえが。
 そう前置いて、言葉を続ける。


「俺のこと、信じてみてくれねえか」

 ――――知って欲しい。あの、審神者を。

  ***


 操られているようには見えない、薬研の澄んだ目は、どうしても嘘を言っているようには思えなかった。だから二人とも、了承したのだ。

 だが連れていかれた先で、最初に驚いたのは、薬研と同様に傷が完治している獅子王がいたこと。新しい審神者を監視するために外に行っていたことは知っているが、何だかそのときとは様子が違っていた。
 次に驚いたのは、ずっと人質として封印され、久しく姿を見ていなかった薬研の兄弟達がそこにいたこと。ただ、手放しに喜ぶことはできなかった。四人の刀剣男士は皆、戸惑った様子だからだ。新しい審神者に何かをされたのかと思い殺気立ったら、また薬研に制された。


 そして。新しい審神者と、対面し……

(……わっけわかんねえ……)


 不動は眉間に皺を寄せた。己の手に握られているのは刀でもなく、何と雑巾。前にしているのは血と埃で汚れた壁である。
 状況把握も出来ない内に手入れをされ(なんかそのときもあれこれ審神者と薬研と獅子王が揉めていたような気がするが)、気が付いたら共に本丸の掃除をすることになっていた。長谷部もなかなか見ないほどの抜けた顔になっていたので「何だこの状況は」とでも思っていたのだろう。


(……大体……)

 雑巾を見下ろしてから、首を回す。同じ部屋の中。自分とは真反対、すなわち対角線上で此方に背を向けて黙々と破れた障子を張り替えている人間を瞳に映した。


(何で俺がこの人間と同じ部屋の掃除なんだよ……!)


 最初は入れ替わり立ち替わりだった。審神者に、何処の掃除が終わっただの、このゴミ袋はどうするべきだだの聞きにくるからだ。ただ、皆審神者に近寄るのを恐れているせいか、必ず獅子王か薬研が付き添っている。
 そして、本当にただの流れと言うか。薬研や獅子王の指示に何となく従っていたら、いつの間にやらこの人間と二人で同じ部屋を掃除していた。

 気持ちの悪い審神者だ。不可解なことが多すぎる。何を聞かれても随分投げやりな返事しかしないし、明確な指示も一つも出さない。
 さっき、獅子王が乱と共に顔を出した時もそうだった。

『主、手入れ部屋の両隣終わったぜ! 次はどこやりゃいい?』
『もう良いから早急に消えてくれ』
『あ、厨の隣りとかまだだったよな? あそこやる! 行こうぜ乱!』
『――――え、あ、え、と…うん、わかった…獅子王さんが言うなら…』
『馬鹿やめろそこまだ穢れ祓い切れてねえ絶対襖開けるな!!!』
『えー? じゃあ何処やりゃ良いんだよー』
『早急に消えろって言ってるだろうが!!!』
『そうだ! 馬小屋! 馬小屋まだだったよな! あそこなら良いだろ? 行くぜ乱!』
『……もうやだ話聞けよ本当……』

 何か、あれではまるで、此方が積極的に審神者のために動いているかのようだ。そんな義理、ないはずなのに。だが獅子王は正気みたいだし、尚更状況が分からない。獅子王は審神者を躊躇うことなく〝主〟と呼んでいたのを聞いたときは耳を疑った。


(…薬研も、こいつのこと、〝大将〟って呼んでた)


 大将と呼んでいる。それはつまり、この子供を主と認めていることに他ならない。
 不動や長谷部と会話をするときは「審神者」と呼んでいるが、いざ呼びかけるときは〝大将〟と呼ぶ。ぎょっとして薬研を見れば、彼も自覚があるようで、決まりが悪そうな表情を浮かべていた。


(正気に見えるのは俺の気のせい? 本当は巧妙な手で薬研を騙してる?)


