返せる愛を忘れない ★薬不

 記憶喪失という病気がある。
 物理的に、あるいは精神的に大きな衝撃を受けたときに発症したり、何か重い病気のせいで併発したり……まあ、原因は色々考えられるらしいが、それまでの自分のことも、周りのことも忘れてしまう病気だと言う。
 顕現当初から刀の頃の云々が原因で記憶がない奴は、人間でいうところの記憶喪失とはまた少し違うようだし、実例を見たことなんてない。ただ、興味本位で読んでいた医学書で知った病気だった。
 人の身を得たところで、刀は刀。腹は減るし風邪も引くが、それでもそんな病気とは縁がないんじゃないかと思っていた。急に全部忘れてしまうことなんて、あるわけがないと思っていた。

「……お前、誰?」

 不動行光が、俺の顔を見てそんなことを言うまでは。

   ***

 時は遡り、二日前。
 朝っぱらから泥酔した様子で部屋から出てきて、ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩く姿には呆れた。
「行光」
「あー? ……何だぁ、薬研か。…ひっ、く」
「朝餉のときはまだ素面だったってのに……」
「朝餉のときに飲んでなかったからいいじゃねぇかよぉ」
 ひっく、と定期的にしゃっくりを挟みながら、酒精で赤くなった顔を俺に向けてくる。
 甘酒が「飲む点滴」と称されるほど栄養価が高いことは知っている。が、それは適量の摂取の場合のみだ。そろそろ好きに厨から持ち出せないように制限しないといけないな、とか考えながら俺は肩を竦めた。
「それよりぃ。良いのかぁ? こんなとこで油売っててさぁ」
「ん、ああ、そうだったな。俺も呼ばれてるんだ。行こうぜ、一緒に」
「へいへい……」
「あ、手ぇ貸してやろうか?」
 ふらふらと体が揺れている相手に手を差し出してやると、思い切り顔を顰められた。痛いほどに強烈に、というわけでもないが、緩く拒否の意で払いのけられる。
「いらねーよ、気持ち悪い」
「お前がふらふらしてるのが悪いんだろう」
「うるせぇな、しゃんと歩きますよぉ、しゃんと」
 手は繋いでくれない。でもそのまま歩き出せば大人しく隣は歩いてくれる。長い綺麗な黒髪が揺れて、時折視界に入る。ちらりと横顔を見て、ああ別嬪だなぁと思うのはいつものことだ。
 その視線に気づいて行光が此方を見て、「何見てんだ」とガンを飛ばすのもまた、いつものことだ。
 山姥切の旦那や御手杵以上に、極端に自己評価の低い短刀は、どんなにはっきりとアピールしたところで、到底想像もしていないだろうし気づいてもらえることなどないのだろうが。

 俺は。
 薬研藤四郎は、不動行光に恋していた。

「入るぜ長谷部」
 返事も待たずに障子を開けると、そこには部屋の主である長谷部の他、宗三に小夜すけ、青江の旦那が座っていた。
「遅いぞ、薬研。不動」
 それほど大変な遅刻ではないだろう。だが、置いてある時計が示している時刻は確かに予定より数分経っていた。すまん、と詫びながら空いている場所に行光と腰を下ろす。長谷部の視線が俺の隣に向いて、目つきが険しくなった。酔っ払っているくせに詫びの一つもないからだろう。相変わらずこの二人、どうも上手くいっていない。
「おやおや、また随分と赤いねぇ。何をしていたのかな?」
「大方また甘酒でも飲んでいたんでしょう」
 場を和ませようと考えてか、敢えて指摘した青江の旦那に便乗して、宗三もあくまで「いつものこと」と流した。
 こうなってはわざわざ皆の前で叱るのも憚られたのか、今にも怒鳴りそうだった長谷部がぐっと堪えた様子で唇を結ぶ。旦那方も慣れたものだと思う。
「で? 大将は何だって? 近侍殿」
 〝近侍〟と呼べば長谷部の表情から微かに険が落ちたのが分かった。俺が言うのもなんだが、ちょろい。これくらい分かりやすいと良いんだがなぁ。俺は隣で赤ら顔のままぼんやりしている思い人――というより思い刀を見やる。
 長谷部は文机の上に置いていた書簡を見せてきた。しっかりと審神者の印も入っていたし大将からの伝令で間違いがなさそうだ。目の前で広げると、読み上げた。
「『新たな合戦場が現れた。しかし時代、場所は共に不明。恐らく政府の不手際によるシステムエラーの一環で一時的にのみ発生しているものと考えられるが、歴史修正主義者の出現を確認。直ちに迎撃せよ』」
「時代も場所も分からないのに、何故歴史修正主義者はわざわざそんな場所に行くんです? 僕らが守る歴史も、彼らが修正したい歴史も、そこにはないでしょうに」
「所謂異空間とも呼べる奇妙な合戦場になってしまっているらしい。恐らく政府のシステムとも直結している部分があるんだろうと、主は仰せだ」
「歴史修正主義者も頭が良いねぇ。自分たちの邪魔をする僕らを虱潰しに倒すより、大元の政府を叩こうって腹かな?」
「……好きには、させない」
 簡単な話が、バグで発生した合戦場なのだろう。基本的にいつも歴史修正主義者が現れた時代に飛び、殲滅するのが彼らの仕事である。しかし、時を超えるために開発された二二〇五年の複雑なシステムは、たまにこうしたトラブルを生む。だが、それを全て了承した上で何処の本丸も運営しているのだから、放っておくわけにもいかない。
「ってことは、今ここにいる六人が大将の選んだ出陣部隊の編成か?」
「そうだ。どうも不安定な場所らしく、昼か夜かも判然としない。だからどちらでも対抗できるこの編成になった。隊長は、最高練度を誇るこの俺だ」
 後半を妙に強調し、得意げに答える彼に行光がぼそりと。
「……この本丸のほとんどがもう最高練度じゃねえかよ」
 びきりとこめかみに青筋を浮かべる長谷部には気づいているのだろう。これでいて行光は聡くないわけではない。ただわざと言ってしまうのだ、とくに長谷部には。我関せずと顔を背けるそいつに、やはり長谷部は堪えきれない様子で肩を震わせたが。
「貴様っ」
「確かになぁ。行光も鬼のように出陣した時期あったもんな」
「……ふん」
 また俺が先取りして柔らかく言うと、長谷部は出鼻をくじかれた顔をしていた。すまん、長谷部。
 実際、この本丸のほとんどの刀が最高練度だ。大将が「一口も折らない」と豪語しており、絶対に敵に折られるなんてことがないように、満遍なく出陣命令は下された。おかげで新参者は最初の期間は基本的に地獄を見る(常軌を逸した回数の出陣と周回をする)ことになるが、その分周りと肩を並べられるのも早い。今日に至るまで誰も欠けることなく来ているし、概ね高評価をされた本丸になっていると聞くので、何も間違っていないのだと思う。
 強いて言うなら俺や小夜すけは最高練度ではない。でもそれは俺たちが修行に出たせいで、色々と基準とするところが変わってしまったからだ。力で言えば、修行前なら手も足も出なかった太刀や大太刀にも引けを取らないくらいになったのだから、申し分ない。
「出陣時刻は未の刻。各自準備を終えて門に集合すること。遅刻は許さん」
 以上、と長谷部が話を畳むと、宗三や小夜すけ、青江の旦那が部屋を出た。
 俺は部屋に戻ろうか薬部屋に一度籠もろうか悩んだが、なかなか立ち上がろうとしない行光に気づいて声を掛ける。虚空を眺めて、また、ひっく、としゃっくりを出してから、低い声で。
「……戦か……戦ねぇ……」
 そうだった。こいつは出陣の命令が下ると、必ずこうして浮かない顔をするのだった。
「行きたくないとでも言うつもりか?」
 文机に向かった長谷部が上体を捻って、行光を睨めつけた。行光もこれでもかと言うほど苦い顔をする。
「……別に誰もんなこと言ってねえだろへし切」
「長谷部だ」
「知るか」
 盛大な舌打ちを漏らして、急に立ち上がると目の前がくらんだのか、足元をよろつかせた。慌てて支えてやろうとする。
「触るな」
 今度は俺までが睨まれる。
「……おう、すまん」
 大股で歩いて、部屋から出て行く。俺はその背中を見つめて息を吐いた。行光は俺に触られるのを嫌うのは知っている。別にはねのけられるわけではなくて、ただ短く拒絶される。それが本気かどうかの見分けくらいはつくから、ダメだと思ったときは素直に引き下がることにしている。
 嫌われているわけではない。そう信じている、と言うと女々しいかもしれないが、他の刀といるときよりは比較的口を聞いてくれるし、先ほどのように隣を歩いても文句を言われないし、距離が開いている感じもない。
 でも不用意に触るのだけは、許してもらえない。顕現して結構経つのに。
「薬研」
「ん?」
 呆れ以外の何者でもない表情だ。いや、他の意味でとれるとしたら、同情か。
「あれの、どこが良いんだ」
 長谷部は俺の、行光に対する気持ちを知っている。……これが、何も言わないまでも気づいたのだといえば随分と、燭台切の言う「かっこいい」部類に入ったのかも知れないが、生憎そうではない。行光への思いを色々こじらせた時期に……というか、自覚した時期に、長谷部に絡み酒をして自ら吐いた。
「さてなぁ」
 俺にも分からんが、
「強いて挙げるなら、全部だと思うが?」
「……物好きめ」
 長谷部は嘆息した。
 そんなことを言われても、全部愛しいと思うのだから仕方ないだろう?

