花文―ハナフミ― ★薬不

 障子の木枠を叩く音がする。溜息を吐いて、今まさに開封しようとしていた甘酒の瓶を文机の上に置き、重い腰を上げた。何気なく壁にかかる小規模の時計を見やって、いつもより早いなと思う。身構えながら、障子を開けた。
 ―――瞬間、目と鼻の先に現れるのは、花。
「不動、俺と付き合ってくれ!」
「帰れ!!」
 ……今日、彼が――薬研藤四郎が持参したのは、三輪ほどを花束風にまとめた、真っ白なカーネーションだった。

 薬研が不動に求愛行動を始めたのはいつからだったか。思い出せないのも無理はなく、顕現した頃からだったであろう。きっかけもくそもないのである。
 審神者の力で、ただの短刀から人の形を作り出し、光と桜の中から現れた不動行光。そのとき、近侍を務めていたのは薬研だった。
『……ひっく。俺は不動行光。織田信長公が最も愛した刀なんだぞぉ! どうだ、参ったかぁ~!』
 甘酒を持った彼は、口上を述べてから、審神者の傍に立つ薬研に目を止めた。ぱっと見ただけでも嬉しそうに表情を緩めている彼に、不思議そうに首を傾げて、お前は誰だ、と言った。
『俺っちは……薬研藤四郎だ。覚えてないか?』
 暫く思案顔をしていた不動は、あ、と声を出してからしゃっくりをして、肩をすぼめた。
『薬研藤四郎って、あの薬研か……まさか、再会することになるなんてなぁ?』
 本能寺の炎に包まれて消えた、織田信長の懐刀。死んだはずの短刀が目の前にいるなんて、奇妙なことだと思うと同時に、自分のふがいなさで眩暈を起こしそうになった。でも自分のようなダメ刀が、あのとき動けたとして、助けられたかどうかなんて分かりはしないけれど。
 押し寄せてくる後悔の念が、意識もろとも飲み込もうとする。咄嗟に甘酒を呷り、無理矢理、意識の向こうへと沈める。
『まあお前は俺みたいなダメ刀に会ったところで嬉しくも何ともないんだろうけどさぁ…ひっく』
 そうだ、と思う。自分のようなダメ刀に助けられたところで、嬉しくも何ともないであろう。
 と、考えてすぐ。
『……不動』
『ああ?』
『俺と恋仲にならねえか?』
 ……まあ。
 そのとき、審神者と不動が全く同じ気持ちで、「は?」と口から声を零してしまったのは、仕方のないことだったのだろう。

 前もって言っておくが、不動と薬研は織田にいた頃顔を合わせていたし、会話もそれなりにしていたとはいえ、断じて、断じて恋仲などではなかった。先ほどの後悔は、同じ場所にいた刀としての、仲間意識のそれによるものであって、そもそも恋仲になろうといった意識は働かなかった。しかも、はっきりと人型をとって対面したのは顕現したときが初めてだ。それまでは、付喪神としてまだ力は弱かったし、はっきりとした姿など持っていなかった。会話こそすれ、顔を合わせていたというのはあくまで感覚的な話でしかない。極端な話、今の薬研の顔を見て言う言葉で最も適当だと思われる挨拶は、不動からすると(そして本来なら薬研が不動に対してでも)「初めまして」のはずなのである。
 想像してみてほしい。初めましての相手に、ものの数分で告白をされた、そのときの気持ちを。
(……こいつ頭大丈夫か)
 助けられなかった後悔は何処へやら。
 不動の本丸での生活は、本気で薬研の頭を心配するところから始まった。

 だが薬研の思いはそのとき限りのものではなく、ことあるごとに不動にアプローチを仕掛けるようになった。傍目でも分かるほどの必死ぶりである。
 食事となればほぼ確実に、薬研は不動の隣に陣取った。
「不動、これ食うか? なかなか美味いぞ。なに、苦手だったらそう言えば厨当番が少しは減らしてくれたりするさ」
 食べる行為自体が初めての不動には思い切り世話を焼いた。箸の持ち方はこうであるとか、ご飯は左に、味噌汁は右に置くものだとか、熱いものは急いで食べると火傷するから冷ましながら食べるであるとか。生活に慣れてきてそうした助言も必要なくなってくると、美味しいものを勧めてくる。自分の分であるはずのものを不動の食膳に移す等、やはり世話を焼いた。
 風呂は各々で自由な時間に使うはずなのだが、ほぼ確実に被った。
「湯浴みはな、ちと不安になるかもしれんが俺たちは今人の身だから錆びることはねえし心配しなくて良い。寧ろかなり気持ち良いから疲れもとれるぞ」
 薬研の言葉を半信半疑に聞きながら湯に浸かったが、納得できるほどに気持ちが良かった。体の芯から温まることの気持ちよさを知った。だが、あまり浸かりすぎると今度はのぼせるのだと、うとうとしていたところを無理矢理引き上げられた。
 他にも挙げていったらきりがないが、兎に角不動の視界には常に薬研がいた。唯一共にいないとすれば出陣中だろうか。薬研は随分前から顕現していたこともあって練度が高い。だから、同じ戦場に出陣することはほとんどなかったのである。
 薬研が出陣しているとき、ふと、甘酒を飲みながら不動は思った。
(っていうか何で俺こんな好かれてんの?)
 誰に聞いても答えは分からないであろう疑問である。顕現した当初からこうなのだから。
(本気で俺を? ……いやいやいや、恋仲って男と女がなるもんだろ? まさかあいつ、俺が女に見えて…いや、乱って奴を男って認識してる時点で流石にそれはねえよなぁ……)
 でも、新参者で、これだけのダメ刀はそうそういないから、珍しがっているだけなんだろうと思っていたが、薬研の求愛行動は一向に終わりを見せなかった。
 ――――何なんだよ。お前、俺のせいで、死んでるじゃん。
 もやもや。どろどろ。気持ち悪いものが、少しだけ頭をもたげた。

