ホットケーキと青い閃光 (DQ6)

「テリー、ブラック?」
 看板で散々宣伝している自家製パンとやらを千切って口に運んで、洋風茶碗マグカップを手にしたところで顔を覗き込まれて、驚く。だが、すぐに驚く必要はないじゃないかと思い直して、表情を改めた。もう自分は、一人旅をしているわけではないのだ。加えて、敵として戦ったはずの男をどういうわけか味方に引き入れる、超をつけてもまだ足りないくらいのお人好しなのだ。そんな彼が構ってくるのも必然と言えよう。
「関係無いだろ」
 砂糖もミルクも一切入れていない珈琲は、茶色と言うよりも黒に近い。まるで嘗ての己の心のようだな、とその黒い水面を見つめては自嘲気味に笑った。
「凄えなぁ。俺はどうも、珈琲はどっちも入れないと落ち着かなくてさ」
 言いながら、レックが向かいの席を引いて腰かけた。お前がどうかなんて興味はない、と答える前に、自然にテリーの眉間に皺が寄る。
「……おい……」
「うん?」
「……いや、何でもない」
 別に、食堂に決まった席があるわけではないし、どこに座ろうとレックの自由だ。何故わざわざ自分と相席をするんだ、と文句を言ったところで、そう返されては反論もできやしない。
 朝食時であることもあってか、食堂も少しだが混みつつある。
(相席すんなら、知らない奴の方が余計な会話も発生しなくて楽なんだけどな……)
 珈琲を飲みながら、洋風茶碗マグカップの縁から目の前の男を窺い見た。彼は、同じく皿に載せてきた自家製パンを味わって、一人勝手に頷いている。
 少し前から、紆余曲折を経てこの男が率いる旅の一行に加わることになったのだが、どうにもこうにも人助けの寄り道が多い。自分達の旅の本分を忘れたわけではないだろうな、と詰め寄りたくなることも数知れずだ。ただ、この旅の一行にいた実の姉になだめられては、全て不本意だと思いながらも付き合うしかないわけで。
 昨日の夜この村には到着し、旅の疲れを癒すべく一日滞在しようという話で決まっていた。村の中で最も大きい宿屋に入ると、宿屋の親父は客が女子供を含むことに配慮してか、部屋を二つ宛がってくれた。自然、男の部屋と女子供の部屋と分けられることになるが、恐らく「子供」と判断されたのであろうゲント族のチャモロは、頑なに「男の部屋に入ります」と譲らなかった。結果として男の部屋は少々定員オーバー気味での振り分けとなった。
 ただ宿屋に泊まるというだけでも、やれ誰がどっちの部屋だ何だと揉めたことについて、騒がしいことこの上なし。自分一人で旅していた頃には考えられない呑気さには、少し眩暈さえ覚える。
(でもこいつらに俺は負けた)
 魔物の力を借りていたとはいえ、あの時は全力で戦った。そして、完敗したのだ。でなければ、テリーはきっとここにはいまい。
(何でこんなのんびりした旅の連中にって、思うことは思うが)
 それでも、仲間に入らないかと言う提案をされて、肯いたのは他でもない自分だ。姉がいたからとかは関係ない。もう既に一人旅は充分にしてきたのだから、姉がいたところで「元気で良かった」と言い残して離れることはできた。
 ――――容易にできたか、と言えば、分からないが。
「あら、おはよう、レック」
 耳に馴染みのある声が聞こえて、テリーは視線を上げた。
「おはよう、ミレーユ。よく眠れたか?」
「ええ。最近野宿ばかりだった分、ベッドで疲れが取れた気がするわ。ハッサン達は、まだ寝てるのかしら?」
「正解。盛大な鼾かいてるよ。ところで、バーバラは一緒じゃないのか?」
 ふふ、と肩を竦めて笑う。
「同じく、まだ夢の中よ。あんまり気持ちよさそうに寝てるから、先に朝食とってくるって書置きだけ残してきたの」
「あらら。まあ最近無理させてたもんなぁ」
