光世界
故郷で作られた小さな万華鏡を見下ろす。
表面は赤い布で覆われ、比較的地味なデザインだった。ただ、ピンク色の小さなビーズが花の形に並べられている部分だけが、他の部分とは不釣合いで、大した事もないのに派手と錯覚させられるほどだった。
「夢巫女様」
「どうされたのです?」
彼女は微笑み、尋ねる。
「アタシ達にはまだ、あなたが必要なのです。どうか、お考え直しを」
何度目だろう。
夢巫女は小さく首を横に振った。
「私がいなくても、あなた方は生きることが出来ます。それならば、私はあなた方のお傍にいる理由がございません」
「そんなことはありません。村の方々は、まだ精神的にもあなたを必要としています。アタシもそうです。戻ってきていただけないのですか?」
彼女の言葉を背に聞いていた夢巫女は、振り返って手を胸にあてる。
「いいえ、あなた方は今まで『補助』していたものが消えたことに戸惑っているだけのこと…。月日が経てば、あなた方は『補助』するものがなくても生きていくことが可能でしょう」
「ですが、夢巫女様。あなたに帰る故郷はあるのですか」
少し考えるような仕草をし、
「ありません」
と、正直に答えた。
夢巫女の故郷は、かつての賢者ギウス氏が死に、それを機として魔族が襲い掛かって来、その時に村は焼き払われ、滅亡した。
そのころ、夢巫女はそこから離れた都会周辺を旅していた。ちょうどその滅亡した日、彼女は故郷へ帰ってくると文を届けていた。
「私は存在していいのか悪いのか、全てを神に任せているのです。そのときに私が故郷にいなかったのは、神が私になにかを伝えようとしている証。その私が、このような平和な村に留まることは、あってはならないのことなのです」
「それは、ただの妄想ではないのですか?」
彼女の言葉に、夢巫女は彼女をジッと見つめる。
「……申し訳ありません」
「いえ、そのような…。私を特別視しなくて、結構です」
天をあおいで、目を閉じた。
「そうですね。たしかにこれは、私の妄想なのでしょう…。ですが、芙蓉、あなたが言う、『私が必要』というのも、妄想ではないでしょうか…?」
彼女――芙蓉は口を閉ざした。
「夢巫女様…何を言っても、もう無駄なのでしょうか…」
声が震えている。
気付けば、芙蓉はうつむいて小さく肩も震わしていた。
芙蓉は、泣くのを必死に堪えていた。それは、当然夢巫女にも伝わっていた。
だからこそ、ここでこちらが膝を折ってはいけないのだ。
「はい。私にはやることがあるのですから」
「夢巫女様……」
だが、彼女にはここで何も言わずに去る、ということができなかった。彼女はそこまで非情になることはできなかった。
夢巫女は首にかけていたペンダントを外した。
そのペンダントを、手に持っている万華鏡に巻きつけ、芙蓉の前に差し出した。
「芙蓉。これを、あなたに差し上げましょう」
驚いて、芙蓉は顔を上げる。
「なにを言うんですか、夢巫女様。万華鏡は夢巫女様の大切な、亡き故郷のたった一つの品。そちらのペンダントは、夢巫女様の大切な父親からもらった、遺品だと聞いています。そのようなものを…」
芙蓉は顔を背けた。
当然、このような大切なものを、そうやすやすともらってはいけない。無論、もらう気もない。
これらは、芙蓉ではない、夢巫女がもつべきものである。また、夢巫女以外にこれらを持つことは許されてはいけないはずだ。
「ですが、芙蓉。私はもう手が汚れすぎてしまいました。私にも、この万華鏡もペンダントも、持つ資格はないのです。私が持つ事も許されて良いはずがありません」
「手が汚れすぎて……? どういうことですか、夢巫女様」
夢巫女はしばしの間目を閉じて、自分の手を一瞬見つめる。
「これでも、私は十人もの『人』を、殺めているのです。そんな私に、これらを持つ資格があると思いますか?」
「夢巫女様は勘違いをしています。あなたが殺めてしまったというのは、魔族の力を借りる悪魔の魂を宿す者達です。彼らは生きていてはいけない存在でもあります。そんな彼らを殺めたあなたは、むしろ正義の行いとも言えるのですよ」
いつもと違い、芙蓉は冷静だった。
なにがなんでも、万華鏡もペンダントも、どちらにしても受け取ってはいけないと思っていた。
夢巫女本人に、彼女にはそれらを持つ資格があると分からせてやりたかった。
「彼らの汚れた心を浄化することもできたはずです。私は経験不足なために、彼らを救うことができませんでした。私は彼らを殺め、手は血に汚れました」
夢巫女は芙蓉に向き直った。
「私を恨んでいないのですか、芙蓉」
「どうしてですか?」
芙蓉は苦笑混じりに答える。
「私の殺めた人の中には―――――芙蓉の兄上様も混ざっていたのですよ」
ハース。
それが、芙蓉の兄の名前だった。
ハースは妹である、芙蓉のいる村から離れ、夢巫女の故郷に身をよせていた。
理由はなんでも、夢巫女の故郷で―――――『深緑祈光荘園』で有名な鉱石を研究したかったというのだ。
ハースが研究を続けて三年。
夢巫女から、
『これから帰路につきます。夢巫女』
という文が届き、ハースは有名な夢巫女に会えることに、たいそう喜んだそうである。
ところが、その日。
『深緑祈光荘園』に居座っていた賢者、ギウス氏が天に召されたのだ。
それから一時間もしないうちに、魔族はこの機会を逃さんとばかりに襲ってきたのだ。
「大丈夫です。諦めないで、最後まで。ギウス氏の今までの頑張りを無駄にしないでください」