 求愛行動が始まって数週間。出陣先から戻ってきた部隊に薬研がいなかった。どうしたのかと思えば、途中で寄るところがあると言って部隊から離脱したのだと言う。戦場を去ってからのことらしく、破壊される危険性もないので彼らは了承しているようだった。
 その日から、遅れて帰ってきた薬研は必ず、花束を持って不動の部屋を訪れるようになった。花束と言っても、そんなに大層な代物ではない。一輪ではないが二輪、三輪の花を白い紙でまとめ、根本を麻紐で結んでいるような簡素なものだ。
 そして必ず花束を突き出しながら、言うのだ。「付き合ってくれ」と。

 前回に続いて今度も白色か…と呟きながらカーネーションを眺めていると、薬研のうなり声が聞こえた。
「んん……まだだめか…そろそろ頷いてくれていいんじゃねえか、不動」
「逆に聞くけどそろそろ諦めていいんじゃねえの、薬研。あと花いらねえって。俺の部屋、今どんななってると思ってんだよ」
「知らん。見て良いか」
「……どーぞ」
 別に花を渡してくる張本人なのだから、隠すこともないと思った。不動は障子を広く開けて、薬研を招き入れる。
 不動にあてがわれた部屋の中は、花でいっぱいだった。赤い薔薇に赤い菊、向日葵、紫色のチューリップ、ベチュニア、黄色のゼラニウム、桔梗にハナミズキに赤と紫のアネモネ、青のヒヤシンス、杜若……。いずれも、薬研が花束の形にして持ってきた花々だった。枯らしてしまうのは忍びないと思った不動が、全てを花瓶に生けて、床に置いている。しかし、そろそろ押入の前までを占拠してしまいそうな勢いだ。
 部屋の隅に所狭しと置いてある花を見て、ちょっとした花畑にも見えなくもない様に、薬研は感嘆の声を上げた。
「おぉ、壮観……すげぇな、これ」
「いやお前のせいだから」
 反射で受け取ってしまったカーネーションに一度目を落とし、溜息を吐く。
「まーたこうやって性懲りもなく新しい花持って来やがって……ああもう、どこに置けばいいんだよ…いよいよ場所ねえぞ……」
「まさか全部置いといてくれてるとは思わなくてなぁ」
「全部枯らして捨てろって? 花が可哀想だろ、流石に」
 机の脇に貰ったばかりの花を置いて、押入を開けて中から新しい花瓶を取り出す。花瓶は倉庫にいくつかあったので、そこから拝借しているのだが、それすら足りなくなる勢いである。
 振り向いて、不動はぎょっとした。何か、薬研がいつもとは違う表情でそこに立っていたからだ。何がどう違うかと言うと……機嫌が、良さそうである。
「……なんだよ、その顔」
「そういうところ、やっぱり惚れ直すなと思ってな」
 不動は長く長く溜息を吐いた。ことあるごとに口説いてくるのにはもう慣れた。初めは恥ずかしく思っていたが、いちいち恥じ入っているときりがないのだ。
「っつうか、よくもまあこんなに花が色々あるわ……」
「本丸でさえ、季節は大将が操作できるもんだからなぁ。四季なんか関係なくいつでも花を買える店があるってのは、なかなか助かる」
「季節無視とか、風流の欠片もねえ」
「ああ、だからあの店を歌仙の旦那は嫌ってるな」
 からからと笑いながら答えて、そこでふと薬研は不動の傍らに屈み、顔を覗き込んだ。
「……不動。それで、俺の気持ちにはそろそろ、答えてもらえねえのか?」
「……当たり前だろ。お前、何を勘違いしてるのか知らねえけど、俺、男だぞ」
「お前が男でも俺は不動行光が好きだ。それは、変わらん」
 顕現当初から向けられている愛だが、真っ直ぐなことである。
「自分が男だからって理由で、俺の告白を振り続けてんのか?」
「いや……そうじゃなくて」
「じゃあ何だ」
 随分、粘る。いつもなら、部屋の前で花束を突き出し、告白して、不動がにべもなくそれを断り、残念だと言いながら花束だけは押しつけて、さっさと戦装束を脱ぎに戻るのに(すぐその後また部屋にやってくることも多いが)。今日は戦装束もまだ脱いでいない。怪我はないので、元々なかったか、手入れ部屋には行った後のようだが。
 困ったように不動は視線を彷徨わせてから、「わかんねえんだ」と口の中で転がすように小さく言った。
「分からない?」
 小さな頭が肯定するようにこくりと動く。
「…薬研が、どうして、こんな俺のことが好きなのか」
 面食らったように、薬研の藤色の瞳が大きくなる。
「だってお前、知ってるだろ。俺は信長様にも、蘭丸にも……注いでもらった愛を返せなかった、ダメ刀だ。ずっと、信長様の懐にいたお前は……本能寺の炎の中にいた薬研は、それを一番よく知ってるだろ」
「………」
「愛を返せやしない奴に愛を注いで何になるんだよ」
 不動の表情が歪む。本能寺でのことは、一種のトラウマだ。できるなら、目を背けておきたいこと。でもこうでも言わないと彼は諦めないだろう。
「それに……俺はお前のこと好きか、よく分かんねえ」
 薬研が恋愛感情を自分に向けてくれているのは嫌というほど分かるのだ。でも、自分自身が、彼に対して恋愛感情を持っているかと聞かれると……正直、自信がない。
「…お前に対して、後悔の感情は、あるんだ。それは、分かる。…俺だけ生き延びちまって、お前はあそこで死んじまった。今ここにお前がいる、それはちゃんと分かってる。でも……俺の中で薬研藤四郎は、あの日に死んじまってるんだと……思う」
 ごめん、と不動は続けた。死んだはずなのにここで再会できたことを、本来ならば喜ぶべきなのかもしれない。でも彼にとって、そんな単純な話ではないのだ。
 黙って話を聞いていた薬研は、少しの沈黙の後、分かったと答えた。そして無言で、部屋を後にする。
 それから薬研は、不動の部屋に花を持ってくることはなくなった。