 この地域は魔物が活発になっているのか、群れを成して襲い掛かってくることもザラだった。そのため、広範囲を攻撃しようとしたときにバーバラの鞭捌きに頼る場面も多く生まれていたため、疲労が蓄積されていたらしかった。
 疲れているなら、ぴーちくぱーちく声を掛けて来るな、というところもテリーとしてはあるのだが。
「テリーも、おはよう。よく眠れた?」
「……嗚呼。おはよう、姉さん」
 実の姉のミレーユから、朝の挨拶をされることにも、漸く慣れてきた。慣れてきたが―――
 マグカップに残っていた珈琲を一気飲みして、皿を乗せたトレイを持って立ち上がる。
「俺、もう行くから、ここ使ってくれ。こいつとも話すんだろ」
 レックを顎でしゃくりながら言うテリーに、レックは「えっ」と声を上げる。ミレーユも困ったように眉をハの字にした。
「折角だから、三人でお話でもどう?」
 話? 眉間に皺を寄せた。
 奇妙なことに、まだ魔物の下で戦っていたことを咎められたことがない。もし、改めて話をするのだとしたら、そのことだろう。咎められたことがないのは、旅の道中で暇がなかったからだ。
 しかし、テリーにも、力を求めたことに対するプライドがあった。だから彼は冷たく言い放つ。
「俺から話すことはない」
 今日は自由にしていいんだろう、と言われては止める手立てもない。ひらりと手を振って、テリーが席から離れていく。
 その背中を見つめながら、ミレーユは先ほどまで弟が使っていた席についた。トレイをテーブルに下ろしながら苦笑する。
「ごめんなさい、あの子、悪気はないのよ」
「分かってるよ」
 レックも困り笑いで返す。
「二人の間にあったことも何となく聞いてるし、テリーは魔物に力を貸していたっていう後ろめたさもあるし……やっぱり、馴染むまでには時間かかるよなぁ」
 仲間に加わって少し経つが、決してテリーは周りと連携がとれないわけではなかった。一匹狼で旅を続けていたため、独断行動が増えてしまうのではと密かに懸念していたが、流石、最強の剣士を志すだけのことはあって、周りの動きを彼はよく見ていたし、咄嗟の戦略にも臨機応変に対応できる剣士だった。いつだったか彼が手に入れた雷鳴の剣は己の手足かのように自由自在に使いこなすし、〝青い閃光〟と謳われるだけのことはある。
「きっと、テリーは必要の無いことまで難しく考えてるんだと思うわ。それこそ……」
「人助けばかりで正義を気取るな、俺達は正義の味方じゃないんだぞ……とか?」
 頬杖をついて言いながら、普段のテリーの視線を思い出す。困った人に助けを請われ、承諾するときのあの視線は雄弁に彼の胸中を物語っていた。「強さ」をひたすら求めて旅をしていた青い剣士からすれば、人助けを丁寧に一つずつ対応していく様はいっそ滑稽に映っているのだろう。
 ただ、それならば「俺は知らない」とそっぽを向いて、一人強さを求めて鍛錬なり何なりすれば良いのだ。一人旅を続けていたのだから、どのように鍛錬すれば剣の腕を磨けるかは誰よりも知っているはずだ。
 だが、テリーはそうはしなかった。
 全ての人助けに、彼は不満そうな目をしながらも律儀についてきて、共に魔物を倒した。時に不用意に宝箱を開けようとする仲間の襟首を掴んで、「油断するな」と叱責してくれたことさえある。「ここの宝箱はほとんどがミミックだと聞いている」と、本人の旅の中でしか知らない情報を教えてくれながら。
「……本当、あの子ったら、私なんかのために強くなろうとするんだもの」
 困ったように肩を窄めるミレーユだが、長い時を経て弟に再会できたのだ。そして今は共に旅をする仲間。嬉しくないわけがなかった。
 小さい頃、連れ去られるミレーユを助けることができなかったことに憤り、力を求めたテリー。途中で道を誤ってしまったのだとしても、それはひとえに姉への愛情に他ならない。そんな彼を、誰が悪人だと言えようか。