 そして約束の時刻に、全員が戦装束に身を包んで、門の前に集合した。行光は相変わらず酒が抜けきっていないようで顔が赤かったし、それに長谷部もいい加減にしろと怒鳴りつけていたが、慣れた様子で無視をしていた。
「小夜すけと出るのは久しぶりだな」
 大きな笠を背負って立つ小夜すけも、修行を経たせいで前とは少し違う戦装束だ。俺とは時期がずれていたので、修行の後で一緒に出陣するのは初めてかもしれなかった。それまでは顕現時期が近かった分、同じ部隊に配属されることは多かったため、お互い気やすい関係は築けているはず。少なくとも俺はそう感じている。
「……うん。そうだね……」
「やるか? 誉れ争奪戦」
 厚なんかを初めとした兄弟達とやる遊びのようなものだ。ただ遊びと侮るなかれ、存外士気が高まり、自分の知らないところ(例えば太刀の間)でも採用されているのを前に聞いた。
「……戦でそういうのをするのは、違うと思うから……」
 別に咎めているわけではないのだろう。でも小夜すけの持つ逸話からして、戦いと復讐は切っても切り離せないもの。そういう意味では修行でさらに深く掘り下げてしまったらしく、戦に対して鬱々とした表情がなくなることはなかった。よく頑張った、と宗三と江雪とが順繰りに小夜すけを抱きしめていたくらいだ。普段、兄弟でありながら距離があまり近いとは言えない三人には珍しい光景だった。
「つれねえなあ、小夜すけは」
 予想していた答えであるがゆえ、残念だとは思っていないけど口先だけでは残念ということにしておく。
「薬研」
「ん?」
 無言で、しかしおずおずと、小さく握った拳を差し出してきた。まだ顕現して間もない頃に、よくやっていた二人の合図だ。俺は頬を緩め、しっかり握った拳を小夜すけの拳にコツンとぶつけた。
「暴れてやろうぜ」
「うん」
 頷いたことで、高い位置で結った群青の髪が揺れる。
 そのとき丁度、門の確認を終えた長谷部が号令をかけた。俺たちは了解の旨を示し、足を踏み出そうとして……
「行光?」
 いつまで経っても動こうとしない行光に気づいた。ぼんやりとした目は、残っている酒のせいだろうか。早くしろ、と急かす隊長と、不思議そうに首を傾げる同隊の奴らとを見比べて、俺は行光の肩に触れようとする。
「え?」
 ところが、寸でのところでハッと我に返り、俺を見た。無意識だろうか、俺の触ろうとした手から逃れるように、一歩、身を引きながら。
 無意識だったらそんなに嫌かと凹むものがあるが、それはあとだ。
「どうした?」
「……どうしたって?」
「出陣するってのに、お前が動かないから」
「……嗚呼、ごめん。ぼーっとしてた」
 気にするなと手を振り、歩き出す。
 不思議に感じたが、今の態度だと恐らく行光は、何を聞いても頑なに答えないだろう。その辺りはもう分かる。でもこの後も様子がおかしいようだったら、問い質そうと心に決め、俺たちは門を潜った。

 このときに、先に問い質していれば、まだ何か違ったかもしれない。でも俺は、気づけなかった。

   ***

 敵の急所に突き刺し、柄まで通った確かな手応えを感じる。雄叫びを上げながら血の一線を引き、蹴り飛ばしながら短刀を抜く。しっかりと柄を握り直し、跳ね返りながら後ろへ下がった。背中がぶつかる。
「あー、くそ、ダメ刀だからってなめやがって……」
「行光、無事か?」
「無事じゃなかったら喋れねーよ」
 飛び込んだ戦場は、夜になろうとしている夕方あたりの時刻と思われた。その中、歴史修正主義者のあまりの多さに目を剥いた。陣形を考えるどころではなく、早々に戦力は分断され、長谷部や宗三、青江の旦那、小夜すけは俺たちとは離れた場所で戦っている。ただ、長谷部が分断されかかった際に大声で出した命令には、行光を含む誰もが従った。
 それは、絶対に一人で戦わないこと。最低二人。それすら分断されそうになっても死に物狂いで二人になれというものだ。
 敵もかなり強く、一人で捌くのは最高練度でも無茶だと思われた。隊長の命令の無視は死に直結しただろう。二人で戦っていても、無傷で済んでいるわけではない。切れている唇の端から流れた血を、手の甲で拭った。
「頑張れ。あと少し」
「分かってるって……」
 顔を顰め、荒い息に混ぜながら苛々とした口調で答える行光に、仕方ないなと肩を竦めかけて――
「……行光?」
 背中合わせの状態なんて、別に戦場で珍しい現象ではない。長いこと共に戦ってきたのだから当然だ。でも、おかしい。背中をつきあわせて、お互いが立っているのではない。
 行光の背中が俺の背中にべったりと密着して、しかも微かに震えている。そして背中越しでも分かるほど……酷く、熱い。
「……!? おい、ゆき、」
 周りの空気がざわめく。慌てて構えて周囲を見るが、包囲している敵に動いた者はいない。何だ、と警戒するも、頭は半分以上後ろにいる行光のことで占められていた。まさか、こいつ、体調が……。
 ちゃんと戦場に集中してれば、こいつを守れただろうに、どうしてもそれができなかった。
 どん、と背中に衝撃が走った。熱い掌で、突き飛ばされたような。
「……え」
 尋常ではないほど顔を真っ赤にした行光が見える。それも一瞬。
 真上から降ってきた巨体が、行光の上に豪快に着地した。もうもうと土煙が上がる。
「行光!!!」
 土煙の向こうで、行光は相手の攻撃をまともに受け、力なく手足を投げ出しているのが見えた。もう一発大きな打撃を加えられれば、ただでは済まないことは傍目でも分かった。
 俺は他の敵を無視して大太刀に猛進した。後ろから矢が飛んできて刺さったが、何も感じなかった。ただ、今は、目の前の大太刀を倒して、行光を助けなければと。
 大太刀の緩慢な動きに劣る俺ではない。劣っていたら何のために修行したのだと言う話だ。叫び声をあげながら、短刀を敵の首めがけて振り下ろす。それだけで目の前の大太刀はあっけなく消滅した。行光でもきっと倒せた程度の、大太刀。その分、どれだけ弱っているのかを確認してしまったような気持ちになって焦った。
 仰向けに倒れている行光は血塗れで息も細切れで、顔も赤い。酒精が原因とは思えない。目も開いているが一体何を映しているのか分からない、虚ろなもの。医療の知識がある俺はぞっとした。重傷なのは一目瞭然で、さらに息がおかしい。肺に異常を来しているんだと、分かった。
「行光…! しっかりしろ! 行光!」
 非情にも、そこに苦無が飛び込んでくる。呼びかけることに夢中になっていた俺は、間際までそれに気づけなかった。せめて行光だけはと、覆い被さって庇おうとしたが、素早い動きで横合いから走り込んできた長谷部が苦無を斬り伏せてくれる。
「長谷部!」
「何をしているんだ貴様らは!!」
 鋭い叱責が飛ぶ。言うや否や、長谷部は倒れている行光を引っ張り上げ、小脇に抱えた。
「説教は帰城まで待ってやる。今は目の前の敵に専念しろ!」
「でも行光が!」
「貴様がこいつを抱えて戦えるのか!? 感情で語るな考えて物を言え! 戦場では感情を優先させる奴が死ぬ!!」
 俺は、短刀だ。得た人の身は、人間でいうところの子供のそれだった。同じ短刀の行光と大差のない大きさでしかない体だ。そんな体を抱えながら短刀を振るうなんてできるわけがなかった。
 何も言い返せず唇を噛んだ。その間に長谷部は、行光を抱えたまま敵を次々に斬り伏せていく。
「〝必ず二人で戦うこと〟」
 肩を叩かれる。振り向くと、そこには脇差を構えた青江の旦那がいた。
「隊長が出した命令なのにねぇ、さっき急に僕から離れてこっちに一直線。焦ったよ、一人になってしまったからね」
 大袈裟に肩を竦める旦那は、続ける。
「隊長も、みんなで生き残りたいのさ。さあもうひと踏ん張りして、早く帰ろう。本丸に」
 行光のことが心配。それはきっと、ここで戦っている全員が思っていること。なら尚更早く戦いを終えて、本丸に帰り、大将に手入れをしてもらわなければならない。
「……ああ、そうだな……」
 旦那の言葉で少し落ち着いた俺は、どうしても心配だという思考がちらつく自分を叱咤し、短刀を構えた。前の敵を、見据える。
「ぶっといのをお見舞いするぜ……!」
 今は、戦うことだけを考えろ!