 花を持ってこなくなっただけではない。食事の時に隣に陣取ることもなくなり、湯浴みの時間も被らなくなった。部屋でだらだらと過ごしていても訪問してくることもない。部隊から外れて一人で遅れて帰ってくることもない。
 薬研の求愛行動は驚くほどあっけなく、止まった。
(そんなに簡単にやめられんならもっと早くやめろよ)
 開封したばかりの甘酒を一気に呷る。瓶から口を話すと、ごろりと縁側で寝そべった。寒くはない。今、本丸の季節は春だ。審神者が春の庭の景趣を気に入ったようで、暫くはこのままだろうと言われている。時折気まぐれで突然冬になったりするのだから、良く言えば退屈しないものの、隊長管理に関しては勘弁してくれと言いたくなる。
「何だ、不動。居眠りか?」
 上から声が降ってきて、瞼を持ち上げる。あおむけに寝そべる彼を、真上から覗くのは他でもない薬研だ。白衣を着た内番服に身を包んでいるが、いつもと違って眼鏡は外しており、首からはタオルを引っかけていた。前髪は濡れている。
「……あー、そっか。お前、今日、馬当番かぁ」
「まあな。あいつら舐めるからなぁ……」
 鬱陶しそうに顔をしかめ、前髪を掻き上げた。馬に舐められるというのは、懐かれているからこそのはずだが、薬研には歓迎できるものではないらしい。顔を洗ってきた後なのだろう。
 あいつらはかなわん、と首にかけたタオルでまた顔を拭っている彼に、くつりと笑いながら不動は起きあがる。
「で? ダメ刀になんか用ですか~? ひっく」
「まーた飲んでたのか…飲み過ぎは体に毒だぞ」
「んだよ、説教垂れに来たのかよ……」
「違う。厨の方でおやつができたらしくてな。今本丸にいる短刀はみんな来いだとさ」
「はー? いいよ、別に。甘酒あるしぃ」
「そう言わず行って来いよ。お前、何だかんだ燭台切の旦那が作る菓子、嫌いじゃねえだろ」
 不動はうっと言葉を詰まらせた。確かに、燭台切光忠が作るお菓子はどれも美味しく、短刀から人気なわけで、不動も例に漏れない。夕食のデザートに彼の作ったお菓子が添えられたときなどは、最後に食べるのを楽しみにしながら食事を進める。
「……分かったよ。行く行く、行きますよぉ~……」
「おう。あと、俺のは不動が食って良いぜ」
「は?」
 立ち上がった不動が薬研を見る。薬研はきょとんとした顔で首を傾げて見せた。
「ん? どうした」
「……お前、今、一緒に行くつもりで言ったんじゃねえの?」
「? ああ。俺はやることがあるからな。じゃあ、そういうことだから」
 お疲れ、とひらりと手を振って、薬研は不動に背を向けて去っていった。その背中を見送りながら、不動は言いようのない不快な感覚に襲われる。
 別に避けられているわけではない。今だってこうして、縁側にいた彼に声をかけてくれた。おやつを譲ってくれたのだから相変わらず甘いのかもしれない。……だが、あれから、目に見えて距離を置くようになったのは、気のせいではない。
(……いや、当たり前だよな。フるって、そういうことだろ)
 誰があいつの告白を断ったんだ。自分じゃないか。
 何か、苛々としたものが腹の底に溜まる。手に持っていた瓶を、一気に傾けた。残っていた甘酒が口の中に流し込まれる。しかしいつものように酔えず、口の中に甘ったるさだけが残った。
 いつも愛飲している甘酒がこのとき、異常に不味く感じたのは、なぜだろう。