「テリーがあんな風に……簡単に人に心を許せなくなってしまったのも、ずっと私が一緒にいてあげられなかったからっていうのも、あると思うの。昔のテリーは、本当に我儘で、悪戯好きで、無邪気で」
 懐かしそうに目を細める。
 昔から魔物が好きで、また魔物からも懐かれる不思議な才能を持ったあの弟は、魔物に会いたいから寝ない、と夜の寝るべき時間に駄々をこねたことがある。今のテリーからは、到底想像できない姿なのだが。
「へーぇ、あのテリーがなぁ」
 太い声が降ってきた。レックとミレーユが見上げると、丁度ガタイのいい男が大欠伸をかいているところだった。朝食もきちんと皿に持って来た様子で、これだけの大男が食堂に現れたことにも気づかないほど、二人はどちらもテリーのことで考え込んでいたようだった。
「おはよう、ハッサン」
「おう、おはようさん」
 挨拶を交わし、ハッサンはトレイを下ろしてから太い筋肉質の腕を組んだ。
「あのテリーが悪戯好きで無邪気、か。想像もできねえな」
「本当、やんちゃ坊主だったのよ、あれで」
「もしかしたら、素はそっちなのかもしれないな」
 素がそっちなのだとしたら、今は頑なに壁を作っているだけで、その壁さえ崩れてしまえば仲間に馴染むのは存外早いのではないだろうか。そんな期待をレックが抱いていると、考えることは付き合いの長いハッサンも同じだったようで、景気よく両手を打ち鳴らした。
「よーし分かった! じゃあよ、ここはいっちょ、テリーの歓迎会でもしようじゃねえか!」
「歓迎会?」
 レックとミレーユが、どちらからともなく単語を復唱して、顔を見合わせた。
「だってよ、チャモロ達と違って、テリーはちょいと出会い方が特殊っつうか何つうか。もしかしたら腹の内で、情けをかけられて仲間に入れてもらっちまった、なーんてめんどくせえことを考えてるかもしれねえじゃねえか! だから、ここらでちゃんと、俺達は仲間なんだぜってのを分かり易くだな!」
 確かに、元々魔物の方にいて刃を交えた後、その戦った相手に仲間入りするというのはテリーとしてはどうなのだろう。プライドが傷つけられた以上に、居心地の悪さを感じているのではないか。ハッサンの言葉はかなり単純明快だが、その分頷ける側面も大きい。
「うん、そうだな…ちょっと豪華な食事でも用意して、ささやかでも歓迎会できたら、少しは心を開いてくれたりするかもしれねえし…」
「よしっ、決まりだな! じゃあミレーユ、テリーはどんな飯が好きなんだ? 何か知らねえか?」
 ミレーユはハッサンの問いに表情を曇らせた。確かに自分はテリーの姉だが、一緒に過ごした時間は通常の姉弟よりもずっと短い。しかもミレーユとて平和な人生を歩んできたとは言い難いのだ。昔のことを思い出す余裕もなかなか無かった。幼い頃、テリーは何を好んでいただろうか―――。
 少しの沈黙が下りてから、ふとレックが思い出したように口火を切った。
「……あ。テリー、多分甘いのは苦手だぞ」
「え?」
 意外そうに見開かれるエメラルドの瞳を見つめ返しながら、レックが首を傾げた。
「さっきもテリー、珈琲をブラックで飲んでたんだ。砂糖もミルクも入れずに。でもどっちもこの宿屋では用意されてるし、珈琲あるところに置いてあるから取り忘れるってこともなかなか無さそうだろ? だから甘いの苦手だろうなと思ったんだけど」
「何だ、ミレーユ。もしかして昔はそんなことなかったのか?」
 ハッサンに重ねて聞かれ、ミレーユは曖昧に頷く。
 テリーが、甘いものを苦手だと言っていることがあっただろうか。否、あの少年が、とても好きだったものは―――
「……あ」
 ミレーユの脳裏に、はっきりと思い出されるものが、ひとつだけあった。

