全てが終わった本丸で
いつもと同じ時間に目が覚めた。働かない頭。しかし、慣れきってしまった「人」としての体は、一日の始まりを何の違和感もなく受け入れ、何も考えずとも動き出してくれる。起き上がって、どうせ目なんて覚めやしないのに、何度も頭を振った。くあり、と大口を開けて漏れ、自然に涙が滲むそれを「欠伸」と言うらしい。眠りたくて涙が出るなんて、随分と人は眠り好きな生き物だ。
温さを持つ布団の中から名残惜しげに這い出て、掛け布団を巻き込みながら敷き布団を畳む。上に枕をぼんと置いた。
文机の上に放置していた戦闘装束に着替える。刀掛けに歩み寄り、〝自分〟を手に取って腰に携え、そして、自室を出るべく障子を開く。真っ先に中庭の景趣が目に入った。
―――『日常の庭』。
それを見て、あっ、と声を出す。呆けていた頭が一気に冴えた。
「あ、薬研、おはよう」
声を掛けられて振り向くと、内番着に身を包んだ乱藤四郎が廊下を歩いてくるところだった。薬研藤四郎の姿を見て目を丸くすれば、すぐに細めた。
「戦闘服着て起きてくるなんて、寝ぼけてる? 相変わらず、朝、弱いなぁ」
くすくすと笑う乱に、薬研はようやく状況を理解した。否、昨日からもう、分かり切っていたことだった。
「…そうだったな。寝ぼけてた。着替えてくる」
「いいんじゃない? どうせもう着ることもないんだから、好きにしても」
「笑ったくせにそういうこと言うか?」
「だって、考えあって着てるならともかく、きっと無意識なんでしょ?」
終始寝ぼけていたことはバレバレらしい。さすが同じ眷属と言うか、兄弟というか。決まりが悪そうに薬研が肩を竦めてから、後ろをのぞき込む。乱についてくる兄弟がいる気配はない。
「厚は?」
「厚はまだ部屋で悩んでるよ。内番着着るか、戦闘服着るか」
薬研と違ってね、と言外に言われているようで、そっと肩を竦めた。乱と相部屋である厚藤四郎が共に起きてこないのは珍しいが、そんな理由かと呆れる一方で、当然なのかもしれないと納得はできた。
「…いち兄は?」
「………」
一口の部屋の主となった、兄のことを尋ねる。乱は困ったように笑い、緩く、その首を振った。横に。
昨日の夜は一緒に酒盛りまでしたのになぁと思った。あれが最後になってしまったか。
「……そうか」
「あ、薬研くん、乱くん、起きてたの?」
後ろから声がかかり、二口は揃ってそちらに視線をやる。割烹着姿でおたまを持つ堀川国広が、おはようと笑った。
「もうできるよ。早く食堂においで」
習慣付いた、刀剣男士には必要ないであろう「食事」。果たしてあと何度食べられるのかと思いながら、きちんと空腹を訴える自分の腹に苦笑をこぼして、頷いた。
食堂などと呼ばれる場所はなかった。今までは大広間に食膳を並べ、全員で食事をとっていた。各自の部屋で食べるというのも寂しいし味気ない。皆で食べるにはちょっとやそっとの広さの部屋では集まれない、確実に定員を越える。そうして誰が意見したわけでもなく、審神者のそうしろと言われたわけでもなく、気が付いたら大広間が食事をする場所になっていた。食べ終われば皆片付けるので、その後は食堂としての広間ではなく、軍議のための場所にもなった。
だが今の本丸の刀達では、大広間は広すぎる。一口ずつ間を空けても、きっとほとんどの空間を持て余してしまう。それもなんだか寂しい。だから、襖を開いて続いている二つの部屋を使い、そこを「食堂」にしたのは、つい最近の話だ。
食事の席についた薬研は周りを見た。嗚呼、もう、こんなにいない。
少し遅れて、ふらりと食堂に入ってきたのは、赤ら顔の短刀だ。
「んあ~……? ……ひっく……飲み過ぎたかぁ? 全然いねぇや…」
「おー、おはよ、不動」
足下が覚束ない不動行光に気さくに声を掛けたのは、厚である。結局戦闘服に着替えたらしく、いざ食堂に訪れると薬研も同じ格好であったので気が合うとはしゃいだが、乱が大笑いしていたのはつい先ほどの話である。ちなみに、不動の姿は内番着だ。
「お前、朝から甘酒飲んだのか……」
薬研が苦笑すると不動は眉間に皺を寄せる。
「いいだろぉ、もういつ飲めなくなるか分かんねえんだからさぁ……」
「まあなぁ……」
実際、もう出陣することはない。そう言われてしまえば強く止める理由もなく、返事に困ってしまう。
「甘酒ってそんなにうめーの? 俺にも飲ませてくれよ、不動」
身を乗り出してきた太鼓鐘貞宗に不動は顔を顰めた。だが、いつものようにはねのけることはなく、「後でな」と仏頂面で返していた。これも、きっと、最後だからなのだろう。
それから、待てども待てども他の刀は食堂に現れなかった。いるのは、堀川、太鼓鐘、不動、厚、乱、そして薬研のたった六口だ。ほんの一週間前には六十口以上の刀がここにいたというのに、妙なものである。
「……食堂、明日からは、一部屋使えばいいですね」
寂しげに笑い、空席となり、手をつけられることもないだろう準備された食事を、堀川が見つめた。が、すぐに仕切り直すように姿勢を正して、勢いよく両掌を合わせた。
「じゃあ、いただきます!」
* * *
八日前。とうとう、時間遡行軍の殲滅に成功した彼らは、全ての歴史を守り通すことができたとして、政府主催の宴に招かれた。今日までに存在し、機能している全ての本丸の刀と審神者が呼ばれ、見たことがないほどの賑わいであった。中には、演練で顔を合わせたことのある刀もおり、あれからどう強くなったのであるとか、そっちの修行はどうであったかとか、それぞれが思い思いに会話に花を咲かせた。審神者同士も交流のある者同士は、それは楽しそうに言葉を交わしていた。
だが、戦いの中で生きてきた彼らには、一つの疑問が浮上する。
―――これから我々は一体どうなるのか?
