貴族娘の脱走物語

2020年4月7日

 てん、てんという手鞠をつく音に、雀達は耳を傾けていた。毎日この昼頃に、少女が中庭に来て、この音を生む。これが彼らにとって心地良いものなのかは分からないが、どうしてか雀達はこのとき、中庭の池に集まるのだ。
 少女はとりわけ楽しそうでもないが、つまらなさそうでもない。いつも艶やかな着物に身を包み、小さな桜色の簪を後挿にしている。
「鈴蘭」
 鈴蘭と呼ばれた少女は、手鞠を両手で持ち、振り返る。
「何用でございますか、母上?」
「おいでになられたの。すぐ、準備なさい」
 足元に視線を落とし、草履でその場の小石を踏み締める。ジャリ、という音に、雀達が空へ羽ばたいていく。
 鈴蘭は、母を一瞥して、小さな溜息を唇の隙間から零した。

 小さな身体に合うよう、特に注文して作らせた十二単が、どうにも重くて仕方が無い。とはいえ、最近は二日に一度は着る羽目になるので、いい加減慣れてしまった部分もある。
 前にそっと、手の先をつけた。
「鈴蘭にございます」
 深く頭を下げる。それに対して、相手の男も
雲魁嬰之介うんかいえいのすけと申します」
 と名乗り、頭を下げた。
 母は微笑みながら言った。
「嬰之介様は、将軍様の倅故、剣技の腕はなかなかのものと、都では専らの噂です」
「いえ、そのような……。未だ若輩者です。……本日は、鈴蘭様と顔合わせできましたこと、誠に嬉しく存じます」
 スッと顔を上げ、高低のない平坦な声で、
「嬰之介様は、私と夫婦めおとになる、と?」
「はっ。その際、私は鈴蘭様のよき夫になり、必ずや危険から守ってみせ…」
「恐れながら」
 瞬時に強く声を出す。それに驚き、はじかれたように顔を上げた嬰之介と目を合わせる。そして、鈴蘭はゆっくりと深く頭を下げた。
「私は、剣技も大したことの無い男と夫婦になるつもりはございませぬ。お引取りくださいませ」
 まただった。母の顔からすっと血の気が引いていき、乾いた笑い声が上がる。
「まぁ、鈴蘭。剣技については、謙遜なさってるだけですのよ。嬰之介様の何処が気に入らないというのです」
 顔を上げ、ぽかんとしている嬰之介を見つめ、
「全体的に……で、ございます」
 と、真顔で言ってのけた。後に将軍になろう男に対する、遠回しな侮辱である。
 かこぉん、と鹿脅しが音を奏でる。
 母はこのときほど、もっときちんとしつけるべきだったと思うことはない。

「聞いていますか、鈴蘭!!!」
 緑茶を啜り、彼女は鬱陶しそうに母を見やる。
 嬰之介は、当然のことながら怒り心頭に発して、早々に屋敷から去った。抜刀されなかったのは、やはり彼女の家柄によるものであろうか。
「先ほどのあの態度は一体なんだというのです!?」
「別に。ただ思いのままを申し上げただけにございます。何か問題でも?」
 とくに悪びれた様子もなく、川の如くサラサラと言葉を紡いでいく鈴蘭には、母はいつも参っていた。うんざりしたように溜息を吐く。
「鈴蘭、何度このようなことを繰り返すのです?」
「まだ私は十二故、夫婦になろうとは思いません。母上こそ、いい加減私にお見合いをさせるのを、やめてくださいませんか」
 本日においては、母が負け。鈴蘭が文句なしの勝者である。最も、母が勝ったことなど、今までに一度だってないのだけれど……。