   ***

 満身創痍で帰城した俺たちを出迎えたみんなは、慌ただしく手入れ部屋の準備をしてくれ、また薬部屋の応急処置の道具も手際よく持ってきてくれた。
 審神者に就任して間もない頃、つまり、まだ戦術等が全く分かっていなかった頃以来の有様に、大将は衝撃を受けていた。「自分の采配のせいだ」と自責の念に駆られていたが、全部の戦を思うとおりに動かせるなんてできやしない。できたら、信長さんだって光秀の謀反に気づけたはずだ。何が起こるか分からないのが戦場なんだ。
 長谷部に抱えられていた行光を優先的に手入れは行われた。破壊される一歩手前だったと聞いて肝が冷えた。でも今まで、手入れをして助からなかった者はいないから、手入れ部屋に突っ込まれた行光を見て幾分安堵した。手入れを待っている間、応急処置で包帯を巻いた長谷部には、延々と説教をくらった。宗三も近くにいたが、今回ばかりは何も言葉を添えてくれなかった。
 行光が目の前で折れかけたとき、戦場にあるまじき行動をした自覚はある。だから長谷部の説教は、甘受した。

 俺を含め、行光以外は手入れが終わってすぐ、いつも通りの生活に戻ることができた。報告すべきものを大将に報告して、妙なあの戦場の有様を伝える。俺のふがいない行動もしっかり伝えられたらしく、長谷部に続いて大将にも叱られた。采配が悪かった自分にも非はあるが、守りたいのなら心配するのは後にして戦え、と。ごもっともすぎて泣けた。
 一体どこから隠していたのか(多分、ほぼ最初からだろう)元々最悪の体調であったための高熱と、怪我とが重なった行光は、手入れが終わってもすぐには目覚めなかった。
 目覚めたのは、丸二日経った後だった。

 廊下を走り抜け、手入れ部屋の前まで来ると、長谷部とはち合わせた。やばい、怒られる、と思ったが、長谷部も走ってきたようで気まずそうに目を逸らしていた。何だ、あんたも心配で急いで来たのか。何も言わず顔を見合わせて、俺が襖を開いた。
 布団の上で上体を起こしている行光を見て、ホッと息が漏れる。見たところ傷も綺麗に消えているし、顔色も悪くない。元々白い肌だから悪いようにも見えるが、少なくとも体調を崩しているような様子はない。
 俺と長谷部に気づいた行光が、ゆっくりと此方に視線を向ける。
「大丈夫そうだな……」
 長谷部がぼそりと告げ、もっと素直に喜んでやればいいものをと笑いそうになるが、堪える。歩み寄って、行光の布団の傍らにしゃがんだ。
(ああ、よかった、生きてる)
 もっと、ちゃんと生きていることを実感したくて、手をのばした。そしたら、払いのけられることなく、俺の手は行光の頬に届いた。驚いた。いつもなら、すぐに避けられてしまうのに。まだ意識がはっきりしていないのだろうか。
「行光」
「………」
 大きな紫色の目が、きょとりと瞬く。
「……よかった。体の方は何ともないか?」
 拒否されないのなら良いか、と思い直して、頬を撫でながら尋ねた。
 行光は、言った。

「……お前、誰?」

   ***

「………へ……?」
 頭が真っ白になった。
 ……行光? お前、今、何て?
「………ここは、何処だ?」
 呆然とした俺の手が、行光の頬から離れる。しかし、それすらも気にせずに行光は、いかにも不思議そうに周囲を見回している。後ろで、長谷部が息を飲んだ気配がした。
「……何、言って……」
「……?」
 珍しいな、行光。お前が、目が覚めて早々、そんな悪ふざけするなんて。何だ、お前も、俺が情けねえ姿を戦場で晒したこと、怒ってるのか。
 そんな言葉が浮かんできて、笑い飛ばしてやろうと思ったのに、いざ口を開いた俺の声は自分でも唖然とするほど震えていて。どくどくと脈打つ心臓が、耳にうるさくて仕方がなかった。
「おいっ……」
 俺の横から、膝をついた長谷部が行光の肩を掴む。
「ふざけるのも大概にしろ、不動行光」
「……え、っと……」
 行光の瞳が揺れる。それは怯えだ。何に怯えるのか? 長谷部が怒っているからか? 
 違う。今、ここで何が起きているのか分かっていないからだ。もし、俺のこの嫌な予感が、当たってしまうなら。俺はぎゅっと目を瞑ってから、長谷部の腕を掴んだ。怪訝そうに見られたので首を横に振ると、渋々ながらも行光の肩から長谷部の手が離れる。
 そっと深呼吸した。大丈夫。俺が混乱するのは後でいい。今の俺は、「医学の知識がある治療担当」の薬研藤四郎だ。自分の知識の引き出しから、今の行光の様子から思い当たる病気を片っ端から取り出す。
「…行光。ここが何処だか分かるか?」
「……」
 長谷部から俺へと視線を移した行光は、ゆるゆると首を横に振る。
「……自分のことは?」
「………」
「…お前は人間か?」
「いや、俺は……刀剣男士……だ」
 自分がどういう存在なのかは分かるらしい。奇妙な質問ではあった。人間に「お前は犬か」と尋ねたようなものだからだ。しかしそこから分からなくなっているという絶望的な状態ではなさそうである。
「何ていう名前の刀剣男士だ?」
「………」
 また、首が横に振られる。
「……自分の刀種は?」
「……短刀……」
「俺たちがすべきことは何だ?」
「……歴史を守ること」
「そのために俺たちを呼び出したのは?」
「審神者」
「敵は?」
「歴史修正主義者」
「お前が顕現したのはいつだ?」
「…………」
「お前が短刀として元々存在したのはいつの時代だ?」
「…………」
「……じゃあ、」

 お前を愛した武将の名前は?

   ***

 馬鹿みたいに綺麗で丸い月を見て、虚しさが増す。それだけの光を放てるなら俺の心も照らしてくれりゃあいいのにと思うが、月にそんな思いは通じない。
「まだ起きていたんですか」
 体を捻って振り返ると、廊下を歩いてきたのは宗三だった。既に寝間着に着替えていたが、それほど眠そうな様子ではない。
「……寝付けなくてな」
「……不動は」
「まだ万全じゃねえみてえでな。部屋で寝てる」
「そうですか」
 隣に腰を下ろした宗三は、俺の真似をするように月を眺めた。
「…聞きましたよ。長谷部から」
「そうか」
 二日ぶりに目覚めた行光からは、綺麗に記憶が失われていた。自分が何のために存在するのか、敵は何か、ここで何が起きているかの理解はできていた。それは「刀剣男士」として顕現される際に、自動的に俺たちの中に当たり前の認識として持たされる知識であった。人間で言うならば、人間というものは二足歩行をすること。酸素を吸って二酸化炭素を吐いて生きていること。言葉を操ることができること。自分が大人か子供かということ。それら全てが、自然に理解ができるように。
 だが他のこととなると、行光はさっぱり何も覚えていなかった。自分が短刀で、刀剣男士だというところまでは分かっても、織田のことすら。あれほど何度も後悔していると口にしていた織田信長のことも全くぴんときていなかった。当然、長谷部や俺のことが、分かるはずもなかった。
『何かごめんな』
 耐えていたつもりだったが、長谷部も俺も、随分酷い顔をしていたらしい。ひたすら質問に答えていた行光が、ふいにそう謝った。でも本人は、何に謝ればいいのか分からないといった表情だった。ただ、自分のせいでこんな顔をさせてしまったということだけを理解して、そこを謝っているらしかった。
「刀剣男士の記憶喪失なんて異例なんだって。だからあの変な戦場で、バグみたいなもんを行光が貰っちまったんじゃねえかって大将は言ってた」
 問題の戦場は、あれから他の本丸の部隊も突入してくれたらしく、無事沈静化されたらしい。今、政府はその対応に追われている。行光のことも満足に対応できないし、この本丸独自で起きている事だからそもそも政府は頼りにならないとも、大将は言っていた。
「でも折れなかったんだからよかったよ」
 笑って言ったつもりの俺の声が、ちっとも笑っていなくて、自分で愕然とした。
「……そうですね、良かったのかもしれません」
 隣で、あくまで静かに言う宗三に首を傾けることで続きを促す。
「……忘れてしまったなら、返せなかった愛なんてものも、もうあの子は分からないんでしょう? あの子は自分をダメ刀だと称して、ずっとあそこにいた彼らを助けられなかったことを悔いていた」
 愛された分を返すことができなかったダメ刀。
 怪我をして、俺だけ直っても、と手入れの度に嘆いていた短刀。
 誉れを得ても、あのときこれができていればと、悔いることしかできなかった不動行光。
 彼が過去の記憶で押しつぶされそうになっているのを見たことは、確かに何度もあった。心当たりはいくらでも思い浮かぶ。
「…忘れて、無邪気な短刀になれば。ある意味救われるのかもしれませんよ」
 宗三の言葉はなるほど納得はいった。でも俺の気持ちは晴れない。もしこれが励ましなのだとしたら屈折しすぎている。
 なあ宗三。それは本当に不動行光としてあり得るのか?