戦いがないのならば、わざわざ審神者の霊力を借りて人の姿を保っている理由もなければ、極論、本丸にいる理由もない。そして、審神者の方も、元々歴史を守るために戦う刀剣男士を使役する存在として任じられたのであって、守るべきものがなくなったのであれば、本丸に居続ける理由はない。霊力を無意味に刀剣男士達に供給する理由も、もうないのだ。
宴たけなわの頃……正確には、その疑問が頭をもたげ、無理矢理に、そして不自然に盛り上がってきた頃。政府の所謂「上」の存在が皆に沈黙を促し、語り始めた。
それは事実上の、全本丸の解体の報せであった。
まず最初に、本丸から離れるのは全ての審神者。色々な時代から呼んだこともあり、各自の住むべき時代へと送り返すらしい。その際、全員の記憶は次第に薄れるように術を掛けられると言う。本当はすぐに忘れさせたいところだが、ここまで戦ってきてくれた審神者の霊力は測り知れず、術も強力なものを掛けない限りは、一瞬で記憶を抹消することはできないらしい。だがここまで戦ってくれた彼らにそんな術を掛けて、心身に影響がないと言えず。やむなく、じわじわと忘れていく術を掛けることに決定したのだと言う。
『共に戦ったみんなのことを忘れてしまうのか』
既にこの時点で、審神者の中には崩れ落ちる者もいた。忘れてしまうなどと納得がいかないと、叫んだ者もいた。だが、歴史を守ることができた立場にいた記憶を、そのままにすることはできないのだと政府は言った。なぜなら、守ることができるほどの霊力を保持している事実は、すなわち、歴史を変える脅威の力にもなりうるからだった。歴史に干渉したという事実を、延々持たせるわけには、いかないのだと。
次に、全ての刀剣男士を順次「元に戻す」ことが告げられた。だがこれに、政府は一切手を出さない。つまりは、審神者がいなくなることによって必然的に起こる現象なのだと言う。顕現以降、供給され続けた霊力が残っている限り、彼らは存在する。が、その霊力が尽きれば、人の体を維持することはできなくなり、物言わぬ刀になる。瞬間、それは消え、あるべき場へと戻るのだと。
だから戻っていく順番は、政府にも分からない。無作為にただ、本丸ごとのあるべき順番でいなくなる。ただ一つ確実に言えることは、大太刀や太刀といった大振りの刀から消えていくだろうということだった。彼らは体も得物も大きい分、消費する霊力が大きいのだ。――勿論消えていった後、記憶は、神気にも残らない。記憶は霊力によって保持されてきたものだからだ。
『主との記憶も全部消えてしまうのか』
『刀の姿では出会えなかった仲間との記憶も全部消えてしまうのか』
今度は刀剣男士が、納得がいかないと叫んだ。
加えて、「あるべき場所」がない刀剣男士に関してはどうするのか。つまりは、現存しない刀は。審神者の間から出た、当然とも言えるその問いにも、政府は答えなかった。ただ、言いあぐねているようでもあったが、そんな様子も彼らは事務的な言葉を添えることで有耶無耶にしてしまった。
どんなに言ったところで、もう決まったことだった。では、もう出陣するためのゲートが開くこともなく、新しい任務が課せられることもなく、政府からの供給も何もない空間でどう過ごすのかと問われれば、誰も反論できなかった。
過ごし慣れた本丸が、牢獄のようになってしまうのは、全員が嫌だった。だから皆、受け入れた。受け入れるしか、なかった。
そうして次の日。刀剣男士の前から、全本丸の審神者がいなくなった。荷物は全てそのままに。同時に、各々の審神者が自分の好みで変えていた景趣も、初期に政府が与えていた『日常の庭』に戻ってしまう。審神者の霊力をもってして作られたものの何もかもが、初期の状態に戻っていく。
そうなった後は、刀剣男士が消えていく。順番に。無作為に。あるべき場所に。
ただ一つ、分かっている事。
彼らの戦いは、終わったのだ。
* * *
彼らの本丸では、真っ先にいなくなったのはやはり大太刀の四口だった。前日までは石切丸も、太郎太刀も、次郎太刀も、蛍丸も、普通に皆と会話をしていたのに、同じ日にいなくなってしまった。別れを惜しむ様子であるとか以前に、「我々が消えるのが早いと聞いたけれどどうなのだろう」と言っていたし、次郎に至っては「酒が飲めなくなるのは寂しいから明日皆で酒盛りしよう」と約束をしていた。だから、彼らもまさかこんなに早く消えるなどと、思っていなかったのだろう。否、もう消えてしまった時点で、そんな驚きの感情も、消えただろうが。