   ***

 この村の武器屋の品揃えはいまいちだった。杖の品揃えという意味ではかなり良いほうだったが、剣となると全くだめだ。この村に剣士がいないことを暗に訴えるような有様だった。
 村周辺の魔物は凶暴化しつつあるが、この村が平穏を保っているのは魔力による結界のおかげだろう。だからこそ、魔法を使うのに必要な杖の品揃えは良いことは、容易に分かった。
 宿屋は大きいが他の施設はこじんまりとしたものだ。恐らく、道中にこの村くらいしか休める場所がないため、旅人から利益を得て成り立っているのだろう。実際、宿泊費も結構良い値段だったと記憶している。
(人助けばかりしているおかげで、懐事情には困らんがな)
 勿論、いつも有償で人助けをしているわけではないが、基本的には命を張るような危険な頼みが多いので、達成した暁には大体、謝礼が弾んだ。また、知能が高い魔物は使えもしない硬貨を後生大事に持ち歩くこともあるため、倒した際に金銭を得られることもある。そんなわけで、懐は常に潤っていた。
 一人旅をしていたテリーとしてはこれは有難く新鮮だ。一人のときは人助けを何でもかんでもやっていたわけではないし、どうしても金欠気味になる場合がある。魔物退治を買って出て懐を潤しては無くす、が当たり前のことだった。
(どうするかな)
 休憩をする日、だなんて。
 そんな日を作ったことがないテリーは、正直なところ途方に暮れた。
 剣の手入れをしようかと思うが、常日頃気を付けているので今更手入れする必要はない。
 小遣い稼ぎをしようかと思うが、先ほどの通り懐は常に潤っている状態だ。
 村を散策しようかと思うが、それは今まさに終わったところだ。大きくも無い村の散策など二、三時間もあれば済むし、一番時間がかけられると期待できる武器屋は剣の品がほとんどなかったため、吟味する時間も必要としなかった。
(………酒でも、飲むか……)
 特別酒が好きなわけではない。けれど、気休めにはなった。村の中央に備え付けられている柱時計を何気なく見やると、時刻は朝食の時間にしては遅く、昼食の時間にしては早い時間帯だ。
 この村には酒場は無いが、酒場の代わりとしていつの時間帯でも宿屋の食堂が開放されている。今日一日どう使うかは自由なはずだし、食事の時間帯を外せば空いているだろう。
 レック達に会うかもしれないが、無視して飲み続ければ良い。そう思って、テリーの足は自然と宿屋へと戻る形に進んだ。

 宿屋に戻った途端に、戻ったことを後悔した。入口で満面の笑みを湛えたバーバラが立っていたからだ。真顔になって回れ右をすると、「ちょっとちょっとちょっとー!」とバーバラに肩を掴まれた。
「今あたしの顔見て戻るのやめようとしたでしょ!?」
「知らん」
「じゃあ何であたしの顔見ないのよ!」
「お前は顔が五月蝿い」
「しっつれいね!!」
 前に回り込み、頬を膨らませて両手を腰に当てた。ここ数日、毎日鞭を振るい続けていた彼女の顔色は、実は悪かったのだということを初めて知った。今朝はきちんと睡眠を取れたためか、随分と血色が戻っている。無理をさせ過ぎた、というレックの言葉は合っていたわけだ。
(流石、仲間として付き合いが長いだけのことはあるな)
 他人事のように考えてから半ば上の空で考えてから、「ねえ聞いてる!?」という高い声に現実に引き戻され、うんざりしながら頷いた。
 聞いていなくても分かる。わざわざ彼女がテリーを待ち構えていたのなら、言いたいであろうことは一つだけに決まっている
「魔物の力を借りてた俺に、改めて説教垂れようってんだろう」
 自分でも驚くほど拗ねた声が漏れた。
 違うわよ! と食い気味に否定されて、思わず少女を見返す。やはり彼女は腰に手をあてたまま、怒った様子で頬を膨らませていた。
「馬鹿なこと言わないで! 全くもう!」

 ――――馬鹿なこと言わないで寝なさい!