 大将と、目覚めたばかりの行光と真っ先に対面していた俺と長谷部で、本丸の全員には一連の出来事を伝えた。当然皆驚いていたが、それでも一応刀剣男士としての意識ははっきりしているので、いつも通り接してやってほしいということで話はまとまった。ただし人の生活もほとんど忘れてしまっているだろうから、その辺は上手く手助けしてやってほしいとも。
 それからは悔しいほどに、滞りなく日々が過ぎていった。思い出させようと、前の行光のことや織田家のことを延々語った日もあったが、いかんせん終始何のとっかかりもつかめないせいで、まず思い出させることも困難だった。だから、とりあえずはいつも通り生活しようということになったのだが、あまりに「いつも通り」で不気味だった。
 大きく変わったと言えば、行光が甘酒を飲まなくなったために普段は酔わないし、厨に備蓄されていた甘酒が一向に減らないことだ。
「お前、甘酒はやめたのか」
 長谷部が何気なく食事の席で尋ねれば、
「甘酒?」
 何を言っているのか分からない、といった様子で首を傾げていた。一度甘酒を渡して飲ませてみたところ、「美味いからたまに飲みたい」と無難な返事があった。
「前は毎日飲んでたのに、その程度で良いのかい?」
 青江の旦那が、わざとそう訊くが、行光はそれにもまた首を傾げた。
「酒を毎日? ……んー……それ自棄酒じゃねえの。俺別に、自棄になって飲もうって気はないし」
 すっきりとした顔で笑う行光は見たことがなかった。
 昔のことを忘れて、これほど明るくなれるものかと思う一方で、信長さんや蘭丸が死ぬまではそういえば無邪気な短刀だったなと懐かしくなったりもした。こっちが行光の素なんだと思うと、記憶というものがあるだけであんなに変わってしまうのかと、記憶は何て残酷なんだろうと思わずにはいられなかった。
 忘れてしまった方が良い。そう言った宗三の、言葉の意味を、ここに来てやっと理解する。それほど本能寺の出来事は、行光の中に深い傷を残していたんだな。

 一ヶ月が経過しようとしていた頃に、小夜すけがひょっこり薬部屋にやってきた。
「まだ何も思い出さないみたい」
「……そうか」
「……時々、前の時のこととか話すんだけど、分からないって」
「小夜すけも頑張ってるんだなぁ」
 本と睨めっこしながら薬を調合し、また本を確認して、ああ間違えた、何度目だこれ、と俺は頭を抱える。障子の近くに正座している小夜すけは顔を俯かせている。
「……不動がああなってしまったのには、あの戦場で、僕が力不足だったからって言うのもあると思うから」
 自分の前にいる敵を捌くので精一杯だった。それがふがいない。だからできる限りのことはしたい、と小夜すけは独り言のように言った。話しかけること自体そんなに得意ではないだろうし、行光と小夜すけがそれほど仲が良かった覚えもない。なのに、最近二人が一緒にいるのを見かけるのは、小夜すけから必死に声をかけているからなんだろう。
「はは、でもいいんじゃねえか? 記憶なくしてから行光は明るくなったぜ」
 事実、他の刀からも、前より行光と喋りやすくなったという話はちらほら聞く。前は常に酔っ払っていたしすぐにガンを飛ばすような有様だったので、今の行光に比べればそれは取っつきにくいものだったろう。今は怒られたらすぐに素直に謝るし、自分を「ダメ刀」と卑下することもほとんどない。時々自信がなさそうな発言はするが、前と比べれば大した問題ではない。
 記憶を失ってから行光は生活がしやすそうに思える。なら、わざわざ記憶を取り戻すことなど、ないじゃないか。
「……でも薬研は」
「ん?」
「辛そうだよ」
 振り向くと、しっかりと小夜すけと目が合った。あまり、目を合わせて喋ることを得意としていない小夜すけには珍しいことだった。碧眼が、俺の心の内を見透かすように、まっすぐと俺の目を見つめる。
「………」
 ふっと俺は眉を下げ、笑う。諦めた笑いである自覚はあった。それに付き合いが長い小夜すけに誤魔化しは通じないだろう。変に笑顔を見せても、嘘だね、とばっさり切り捨てられるのが関の山だ。
「難儀なもんだよなぁ」
 行光が明るくなったのは良いことなのだろう。辛い過去がなくなったのは良いことなのだろう。今の行光は何も覚えていないから幸せなのだろう。ただ自分が刀だと分かっているのだから存在意義も見失ってはいない。仲間だっている。記憶がなくても他の仲間と、前より上手くやっている。良いことだ。良いことのはずだ。記憶喪失は想定外だったが、それでも怪我の功名だ。
 ――――そのはずだ。
「俺は前の行光が好きだと思っちまう」
 辛かっただろう。本能寺の炎を思い出すのも、一人で置いていかれた悲しさも、それから信長さんと蘭丸を救えなかった無力さもずっと背負っているのは、死ぬより酷だったかもしれない。
 でも昔のことを語る行光は、辛そうで、暗くて、そして誇りに溢れていた。自分は確かに愛された刀だったのだと、そこには後悔と共に確かに、幸せが滲んでいた。が。
「それでも行光が今の方が幸せそうなら、俺はそっちを肯定してやるべきなんだ」
「……それはあなたが、不動のことを愛しているから?」
 小夜すけにしては随分珍しい、直球な言葉に俺は驚いた。本人も自覚があるようで、気まずそうに視線を彷徨わせている。
「…そうだなぁ」
 胡座をかいて、膝をとんとんと軽く叩いた。甘酒を飲んで、機嫌が良さそうに歌うあいつを見ることはもうないんだろう。記憶がないんじゃ歌えない。
「……やっぱ好いた相手には幸せでいてほしいもんだ」
「薬研が不幸になったとしても?」
「ああ」
 俺の幸せより、行光が笑っている方がいい。
 多分行光が笑っていれば、俺もそのうち、ちゃんと笑えるから。

 その日の晩。夜も更けてきた頃に、薬部屋に来客があった。障子を開けて入ってきたのは長谷部だ。寝間着ではないにしても軽装になっている。これくらいの時間だと、丁度近侍の仕事を終えたくらいだろうか。別に一日にやるべき仕事は夕餉前には終わりそうなものだが、長谷部の場合、大将の負担を減らすのだと言い、余分に請け負っている場合が多い。
「何だ長谷部。こんな時間に」
「貴様こそ何だそれは。何の薬だ一体」
 長谷部の視線を追いかけて、俺は手元の試験管と横に置いている擂り鉢を見つめた。何というか、一言では表現しにくい色合いの薬が出来上がっている。……俺、何と何と何混ぜて何の薬作ろうとしてたんだ。
「……分からん」
「得体の知れない薬はさっさと捨てろ」
「酷でぇ言いぐさだなぁ。まあ流石に正体が分からなすぎるからそうするが」
 机の上にある薬品を片づけながら、問いかける。
「それより何しにきたんだ? もう皆寝てる頃合いだろう。言っておくが酒盛りの誘いなら丁重にお断りさせてもらうぞ」
「違う。不動のことだ」
 まあそうだろうなと、予想し得た用件にため息を吐く。俺はとりあえず長谷部を座布団に勧めた。相手も特に疑問も持たずそこに腰を下ろす。
「行光がどうかしたか? 上手いことやってるんだろう?」
「お前はもう諦めたのか」
 言外に、行光の記憶を取り戻すことを、と含まれているのを感じる。俺は天井を仰いだ。小夜すけに言ったことは嘘じゃない。行光が幸せならそれを壊す理由が、俺にはない。
「今の行光は幸せそうだ。ならもう、それでいいんじゃないかとは思ってる」
「そうか。夜眠れていないのに幸せに見えるんだな、お前には」
「……は?」
 行光が記憶を失ってから、初めての情報に俺は目を瞠る。
「…眠れてないのか?」
 具合が悪かったら薬部屋に来ること。人の体である以上、ある程度の体調不良は手入れではなく薬で何とかする方が楽だし、資材の消費にも優しい。それは流石にちゃんと覚えたはずだ。眠れていないなら一度くらいここに来ていて良さそうなものだ。言われれば睡眠薬くらい処方できた。
「……恐らくここ一ヶ月は、満足に寝ていないだろうな」
「一ヶ月……って記憶を失ってずっとじゃねえか! あいつそんなこと一言も!」
「夢を見ると言っていた」
「……夢? 何だ、もしかして、炎の夢か?」
 行光が悪夢に魘されることは、記憶を失うより前のときから多かった。うわごとは決まって信長さんや蘭丸の名前。あとは、熱い、とか、燃える、とか。明らかに、夢の中で本能寺の変を追体験していた。
 でも予想に反して、長谷部は否と答えた。
「背中を守ってくれる刀がいたらしい」
 背中を守る、と言われて俺が思い出すのは、一ヶ月前のあの日、俺と背中合わせになった行光の背中が、熱かったこと。体調が悪いのに気づいてやれなかった。だからこそ戦場でも動きが悪かった行光を助けてやれなかったこと。酷く後悔しているのは、今も同じだ。
「夢の中で、その刀は、上からの大太刀の猛攻で折れるんだそうだ」
 っ!?
「俺は折れてない! 行光が助けてくれた!」
 上から降ってきた大太刀。それはまさにあのときの戦場でのことだ。でも事実が違う。行光の背中を守っていた俺は、他でもないあいつに突き飛ばされて、間一髪で避けられた。
「だがあのときに熱に浮かされていたあいつは、どれほど正確に状況を把握できた?」
「っ……」
「……俺の言葉だけじゃ、やはり足りなかったようでな」
 はあ、と呆れたため息を吐く長谷部。
 俺は眉間に皺を寄せた。それにすぐ気づいたのだろう。暫く目を閉じていたかと思ったら、切れ長の目が俺を見据える。体に妙に力が入った。動けない。構わず、長谷部はゆっくりと、その口を開いた。