 審神者は霊力のある人間だ。そこらの普通の人間とはちょっと違う。それくらいのこと、できても何ら不思議ではない。
 同じ部屋でもう結構な時間、掃除をしているが、審神者の方からは何も話しかけてこない。一体何を考えているんだろう。これだけ同じ空間にいたら今までは罵詈雑言の一つや二つ当たり前だったのに。どんな目に遭わせてやろうかとか考えているんだろうか―――

「……訊きたいことあるなら訊けば」

「ひっ!?」

 何も話しかけてこない。そう丁度考えていたところに出し抜けに声がかかり、不動の口からは引き攣った声が出た。条件反射で身体が震え出す。


「別に逃げたいなら逃げれば良いし。好きにすりゃ良い」


 振り向きもせず、淡々と言葉を紡ぐ。心臓がばくばくと脈打ち、変な汗が頬を伝う。だが、それ以上に苛立ちが募った。

 ―――逃げたいなら逃げれば良い、だって?

 歯噛みして、一度深呼吸した。
 呼吸が苦しくない。手入れをされたことで、痛めていた喉や肺腑も元通りになっているからだ。腹立たしい。こんな奴の手のおかげで、苦しくなくなっているだなんて。
 どうして薬研は、こいつに、俺の手入れを頼んだんだ。


「は。ダメ刀だから逃げても当然って? 随分馬鹿にしてくれるじゃねえか」


 すると、少年が振り向く。その顔には、分かり易く呆れの色が滲んでいた。


「誰もそんなこと言ってない。何勝手に被害妄想入ってんだよ」
「言ってなくても思ってんだろ。俺には分かるんだよ、どうせお前ら審神者はそういう人間だ!」
「あーそ。じゃあ勝手に思ってろよ」


 面倒くさい。あからさまに舌打ちして、障子の張り替えを終えると立ち上がり、脇に置いていた雑巾を拾い上げる。壁際に移動して、ごしごしと薄汚れた部分を拭った。
 嗚呼。気持ち悪い。何を考えているか分からない。何だこの子供は。
 口を開いたから、使えない刀だの、折れたくないなら云々だの、言葉をかけて来るに決まってると思ったのに。質問を投げかけてきて終わりだなんて、有り得ない。

 何を考えてる? 何を企んでる? あんたは、一体、何を。


「………目は口ほどにものを言う」

 はあ、と深い溜息が聞こえた。
 壁を拭う手を止めて、再び振り向いた。灰色の瞳と、桔梗色の瞳が、互いの姿を映し出す。


「なあ。そんなに変、俺って」

「……何、を、企んでるんだよ」


 目と目が合っている状態で、何だか今度は、逃げるなと言われているような気がした。相手が、話をする気になっている。そのことが、言葉を。貯め続けている言葉を、吐き出させる。


「どうせあんたも、前の審神者と同じなんだろ。人間だもんな。もう、信長様や蘭丸みたいな人間はいないんだ。分かってる。あんた、何を企んでるんだ。薬研を騙して、獅子王も騙して、大将とか主とか呼ばせて。どうせ強要してるんだろ。俺達を使って今度は何をする気なんだよ」

「お前意外とお喋りなんだな」


 無駄な会話なんかする気は、ない。


「何か企んでるなら教えろよ。そんで、俺を使えば良い。その代わり、他の奴らに手を出すな。約束してくれるなら俺はあんたに、」


 ――――バシン!!!!


 ぎょっとした。不動が口を閉じる。
 少年が突然、手に持っていた雑巾を床に叩きつけたのだ。顔を俯かせたまま、つかつかと歩み寄ってくる。思わず後退るが、すぐ後ろが壁だったのでそれ以上後退することはできなかった。
 すぐ正面にまで来た少年が、見上げる形で鋭く睨みつけて来た。


「……おい。それ、どういう意味」
「……どういう意味って…」
「どうして〝お前を使えば良い〟のか。分かり易くもう一度言え」


 反論も沈黙も許さない。ぎらぎらとした灰色は、子供とは思えないほど深刻で、激しい怒りの炎を灯している。

 ――――この子供は、何に怒っている?