 夕方。父が将軍様の御勤めから帰ってきた。父の方はお見合いについてあまり触れない。その点は母に任せ切りなのだ。
「お土産」
 たったその一言と共に渡された。それは、上質な和紙で作られたもので、車輪型の羽に柄がついていた。
 よく分からず、瞳をぱちくりと瞬かせた。適当に振ってみると、車輪型の羽の部分だけがクルクルと可愛らしく回転した。
「風車じゃ」
「カザグルマ…?」
「深く考えるな。ただの、玩具じゃ」
 暫しの間、「風車」を見つめ、フーと息を吹いてみた。クルクルと、また、回転し始める。
 父が「お土産」と称して物を持って帰ってくるのは、数年前に手鞠を持って帰って以来しょっちゅうのことだった。少し前はたしか、金平糖という砂糖菓子を二掴みほど袋に入れてきた覚えがある。
 鈴蘭はそれらを受け取る度に、屋敷の外にはどんな世界が広がっているのだろうと疑問を抱き、同時に大きな好奇心も抱いていた。彼女は生まれてこの方、一度だって屋敷の外に出たことがなかったのである。初め、「外に出たい」と幾度か申し出たことがあった。その頃は「その内」と返されていたが、やがて、「駄目」と返されるようになった 何度言っても結果は同じ。いつしか、鈴蘭も諦めて、外に出たいとも言わなくなった。
 ところが、今回この「風車」に、大変な興味がそそられた。といえども、彼女ももう十二である。言ったところで、また分かりきった答えを返されることは、容易に予想がついた。
 鈴蘭は父に向かって会釈すると、風車を持って早足に自室へと向かい、襖を閉めた。パッと前を見た彼女の瞳は、爛爛と輝いており、口を真一文字に結びながらも、笑いが堪えられないといった様子で、唇がムズムズと動いている。何より、今までにないほど、晴れやかな顔をしていた。
 鏡の前に腰を下ろし、髪がひっかからないように簪を引き抜く。引き出しを開けて、色鮮やかな紐の中から渋めの色を選び、それを使って器用な手つきで髪を高い位置で結う。
 次に、部屋の隅に置かれている葛籠の蓋を開けた。中には、随分前にまだ「外に出たい」気持ちが大きかった頃くすねておいた家来の衣服が、丁寧に畳んでしまわれていた。それを取り出して、少し着方に戸惑いつつも身に纏う。先ほどまで着ていた着物を畳んで葛籠にしまい、再び部屋の隅に寄せた。鏡の近辺に目をやると、手鞠が転がっていた。白と金の糸が、わずかに解れている。
 いくらかのお金が入った巾着を持って、鈴蘭は猫の真似をするように足音を盗み、玄関へと向かった。途中、家来の者と廊下で遭遇しかけたものの、いつもとはまるで違う姿の――正確には、彼らと同じ姿をした――彼女の場合、何かしらで顔を隠しさえすれば、ばれることは無かった。ただ、その顔を隠すことで、訝しげに横目で見やりながら歩いていく家来もいた。のんびりしていては危険である。俯きながら玄関へと急いでいた時、一人の家来にぶつかったときは、心臓が跳ね上がったものだ。
 やっとの思いで玄関に辿り着いた鈴蘭は、兎にも角にも運が良かった。大抵一人や二人の家来がいるものだが、その家来が疲れて座り、眠っていたのである。玄関には複数の刀掛けと草履が存在した。ここまできたのだ。最早迷う必要などなかろう。丸腰の状態で出歩くのもどうかと考えた鈴蘭は、誰かの草履を履き、刀掛けにあった刀を一本拝借して、飛び出した。そして外への門に繋がる石畳を走り、ようやく彼女は屋敷――敷地内から外へと出た。
 一気に緊張が解け、「ふう~あ~」と今までに出したことの無いような溜息が漏れた。手に握る刀を腰に携えて、プルプルと頭を振った。生まれて初めての、屋敷より外の世界である。
 辺りを見回して、はて、と首を傾げた。
 鈴蘭は、本で読んだように人が賑わっているであろう都の光景を想像していた。が、人は思ったほど沢山いない。風が吹くと、どこかの家から雨戸の震える音が聞こえた。
 屋敷に帰る道を忘れないようにしながら、彼女は初めての世界を見て回った。ある場所では水を売っており、またある場所では干物等を売っていた。どんどん歩いていくと、人が増え、商人の活気のある声も多少聞こえてくるようになった。
 ――――まさに、これです。
 これこそ、自分の見たかったものだ、と思い、笑み崩れそうになる顔を必死になって引き締めて、都を歩く武士を真似て自らも堂々と歩いた。稀に土埃が舞うが、彼女は嫌ではなかった。綺麗なものも汚いものも新鮮だったのである。箱入り娘であった鈴蘭は、感動の連続だ。