   ***

 小脇に抱えた不動の体は、異常なほどの熱を持っていた。加えてぼたぼたと流れる血。一歩間違えたら、折れる。力なく揺れている手足にぞっとしなかったと言えば嘘になる。
 早く走れば大きく揺れる。傷に障るのではないかと一瞬抵抗を感じたが、先ほど薬研に「感情を優先したものが戦場では死ぬ」と叱ったばかりだ。それに元々、あの男の刀だ、こいつは。この程度で折れるわけがない。柄でもないが、俺はそう信じた。そして、脇に抱えたまま右手で刀を振るい、敵を蹴散らす。邪魔だ!
 そうして暴れていると、うめき声のようなものが聞こえた。敵を斬り伏せながら、俺はそいつを抱える腕に僅かに力を込めた。
「生きてるか」
 ひゅうっと息を吸う音がする。微かに首が動いた気もしたが、生憎立ち止まってなどいられないので、俺が大きく跳躍したせいで動いたのか、本人の意志で動かされたのかは判然としなかった。
 何か言っているような気がして、舌打ちを堪えながら耳を澄ませた。くっちゃべっている余裕などないのだぞ、本当は。怪我人は黙って抱えられていろ。
「……や……やげ、ん、……は……」
 脳裏にかすめる。遠目に見えた、薬研を突き飛ばすこいつの姿。あれを見た瞬間に怒鳴りたい言葉が頭の中を殺到したが、とにかく早く駆けつけなければと動き出してしまった。一緒に戦っていた青江には悪いことをしたと思っている。
 背後に迫っていた槍を腰を屈めることでかわし、しかし頬に微かに傷がついたことに苛立ちながら薙ぎ払う。そして、ちらりと周囲を見た。青江と共に、果敢に飛び込んでいく薬研の姿が見えた。
「……無事だ」
 地面を這うようにして襲いかかってきた短刀をかわし、蹴り飛ばす。
「……そ、か……よか、った……」
 立て続けに正面からやってきた太刀の打撃を受け止め、鍔迫り合いをした後、圧し切る。同時に横合いから振りかぶってきた脇差の腹に柄頭をたたき込む。
「折れるなよ。不動」
 主は我々が、一口でも折れることを望んではおられない。そのために強くなったはずだ。主命ならば折れるなど言語道断だ。もちろん、……仲間としても。
 俺に恐れを成したか、一時的にだが攻撃がやむ。おかげで、へへ、と軽く笑うような声が耳に届いた。
「……折れ、ねぇよ……俺、は、まだ…なに…も、返せて……ない…から………」
 愛された分を返すことができなかったダメ刀。不動の口癖の一つだ。こいつはこんな状況下でもそれを言うのかと、眉根を寄せる。
「また信長の話か」
 全く、お前は織田信長が本当に好きだな。理解に苦しむ。
「……ちげー……よぉ……」
 途切れる息。震えた声。ぽたぽたと、俺の足元に、不動は血溜まりを作りながら、しかし今度だけは妙にはっきりとした声で。
「……薬研、に」
 急に不動の体の重さが増した気がした。完全に気を失ったのだろう。
 ……何だ。お前たち、ちゃんと通じ合ってるんじゃないか。なのにお互い気づいていないのか。面倒で不器用なことだ。
 ぎらりと、周りの敵の刃が煌めく。戦意喪失というわけではないらしい。俺も刀を構え直し、ずり落ちそうになっている不動の体を、脇に抱え直す。ぐったりとした体は、まるで死んだ人間のそれだ。だが、折らせない。絶対に連れ帰る。
 覚えておけ、不動行光。
「死ぬのは楽だが、主命を果たせないのは論外だ」

   ***

 これが、記憶のある不動と交わした最後の会話だ。
 そう長谷部は締めくくった。
「……何だよ、それ……」
 記憶を失う前に行光がそんなことを?
「…だが意識は朦朧としていた。いざ記憶を失ったと思えば夢の中でお前が折れる光景ばかり目にしている。あのとき俺が無事だと言った言葉は残らなかった。分かるか、薬研藤四郎」
 必死に今聞いた話を整理しようとしていた俺に声を掛けてくる。話を聞いていた時間はそれほど長くないはずなのに、口の中はカラカラに渇いていた。
「不動はまだ、お前が助かったと思っていない」
「……じゃあ、今のあいつが俺と、話しているのは……」
「〝お前〟だと気づいていないんだろう」
 心臓が嫌な脈の打ち方をした。記憶を失っているとはいえ、挨拶も自己紹介もした。それからは行光も俺のことを「薬研」と呼んでいる。なのに、面と向かっていてもあいつは、俺のことを見ていない。あのとき助けた―――いや。行光にとっては、助けられなかった〝俺〟が、まさか俺だと思っていないのだ。
「…確かに今のあいつは素直だ。無駄に噛みついても来ないし言うことも聞くしすぐに謝る。無邪気に笑う。俺としても扱いやすくて助かっている」
 だが、と付け足す。
「……俺はあれを、不動行光とは認められそうにない」
 そう言った長谷部の目は、まだ、諦めていなかった。
 ……俺は何をしていた。時間は沢山ある。もう一ヶ月も無駄に過ごしてしまったが、まだまだ。行光は折れていない。俺も折れていない。同じ本丸にいる。時間はある。
 詰めていた息を吐き出した。頭の中が迷いや後悔で埋め尽くされていたのに、霧が晴れたような感覚に陥っていた。
「…やっと生き返ったか、薬研」
「おかげさんでな。目が覚めた」
 目が覚めるのが遅い、と叱られた。最近長谷部には叱られてばかりだと思った。