「……っ……」
 一瞬、目の前のバーバラに、昔のミレーユの姿が重なった。重なって、苦々しく表情を歪める。頭を振って、自らが生み出したありもしない幻影を打ち消す。
 だが、それをバーバラは一体何だととったのか、
「覚悟は決まったみたいね! 仲間なんだから覚悟なんていらないはずだけど!」
 などと宣うや否や、がっしりと腕にしがみつけば、強引に宿屋の中へと引っ張り込んでいく。
「お、おいっ! 誰も入る何て…!」
「もー! 往生際が悪いわよ!」
 咄嗟に、強引に振りほどこうとしたタイミングも悪い。丁度上の階へあがろうとする階段を歩いている最中だった。振りほどいたときにバーバラまで巻き添えにして転がり落ちやしないかと、咄嗟の動きを意識的に、頭がストップをかけた。
 無意識の行動を意識的に止めようとすると、どうしてもその後が無防備になるのは、戦闘の中で嫌という程思い知っている。そのため、テリーは成す術なくある一室の扉の前にまで連れて行かれ。
「………」
 腕に絡まっていた少女は身を離すと、得意げに笑って隣に立っている。
 テリーは部屋の扉を暫く眺めて、露骨に嫌そうな顔をしながら彼女を見つめた。
「……俺が泊まってる部屋はこっちじゃない」
「知ってる」
「………」
 バーバラに連れてこられたのは、女側に宛がわれた一室だ。
(できるなら、こっちの部屋に入りたくないんだが…)
 女の部屋だから、という前に、ここにはミレーユがいる。バーバラがわざわざ自分に絡んでくるのも、どうせミレーユの差し金だろう。とすれば、この扉の向こうにいるのは己の姉に他ならない。
 だが正直なところ、やはり魔物の下で戦っていたことは、決して胸を張れる事実ではないし、その目的である「ミレーユを救いたかった」ということすら見失いかけていたことは後ろめたい。加えて、戦っていた相手の中に、その守りたかった姉がいたのだから、本末転倒もいいところである。
 他よりは確かに、実の姉には心を開きやすいのは間違いないが、そこにはまた種類の違ったわだかまりがあるのだ。少なくとも、テリーの方には。
(嗚呼、嫌だな)
 剣士は苦虫を噛み潰す。どれだけ時間が経っても、どれだけ魔物を倒せるほど強くなっても、こんなところで尻込みしてしまうなんて。
 今は、どんな魔物と相対するよりも、このドアノブを回すことが恐ろしく感じる。
 ミレーユが優しいことは知っている。だからこの扉の向こうで、怒鳴られるわけがないことも分かっている。だからこそ―――
 息を吐き出した。観念して、ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回す。がちゃり、と音を立てながらドアが開いた。