それからは、わざわざ部屋に確認をしに行くようなことはなくなった。皆、消えるのだ。それは分かっている。でも、部屋を訪れて何もなくなっているのを目にするのは、まだ人の形を保って、感情も持ち合わせている彼らには存外、答えたのだ。
だから、食堂に姿を現すか現さないかで、認識することになった。そうすれば、一口で先に理解して、苦しく思うこともない。皆が同じ時に同じように納得する方が、いくらかマシだった。尤も、同じ部屋や隣同士の部屋だったりすると、食堂に行く前に気づくことができてしまう場合も多いが、それは仕方がない。
「人間」という生き物の、別れに対する弱さを、ここに来てこれでもかと思うほど思い知る。でも、人の形になって随分経った彼らには、その弱さすら、愛おしいと思うのだ。先に感情がなくなってしまえば良かったなどとは、誰も言わなかった。
「明日は何が食べたい?」
厨当番であったのは、燭台切光忠と歌仙兼定と、堀川国広の三口だった。だが、あとの二口も、数日前にいなくなってしまった。だから今は、準備をするのは堀川だけだ。
「甘酒」
「不動、それは料理じゃない」
「ずんだ餅!」
「太鼓鐘、それはお八つじゃねえかなぁ」
「はいはーい、僕、ハンバーグがいいな!」
二口がまともとは言えない意見を出して、薬研と厚がそれぞれにつっこんだ。最後にまともな意見を乱が出して、堀川は笑いながら頷いた。
「はい、ハンバーグだね。任せて!」
「なあ、堀川だけじゃ大変だろ? 手伝うぜ!」
厚が、ごちそうさま、と手を合わせるや否や手を勢いよく挙げた。それに、堀川は大丈夫だと首を横に振る。
「ありがとう。でも、料理は僕『たち』の仕事だから、気にしないで!」
あくまで、「いつも通り」の食卓。ただ、広間から場所を移っただけの。傍目からは痛々しいかもしれないが、彼らが本丸の記憶を大切に思う心は、自然と、「いつも通り」の振る舞いをさせた。
いいなぁ、と呟いたのが耳に届いた。見れば、太鼓鐘が大きな双眸を細めて、羨ましそうにしていた。口の中に入れようとしていた串団子と見比べて、厚が差し出す。が、太鼓鐘は「いやそうじゃなくて」と慌てて手を振った。ちなみに、彼の分の串団子は既に完食済みで、串だけが皿にのっている。
「厚ってさ、確か主が初めて鍛刀したときに顕現したんだろ?」
「まあな。でも何でそれが『いいなぁ』なんだ? 大将は後からきた刀にも分け隔てなく接してたと思うけど」
「別にそういうのに不満があったんじゃなくて。んー、何て言うんだろうなぁ。つまりはさ、厚って、『こういう感じ』の本丸も知ってたんだろ?」
言われて、厚はぐるりと周囲を見る。随分静かになってしまった本丸。中庭を見ても、もう自分の兄弟達や他の短刀がわいわいと大騒ぎして遊んでいる様子なんてどこにもないし、世話焼きな刀達が方々で叱っている声なんてものも聞こえない。そういえば、廊下を走っただけで、へし切長谷部が怒鳴り声を上げて、逆にそれがうるさいと宗三左文字が呆れていたこともあっただろうか。そこに日本号も加わって、元々馬が合うとは言い難い彼らの口論は大喧嘩に発展、たまたま通りがかったにっかり青江や山伏国広が仲裁に入っていたこともあった気がする。
それももう、どこにもない。
「……そうだなぁ。でもそんときはむっちゃんがいたし、大将もいたぞ?」
厚が記憶の波へとさらわれていきそうになった意識を無理矢理に取り戻し、太鼓鐘に向き直った。
「でも確かに、初めの頃はこんなもんだったかも」
初期刀は陸奥守吉行だった。だから、彼と、審神者の三人で過ごしていた時期はある。その頃はこれくらいの静けさが当たり前だった。陸奥守がよく声をかけてくれたので、寂しいと思ったこともなかったが。
「そうなんだけど、これくらい静かな本丸がどんどん賑やかになっていくのって、何かいいよなぁって。でも、俺が来たときには、もうたくさんいたしさー」
自分にはない経験を羨ましがっているらしい。
「そういうことなら乱も知ってるぜ? あいつ、俺の次に顕現したから」
「だから相部屋なのかぁ」
この本丸は原則、来た順番に相部屋の組み合わせが決められていた。ただ、例えば夜戦部隊に組まれることが多くなった短刀と、そうはならない大太刀との生活習慣も考えて、そこが一緒に部屋になりそうだったら組み合わせを変えたり、といったことはあったが。