「よう、行光。お疲れさん」
「………」
 畑当番から戻ってきたばかりの行光は、頬についた泥もそのままに、目を丸くして俺を見ていた。きょとん、という表現が一番しっくりくる顔だったと思う。
「……えと……お疲れ」
 汗を拭い、手に着けていた軍手を外してポケットにつっこみながら、疑り深い……じゃなくて、至極不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
「いや、ついてんの寧ろ俺の方だと思うけど」
 言って、ぴっぴっと指先で自分の頬の泥を払い落とす。自覚はあったらしい。
「お前から声掛けてもらうの、珍しいなぁと思って」
「……そうか?」
「おう。みんなは俺とお前が仲良かったーとか言ってたんだけどさ、お前妙に俺のこと避けてる気がしたし」
 どっかで怒らせたのかと思ってた。そう言ってはにかみながら笑う行光は、やはり知っているよりもずっと素直で、言葉が明瞭で、違う刀のように思えた。
 そうか。俺は、無意識下でお前のことを避けてたんだな。記憶が無くたって、行光が行光であることは変わりないのに。
「……すまん。避けてたつもりはないんだが、そう見えてたなら謝る」
「何でいきなり謝るんだよ。そのつもりじゃなかったんなら良いって」
 気の好い様子は、どことなく、織田の時代に蘭丸のもとにいた行光を彷彿とさせた。
 行光は、記憶がない自分のことをどう思っているんだ?
「なあ、行光」
「ん?」
「お前、記憶の方は?」
「あー……」
 気まずそうに目を逸らされる。逃げられてたまるかと思い、重ねた。
「夢見て魘されてるとも聞いたぞ」
「げっ、誰だよ言ってたの」
「長谷部」
「うわぁ、長谷部かぁ……丁度水取りに行ったときに会っちまったんだよなぁ……何で素直に言っちゃったんだろ……ああ、でも、大丈夫。どうせ、夢だし」
 余計な心配はかけまいと思っているのが分かった。
「何も覚えてないけど、俺は短刀で、つまり守り刀としての存在意義もあるわけだろ? それなら、あんな夢みたく守れないなんてことにはならないように、努力すればいいだけだ。戦い方とかは体に染み着いてるみたいで、覚えてるしさ」
 およそ不動行光とは思えない口振りだった。前向きだ。ぎゅっと拳を握って、笑ってみせる行光に、「ダメ刀」と自称していた頃を見出すことは難しい。こいつに全てを思い出させていいのか、記憶を取り戻すように努力することは、本当に、行光自身のためになるのか。また、判断が鈍りそうになる。
「……何て顔してんだよ、薬研藤四郎」
 呆れた声で笑って、俺の頭を撫でてくる。俺に触られることを嫌がっていた行光ならきっと、絶対にしない。
「そんな顔しなくても、記憶も取り戻す努力はするよ。別に諦めてねえし」
「えっ」
「えっ、思いだそうとしてないからそんな顔してたんじゃねえの? 違うのか?」
「あ、そう、だが……」
 思い出しても、お前のためにはならないかもしれないから。
 そう言葉を紡ごうとしたとき、行光が泣きそうに笑っていた。その顔が、何もかも後悔だらけであった、記憶があったときの行光と被って、思わず、どきりとする。こうして翳りが見える表情のとき、行光は綺麗だと思う。
「……何つーの? みんなすげえ良くしてくれるんだけどさ。微妙に、寂しそうっつうか。思い出さないかって、すげえ時々だけど確認されるし」
 前より喋りやすい短刀になったという周りは、結局、本来の不動行光を求めている。なら俺だって思い出したい。俺は恩を仇で返すような真似はしたくないから。行光はそう語った。
「俺も、元々誰の刀だったのかとかも分からねーのは流石に、気持ち悪いしな?」
 行光が思い出したいと願うなら、迷う必要はないと思った。
「……行光。俺も協力させてくれ」
「んあ?」
「俺も、お前の記憶を取り戻す手助けをしたい」
「あー……うん。ありがとな。じゃあ前の俺のこととか、色々聞かせてくれよ」
 俺は一体どんな顔をしながら喋ってしまっているんだろう。自分で自分の顔は、ここに鏡でもない限り確認のしようがない。でもまた行光は手を伸ばし、よしよしと俺の頭を撫でる。
「分かった。……じゃあまず一つ目だが」
「お、早い。何だ?」
「……前だったら絶対にお前は撫でてこなかった」
 びしり。ゆっくりと俺の頭の上で動いていた掌が衝撃を受けたように固まる。そうっと手が離れ、ごめん、と謝られた。
「……嫌だったか?」
「嫌じゃあないし寧ろ俺は歓迎なんだが、お前がそれはもう俺に触られるのを嫌がってなぁ」
「え、マジで」
「マジで」
 行光は考える仕草をして、首を傾げながら一言。
「……もしかして俺、お前のことは嫌ってたの?」
 正直その辺は俺が聞きたいところだし結構たとえ話でも刺さるもんがあるんだが。
「……さあな。流石にお前が俺のことをどう思ってたかは知らん」
「薬研は」
「俺は好いてたし好いてるぞ」
 がく、と膝から力が抜けるような具合で体を傾けた行光は、顔を真っ赤にした。
 な、な、な、と壊れた絡繰りみたく、次の言葉は出てこずに一文字をひたすら紡ぐ相手に尋ねる。
「どうした?」
「どうしたもこうしたもあるか! いや、好いてるって…いや、分かってる、そういう意味じゃねーことくらいは分かってるけど!」
「いやそういう意味でとってくれて一向に構わないんだが」
「直球過ぎるだろ何なんだよお前!?」
「すまん、言ったのは今が初めてだが随分前からだ」
「そういう問題じゃねえ!!」
 照れるとこんなに狼狽えるんだなぁと他人事のように(実際他人事だが)思いながら行光を眺める。褒めても「ダメ刀に気を遣ってる」だの、「世辞はいらない」だの言われるし、素直に受け取ろうとしなかった行光ではなかなか見れない様子だろう。
「あー……でもそうか、うーん……俺どう思ってたんだろうなぁ……」
 頭を抱えてしゃがみこんでしまった行光と、目の高さをあわせるように俺もしゃがむ。白衣が汚れるぞ、と指摘されたが別に構わない。
 耳まで真っ赤にして顔を覆っている行光に笑いかける。
「……まあ俺の気持ちなんか考えなくていい。今はつい言っちまったけどな。思い出して俺のことをどう思っていようが、お前の感情はお前のものだ。俺も別に無理矢理アレしたりコレしたりしねえよ」
「アレしたりコレしたりって」
「何だ? 具体的に言うか? 例えば夜―――」
「ごめんなさい」
 くつくつと笑う。今の行光は、俺が知る行光とは違うけど、でも、話しているとそれなりに楽しいと思ってしまう。記憶を失った行光と、ちゃんと話してみるまで気づかなかったが、俺は本当にこいつのことを、自分でも予想できないほど、思いを寄せちまっているらしい。罪な短刀だ、お前は。
「……その……色々整理が、つかねえんだけど……」
「すまんな、記憶に関係ない余計な情報与えて」
「いやそれは別に良くて。……返事、はさ」
 顔を覆っている手の、指の間から、紫の瞳が覗く。ん? と言いながら、俺は先を促した。
「……これから、今の俺が、お前をどう思っていったとしても、全部思い出してから……きっとするから」
「……返事してくれるもんと思って期待してたつもりもないが」
「お前のその心は鋼か何か? じゃあ何で言うんだよ」
 全く、と赤くなった頬を手で擦り、困った笑いを浮かべた。
「……言ったろ。俺は恩は仇で返す気はないって。薬研が前の俺に、そういう気持ちを向けてくれてたんなら、今の俺が答えるのは〝仇〟だと思う。だから前の俺がちゃんと返事しねえと。いい加減なことはしたくない」

 だから、記憶を取り戻したら、俺はお前にちゃんと言う。

 今の行光と交わした約束は奇異なもので、でも長谷部の話も知っていた俺は、卑怯ながらも期待していいのかと思ったりして。同時に、今の行光もやっぱり不動行光なのだと。愛された分を返せなかったダメ刀だと自称した、あの真面目な不動行光はここにいるのだと、やっと理解できた俺は無性に嬉しいと思っていた。
 勿論、記憶を取り戻すまで、戦いは終わらないと思っている。だから、気は抜かない。

 それからと言うもの、俺は折にふれて行光と喋るようにした。行光も最初は(多分気持ちを伝えたせいで)ぎこちなかったが、ちゃんと相手をしてくれる。配られたお八つなんかも必ず行光と食べるようにしたし、頼まれれば〝前の〟不動行光の話も沢山した。それを別に嫌そうでもなく聞きながら相槌をうつ行光は、やはりらしくはなかったし、最終的な答えは「全然わからねえなぁ」というものだった。その後、決まって「ごめんな」と謝罪が入ってきたので、途中から謝罪は禁止にした。流石にそれには反抗しようとしたが、俺が物理的にねじ伏せた。行光が半泣きで頷いていた。許せ。謝ってほしいんじゃなくて俺は思い出してほしいだけなんだ。
 そのうち、行光の方も俺を見かけるとよく声を掛けてくれるようになったし、二人で喋る時間も増えた。
 だが思ったほど事は好転せず、時間ばかりが流れていった。もしかしたらと思って一緒に出陣させてもらったりもしたが、都合良く記憶が戻ったりはしなかった。初めの一ヶ月よりは俺が諦めていないし、多少は有意義になったかもしれないが、結局行光の記憶は戻ることなく、前途多難の状態だった。

   ***

 行光が記憶を失って二ヶ月経とうとする頃。俺は久々に夜戦に駆り出されていた関係上、真夜中に帰城することになった。
 出陣先は江戸城内。存外敵が強く、血の臭いが強い。が、俺は幸い軽傷で済んでいる。手入れ部屋も数が限られていたから、共に出陣していた兄弟達に譲った。あいつらの方が重傷だったりしたんだから、何故譲るんだといった喧嘩にもならなかった。当然の配慮である。
 もうすでに寝静まっているみんなを起こさないように、足音を忍ばせながら廊下を歩いた。
(……うん、このくらいなら自分で何とか……)
 返り血と、頭から流れ出る血は多めだが、浅く切っていても出血量が多い箇所だからそれほどの心配はないだろう。傍目では見苦しいが自分で分かる。少し手首を捻っているかと、そっと右手首を左手でさすった。薬部屋で適当に処置して手入れを待てば……。
 廊下を曲がったところで、視線の先の縁側に腰掛けている一人の男を発見した。行光だ。眠いのか、月明かりを浴びながら船を漕いでいる。何してんだ、こんなところで。
 そっと歩み寄り、肩を触ろうとして、躊躇う。寝間着が血で汚れちまうな。
 顔をのぞき込む。月で照らされた顔は真っ白に彩られていて、やはり別嬪だなと思った。…違う、そうじゃない。
「おい、行光。起きろ。こんなところで寝てると風邪引くぞ」
「………」
「行光。…おいって」
 強めに声を掛けると、びくんと行光の体が大きく揺れた。おっと。すまん、ちぃと声がでかかったか。
 そう思ったが、返事が返ってこない。というか此方を向かない。虚空を視線が彷徨い、体が震え始める。常ならぬ様子に俺はぎょっとした。行光、ともう一度呼びかけるより早く、