 部屋に置いてある花を眺めて、不動は困ったように眉を下げた。水は替えているし、一足先に枯れ始めている葉や花は切り落としている。しかし、花は着実に枯れていっていた。
 季節もばらばらの花がここに揃っていて、しかも本丸の季節は春。曲がりなりにも神の部類に入る不動は、自分の神気を注いで少しだけ花を長持ちさせようとしていたが、もう限界だ。最初に持ってきてくれた花なんかはもうほとんど枯れたも同然な姿をしている。でも、どうしても捨てる気にならなくて、未だに花瓶に生けてある。
「……でも無理だよな、もう……」
 花弁をそっと指で撫でる。無惨な姿を晒すのは、花とて本意ではないかもしれない。捨てられないことを胸の中で謝りながら、部屋を出ようとして、
「うわっ!?」
 自分が障子を開くと同時に目の前に現れた相手に、思わず声を上げてしまった。相手も驚いたようで目を丸くしている。
「す、すまない。大丈夫かい?」
 そこに立っていたのは、歌仙兼定だった。
「……か、歌仙、か。……吃驚した。悪りぃ」
「気にしないで。僕の方は大丈夫さ」
「……何か用かぁ?」
 書類を抱えて不動の部屋の前にいる歌仙、というのはなかなか珍しい絵面だった。そういえば今、審神者の近侍をしているのは歌仙であっただろうか。
「ああ、少し。……でも急ぎの用が君にあるなら、出直すよ」
「いや……適当に、ぶらぶらっとしようと思っただけだから。…で、何だよ」
「主から指示が出ててね。君を部隊長にしたいって」
「……いいのかぁ? ダメ刀を隊長にしてさぁ」
「それは主が決めることだからね」
「ふーん……で、何でそんな話、にっ!?」
「おっと!」
 苦笑して見せる歌仙に、話を続けようとしたところで、強い風が吹いた。桜の花びらが舞い、太陽の光を反射してきらきらと光る様子はなかなか美しかったが、風は花びらだけではなく歌仙の持つ書類もさらおうとする。ぎりぎりのところで捕まえ、書類をぶちまけることは免れたが、次はそうはいかないかもしれない。
 ちらりと部屋の中を見やり、不動は首を振った。
「……中、入るか」
「え、いいのかい?」
「また強いの吹くかもしれねえし。散らかってっけど」
 厳密には、散らかっているというよりも花が大量にあるだけである。
「……そうだね。じゃあ、入れてもらおうかな。すまないね」
「別に」
 障子を開けて歌仙を迎え入れると、歌仙は途端に歓声を上げた。それはそうだろう、元々こうした花は好きな刀のはずだ。不動が、風流とか雅とか、そういうものに関してあまり理解をしていないあたり、きっと望ましい花の管理ができていないであろうことが悔やまれるが。
「これは素晴らしいね。ハナミズキ、菊、桔梗、向日葵……ヒヤシンス、…あれはカーネーションだね、それに薔薇、アネモネ……あとこれは…ああ、凄い量だ」
「ぱっと見ただけでよく分かるなぁ。向日葵なんて枯れかけてるのに」
「季節は確かに混ざっているけれど、こうしてみるとなかなか美しいと思って。色も…おや、この言葉選びもなかなかじゃないか」
 良い詩が詠めそうだ、としみじみ語る歌仙の横顔を見上げながら、不動は二度ほど瞬きをした。
「言葉?」
「おや、知らないかい? 花には言葉があるんだよ。知っていて集めたものとばかり思っていたんだけど、違うのかい?」
「……いや、集めたっつうか…これ、全部、薬研が……」
「薬研?」
 歌仙は書類を抱えたまま、指を顎に当てて考え込んだ。花を順繰りに眺め、一人頷く。妙に納得した顔だった。
「不動、あとで僕と一緒に書庫においで。良いものを見せてあげるよ」
「良いものぉ?」
「それより、まずは先に主の指示が先だったね。えーと……」
 間髪を容れず、さっさと本来の内容へと舞い戻った歌仙は真面目である。不動はずっと、先ほど、歌仙が考えている仕草をしてからの納得した顔が頭にちらついてしまっていた。結局、ほとんど話は聞かないまま進み、あれよあれよと言う間に明日の出陣部隊の隊長に任命されたのであった。

 書庫は溢れんばかりの本でいっぱいだ。普段、読書の習慣もない不動は滅多に足を踏み入れる場ではない。恐らく、顕現してすぐ、本丸の中を案内してくれた薬研が連れて来てくれたとき以来だ。
 棚から一冊の分厚い本を抜き出し、はい、と歌仙が差し出してきた。表紙には、簡潔に「花言葉図鑑」と書いてある。頁を繰ってみると、花の絵が沢山描いてあり、横には開花時期や世話の方法、それに一輪一輪が持つ花言葉など、解説の文字が並んでいた。
「これが花言葉だよ。例えば、これ。金木犀と言う花なんだけれど、知っているかい?」
 横から覗き込んできた歌仙が、オレンジ色の、小さな可愛らしい花の絵を指さしながら尋ねた。
 不動は記憶を辿り、曖昧に頷く。
「……どっかの戦場行ったときに、嗅いだこと、ある気がする…すげー臭いが強いやつだろ」
「その言い方だとなんだか臭いみたいだけれど、良い香りだと思うよ。好みはあるだろうから、不動がどう感じたかにもよるけど。それで、この金木犀にも花言葉があってね。読んでごらん」
 指で示された文字を追いかけ、たどたどしく読み上げる。
「……〝けんそん〟…」
「そう。あの花は、〝謙遜〟って言葉を持ってるんだよ。香りは強いのに、花自体は指の先ほどにもならなくて、小さくて可憐で、目に見える形では自己を主張しない。そんなところが、由来になっているらしいよ」
「……へえ」
「面白いだろう?」
「……まあ」
 曖昧な返事を返しつつも、不動は一心にその頁を眺めていた。花が言葉を持っているなんて、知らなかった。金木犀も名前自体聞いたことがある程度だったし、臭いが強いくせに小さな花で、変な花だと思ったことすらある。だが、〝謙遜〟という言葉を背負っただけで、また違う印象を抱く。
「その本、部屋に持って行っていいよ」
「え、でも」
「気にならないかい。部屋にある花の言葉も」
 不動の心を見透かしたような、確信めいた物言いに、彼は思わず表情をひきつらせた。
 思っていたのだ。もしかしたら、薬研が届けてくれた花の全てに、何か意味があるのではと。これだけ分厚いなら、全て載っているのではないかと。
 歌仙は微笑んで、頷いている。不動は、本をぎゅっと抱きしめて、俯いた。借りていく、と出した声が、声になっているのか、自分ではよく分からなかった。