「むっちゃんも消えるの早かったなぁ」
どんなに無作為に、霊力が尽きた順にいなくなると言っても、初期刀なのだから最後まで残るのかと思っていた節があった。だが、実際にはそんなことはなく、仲間内の中でも比較的早く消えてしまった。今頃は現世の「自分」のところに戻って、何も言わない刀としてそこに居続けているのだろうか。
「『むっちゃん』かー。前から思ってたけど、良いな、何か気の置けない関係って感じで」
「お前だって燭台切のこと『みっちゃん』て呼んでただろー?」
「そうだけどさ。なあなあ、俺のことも『貞ちゃん』でいいぜ」
「ええ、今からかよ?」
「今から!」
わくわくとした目を向けられて、無邪気なもんだなぁと妙に達観した気持ちで相手を見つめる。
「…貞ちゃん」
「何だ? あっちゃん!」
「ぶはっ」
口に入れた団子がそのまま噴き出され、地面に転がった。ああっ、もったいねー! と慌てて縁側から下りて拾いに行った太鼓鐘を凝視し、堪え切れずに笑い出す。
「おまっ、あっちゃんって!」
「だって、厚じゃん。なら、あっちゃん」
「初めて呼ばれたぜ、それは」
「これ、食えねーかなぁ」
「めちゃくちゃ砂付いてるし、やめとけよー」
皿に乗せろ、という意味を込めて、厚が串ののった皿を差し出す。が、
「でも、最後だし」
「最後だから何でも許されると思ってねえ!?」
落ちた(一度は厚の口の中に入った)団子を、食べるべきか否か。ここにきて本丸史上最大にくだらないもめ事が始まり、通りかかった堀川に、食べ物を粗末にしないこと、捨てるべきものは捨てること、と説教が入るまでそれは続いた。
「やーげーん。いるー?」
「乱」
調薬室の襖を控えめに開けてきた乱に、薬研は首を傾けた。
「どうした? 転んだか?」
「僕、そんな風な印象あるの?」
「冗談だ」
読んでいた書物を閉じて、くつくつと笑いをこぼしながら手招きすると、乱は部屋の中に足を踏み入れた。
「全部終わってからも、薬研はここにいるよね」
「ずーっとここであれこれやってたからなぁ、落ち着くっていうか。でももう薬の調合はしてねえぞ?」
「してたら吃驚するよ」
もう怪我をすることも、恐らく、病気をすることもない。それに既に調合してある薬もあるので、万一何かがあってもすぐに対応できる。
乱が後ろ手に襖を閉めて、へらりと笑う。
「話、しようよ」
「いいぜ」
重ねているところから座布団を一枚引きずり出し、乱へと放る。乱もそれを受け取って、自分の尻の下に敷いた。体育座りをして、あ、と声を上げる。
「お団子持ってくるの忘れてた。堀川があるって教えてくれてたのに」
「まあ、いいんじゃねえか? あとで食べれば」
「本当は甘いもの好きなくせに」
「おっと、ばれてたか」
他の刀達も皆いる本丸であったときならば、もっと適当に誤魔化していただろうに、薬研はあっさりと首肯して見せた。いつも「甘いのは苦手だから」と兄弟に甘味を譲ったりしていたが、どうせ「お兄さん」ぶっているだけであろうことは、長い付き合いである乱と厚には丸分かりだった。かと言って、喜んでいる兄弟達に水を差すのも何だし、気が付いたら薬研がそういうことをするのは当たり前になりつつあったので、見て見ぬ振りを続けていたが。
「もっと我が儘言って甘味も食べれば良かったのに」
「一口は必ず食ってたぞ?」
「じゃなくて! もっと我が儘になって良かったのにってこと!」
「んー、それに関しては最初に身の振り方を間違えたな」
「ほらぁ」
「だが、元々俺の性には合わん。我が儘に振る舞ってたとしてもそのうち俺が我慢ならなくなったさ」
「……折角短刀の姿なのに。子供の姿って、得だよ?」
「そう言うお前は悪だなぁ」
「こういう姿で顕現されたんだもん。利用したっていいでしょ」
得意げに笑う乱に呆れた声が出た。彼をかわいがっていた大人の見目の連中はこの発言を聞いたらさぞ悲しむだろう。哀れ。まあ、ほとんどがもう「人」としての感情も意識もないのだから良いのだが。
「いち兄に対してもそうだよ。薬研、もっと甘えれば良かったのに」
「そうさなぁ」
「すぐお兄さんぶるからそうなるの!」
「どんどん遠慮がなくなるな?」
むすりと頬を膨らます乱の頭を、ぽんぽんと撫でる。
「だがそれを言い始めたら乱だって、もっと大人ぶった対応してやっても良かったんじゃあないか? 案外、良いもんだぞ。同じ短刀なのに『兄』みたく思ってもらえんのは」
「う……」