この言葉を発したこの瞬間。これが、ハースが正気だった最後の瞬間だった。魔族と戦っていたハースは、暗黒にまみれた霧に包まれた。ハースは魔族と化していた。
ここで『人』から『魔族』になってしまった人間は少なくなかった。勇敢に戦っていた男達は次から次へと霧に包まれ、魔族になっていった。
女も子供も危険なので、地下室に逃げていろといわれていた。
ギウス氏が念を込めて大切にしてきた聖水を見てみると、地上での出来事が映し出されており、女も子供も恐怖した。自分の夫も父親も叔父も、皆『魔族』になっていた。地下室に逃げろといったのは、男達である。
きっと大丈夫だと、地下室にずっと隠れていた。しかし、『魔族』になった男達にもう良心というものは残ってはいなかった。地下室に入り込み、一人残らず女も子供も殺し、その快感を知ることとなった。
そうなってしまった者を、もう止めることはできない。人を殺す、その快感を知ってしまったのだ。
他の魔族と一緒になって男達は、『深緑祈光荘園』を襲い始めた。そして、『深緑祈光荘園』は滅亡したのだった。
魔族達はすぐにその場を離れようと、順々に飛び立っていった。しかし、元々『人』であった彼らにそのようなことが出来るはずはなく、襲うだけ襲ったら、魂が抜けたようにしてその場に立ち尽くしていた。
そこへ夢巫女がやってきた。
夢巫女は彼らを殺したのだった。
夢巫女自身も驚いていた。人というのは、こうも簡単に殺せてしまうものなのだと。冷静さを失っていたといえばそれまでだが、夢巫女は後悔していた。
「これは、地下室で隠れていた女や、子供達が聖水に映っている事実を夢巫女様に伝えようと一人一人が紙に記していたんですよね」
「はい。彼女らが紙に記してくださらなければ、私はなにも知らないでいたと思います。紙には、『魔族』になってしまった彼らの名が一人一人書き込まれていました。その中に、『ハース』という名も混ざっていたのです。」
わずかに呆れ顔になり、芙蓉が頭をかいた。
「……それで、この村にやってきて、『ハース』がアタシの兄だと聞いた、ですか?」
「はい。私は男達を殺めました。ハースも殺めました。そんな私に、どうしてこの村に留まって欲しいのです?」
「夢巫女様は大変な誤解をされています。アタシはハース兄ちゃんとは三年以上会話もしていませんでした。そもそも、ハース兄ちゃんが『深緑祈光荘園』に行ってしまったとき、アタシは十一歳でした。妹を捨てるようにして行ってしまった兄を、どう悲しめっていうんですか?」
芙蓉の口調は、いつの間にか強くなり、表情も険しくなっていた。
夢巫女は薄く笑った。
「優しいのですね、芙蓉は。私を安心させようとしているのですね」
「そうではありません。アタシは事実を述べているだけです」
そのとき、夢巫女の脳裏に、ある記憶が蘇った。
それは、ハースは死んだと初めて芙蓉に伝えたその日のこと。
芙蓉は「知りませんよ、そんな人」と言っていた。
当時は夢巫女も、ハースというのは芙蓉の兄だと聞いたばかりだったので、てっきり勘違いだと思っていたのだが、その日の真夜中のことだった。
夢巫女は何故か眠りにつけず、星空でも見ようかと外へ出た時、大きな木に顔をくっつけて、泣いている芙蓉を見つけたのだ。
『兄ちゃん……兄ちゃん……ハース兄ちゃん………』
不審げに芙蓉が夢巫女を見つめる。
「芙蓉、やはり私はこの万華鏡とペンダントをあなたに渡し、この村を出て行きます」
「どうしてですか」
「色々やることがあるのです」
芙蓉が眉間に皺をよせる。
「またですか。さっきも、『やることがある』でした。夢巫女様、その『やること』ってなんですか」
夢巫女はしばらく考え込み、口を開いた。
「『深緑祈光荘園』に戻って、亡くなった方の御供養をするのです」
「供養、ですか」
「はい」
「それなら、その万華鏡とペンダントは、亡くなった皆の供養に役立ててください。アタシが持っていてもなんにもなりません。」
夢巫女はまだ自分の手の上にあるペンダントを巻きつけた万華鏡を見つめた。
――――――たった一つの、故郷の品
夢巫女は芙蓉の腕をとり、手の上にソッとペンダントを巻きつけた万華鏡を置いた。
「夢巫女様!」
「芙蓉、私がこの地を去る前に、あなたにお願いがあります」
「…アタシに…お願い……ですか?」
「はい。私が予言した未来。見ることのできた唯一の先の出来事。それはただ一つ、世界はいずれ滅ぶというもの…」
「当たり前です。アタシ達人間はいずれ老いて死ぬように、世界だっていずれは消えてなくなるんです」
芙蓉ははっきりと言った。血迷ってしまったのかと、内心心配していたのだ。
こんな分かりきったことを、夢巫女が意味深に言うなどと。
「ですから、芙蓉」
夢巫女はペンダントをまきつけた万華鏡を持った手の上から、自分の手を被せるようにして置いた。
そして、キュッと握るようにして軽く力をこめた。
「世界が永遠に続く、そんな未来を築いてください」
「夢巫女様…?」
「世界の未来の物語…あなたに託します。――――どうか神のご加護がありますよう」
人はときどき、道を見失うことがあるという。
人はときどき、道を逸れることがあるという。
そのときに泣きたくてたまらなく、我慢して我慢して、結局は泣いてしまうことがあるという。
芙蓉は去っていく夢巫女の背を見つめ、受け取った万華鏡、そしてペンダントを胸に抱きしめた。
なんとなく、芙蓉は思った。
また夢巫女が供養を終えると、この村に戻ってくると。
一粒の涙を落とし、ようやく心から微笑むことができる。
待っています。
完