 部屋に戻った不動は、早速本を開いて、片っ端から花言葉を調べていった。が、途中まで調べたところで、茹で蛸になりそうな己の顔を覆い、暫しの休息をとる。薬研の口説き文句には恥じ入ることはなくなったが、こうした形で言葉が並ぶとなかなかどうして恥ずかしかった。
 どれからやれば分かりやすいかと思い、適当に、まずは赤色の花から片づけようと思ったところ。赤い薔薇は、「愛情」。赤い菊は、「あなたを愛しています」。赤いアネモネは、「君を愛す」。ベチュニアは「あなたと一緒なら心が和らぐ」。
 ……なんというか。砂糖に砂糖を足しても足りない勢いの、甘々とでも言うのか。
(……愛する愛するって言い過ぎだろ……)
 織田にいた頃も、蘭丸や信長に愛を注いでもらったことは確かだが、ここまでではない。最後に調べたベチュニアだけは、愛という言葉が使われていなかったものの、やはり内容はかなり甘い。
(……なんかもっと甘いの来る気しかしねぇんだけど……)
 とりあえず調べ終えた花を端に寄せて、火照った頬を擦りながら気を持ち直す。次は青や紫のものから調べようと気合いを入れ直した。
 まず、桔梗。頁を捲り、見つけた花言葉は、「永遠の愛」だった。
(…ですよねー……)
 そろそろ「愛」という言葉でゲシュタルト崩壊でも起こしそうである。愛って何だっけ。
 頭を強く振り、もう「愛」という言葉が来ても驚かないと思いながら、次の花へと切り替える。そして、青のヒヤシンスを調べ。
「……変わらぬ愛、ね…よくこんなにもまぁ……」
 結っている髪紐を抜いて、頭を掻いた。ここまで愛を囁く言葉が揃うと強烈だ。
(……変わらぬって。まるで前から俺を好いてるみたいな……)
 いや、考え過ぎか。
 次は、紫のチューリップ。花言葉は、「不滅の愛」。分かった分かった、と思いながら次に行った。もう慣れようと思った。下手したら残っている花全てに「愛」という言葉が使われているかもしれない。
(ええと、次は……アネモネ…さっきの赤いのは、〝君を愛す〟だったよなぁ…大差ねえだろ多分……)
 ぱらりと頁を捲った。色ごとに頁が分かれているのもまた、言葉が違うからなのだろうと思っていたが、どうせ同じ花だ。そう思いながら、愛を注がれる覚悟をしながら文字に目を走らせる。……愛って、注がれる覚悟をするものだったろうか。このあたりから既におかしい。
 そして、紫のアネモネの欄を見て、手が止まった。
「……〝あなたを信じて待つ〟って……んなこと言われても…」
 アネモネを持ってきたのはどれくらい前か。少なくともそこに至るまでに何度も、自分は断っているはずだ。それでも尚、信じて待たれても困るところである。
(……俺なんかが傍にいてもつまらねえだろ。俺は何もできず……お前も死んで)
 小さな拳をきゅっと握りしめる。
(…それに言っただろ。お前に俺が抱いているのは、後悔で…恋愛感情なのかは、わかんねえんだって)
 次の花に目を移した。杜若の頁を捲る。……
「……〝幸せは必ず来る〟……」
 愛を注ぐばかりだった言葉は、突然、不動の幸せを願うものになっている。馬鹿じゃないのか、と呟いた。何故か声が震えた。
 青や紫の花を調べ終わり、また、端に寄せる。残ったのは、黄色と白の花だ。どちらから調べようか迷って、白の花に分類されるカーネーションは、薬研が最後に渡してきた花だったなと思い、何となく、この花は大切にしたいと思って、先に調べるのはもったいない気がして、後回しにした。
 もう枯れかけている向日葵を調べると、「私はあなただけを見つめる」と花言葉が出てきた。熱烈なものに戻って、ほっと息を吐く。自分を気遣うような言葉は、なんだか苦手だったから、薬研の胸中を告げる花言葉の方が幾分安心できた。
 しかし、次に黄色のゼラニウムを調べて……固まってしまう。
「………〝予期、せぬ……出会い〟……」
 顕現した瞬間のときのことを思い出す。薬研が嬉しそうにしていたあのときのことを。
 予期できるわけがない。薬研はあのとき死んだはずだ。だから、死んだはずの相手に出会えるわけがないと思っていた。たとえ、付喪神として未熟で、まともに顔を合わせていなくても、織田にいたとき傍にいたことははっきりと覚えていて。だから、「初めまして」でありながら、奇跡的な再会だった。
「……っ、次……」
 黄色の花を端に寄せ、残った花を見つめる。カーネーションは後回しと決めていたから、自然にハナミズキを調べる手が進んだ。たしかハナミズキは、カーネーションの前に届けられた花だった。白い花が続いたから、覚えている。
 ハナミズキの頁に書かれていた花言葉は、先ほどまでの熱烈な愛情表現とは違って、一歩下がって、でも切実な言葉だった。
 怖い、と思いながら、最後にカーネーションに目を移し、恐る恐る、頁を捲った。そして、
「………っ!!」
 じわりと、視界が歪む。
 不動の記憶が正しければ、カーネーションを渡してきた日なんか、薬研に直接言った。「お前は死んでいる」と。……これは、果たして偶然か。もしそうなら、全知全能の神がこんな悪戯をしたというなら、あまりに度が過ぎていると思った。
 ハナミズキと、カーネーションの花言葉。これを続けて持ってきた薬研の、心の内を思うと。そして自分の言葉の、痛さを思うと。必死に堪えても、たった一粒の涙を堪えることなんてできなかった。
 息を詰まらせ、深く俯く。解いた長い髪が、ぱらぱらと落ちて来て、視界が狭くなる。そして涙が出てきて、やっと、思い知る。逃げていたのは自分だったと。花を捨てることができなかったのも、ぱったりと自分に対しての接触がなくなった薬研にいらついていたのも、本当は薬研に向けていた自分の感情が、「それ」だったからと。
 彼を見ていると、後悔してしまうから、遠ざけたくて、でもそれ以上に、薬研藤四郎のことを―――

