旅をやめた赤毛の少女 (DQ7)
―――こうして、お姫様は王子様と平和に暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
本を閉じると同時に、吐き忘れて胸のあたりに溜まっていた息が、ふっと口から漏れ出す。椅子の背に凭れて、体を伸ばした。久しぶりに読んだ童話は、主人公の姫の山あり谷ありの人生を描いたものではあったものの、最後には約束された王子との出会いを経て幸せな暮らしを手に入れる。何とも安直で退屈な物語だと思う反面、世の中のすべての人間がこれくらい上手くいくことが運命として決定づけられていたなら、愚かな戦いを繰り広げることなど無いのかもしれない、とも思った。
困った幼なじみ二人について行き、石版を通じたその先の世界の有様を知ってしまった彼女には、それが「あり得ない」ことだと充分わかっていることではあるのだけれど。
椅子から立ち上がり、読んでいた本を本棚に戻した。ずらりと並んだ本、本、本。自宅で過ごすようになって、もう習慣づいてしまった読書。世界各地の本を取り寄せているとはいえ、ここにある本はほとんど読み切ってしまった。
(ママとパパに頼んで、新しいの取り寄せてもらおうかしらね)
腕組みをしてそんなことを考えると、人の気配を感じた。振り向くと同時に開かれる、部屋の扉。現れるその人。
(また、随分と、大きくなっちゃって)
物理的な話ではない。身長も勿論、旅を始めた当初に比べれば伸びたであろうが、途中までは共に旅をしていた身。改めて感慨に耽るほどのことはない。ただ、自分が自宅に残るようになってから、想像力では補えないほどの経験を、彼は旅中でしてきたのだと察するには難くないほど、「大きく」なっていた。
だが勿論、彼女はそんなことは口にはしない。大袈裟に肩を竦めて、切れ長の瞳をわざとらしく細め、尋ねる。
「レディの部屋にはノックをしてから入るのが礼儀よねぇ?」
彼は、マリベルの意地悪な声に困ったように眉を下げ、申し訳なさそうに肩を竦めた。
ここ数ヶ月、全く音沙汰が無かった、アルスだった。
* * *
「今度は神様を復活させるですって?」
どうも、世界が活気づいているらしいことは風の噂で聞いていた。きっと、アルス達が石版世界で何かやったのだろうとかは思っていたし、魔王を倒したのだと聞けば、嗚呼そうかと納得はできた。だが、目の前の幼なじみは頬を掻きながら、「あとは神様を復活させないと」などと宣うのだ。
「ほら、魔王がいなくなって世界が平和になった今、やっぱり神様を復活させる時だろうって話になって。あいつの言葉を鵜呑みにするわけじゃないけど、何となく嫌な予感が残ってるしね」
「何よ、それ。さっきの、体が死んでも魂まで死ぬわけじゃないっていう魔王の負け惜しみのこと?」
「うん、まあ」
曖昧に頷きながら、少年は前に置かれた
折角魔王を倒した張本人であろうに、妙に煮え切らない反応ばかりが返ってくる。
「何、あんた、魔王を倒して嬉しくないの?」
「嬉しいよ。嬉しいんだけど…」
何か、引っかかってて。
緩く頭を振る少年は、本当に何が自分の中で引っかかっているのかは分かっていないのだろう。別に魔王を倒した立場ではない人々が「世界が平和になった」と叫んで大喜びしていて、本人はそんな気分ではないと言う。奇妙な話だ。
「嫌ねぇ。過去と現代を行き来しすぎて、疲れてるんじゃない?」
そんなわけがないのは分かっている。そんなことで疲れていたら彼はここまで旅を続けていない。わざと叩いた憎まれ口だ。
腹立たしいことに、少年も分かっているのだろう。マリベルの台詞に「そうかも」と笑った。この笑顔で安心をしてはいけないのは分かっているのだが、少年が浮かべてくれた笑顔は此方を安心させるためのものだ。だから此方も騙された振りをして、ホッと胸を撫で下ろして見せるのである。
「それで? ガボ達は何処行ったのよ。そういうことなら、あんた達、まだつるんでるもんだと思ってたけど」
「魔王を倒したこと、報告しないで放置ってわけにもいかなくてさ。報告のために色々なところに今、散らばってて。メルビンは転移呪文を唱えられるし、アイラはリーサ姫のこともあるからグランエスタード城に行って貰ってる」
「じゃあ、ガボはどこ行ったのよ? まさか一人で舟使ってるなんて言わないでしょうね?」
ガボは元々狼の子供。ただの狼ではないにしても人間になったその振る舞いは野生児そのもの。野生の勘と人間離れした嗅覚はあるものの、人間的な細かい技術が必要とされる航海は無謀の極みだ。十中八九、漂流することになろう。
「でも、海賊の職はちゃんと極めたし……」
「本当に一人で海に出たわけ!?」