確かに、周りから頼られてるのもなかなかにうらやましかったけど……と勢いを失って萎れる乱に、今度は薬研の方がからからと笑った。
「あーあ、僕、次に顕現されたら、どう振る舞おうかなぁ」
次なんて、きっとない。
「乱は乱でいいんじゃないのか?」
「そうだけど! 甘えるか! お兄さんぶるか!」
「お兄さんぶるって発言に悪意を感じる」
「悪意あるもーん」
べえ、と舌を出す乱に、少し思案顔になってから、薬研は唇の両端に指をつっこんで、いーっ、と対抗して見せた。それに驚いた乱がきょとんとして、それから「変な顔ー!」と笑った。つられるように、薬研も笑う。
しばらく二口して笑っていたが、ふと、乱が背筋をのばした。
「乱?」
「ねえ、そういえば、さっき、何読んでたの?」
「え、」
覗き込もうとしてきたので、薬研は慌てて文机の上に置いていた書物を隠すために抱え込もうとした。が、乱が一瞬早く横からそれを奪い取り、ぱらりと捲る。
そこに並んでいたのは、本丸で過ごした刀剣男士と審神者が笑顔で映っている、写真だった。
「……これ」
「あー……審神者室にあったの、つい、持って来ちまって」
頬を掻く薬研に、乱が悪戯っぽく笑う。
「…ふぅん、寂しいんだ?」
「……」
薬研の耳が、真っ赤に染まっている。顔は、黒手袋をした片手で覆っているので判然としないが、多分顔も真っ赤だろう。きょときょとと、紫水晶の瞳を忙しなく動かして、乱に背を向けて胡座をかいた。
その、彼の背に、とんと凭れる。
「…重い」
「知らなーい」
これでもかと体重をかけることによって、薬研の体が前のめりになる。熱を持つ顔を冷ますべく、手団扇でぱたぱたと扇ぐ。
寄りかかってぱらぱらと頁を捲り、写真を眺めていた乱がふいに、言った。
「ね~、薬研?」
「……んー?」
顔が熱ちぃ、と思いながら、返事はした。背中越しに、
「…ありがとね、色々」
「……何だ、突然」
「多分、明日には僕、いないと思う」
びくり、と体が震えた。寂しいと指摘された後だったので、過剰に反応してしまう。
しかし、自分がいなくなることを自ら言う刀は、乱が初めてだった。もしかしたら指摘されていなくてもこれくらい、驚いたかもしれない。
「何で」
「んー、何となく」
「なら言うなよ」
「何となくは嘘」
「じゃあ何で」
「動かしにくいんだ、体」
重く、背中にのしかかってくる乱を、振り返ることができない。
「自分の体じゃないみたい」
「……その体でここまで来たのか」
「ううん」
背中で頭が動く気配がする。首を振ったのだろう。
「…いま」
今。
「……やげーん」
妙に舌足らずな声で、乱がうんと幼くなってしまったかのように聞こえる。今剣のような声だ。そういえば、今剣は一昨日までは、いたのだっけ。相棒の薙刀と一緒に消えた彼は、幸運だったのかもしれない。……物語にしか存在しない彼は、一体、どこに還ったのだろう。
「……何だよ」
「はんばーぐ、たべたかったなー」
「……なら明日まで待て」
まだ行くな。
「やげんがそういうこというの、めずらしい」
「放っとけ」
「…やげん」
「何だよ」
「いっしょにたたかえて、うれしかったよ」
ふっ、と。背中から、重みが消えた。目を見開いて、振り向く。そこに、乱藤四郎の姿はなかった。
一日、ずっと顕現している約束なんてない。霊力が尽き次第、刀剣男士は消える。だから、今まで夕餉の席までいて、その後消えていったのは、ただまぐれで、不幸中の幸いだっただけかもしれない。朝には、また誰かいないかもしれないと、覚悟できていたから。
「……乱」
目を閉じる。
いっしょにたたかえて、うれしかったよ。
「……俺もって言葉くらい、言わせて欲しかった」
まだ消えていないのに姿を現さないのも良くないと思い、その後の昼餉には顔だけ出した。だが、すぐに部屋に戻った。兄弟が傍で消えてしまったことは、思った以上の衝撃があって、とてもではないが食べる気にはなれなかった。
乱が消えたことも、そのときに言った。
それでも明日は、ハンバーグを作るらしい。約束だから、と。
「ひっでぇ顔」
夕餉の時間が近づいてきた。自分らしくないと思いながらも満足するまで泣いて、落ち込んだら、案外気持ちは復活した。空腹を感じる余裕もあった。調薬室から出てくると、出し抜けに声がかかる。自分が部屋を出るときにはち合わせる場合が多いのは何故だろう。
「……そうか?」
腫れている薬研の目元を見て、