〝私の想いを受けてください〟

〝私の愛は、「生きて」います〟

   ***

「なっはっはっは! いやぁ、快勝、快勝! この能なら、そろそろ夜戦の方に駆り出されても、なんちゃあじゃ起こらんろう!」
「陸奥守さんが所々で助けてくれたこともあると思うよ!」
「そうそう。やーっと厚とか乱達と同じ土俵に立てそうだなー、わくわくするぜ! なっ、隊長殿!」
「あーでも疲れたぁ。早く帰ってお菓子食べようよー、お菓子」
「その前に、主に戦果の報告が先だぞ」
 不動が隊長を務めた部隊は、比較的新参者である刀による編成だ。最近大阪城で加わった信濃藤四郎、後藤藤四郎、包丁藤四郎と、最古参―――すなわち、本丸の初期刀である陸奥守吉行と、比較的古参であるへし切長谷部がフォローの役回りで組まれていた。
 それほど敵は強くないにしても、短刀だけでどこまで動き回れるか。打刀の二人は、彼らが困った瞬間のみ助太刀に入る。そんな命令をもって出陣したが、結果として長谷部と陸奥守の出番はほとんどなかった。道中拾った資材を大切そうに抱え、彼らは帰路につこうとしていたが……
「……悪い」
 出し抜けに、不動が声を出した。
 前を歩いていた彼らが一様に振り向く。
「俺、この辺で抜ける」
「おん?」
「え、何何、どうしたの?」
「何でだよ、せっかく良い戦果報告できるんだから一緒に帰ろうぜ?」
「そうだよ。不動が隊長なんだしさー」
「貴様、怠慢は許さんぞ。隊長なのだから任務は最後まで果たせ」
「ごめん」
 口々に引き留められたが、不動は頭を下げた。ぶつくさ文句を言うことが多い彼が、ここまで素直に頭を下げる姿はなかなか見られないので、皆驚いているようだった。
「……行きたいとこがあるんだ。だから、行かせてくれ」
「お前なっ……」
 長谷部が顔をしかめて、歩み寄ろうとした。だが、それを陸奥守が手で制した。抗議するように睨まれたが、彼は白い歯を見せて笑い、長谷部の肩を叩いてから不動に近寄る。目の高さを合わせるように膝をついた。
「行かんと後悔やるが?」
 声は、とてもいつも通りだ。だが不動と同様に、陸奥守の瞳も真剣みに帯びていた。
 後悔。そう。もう、後悔はしたくないのだ。今は、自分の意思で動かせる手と足がある。…そして、薬研は、本丸にいる。カーネーションの花言葉が、頭を過ぎる。
 不動は、深く頷いた。すると、にかりと音が聞こえるほどの大きな笑みを、陸奥守は浮かべて見せた。
「そーぞにゃあ」
 ぐしゃりと雑に髪を撫でられる。いつもなら、子供扱いするなと払い除けたくなるところだが、今は陸奥守の手のひらの大きさが、心地よかった。
 ひとしきり撫でると、立ち上がった陸奥守は長谷部達を振り向き、
「ちゅうわけで、儂らは一足先に帰るきね!」
「待て、何が起きたのかさっぱり分からん!」
「気にせんでえいがやき。しゃんしゃん行くぜよ!」
 豪快に笑って納得のいっていない様子の長谷部の腕を捕まえ、他の短刀を促しながら、彼らは前を歩いていく。「不動、じゃあ先に帰るけど、おやつは待ってるからね!」「早く帰ってきてよ!」「大将には俺たちから報告しとくからさー!」手を振りながら離れていく背中を見て、良い仲間に恵まれたことを実感する。
 じんわりと、心が暖かくなるのを感じる。
〝幸せは必ず来る〟
 杜若の花言葉だ。もう、今こうしているだけで、十分幸せなのかもしれない。……だが、まだだ。
 ダメ刀が、こんなにも幸せを欲するのは、罰当たりだろうか。あの日、何もできなかったのに、生き延びて、良い仲間に囲まれて、それでももっと幸せを求めるのは、許されることなのだろうか。
 そう考え始めると、また、足を止めたくなる。
〝あなたを信じて待つ〟
 でも、そのときに必ず、花言葉が頭に蘇る。そして、背中を押されるのだ。
 不動は、歩き出した。