「……どう、してって……俺は、ダメ刀だ」


 声が震えるのが悔しい。自分よりも身長が低い、こんな人間に恐れを感じているのが、悔しい。

 ……負けたくない。
 …どうしてこんな奴に、恐怖を感じなければならないんだ!


「ダメ刀ならいなくなっても悲しむ奴はいない! だから折れる様な危険があることは、全部俺がやる! もう宗三や薬研……へし切だって…他の皆だって! 絶対に折らせない! だから今後は全部俺を使えって、言ってるんだ!! 約束してくれたら、俺は、どんな命令にだってあんたに従う!!!」


 勢いに任せて、叫んだ。頭の中を、今までの仕打ちが走馬灯のように駆け抜けていく。怒りが爆発する。仲間を失いたくない。もう、願うことはそれだけだった。


「…今話聞いて大体わかった。確かにお前、ダメ刀っぽいな。いや、ダメ刀なんだな。よく分かった。嗚呼、もうよーく分かった。自分ならどうなっても悲しむ奴がいない? だからどうなったって良い? 自分を使えって? へえ? そうなんだな。知らなかったよ。すっげえな。そう思うんだ、お前。悲しむ奴が誰もいない。へえ」


 何度も何度も言葉を繰り返したかと思えば、小さな手が伸びて来た。それは、不動のネクタイを強く掴み、引かれる。
 低い位置から引っ張られているので、無理矢理身体が前のめりになった。首が絞まって、不動は顔を顰める。
 近づいた互いの頭。子供なりの、低い、低い、声が聞こえた。


「――――いないわけないだろ。寝言は寝て言えよ」

 無理矢理な形で突き合わせている顔。
 そこにある表情は―――何だ? これ。

「お前、主命馬鹿ともめてたよな。俺達のところに来る前だ。随分でかい声でもめてた。聞こえてたよ全部。あいつお前に言ってたよな、仲間を失いたくないって。一人で行かせたくないって。あれ言われてお前、自分がいなくなっても悲しむ奴がいないとか言えるわけ。どんだけ頭お花畑なんだよ。笑わせるな」


 ネクタイを引っ張る手が、微かに、震えている。


「獅子王も薬研もお前に声掛けてたよな。手入れしろって頼んできたのもあの二人だ。お前がいなくなっても良いって思ってる奴がもしいるんだとしても、獅子王と薬研はそうじゃないことくらい分かれよ、ダメ刀」


「……」

 首が絞まっている事の息苦しさも、忘れる。

 何で。
 酷い事しかできないはずの、審神者が。


 ……どうして。そんな顔をするんだ。


「……分霊がいても。お前は、お前しかいないんだよ。不動行光」
「………!」

 ふいに、ネクタイから手を離される。そして、次の瞬間にはどんと身体を強く押された。二歩ほど下がっただけで後ろの壁にぶつかり、思わず「いて」と声が漏れる。
 少年は踵を返した。落ちている雑巾を拾い上げてから、歩き始める。不動から、離れていく。障子戸を開けて、一度だけ振り向く。


「お前みたいな考え方してる奴がいるから、刀剣男士は嫌いなんだよ」


 表情を歪め、苦々しく吐き捨てると部屋を出ていく。
 不動は呆然とした気持ちで、壁際に佇み続ける。 


(……俺、今、怒られた?)

 どうして怒られた?

(……自分が、どうでもいいみたいに言ったから?)

 どうしてそれを審神者が怒る?

(………何で?)