「ああああああああああああああああああああああっ!!!!!!」

 行光が、絶叫した。
「行光!?」
 差し出した手を勢いよく弾かれる。下ろした長い髪を振り乱し、訳も分からず絶叫している行光は、今にも暴れ出しそうだった。
 慌てて、そうなる前にと俺は全力で行光を抱きしめた。血塗れだからとか、汚してしまうとか、そんなことは考えていられなかった。それでも俺の腕の中で、離せと言わんばかりに暴れる行光を必死に押さえ込むように、抱きしめる腕に力を込める。目を覚まして、何事だと駆けつけた仲間達の気配を感じたが相手をしてはいられない。
「あああああっ! 嫌だ!! 嫌だあああああっ!!!」
「行光落ち着け!! 俺だ! 薬研だ!! 分からねえのか!!」
「俺が!! 俺が守れなかった!」
 不動はまだ、お前が助かったと思っていない。
 長谷部の言葉が頭を過ぎる。
「俺のせいで! 俺が! 俺がもっと!!」
「違う! お前はちゃんと助けてくれた!!」
 注意をしていたつもりではあったが、夜に寝床を同じくすることはなかったし、魘されているという話は聞くばかりで目の当たりにしたことはなかった。
 行光の言葉を否定する俺だが、行光の暴れ方は酷くなるばかりだった。自分のせいで守れなかったと、壊れたように繰り返す。それを俺は必死に押さえつけた。
「俺が守れたのに! 俺が守れたはずなのに!!!」
「聞け行光! 守ったんだ! お前は守った!」
「俺が生き延びて、あいつは、」
「行光!」
「あいつは! あいつは、折れて!!!」
「折れてないっ!!!!」
 ありったけの力で行光を抱きしめ、もう聞いていられないとたまらなくなった俺は、喉も裂けよとばかりに叫んだ。
 腕の中で、びくん、と行光が大きく痙攣する。ひゅっと息を吸った音と共に絶叫が止まるが、今度は体が小刻みに震え始めた。大丈夫、大丈夫、と耳元で繰り返してやりながら、背中を撫でた。
「……俺……守れ、」
「守った。だから大丈夫」
 もう守れなかったなんて言わせない。お前がいなけりゃ俺はここにいなかったかもしれない。いい加減、気付け。お前が守ったのは、俺なんだ。
 強ばった体から、微かにだが力が抜けてきている。大人しく体の横に腕がおりて、でも震えは止まりそうになかった。だから俺は背中をさすり続ける。
「……俺、は」
「守ったんだよ。お前はちゃんと」
 もう声音から、先に出てくるものが分かる。また俺が先取りをして否定する。俺の言っている意味がまだ分からないのか、きょときょとと動く瞳を真っ直ぐ見つめ返してやりながら、俺はつけたままだった防具を片手で外し、傍に置いた。それで、俺の肩に行光の頭を乗せてやる。ずず、と鼻をすする音がした。
 俺は周りに目をやった。大丈夫か、と口の形だけで尋ねられる。それに、大丈夫だ、と浅く頷いて答えた。すると、みんな安心したように息を吐いて、しかし心配そうに表情を曇らせて、腕の中にいる行光を見守っている。
「……、きり…」
「…ん?」
「……へし……きり……」
 肩口で、行光が微かにだが呼んでいる。
「長谷部」
 俺が大きくなり過ぎない程度の声で呼びかけると、駆けつけていた内の一人である長谷部が進み出てくる。
「行光が呼んでる」
 足早に近づいてきて、傍に来るとかがみ込む。
「……へし、切」
「何だ」
 お前もう少し優しい声で答えてやれよ。
 思わず真顔になったが、別に行光が怯えた風でもないので口は挟まないことにする。
「……薬研…は」
 俺の名前が出てきて驚く。俺か? 俺はここに、いるじゃないか。
 同じく、長谷部の方も驚いた顔のまま固まっていたが、ああ、と納得したような声を出した。
「[[rb:無 > 、]][[rb:事 > 、]][[rb:だ > 、]]」
「……本当に?」
「ああ」
「……そっか…良かった……」
 行光の体の震えが、小さくなる。長谷部が言葉を重ねた。
「……折れるなよ、不動」
 俺の肩に乗っている行光の頭が、微かに横に振られる。
「……折れねえよ…俺はまだ何も返せてないんだ……」
 肩に顔を埋めたままだから、声はだいぶくぐもっている。だがこのやりとりを俺は知ってる。そうだ、長谷部から聞いたあの日の会話。
 行光は、今、あの日の中にいるんだ。
「信長の話か」
「……ちげぇよ……」
「じゃあ、誰に」
 長谷部の質問に答えた途端、行光の全身から一気に力が抜けた。ずり落ちそうになる上半身を慌てて抱きしめ直して支えて、顔をのぞきこむ。気を失ったようだが、苦しそうな顔でもない。無論、安らかな顔とまでは言えないが、それでも純粋に眠っているだけのようで、ほっとする。
 愛おしいそいつの体を、俺は抱きしめた。すまん、行光。不謹慎かもしれねえが、嬉しい。
 俺はやっぱり、お前が好きだよ。