 これだからダメ刀は、と自分に毒を吐く。空を仰ぐと、とっぷりと日が暮れて、月と星が仲良く浮かんでいるのが見えた。戦場を離れて、同じ部隊であった陸奥守達から離脱したのが昼頃だ。元々は夕方には本丸に帰っているはずだった。
(……思ったより道わかんなかった)
 情けないの一言に尽きる。目的は果たしたが、それから帰路につくのにどれだけ苦労したか。思わぬところに出たり、うっかり戦場の方に足を向けかかって、やばいこっちは違う、と回れ右をして戻ったり、門をくぐってみたら全く違う本丸にたどり着いたり、万屋にたどり着いたり。半泣きになりながら、色々な刀や人に話を聞き、自力でやっと分かるところまで戻ってこられた。
 一度、ある本丸の審神者には、直接不動のいる本丸に連絡をとってくれようとしていたが、勘弁してくれと頼んだ。隊長でありながら部隊を離れたこともそうだが、その上迷子になって迎えに来てもらうなんて情けなさすぎることに加え、迷惑をかけ過ぎだと思ったからだ。あとは、いくらダメ刀でもプライドがある。
(こんなに時間かかるはずじゃなかったしなぁ……)
 持っているそれに視線を落とし、深く溜息を吐いた。予定は大いに狂った。夜となると、薬研は夜戦に駆り出されているだろうし、今日はもう会うことができないだろう。
 やがて、使い慣れた門が見えた。よかった、あった、と思いながらくぐり抜けると、一瞬の浮遊感に包まれ、しかしすぐに地面が足につく。目を開けると、見慣れた本丸と……
「……薬研?」
 門の前で座り込んでいた小さな彼の名が、思わず口をついて出た。びくりと体が震えると、薬研は急いで立ち上がり、近寄ってきた。強めに肩を掴まれる。
「いっ、」
「何処に行ってた!?」
 至近距離で睨まれた。目ははっきりと怒りの色が滲んでいる。
「……え、と…ちょっと……」
「……待っても待っても帰ってこねえから、何かあったんじゃねえかって…!」
「お前、夜戦は…」
「不動が無事かわかんねえのに行けるわけねえだろうが!」
 怒鳴られて、ひゃっと肩を窄めた。それに気づいた薬研は、慌てて肩から手を離し、おろおろと視線を彷徨わせた後、ごめんと謝る。
「叱りたかったんじゃなくて……すまん、その…兎に角、無事で良かった……ああ、でも、何だ…お前一体、こんな時間まで、本当にどこに……」
 月明かりに照らされた薬研の顔は、余裕がなかった。随分、心配をかけてしまったらしい。軽率な行動をしてしまったのを、不動は感じた。
 だが、薬研の彷徨っていた視線が、何かに向いた瞬間、縫い止められたように止まった。
「……不動、それは……?」
「え。……あ、ええと……買って、来た」
 手に持っていた、二輪の藤の花で作られた、簡素な花束をおもむろに持ち上げる。いつも、薬研が通っていたであろう花屋のものなのだから、隠しても無駄だろう。
「…もしかして、あそこに?」
「……帰り道わかんなくなっちまって……ごめん。ちょっと、しおれたけど……これ。やる」
 こんなに雑な渡し方になるとは思っていなかったが、仕方ない。不動が突き出した花束に目を白黒させた薬研はやっと口を開く。
「……俺に?」
 不動は頷いた。夜だからか、いつもよりも周りが静かな気がして、何だか緊張してしまう。こくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「……お前が、死んでる、なんて言って……悪かったよ」
「……いや、でも、事実だしな……」
 受け取った藤の花をまじまじと見つめていた薬研は、自嘲気味に笑った。でも、その言葉がどれだけ痛かったのか、全て調べてしまった今の不動には分かる。
「……お前は生きてるって、必死に訴えてくれてたのにな」
「…何だ、調べたのか、不動」
「色々あって」
 苦笑して見せる薬研は、花を使って必死に、不動に言葉を届けていた。不動が花のことに詳しくないことも、ましてや、花に言葉があるなんてことも知らないのを、分かっていながらだ。
 あのとき歌仙が不動の部屋を訪れていなかったら、きっと気づくことはできずに、花は先に全て枯れて、最終的には捨てられていただろうと思う。
 藤の花を見つめ続けていた薬研が、口を開く。
「……花」
 夜風が頬を撫でていく。春の景趣でも、夜風は少しばかり冷たかった。
「不動、店の花、ほとんど知ってただろ」
「……ああ」
 店にあった花のほぼ全てを不動は薬研から渡されていた。多少、他にも植物は置いてあったが、花ではない観葉植物や、あまり良いとは言えない花言葉の花であった。
 ただ、一つを除いて。
「……あの花屋で渡したい花を全部渡して…それでだめだったら、諦めようと思ってたんだ」
 だから、いよいよ残りの花が一つになって、焦った。どうしてこんなに何度も告白しても断られ、その割に普段から近くにいても、それ自体は拒絶されないのか分からなかった。花なんて受け取らなければいい。でも、いらないと言いながらきちんと受け取るし、挙げ句の果てに全てとっているときた。所謂、生殺しの状態だった。だから薬研は、問いただしたのだ。何故受け入れてくれないのかと。
「お前の中じゃあ俺は死んでる。…本能寺で焼けて、消えちまったのは確かだ。だから尤もな言い分だとも思った」
「だから引き下がったってか?」
「それもあるが、あとは賭けだな」