 だって、自分が折れても、代わりはいるのは知っているだろう。「分霊」という存在を、はっきりとあの審神者は自ら口にしていたのだから。
 なのに、何故、他に代わりがいないみたいな言い方を。どうして。


「……わけ、わかんね……」

   ***

 足音が離れていくのを聞きながら、暫くは沈黙を保っていた。部屋の中で、力なく、分からないと言葉を繰り返している短刀がいる。それは、怒られて拗ねている子供の嘆きを思わせた。

「――――どうだい。あんたから見た、審神者は」

 口火を切ったのは薬研だ。
 廊下の先に目をやる。歩き去って行く小さな背中。背負われている刀。まだ言うほど関わることができていないため、あの少年が何を思って、この部屋の中にいる〝ダメ刀〟を叱りつけたのかまでは、分からない。
 ただ、障子越しに聞いた少年の言葉を理解できないほど、俺も阿呆ではなかった。

「……お前があの審神者を〝主〟と認めた理由は…分かった気はする」
「そりゃ有難いな。だが長谷部はそこには至らないってところか?」
「………主、というものが…少し分からなくなっていてな」
「いや、別にそこを責めるつもりはないぜ。無理に主と呼んでも大将は嫌がるだろ」

 俺もまだ本当のところは分かってないしな。
 そう続ける薬研の言葉に、嘘はないのだろうと思った。


「……先ほど、五虎退が壺を割っただろう」
「ん? いや、道場の方を少し乱と秋田と一緒に掃除しててな。そうだったのか」

 道場は渡り廊下を渡った先に位置している。離れていたせいで壺の割れた音には気づかなかったのだろう。

 審神者と不動が同じ部屋で掃除を始めるよりも前。
 ある和室を掃除していた五虎退が、うっかり床の間に置いてあった壺を割ってしまった。それはもう、派手な音を立てて。


「…あの壺は、前の審神者が大事にしていたものだ。高価な品だと仰っていたような気がする」


 言ってから、苦虫をかみつぶしたような顔になる。仰っていた、等と。自分の審神者――否、〝主〟という存在に対する希望が未だ消えていないのだろうか。無意識に敬語を用いてしまう己が、嫌になる。
 前の審神者は、所謂「見かけ」を気にし、そして「権力」を誇示することを好んだ、安い男だった。だからこそ、ろくに眺めもしない、使いもしない高価な壺を購入し、飾っていた。


 ―――何も喋らないのに価値がある。喋っていてお偉い付喪神なのに、お前らの方が価値を感じないことがあるのは何故だろうな?


 そう言って笑う審神者の手には、折られた刀があった。


「一緒に部屋で掃除をしていた後藤が、五虎退と一緒になって土下座していた。二人とも怯えていた。あの子供も、壺の割れた音で部屋に飛んできたからな。驚いたんだろう」


 ――――ごめんなさい、わざとじゃないんです、ごめんなさい
 ――――頼むから折らないでやってくれ、許してくれ


 本丸の一部。広間なんかがあるところで籠城している刀剣男士とは違い、後藤や五虎退は敵意を向けることはせず、ただはっきりと怯えていた。ずっと刀の姿で封印され、人質として扱われ、気紛れに折られるかもしれない日々を過ごした薬研の兄弟達は、最早敵意を向けることなんてできなかったのだ。
 割れた壺を一瞥した審神者が、動いた。その手が、五虎退の方に伸ばされていくのを見て、俺は咄嗟に刀を抜きそうになった。だが。


 ――――見てろ。長谷部。


 隣に立った獅子王が、止めて来た。言われている意味が分からず、面食らって固まっていると、審神者は既に五虎退の手を取っていた。
 ひっ、と五虎退が恐怖に染まった声を漏らし、後藤が青ざめた顔を上げた。
 審神者が、口を開いた。


 ――――……怪我はしてねえな。


「…ははっ、なるほど。前任の審神者なら有り得ねえな、確かに」


 薬研が肩を窄めて笑う。


 あの審神者は怒らなかった。五虎退が怪我をしていないことを確認して、一応傍にいた後藤にも怪我がないかを確認して。次に出した指示は、素手で壺の破片を取らずに箒と塵取りで片付けることだった。
 きょとんとする二人を見て、「どうした」と尋ねる審神者は、別に何も変な事はしていないだろうと言いたげの顔であったが……俺達からすれば、変な事尽くしだった。それでも、


「…もしかしたら、この審神者は違うのかもしれないと思った」
「ああ、分かるぜ、その気持ち」
「……見極めて、また、裏切られることはあるんだろうか」
「さてな。だが、獅子王はもう迷ってないぜ」