 ある家の前で、鈴蘭はふと足を止めた。そこには、十本程度の風車が、束ねられた藁に挿して置いてあったのだ。父が持って帰ってきたもの以外に色々なデザインが施してあり、下手な金目のものよりよっぽど美しかった。人がいるので、勝手に持って行くことができないとなると、やはりこれは売っているらしい。
 その人は重く溜息を吐いた。身体全体に視線を巡らしても、どこもかしこもとても細い。頬もこけて、喉ぼとけも鋭く尖っている。髪は、長いこと水分に触れていないようで、妙に硬そうに見えた。瞳は疲れ切ったように虚ろで、何を映しているのか皆目見当もつかない。幾度も鈴蘭に瞳を寄せられるのだが、そこに彼女は存在しないかのように素通りしていった。
(……バケモノ)
 今まで母や父、家来の者と、健康体しか目にしていなかった鈴蘭にとっては、そういう風にしか思えないし見えない。暫く目が離せず立ち尽くしていたが、その人はようやく鈴蘭の姿を認めたようで、薄く微笑んでみせる。それは思っていたよりもずっと温厚な雰囲気を醸し出していたので、僅かながらも鈴蘭は微笑み返すことが出来た。
「いらんかい?」
 一本の、空色の風車を手に、嗄れ声でそう言った。水さえも飲むことが出来ないのだろうか…。なら、今、風車を買ってあげたほうが、少しは生活の助け舟くらいにはなれるだろうか…。
 白い指で、鈴蘭は巾着の口紐を解きにかかり――――
 ドサッ、ドサドサッ。
 風車の挿さった藁の束が、前触れ無く全て横倒しにされた。
 状況の把握が出来ない彼女はきょとんとし、その人は愕然としている。
 ドサッ。
 また横倒しにされたのかと思えば、それは、その人が突き飛ばされて尻餅をついた音だった。
「己はここで、一体誰の許可を得て、商売をしておるのだ」
 威厳のある口調で、そう言った。その人の瞳は虚ろな色を失くした代わりに、傍から見ていても分かるほど恐怖に慄いていた。
 重い藁の塊に押し潰された風車は、見るも無残な姿となっている。砂埃に一瞬のうちに晒されて、美しかった色はその面影を失っていた。
「ちょっと」
 尻餅をついたその人を助け起こしながら、男を見据える。
「いきなり、なんですか。ここらに店を構えて、一体何が悪いというのです」
「武士風情が、何を言うか。わしは役人故、その任を全うしているだけのこと。ここらは、山河家の仕切る地だ。貴様のような者が商売する場所ではない」
 山河と聞いて、僅かながらも鈴蘭は動揺した。山河とは、鈴蘭一家の貴族を指していた。
「どかぬというなら、容赦せず斬るぞ」
 ひぃ、と小さく叫んで、少しずつ後ろへ退いていく。それとは逆に、鈴蘭が挑戦的な光を瞳に宿して、一歩ずつ役人の男に歩み寄る。そして、はっきりとした口調で、こう言った。
「私は山河家の者です故、私が許可したならば、他の者も同意してくれましょう」
「莫迦な」
 男は鼻で笑った。
「山河家に、そなたのようなか弱い武士がいる訳なかろうが」
「まだ分かりませぬか。武士などではありませぬ」
 男の眉が、訝しげに顰められる。対し、鈴蘭は頬を緩めて見せた。
 空が曇ってきて、分厚い雲が随分と傾いていた太陽と、うっすらと姿を見せてきていた月をすっぽりと覆ってしまう。今時分には相応しくない、暗い光が降り注いだ。
「…………名を、申してみよ」
 鈴蘭は軽く膝を折った。
「恐れながら……山河家の、仁海の娘、鈴蘭にございます」
 今度こそ、男の目は大変大きく見開かれた。まさか目の前の武士の中が、貴族の娘だとは考えもしなかったのだろう。普通、そういう事態は発生しないので、当たり前である。
 男を一瞥して、その人に向き合うと、巾着を差し出した。
「これを差し上げます」
 そして、鈴蘭は踵を返し、
「……この都で今、豊かな暮らしをしているのは、私のような貴族だけですか?」
 沈黙。
 足許に視線を落とすと、黒ずんだ土に斑点模様が描かれているのが分かった。見る間にその斑点は数を増して行き、乾いた土は不気味な色と潤いを持ち始めた。
 男は躊躇いながらも、
「……恐らくは」
 と、肯定の意を示す。鈴蘭は、それで充分だった。
「……そうですか」
 そのまま彼女はいなくなった。取り残された男とその人はぽかんとしていて、男ははたと気付いたように、彼の手に握られている巾着に目を留めた。
「……鈴蘭様に、何を渡されたのだ?」
 びくん、とその人は怯えた様子だったが、本人もまだ見ていなかったので、巾着の口紐を解いた。瞬間、役人の男が「ええ」と思わず叫んでしまったのも、無理は無い。その中には、小判が三枚も入っていたのだから。