「お前も泣くことあるんだなぁ」
大袈裟に肩を竦めている不動は、珍しくも素面だ。いつも酒精で赤く染まっている顔が今は元の肌の色を取り戻している。
「肌白いな、不動。具合が悪そうに見える」
そう指摘したら、お前に言われたくないと苦い顔をされた。そういえばそうだ。自分も肌は白い方である。
両手に甘酒を持っているのを見て、そういえば今朝、太鼓鐘が甘酒を飲みたいと言っていたなと思い出す。彼の分だろう。いつ消えてしまうか分からない。ならば善は急げである。明日飲もう、なんて約束はできない。明日の約束なんて、もうできない。
「行くぞ」
考え込むように俯いた薬研を、不動が促した。二口は、食堂へと向かった。
食堂は二部屋使うことはなく、一部屋になっていた。既に厚が食膳の前に座っている。堀川も、来た来た、と笑った。
「よう、薬研、大丈夫か?」
「……その台詞そっくりそのままお返しするぜ、厚」
目元を真っ赤にした厚に、薬研が苦笑する。昼間に兄弟が消えたことなどなかった。朝はいた時点で、一日はいるものだと思いこんでいた。その分、衝撃も強い。
「でも薬研くんも厚くんも偉いよ。ちゃんと立ち直ってるから」
「『兼さん』が消えた後は悲惨だったもんな」
無遠慮に言う厚の脇腹を薬研が肘で突き、悶絶しているのを眺めてから、堀川は鍋の中をおたまでかき混ぜた。中はカレーだ。
和泉守兼定が消えたときの堀川の取り乱しようは酷かった。というのも、彼は皆よりも一足先に、彼が消えたことに気づいてしまったからだ。相部屋だったわけではない。ただ、日課となっていることで、相棒の髪を結いに行くために部屋を訪れた。そこに、和泉守の姿はどこにもなかった。
あれだけ御執心だったのだ、そうならない方がおかしい。だが、どんどん縁の深い刀が消えていっても尚、皆が「今まで通りの本丸」を守ろうとしていたから、堀川もそうなった。その初めの皆は、堀川よりも先に、消えてしまったけれど。国広の兄弟達も然りだ。
「……なあ、太鼓鐘ってまだ来ねえの?」
甘酒二本を自分の前に置き、そわそわと体を揺らしていた不動が尋ねた。
「なーんか眠いって言って部屋で寝てたけど」
嫌な予感がして、薬研が慌てて腰を上げかけたが、すぐに厚も気づいた様子で軽く手を振った。
「大丈夫だって。ここくる前に貞ちゃんは起こしてきたし、ちゃんと起きたから」
「貞ちゃん?」
「そう、貞ちゃん。貞ちゃんも俺のことあっちゃんって呼ぶ」
心底楽しそうに肩を揺らす厚に、「何があったんだ……」と呆然とする不動。
「まあまあ、細かいことは気にすんなよ」
「まるで鶯丸さんですね」
堀川も興味があったらしく、此方を見て話を聞いていたが、適当にはぐらかされてしまって不満そうにしていた。
それから間もなく、廊下をどたどたと走ってくる音がして、食堂に太鼓鐘が顔を出した。
「やっべー二度寝してた! 遅くなってごめん! 俺まだいます!」
「やっと起きたか、貞ちゃん!」
「おはようさん」
「…うす」
「おはよ。大丈夫、まだ食べ始めてないよ」
彼らが答えるのにうれしそうにしながら、あぶねーあぶねー、と言って食膳の前に腰をおろした。
「あっちゃんも起こしてくれりゃあ良かったのによー」
「いや俺起こしたけど!?」
「二度寝したから意味ねーし」
「それは自己責任!」
ふと、乱のことを待ちたくなるが、乱はもういない。堀川が全員のご飯に熱々のカレーをかけて、また、号令に従い「いただきます」。
食べ始めると同時に、不動が持ってきていた甘酒を一本、太鼓鐘に差し出した。
「お!? 甘酒だ!」
「……飲むんだろぉ」
「おう、飲む! …っと、その前に、ちょっと厠行ってくるわ! 待ってろよ不動!」
起きてすぐに走って食堂に来たため、厠に寄るなどしなかったのだろう。落ち着きのない奴だと周りから苦笑される中、太鼓鐘は大急ぎで食堂を出て行き、厠へ一直線に走っていく。
そして、厠に行くと言って席を外した太鼓鐘貞宗が、そこに戻って来ることは、なかった。
* * *
ごくん、ごくん、ごくん。
喉仏が上下する。昨日の夕餉の席で、本来は太鼓鐘が飲むはずであった甘酒を一気に飲み干した。ぷはー、と息を吐き出して、朝日に目を細める。此方の気も知らず、『日常の庭』は綺麗な中庭を見せつけていた。
「不動」
廊下を踏みしめる音がするが、振り向かない。近寄ってきた相手は、隣に腰を下ろした。今日の彼は、内番着だった。