「賭け?」
 薬研は首肯し、悪戯小僧のような笑みを浮かべてみせる。
「……俺がお前に構わなくなって、恋愛感情に気づいてくれるか、どうか?」
「……は? ………はぁ!?」
 一瞬呆けてしまったが、薬研が何を言ったのか気づいてしまい、思わず素っ頓狂な声が出た。
 だって、実際そうだ。薬研が求愛行動をやめてから、苛々したり、もやもやとした感情を抱いたりした。部屋に置いている花もいやに目についた。構ってこなくなって、今までよりもずっと、薬研のことを考えた。そしてその果てで、自分の恋愛感情に気づいたのだ。
「おまっ……は!? じゃあ、何、全部お前の計算だったっつうのかよ!?」
「賭けだって言ってるだろ。お前が本当に俺を何とも思ってなかったんならそれきりだ。不動が今まで通りずっと過ごしてりゃ俺もそのまま諦めるつもりだったよ」
 顔を真っ赤にしている不動を見て、薬研は決まりが悪そうに頬を掻く。
「……それに。俺が、そうだったから」
「……お前が?」
 分厚い雲が空を駆ける。ぽっかりと浮かんでいる月を覆い隠してしまい、先ほどまでよりも暗くなる。
 薬研が遠い目をした。彼は、ここにある何かを見てなどいない。その藤色の瞳の奥に、炎がごうごうと音を立てて燃えているのが、不動には分かった。
「……本能寺で、信長の大将と一緒に燃えるとき……何て言うんだろうなぁ。あれこそ、火事場の馬鹿力ってか? ……今まで未熟で、まだ付喪神なんて呼べるかも怪しいような段階で、ろくな力を持ってなかった俺は、急に霧が晴れたみてえになったよ。こんなときに全部はっきりしなくてもって思ったがな」
 本能寺の炎に巻かれながら、織田信長の懐刀・薬研藤四郎は、本当の意味で目を覚ました。自分が薬研藤四郎であるということを、これでもかと理解しながら。完全なる付喪神として、確固たる意思を持って。
 急に鮮明になる意識。記憶。信長様、と叫ぶ声が聞こえた気がする。二人の声だ。一人は信長に従い続けた若い男の声。そしてもう一人は―――。
「……未熟な付喪神とは思えないほど、はっきりと呼んでたよなぁ、お前は。信長さんのことを。……俺のことを」
 あの声は確かに不動行光だった。
「…俺は全部ここで失うんだなぁって思った」
 失って初めて気づく、とはよく言ったものだった。死の間際になって理解した。自分は、不動行光のことを――
「…感情ってのは、未熟な付喪神じゃあ案外、はっきりしてねえもんなんだ。だからずっと気づけなかった。でも多分、お前に会ったときから、俺はお前を好いてたよ」
 消えるとき、信長と共に逝くことができるとは、懐刀冥利に尽きると思った。自分は幸運だと思った。でも同時に……もっと不動と話したかったと思った。
〝変わらぬ愛〟
 青のヒヤシンスの花言葉を思い出す。不動の方が付喪神として確固たる自分となるのは遅かった。だから分からなかったが、薬研は最期に完全な付喪神として目覚めていたのだ。そして、消えるときになって、不動への愛を胸に宿した。あれからもう何百年も年月は経っている。でも彼は消えながらにして、ずっとその愛を忘れないでいてくれた。
 とくり、と心臓が鳴る。その音が、喜びを示しているのは、分かった。
 炎を映してた薬研の瞳が戻ってくる。不動を見て、藤の花を見下ろした。二輪のうち、一輪、藤の花を抜き取ると、彼は不動に向けてそれを差し出す。月を覆い隠した雲が動き出す。月光が降り注いだ。時間が経ってしおれていたはずの藤の花は、月明かりを受けて輝いて、生き生きして見えた。
「……不動。お前が買ってきてくれたのは分かってるんだが……元々これは、最後に俺が買ってくるつもりだった花だ」
 だから、受け取ってほしい。
「……俺がこれを選んだのは、」
「うん」
 まだ、手は伸ばさない。
 首と耳が熱いが、必死に言葉を紡ぎ出す。
「……花言葉とか、俺は、そういうの、全然わかんねーから」
 部屋にあった花は全て調べたし、未だに部屋に花言葉図鑑は置いてあるが、今日花を買いに行ったのはほとんど衝動的なものだった。たまたま、昨日の今日で部隊長に任命されて、出陣していたから、帰りに「薬研のように途中で抜けて花を買いに行けるのではないか」と思っただけである。何も知識の用意はなかった。
 不動が自分の気持ちに気付いてからは、近々彼と話をしようとは思っていたものの、手ぶらは嫌だった。それならば、花には花を、と思ったのだ。色々とタイミングが良かっただけの、無計画な行動だった。
「……ただ、これはお前の目の色だったから」
 綺麗で、絶対に薬研に似合うと思ったから、買ってきたものだ。
 そう素直に告げれば、薬研はそれ以上にはないほどに優しい声で、そっか、と頷いた。
「……いいぜ、受け取ってやるよ」
 今度はちゃんと、手を伸ばす。
 薬研の手から、一輪の藤の花を受け取る。
「薬研」
「ん?」
「ちなみに、これの花言葉って、何?」
 藤色の目が細められる。
 そして、教えてくれるのかと思いきや、彼は「さてなぁ」と言った。ここに来て知らばっくれるつもりか、と噛みつく不動に、にぃと口角をつり上げる。
 全てを失い、存在し続けられなかったことを悔やむ短刀が、全てを失い、守れなかったことを悔やむ短刀に、一言、告げた。

「お前と俺の後悔を消す、魔法の言葉だ」

 〝決して離れない〟と、彼は言った。