 ずぶ濡れで屋敷へと戻った鈴蘭は、正面から入っていったので、父母及び家来の皆に見つかってしまったのは言うまでも無い。そして親からは厳しく御灸をそえられたわけなのだが、当の鈴蘭は反省の色を見せなかった。
 自室に入ると、改めて部屋の中を見回した。綺麗な畳。掛け軸(何故か「唯我独尊」と書かれている)。机。葛籠……。そして、脳裏に、先ほど怒鳴っていた父母の姿を思い出す。上質な布で作られた着物。袴。美しい簪。更に毎日沢山の食事。
(……気持ち、悪い……)
 モヤモヤと、変なものが喉につっかかっている気分だ。
(……有り得ない……)
 周囲がキラキラしすぎている。
 何故、この家ばかり、こんなに、沢山、高価な、贅沢な……。
 心底思った。何故、私達は貧しい者へと物を分け与えないのだろう。とくに、将軍様など、私達の数十倍は贅沢な暮らしをしているに違いない。今思えば、自分をお見合いさせるのにも、多少のお金を要しているのでは? 貧しい者を見捨ててまで………
(気持ち悪い………!!!)
 父母や家来達の、そして自分の笑顔には、金の悪霊か何かが絡み付いていたように感じる。酷く薄っぺらい幸福ではなかろうか。
(嫌い……!)
 今まで自分を守ってきてくれたもの全てに対する、怒り。まさか、このような理不尽極まりない守り方をされていたとは思いもしなかった。箱入り娘としていたのも、きっと伝染病か何かから守るためだろう。
 鈴蘭は腰に携えている刀の鞘に手を触れ、意を決したように顔を上げた。それは、あの屋敷脱走を考えたときとは違い、もっと別の類の決意の瞳。
(陰ながらでも、都の方々をお救いしたい……!)
 彼女は初めて、明確な目標が自分の中に出来上がった。
 部屋の隅に置かれていた手鞠が、音も無く静かに転がった。

 翌朝。母が部屋に来て見ると、鈴蘭の姿はなかった。あるのは机と葛籠、掛け軸、それに寂しく飾られた風車、無造作に転がされた手鞠。
 懲りずにまた都に遊びに行ったのか、と母は呆れ顔だ。夕暮れ時には戻るだろうことを予想して、山河家では大して今度は騒動にならなかった。
 しかし――――

 鈴蘭はそれから二度と、山河家の屋敷に戻ることはなかった。

 また、その数年後、「くノ一」という忍びの者が現れ始めるのだが、それはまた、別のお話である。




※この物語はフィクションであり、実在の事件、人物とは関係がありません。
※由来や史実に基づいたものではありません。