   ***

 隣の布団がごそりと動いたことに気づく。よく分からないうめき声をあげて、それから閉じられていた瞼が持ち上がった。細く開かれた目が、状況を確認するように右、左と動いている。
「おはよう」
 声を掛けると、おもむろに視線がこっちに寄った。
 今の俺は上半身だけ起こして、寝間着に半纏を羽織ってる状態だ。
「……薬研…?」
「ああ」
「……ここ、は……」
「手入れ部屋だ。もう終わってるから心配しなくて良い」
「……俺、怪我したっけ……」
 どことなくぼんやりした声で、独り言ちる。俺はそれに答えた。
「いや? でも俺が入る頃には丁度一人分余ってたんでな。昨日の夜はあんなだったし、ついでだからってお前も入れられたんだよ」
「昨日の夜……」
「覚えてるか?」
 まだ寝ぼけた風な目で、ゆっくりと行光の視線は虚空を撫でる。昨日、昨日、と何度も小さく呟き、細められていた目が徐々に見開かれ、勢いよく体を起こした。
「薬研、お前っ」
「だから手入れは終わってるって言っただろ」
 明らかに心配した声音だったから、肩を竦めて見せた。それでも行光は混乱しているみたいに視線を彷徨わせる。
「でも、でも、血が……血の、臭いが…」
 血の臭い? 思案顔をして、ふと、昨日は手入れをする前にこいつに声を掛けた結果ああなったんだということに気づく。
「俺が、守れなかった、から」
「行光、それは二ヶ月前のことだぞ」
「……へ、」
「二ヶ月前。昨日の俺の怪我は、夜戦のせいで、軽傷だし心配するほどじゃあない。血の臭いは返り血の臭いがほとんどだ」
 状況の把握が追いついていないらしい。いっそ間抜けとも言える顔を此方に向け続ける行光に、俺は顔を近づける。それでも反応がないので、こつ、と額を合わせてみた。ぴく、と行光の肩が揺れる。拒絶は、されなかった。
「……二ヶ月前。行光が俺を突き飛ばしてくれたから、俺は助かった。そのかわりお前は大太刀の攻撃をもろに食らったんだ。動けなくなったお前を長谷部が抱えて、戦った。何とか敵を殲滅して、俺たちは急いで帰城したが……手入れが終わったお前は、記憶を失ってた」
「………記憶、を……」
「覚えてるか。この二ヶ月」
「……」
 少し間があったが、やがて、額を合わせたまま微かに、肯定の頷きが返ってきた。
「そうだ、俺……ずっと忘れてたのか……」
「でもお前はその間も、俺のことを助けられてないと思いこんでた」
「……そう……ずっとそういう夢を見てた……」
「行光。俺は、二口目だと思うか?」
 今度は、それほど間が空かずに、微かに否定の首振りが返ってきた。
「じゃあ一口目の俺は、誰のおかげでここにいられてると思う?」
「………」
 今度は、無反応。記憶がなかったときなら、得意げな顔して「俺のおかげだ」なんて宣ってただろうに。
 仕方ない奴だなぁ、と思いながら俺の口元はゆるむ。やっぱり、どんなに前向きでも、それが記憶がないせいなら、行光らしいとは言えない。自己卑下が過ぎるのは直すべきだとが思うが、素直じゃなくて、正直じゃなくて、でも他人を思いやれるこいつが、俺は好きだ。
「行光」
 至近距離にある行光の瞳が動く。何、と問われているのが分かる。
「……やっと言える。ありがとな。助けてくれて」
「……」
「……行光」
 戸惑ったように下がりかけた視線が、また上がってくる。
「…記憶がなかった間、俺がお前に何言ったか覚えてるか?」
「…は?」
「お前と俺の仲の良さがどんなもんか、聞いてきたときに」
 あ。こいつ視線逸らしやがった。こんな近いのによく俺の目から逃げようと思えるな…。
 ――ってことは、だ。
「行光」
「……」
「行光」
「っ、…なに」
 額を合わせたまま、少し角度を変えてやる。そして俺は、半開きになっていた行光のそこを口で塞いだ。
 一瞬で行光の体に力が入ったのが分かり、でももう少しと思ってそのまま静止していた。満足してから、唇を離す。ものすごい顔で俺を見てた。
「な、……な、な、…」
「ん、突き飛ばされなかったってことは脈ありか?」
 途中で突き飛ばされるかと思ってた手前、驚いたまま固まっている行光に首を傾げてみせる。少なくとも嫌ってことではないだろうか。
 突如、行光は枕を掴んで投げつけてきた。それを手で受け止めて見返すと、耳も首も勿論顔も真っ赤にした行光が怒鳴る。
「無理矢理アレしたりしねえって言っただろお前!!」
「何だやっぱ覚えてんじゃねえか」
 自分の口を押さえて何とも言えない表情で体を丸めている行光にくつくつと笑った。
「すまん、近くで見る顔があまりに綺麗なもんで、つい」
「〝つい〟口吸いすんな! そもそも…ああっ、もう!」
 さらさらの黒髪をぐしゃぐしゃと掻き、布団を蹴飛ばしながら立ち上がった行光は、さっさと障子に向かう。
「何だ、もう行っちまうのか」
「元々手入れなんかいらなかったんだから俺がここにいるのはおかしいだろうが!」
「何怒ってんだ?」
「怒ってねえ!」
「そうか? まあ、じゃあまた後でな。大将に思い出したことは報告しろよ」
 俺も手入れ終わってるし、頃合い見て出なきゃな、と思いながら言うと、襖に手を掛けていた行光の動きが止まる。振り向いた顔は、酒は関係なく感情によるものの赤さもない、所謂素面だ。もう多少落ち着いたらしい。
「……返事とかは聞きたがらねえのな。お前って」
「ん? それこそ言っただろ。返事は期待してないって」
「……じゃあお前も覚えてんだろ。俺がそのとき、何て言ったか」
 行光が微笑む。それが、今まで見たことがあまり無いようなものだったので、思わず見惚れた。
「…お前の気持ちには気づいてた。…でもどうしたら分からなくてずっと逃げてた。だけど……」
 穏やかに言葉を紡ぐ行光に、俺は首の後ろがどんどん熱くなるのを感じた。ああ、思ったより、これは、くる。なんて言うか、恥ずかしいもんだな。
 襖に向けていた体を反転させ、俺に向き直ってから行光は、
「……薬研。まだここに返せる愛があるなら、俺は…」

 ……ごとっ。

「……ん?」
 言い掛けたところで、外から妙な音がしたことに気づく。俺も聞こえた。行光と顔を見合わせて首を傾げた。ちょっと待ってろ、と行光が手で制しながら、そっと襖を開けて、顔だけ外に出し、右、左、と確認する。同時に、行光が勢いよく襖を全開にした。
「なっっっにしてんだ!!!」
 手入れ部屋の前に立っていたのは、長谷部と宗三、青江の旦那に小夜すけだ。
「心配だったから見に来たんですよ。あなたの昨日の取り乱しようは酷かったですからね」
 悪びれた様子はなくあっさりと告げる宗三。その横で、小夜すけが何度も頷いていた。長谷部は腕組みをして眉を顰めながら言った。
「俺は別に……ただこいつらに巻き込まれて」
「何言ってるんですか。あなたが一番にここで立ち聞き始めたんじゃないですか」
「黙れ!」
 開いた口がふさがらない様子で、よろよろと行光が後退る。そのまま布団のところまで戻ってくると尻餅をついているので、俺が傍に寄った。大丈夫か? と尋ねるも返事はない。さっきまでとはまるで意味が違うが返事がない。無理もないか。
「あ、今日はみんな非番だから手入れ部屋も使わないらしいよ。だから気にしないでいていいんじゃないかい。だから気にせず、続き、どうぞ」
 そう言って促してくる青江の旦那に、そういえば月に一度の全員非番の日か今日は、と思った。なら確かに、旦那の言葉も一理ある。
 が、行光の方はそうは思わなかったらしく、わななく唇で叫んだ。
「ふふふふふざっけんな馬鹿! んなこと言われて何処の誰が…っつうか何、何お前等、そんな、そんなとこで聞いてっ…冗談じゃねえ、ふざけんな! 絶対に嫌だ!!」
 ……流石に、ここまで拒否されると、面白くねえな。そう思った俺は、後ろから行光の体を抱き込む。
「うぇ!?」
「そうかい。じゃあお言葉に甘えるとするか。やるぞ、行光」
「やるって何を!? っていうか何で乗り気なんだよ!?」
「? だってさっきの言い方だと、思いは通じたと思って良いんだろう?」
 違うのか? と首を傾けて尋ねると、行光が口を閉じた。沈黙は肯定とはよくいったもんだが、一度素直になった行光は本当にわかりやすい。喉の奥で笑いながら、俺は抱きしめる腕に力を込める。
「だから、やるぞ」
「いやだからって今はやらねえよ!? そもそも何やるんだよ!!」
 宗三がこれ見よがしにため息を吐く。俺の腕の中でもがいていた行光がそっちに目を向けたし、俺も同様だ。
「不動、あなた懐刀でありながら知らないんですか?」
「良ければ僕がやり方教えてあげようか?」
「いや、青江の旦那、それは俺の役目…」
 行光はやらんぞ、旦那。

「お前ら全員出て行けえええええええええ!!!!!」

 行光の絶叫が、昨日のことも相まって逆に、再び本丸中の刀をそこに集合させることになるのは、言うまでもない。

   ***

 ある日、俺たちはまた出陣に駆り出された。第一部隊。へし切長谷部を隊長に、宗三左文字、にっかり青江、小夜左文字、不動行光、そして俺。あのときと同じ部隊編成で、若干行光は心配そうにしていたが、大丈夫だと昨晩繰り返し唱えたし宥めてやったから、比較的当日は落ち着いていた。
 全員が集まったときに、行光はいかにも何か用事がありそうな顔をして近づいてきたので吃驚した。
「どうした?」
「……」
 視線を彷徨わせ、なかなか言いたいことが言えないのは相変わらずだ。多少俺には緩くなった気がしてるが、そうそう性格なんて変えられない。歴史を変えたり記憶を失ったりしたら話は別だろうが。
 おろおろしていた行光が、やがて、顔をあげた。そして、拳を躊躇いがちに差し出してくる。……拳?
「……何だ?」
「…その……だから、俺にも、やってくれって、いう……」
「……?」
 何のことだ? と思っていったら、後ろから誰かに軽く服を引っ張られた。ちらりと見ると、小夜すけがいて、そこでようやく合点がいく。小夜すけとしかやったことがない合図だったもんで、他の刀にやられると存外分からないもんだった。
 ……そうか。あの日もお前は、俺が小夜すけとこれやってたの、見てたんだな。それを思うと、頬が緩むのも仕方ないと思う。
「……何笑ってんだよ……」
 諦めて腕を下ろそうとしている行光の拳に、俺が自分の拳をぶつけてやる。そこで、行光の表情が嬉しそうに輝いた。傍目では分からないだろうが、俺には分かる。こいつは今めちゃくちゃ喜んでる。
「行光」
「ん」
「暴れてやろうぜ」
「ああ」
 今度は行光の方から、俺の拳がごんとまた、拳をぶつけられる。
「絶対守ってやる」
「無茶して記憶なくすのは無しな」
「分かってるよ」
 仮にまたそうなってもお前から貰ってる愛は忘れない。
 そう、すごく、ものすごく小さく付け足された俺は、これから戦場だってのに、浮かれてしまいそうになる。
「おい、ぼさっとするな! 第一部隊、出陣するぞ!」
 隊長の声が飛ぶ。表情を改めた。
 長谷部が門に入り、宗三が、青江の旦那が、小夜すけがくぐっていく。
 そして、俺たちもまた、出陣の門を、くぐった。

了