 よく言う、と目の前の短刀を見つめた。お前だって、もう迷っていないんだろう。
 まるで、此方の言いたいことは分かっているとでも言うように口角を吊り上げて見せ、さて、と薬研が背中を壁から離す。

「中でまだぐずぐずしてる〝ダメ刀〟殿の尻でも叩いてくるか。こうなるとすぐ動けなくなっちまうからな。長谷部も一緒にどうだ?」

 数歩先にある部屋を顎でしゃくる。
 不動一人となった部屋の中からは物音一つしない。きっと、まだ動けないでいるのだろう。審神者の言葉を反芻し続けているに違いない。

「遠慮しておく。俺が行くと喧嘩になる」
「くはっ、自覚あるならもっと普段から穏便に済むように会話しろよ」

 噴き出す様に笑ってる薬研に、こいつは先ほどからよく笑う奴だと感じた。しんどそうでもなく、無理している風でも、勇気づける様にでもなく、ただ純粋に笑っているだけ。
 こういう顔を、俺達は皆、まだできるだろうか。


「まあ、いいや。じゃあ引き続き掃除頼むぜ。どこやってないかくらいは、あんたのことだから把握できてるんだろ?」
「……まあな」
「流石。宜しく頼むぜ。――――それと、」


 ふいに庭の方を向いた。何かあるのだろうか、と俺もつられて同じように庭に視線を投げてみる。


「大将のことは頼んで良いか、獅子王の旦那」


 軒先から、すとんと降りて来た金髪の男。肩には、いつも通り黒い獣が乗っている。お前、いたのか。獅子王が気配を消していたのだとしても、全く気づけなかった自分に驚く。
 よほど俺は今、己の感情を整理するのでいっぱいいっぱいになっているらしい。


「おう。この獅子王様に任せとけよ」

 にかっと音がしそうなくらい、白い歯を露わにして笑って見せる。
 何か主、様子が変だったしな。眉を垂らし、鼻の頭を擦るように触る。それは、獅子王が他人のことを案じ、落ち着かないときにする癖だった。
 …だからこそ、本当にあの審神者を慕っているのだと分かった。


 そして、審神者が去って行った方向に走っていく獅子王と、不動のいる部屋に入っていく薬研を見送り、俺も踵を返す。確かまだ片付いてないのは書庫と、…刀装部屋もだ。刀装部屋は広くはないが物が多いため、一人では少々厳しい。途中で誰かを捕まえられれば付き合って貰おうか。
 これだけ手があると、掃除もそこそこ進みが良い。初めは皆戸惑いながらだったが、徐々にそれも薄れてきている。


 ……まだ、俺は手放しに信じることはできないが――見極めて、信じられると思えたときには。あの審神者を、主と呼べるのだろうか。あの審神者は、俺に、主命を与えて下さるだろうか。

 決意を固めたはずだったが、もう少しだけ。
 俺は、審神者に刃を向けずに済む道を、考えてみようと思う。

   ***

 最近、灰色の夢が多かったのに、そのときは鮮やかに色づいていた。


 呆れた様な声が響く。
 そういえば、あいつはいつも、俺に向かって、わざとらしく呆れた声をかけてきていたっけ。

 働かない頭を叱咤しながら、徐に顔を上げる。視界がぼやけているが、襖を開いた先に誰かが立っている。あれは。着物に、袴に、浅葱色の羽織に、後ろに流した白い襟巻。そうだ、あいつは、そういう格好をしていた。
 ゆっくりと、目を見開く。
 ああ、帰って来た。帰って来たんだ。

 興奮で心臓が高鳴る。どくり、どくりと。

 どうして忘れていたんだろう。俺があいつのことを忘れるわけがないのに。だって、あいつと俺は、嘗て同じ主の元にあった刀だから。長い付き合いの刀だから。


 帰ってくると、信じてた。
 信じてたよ。本当に。


 おかえり――――××××。

 名前を紡ごうとした矢先。

 また。夢が、覚める。