ガボが海賊の職を極めたことに驚く以上に、舟を使っていることを否定してこなかったアルスに驚いた。長く旅を共にしておらず、知らない内に多くの職を授かって経験を積んでいるからと説明されても、ガボはガボだ。心配するなと言う方が無茶である。
「大丈夫、舟は北側に止めなおしておいたし、海に出たって言っても、先はウッドパルナだよ」
ウッドパルナ。アルスとマリベルが、そして、ここにはいないグランエスタード国の王子・キーファが、初めて石版を通って訪れた、村。そのウッドパルナがある大陸はエスタード島のすぐ北に位置している。舟を使えばあっと言う間の距離なので、だからこそアルスも一人での航海を許可したのだろう。
魔王を倒した彼らには、世界中に、平和が訪れたことを伝える義務がある。だが常にそれに従事するわけにもいかないから、暇な時間を見つけては手分けしているということらしい。
アルスがここにいるのは、他でもない故郷であるエスタード島の皆に報告するためだ。
お茶を啜っているアルスが、眩しい。何か引っかかることはあると言いながら世界の為に走り回り、魔王を倒して満足するのではなく、次には神を復活させる。彼の冒険は、まだ終わらない。一所に止まる気は、今のところ無いのだろう。
マリベルは、これ見よがしに溜息を吐き、頬杖をついた。
「……いいわね、あんた達は。そうやって好き勝手に生きてられて」
自分で想像していたよりもずっと、不機嫌な声が出た。
「あ、あのさ、マリベル。実は、」
「あたしはもう……暫くは家にいるけどね」
何事かをアルスが言おうとしたのを遮って、マリベルはすっぱりと言い放った。ちらりと目をやれば、面食らった様子でいる少年が見える。
そう。ここに自分が留まることになった、事の発端は、彼女の父・アミットの体調不良だ。色々原因はあるが、旅を続ける娘の安全を案じたせいである点も無視することはできず、安心させる意味で家に残った。
今はもうアミットもほとんど全快していて、過保護な周囲の意見もあって未だに横になっているものの、健康面に関してさしたる問題はなくなっている。
アルスもそれは、女中から聞いているだろう。だからきっと、また共に旅をしないか。そう言ってくれようとしたのも分かっている。が、
「あたしが家を離れると、パパとママが寂しがるし……」
家族との時間を過ごして、自分が予想もできないほど心配をかけていたこと、予想もできないほど大切に思われていたことが、嫌というほど理解できてしまった。また旅に出たいなどと、どうして言えようか。
「パパとママのためだから、あたしもちょっとは女の子らしくしようって決めたの」
淑女らしい、優美な微笑を浮かべてみせるマリベルに、アルスは何とも言えない顔をした。見知らぬ男がこの表情を見れば、一瞬で落ちてしまうであろう美貌なのに、なぜそんな顔をするのか。
―――この幼なじみには、どんなに綺麗に笑って見せても、自分の腹の底にある、燻っている『ソレ』が、透けて見えてしまっている自覚はしながら。
「そういうわけだから、ここもレディの部屋よ。お気軽に出入りしないでよね」
何か言いたげな顔は、直さないまま。アルスは顎を引いた。
それから、積もりに積もった他の石版世界での話を聞かせてもらい、アルスはマリベルの部屋を後にした。そろそろかと頃合いを見て、窓を開ける。一階に下り、外に出て行くアルスの背が見えた。その両隣を、キーファと共に挟んで歩いていたのが、もう随分昔のことのようだ。
これで良い。自分が今更、アルス達の旅についていっても、力の差はついている。全力で食らいつけば、己の知性ならば追いつけないこともないだろうが、魔王を倒した彼らに自分が必要だろうか、と自問する。
自分が戦うべきは彼らと共にいる戦場ではない。この、自宅だ。両親のために、一番安心することができる環境で、自分は戦うのだ。それが、今、自分のするべきことだと、彼女は考えた。
でも、と思う。
(でも、もし何かあったときは、飛んでいくからね)
くるりとアルスが振り向く。はっきり此方に目が向いている。
驚いて肩が揺れた。口に出ていなかったはずだが、心の声が聞こえる職でも極めていたのだろうか。いや、そんな職があるわけが。
遠目に、気の抜けたような笑みを称えて手を振る少年が見えた。嗚呼、呆れた。どんなに魔王を倒した救世主だと崇められたところで、結局アルスは、アルスでしかないのだ。
マリベルは手を振り返すことはせずにそっと肩をすぼめた。一緒に旅をしていた頃、アルスが飽きるほど目にしていたはずの、彼女の癖。
アルスが踵を返して、再び歩き出したのを見届けて、マリベルも窓を閉めた。二人分の洋風茶碗と敷物を片づけてしまおうと手に取り、扉へ向かう。何気なく部屋の中に視線を巡らせて、鏡台の横に置いてある籠が目に入った。中には、鋼の鞭が入っている。
次は、冒険好きな少年の物語を読もうと思った。
fin.