朝餉の時間はとうに過ぎている。しかし、彼らは食事という名目では、何も口にしていない。口にしているのは、不動が今飲んでいる甘酒くらいだ。
「何だよぉ、朝っぱらから飲むなって言いてぇのかぁ?」
「いや……」
「……じゃあお前も飲みてぇのかぁ?」
「………」
沈黙は肯定ととったか、自室に甘酒を取りに行こうと、不動はおもむろに立ち上がった。が、その服裾を、慌てた様子で薬研が掴む。
驚いて薬研を凝視し、そんな不動を見た薬研が此方もまた驚いた顔し、手を離した。自分の行動が信じられないらしい。
「……分かった」
何も言わない彼の隣に、座り直す。
二口は無言で、時間が経つのを待った。甘酒はもうここにはない。新しいものを口にしたいような、そうではないような。嗚呼、口寂しい。
「……ハンバーグ…」
口寂しいから、自然に言葉が転がり出た。薬研に尋ねるでもなく、同意を求めるでもなく。
「…結局、食えなかったなぁ」
「……そうだな」
「最後に残ったのは俺たち二口かぁ」
「……ああ」
「…ひっく。……悪いなぁ、最後に一緒にいるのがこんなダメ刀でさぁ」
「誰も言ってねえだろ」
二人が会話を止めてしまうと、嫌と言うほど静かになる。ああ、もう誰もいないと、思う。
「……お前の気持ちが分かった気がする」
「あー?」
「きついなぁ、置いて行かれるのは」
ずっと、ずっと、前。不動がこの本丸に顕現して間もない頃、二口は大喧嘩をしたことがある。そのときに、宗三が言っていた。不動は本能寺の変で、炎に全てを奪われたのだと。そして、消えていく織田信長を、森蘭丸を、薬研藤四郎に、置いて行かれたことを。鶴丸が言っていた。その、置いて行かれるという立場、存外辛いということを。
そういえば、伊達の刀の中でも鶴丸国永は大太刀の次にいなくなった。あまりにも早くて、本人がそこにいれば、「早すぎて驚きだぜ」などと宣ったことだろう。無論、そんな感情は、もはやないが。
あの頃は置いて行かれる気持ちなんて想像しようもなかった。だが今、最後の二口になるまで残ってしまっている。皆、「今まで通りの本丸」を守るために「いつも通り」過ごしていたにしても、結局のところ強がりだった。ずっと仕えてきた審神者を失って、ずっと共に戦ってきた仲間を失って、辛くないはずが、ない。
「……置いて行かれる、ね」
「…だって、そうだろう」
「俺はあんま置いて行かれた気、しなくてさ」
お前はまた置いて行かれる苦しみを味わう立場になってしまった。そう思っていたのに、不動の返事は淡々としていた。悲しんだ様子がない。
「…あのときは、火が」
まだ、こんなときになっても、「火」について語るのには抵抗があるらしい。しかし、少し視線を彷徨わせてから、続けた。
「火が……まだ、まだ、沢山、あったのに、火が、全部、奪った」
「………不動」
「……まだ信長様は、やることがあったのに、火が全部」
「……そうだったな」
「……蘭丸だって」
「そうだな」
「……薬研も」
「俺はある意味、ついてたがなぁ」
「憎たらしい奴」
自分の主と共に、同じ場所で果てることができた。実に懐刀らしいが、今更それを言っても仕方がない。その辺は流石にもう、割り切れている。
「……でも今回はそうじゃない」
不動が薬研に向き直った。つい先ほどまで、甘酒を飲んでいたとは思えないほどしっかりとした目だ。思わず、薬研の方も姿勢を正す。
「あのときはそんな余裕なかったけど、俺たちは結局、この瞬間のために今まで戦ってたんだろ?」
だから。
「……薬研、俺は」
「待て、不動」
手を差し出して制止する。
言わせてたまるか。乱にも、言われっぱなしだ。この瞬間のために戦った、確かに、そうかもしれない。でも、言われっぱなしで消えられるのは、ごめんだ。
「俺が言う」
「は、どーぞ?」
「……不動」
言ったら終わってしまう気がして、乱がそうであったから、怖くて。でも必死に息を吸った。
「……火に飲まれて、あの日、死んだはずの俺が、ここで顕現して、不動とまた会えて…兄弟達に会えて……また大将のために戦えて……良かったと、思ってる」
「……くくっ、」
「!?」
真剣に言ったのに、次に聞こえてきたのが笑い声だったで瞠目した。口に手をやった不動は、笑いを堪えきれないとばかりに、肩を震わせている。
「…何がおかしいんだ」
「……何を勘違いしたのかしらねえけどさぁ、俺、そんなたいそうなこと言おうとしてないぜ?」
恥ずかしーなぁ、薬研?
そう言って笑う相手に、また首が、耳が、顔が熱くなっていくのを感じる。
「い、意味ありげにお前が……!」
「意味ありげ? 何のことだかダメ刀には分かんねえなぁ~」
「不動!」
「俺もだよ」
唐突に返された返事に、言葉が詰まる。
不動は穏やかな笑みを称えて、紡いだ。
「…ダメ刀なりにお前らと肩並べられて、嬉しかった」
嗚呼。
ずるい。乱も。不動も。他のみんなも。みんないつも通りを装って、何かを残していく。そうだ。「いつも通り」に埋没していて、気づかなかっただけだ。みんなきっと、いなくなる前に何かを残した。大切な仲間にありがとうを込めて。沢山の約束と、沢山の言葉。
最後に残る自分には、残せる立場にすら、立たせてもらえやしないのに。
「……ありがと、な……」
顔を俯かせる。顔を上げられない。そう思ったが、「やげん」とまた呼ばれて、恐る恐るそちらを見た。
不動は、この本丸にいる間、到底見ることは叶わなかった笑顔を浮かべて見せた。
「さきにいく」
「……ああ」
乱に続いて、また目の前で失うのか。自分に本体はない。現世では焼失している。だから、これが最後だと、思った矢先。
「『またな』」
* * *
六十以上の刀が生活できた空間だ。自分だけでは当たり前ながら広すぎる。ぐじぐじ考えても仕方がない。政府が決めたことだ。そして皆、それに従った。なぜなら反抗する理由がないから。すべきことはもう、終わったのだ。もう、何もないのだ。
ならばせめて最後まで。皆が守ろうとした「いつも通りの本丸」を守ろう。そう思って、薬研は一口でいつも通りの時間に食事をし、いつも通りの時間に調薬室に籠もり、いつも通りの時間に湯浴みをして、いつも通りの時間に床についた。
一日経った。二日経った。三日。四日、五日。六日。
思った以上に長い時間、薬研は一口でこの本丸に残り続けた。他の本丸はどうなのだろう、と幾度か首を傾げたが、こんのすけが訪れることも一切なく、政府が何かを言ってくることもなく、知る術はなかった。
無性に暴れたくなって、何回か戦支度をしてゲートをくぐろうと試みたが、やはり機能しておらず、どこの出陣先にも飛べなかった。
それからも時間は経ち続けた。審神者は、現世の季節に合わせて景趣を変えてくれていたから、どれほど時間が経ったのかわかりやすかった。だが、会話相手もおらず、一口きりとなった彼は、完全に時間の概念を失っていた。ただ、かなり時間が経ったことは、間違いない気がする。
本に書いてある薬はほとんど調合しきってしまい、しかし使われることなく放置されているのを見て、嘆息した。何をやっているのだろう。
思い出したように、傍においていた書物を手に取った。随分前に、乱が消えていく直前に見ていたものだ。ぺらぺらと頁を捲る。皆が笑顔で映っている写真。
宴会、焼き芋、紅葉狩り、お花見、月見。現世の催しにかこつけて本丸でも行われた、バレンタインやクリスマス。みんな、随分と幸せそうに笑っていて、良い本丸だったのだと、恵まれていたのだと再認識した。
――――と、
「………あ……」
ぐらり、と揺れる視界。為す術なく体が後ろに倒れた。視界が暗い。手が動かない。足も。起きあがれない。頭が、体が重い。動かない。意識が、遠い。
(やっとか)
随分待たされたものだと息を吐き出した。それすら、難しかった。息をするのも、もうしんどい。力が、どこにも、入らない。
(……やっと……)
―――本丸ID:53491 刀帳番号:四十九番及び五十番
―――刀種:短刀 刀派:粟田口
―――刀派:粟田口吉光 号:薬研藤四郎
頭に、無機質な声が、音が、響く。消えていった刀達は皆、こうして「自分」であることを確認されてから、還っていったのだろう。目の前で消えていった乱と不動が、穏やかな顔をしていた気持ちが分かる気がする。無駄に、気持ちが落ち着いていく。
それから気づけば、体が宙を漂っているかのような感覚になっていた。だからきっと自分は、もう、あの本丸に姿を保っていないのだろう。きっともう、あの大事な場所から自分は消えてしまっている。ならここはどこだ。還るべき本体を現世に持たない自分は、永久にここを漂うことになるのか…。
そう考えていたら、止まったとばかり思っていた無機質な声が、また、頭に響いた。
―――本能寺の変にて焼失
―――現世にて本体の非現存を確認
―――………
ああ、そうだろうな、と聞き流しかけて――どくりと、もう動くことはないであろう心臓が脈を打った気がした。またな、と言った不動の声を思い出す。他の刀以上に、自分に、「また」なんてきっと来ないと、思っていたのに。
(――――……―――……)
思考すらもう回らなかった。今の自分の思いを言葉にして、頭の中で巡らせるだけのつもりが。何も、浮かんでこない。
言葉とは、何だったか。皆を思いだそうとする。皆とは、一体、誰か。記憶とは一体、何か。顔? 足? 手? そんなもの、刀の自分にありはしない。そうだ、自分は、ただ――――
『よお大将。俺っち、薬研藤四郎だ。兄弟ともども、よろしく頼むぜ』
* * *
・本丸ID:53491
・刀帳番号:四十九番及び五十番
・刀種:短刀
・刀派:粟田口
・刀工:粟田口吉光
・号:薬研藤四郎
・本能寺の変にて焼失
・現世にて非現存を確認
・並行世界パラレルワールドにて焼身となった当短刀を発見
・尚、時間遡行軍による干渉は認識できず
・然るべき歴史を辿りながらにして現存した当短刀を、薬研藤四郎として認める
・薬研藤四郎、在るべき場所に―――
了