 同時に、破裂音―――

「っ!!」

 テリーは咄嗟に、すぐ傍に立っていたバーバラの頭を庇うように抱え込み、腰を低くした。

   ***

 噴き出しそうになった、などと言った暁には今後一切口を聞いて貰えなくなるかもしれないと思い、レックはチャモロとアモスと共に、咄嗟に己の口を塞いだ。だが、彼らの折角のその行動も水泡に帰す。というのも、
「っぶははははは!! 何だテリー、お前そんな顔できたのか!! こいつぁいい!!」
 ……ご覧の通りである。
 彼らの中でひときわ声が大きい彼が呵呵大笑してしまっては、テリーの神経を逆撫でするには十分すぎるだろう。
 とうの部屋に入ってきたテリーは、ぽかん、と目を丸くして低姿勢のまま固まっている。頭にはクラッカーから飛び出したリボンが情けなく垂れていた。
 この宿屋は村で一番広い施設になるため、パーティーなどにも用いられる場合が多く、クラッカーは用意されていた。それを、宿屋の主人に頼んで買い取り、今回利用したというわけなのだが、戦いに身を置くテリーの反応は当然と言えば当然だ。ましてや、「おめでとう」とか、「ようこそ」とか、そういった言葉すらクラッカーに添えられなかったのだから、最早これはただの破裂音だけが響いたものといって然るべきである。強いて言うならハッサンによる大笑いだが、これもクラッカーの音からかなり経ってから発せられたものなのでノーカンだ。
(俺がテリーの立場でも、〝破裂音〟にはちょっと吃驚するだろうなぁ)
 レックは苦笑を零しながら、見た事の無い面食らった表情でそこにいる青い剣士を見つめた。
 ましてや、外ならともかく屋内で破裂音だ。敵の類ではなく爆弾か何かの初期爆発だととらえても仕方ないというか、そういうことに場慣れしているならそっちが普通なのだ。
「………な……?」
 思わず呆けたテリーに、ミレーユは両手を合わせた。
「ご、ごめんなさい、テリー! まさかこんなに大きい音がするだなんて思わなくて…!」
 まだ状況が飲み込めない様子で、剣士は丸くした目を何度も瞬かせる。
 その最中、テリーの腕の下でむぐむぐと何やらくぐもった声を上げながら蠢くものがあった。物理的な刺激を受けて、はっと我に返った青年は腕の力を緩めると、強引に俯く形になっていた少女が勢いよく「ぷはっ!」と顔を上げる。
「もう! 何すんのよテリー!!」
「っ、し、仕方ないだろう! 敵の攻撃だと思ったから…! 大体、何なんだこれは! 姉さん、説明して――」
 バーバラと口論に入りかけて、今の状況を説明してもらおうとテリーがミレーユに詰め寄ろうとしたところで、彼の口は再び閉ざされた。
 その視線は、目の前に釘付けだ。
 ミレーユ達と、テリーの間にあるもの。それは、食堂のものよりは小さめの洋卓テーブルで、洋卓に乗っているのは。
「……テリーが旅についてきてくれるようになって、とっても心強くなったと思って。そのお礼をまだ言ってなかったと思っていたの。だから、誰かが作ったものではなくて、私が手作りしたいと思って」
 決して、豪華とは言えない。どちらかというと、人数分の飲み物こそ用意してあるが、鎮座している食べ物はたった一種類。分類としてはケーキだが、そのケーキの中でも地味な方であろうもの。
 狐色に、少し分厚過ぎる印象がある大きさに切られた牛酪バターが乗っている。透明の羽衣のようなシロップがかけられ、光を受けてつやつやと輝いている。これは。
「……テリー、小さい頃、好きだったでしょう」

 ――――ホットケーキだ。

 幼い頃、甘いものが食べたいと駄々をこねた弟のために、姉が作ってくれたお菓子。材料が何でも揃っているような環境にはいなかったし、子供で果物やクリームの材料を購入することも難しかったあの頃。
 限られた材料で作られたホットケーキは、どこぞの店で出されるものと比べれば勿論大したことのない味だったろうが、それでも忘れがたいほどに美味だった。
 生意気な少年時代のテリーは、暇を見つけてはミレーユにホットケーキを強請り、ミレーユも文句を口にしつつその頼みを無碍に断ることはせずに、必ず狐の焼き色をつけて食卓に出した。
 そんな日常は、ある日、唐突に無くなってしまうのだが。

「……っ…何で……」
「ばっかねー、そんなこともわざわざ説明されないと分からない?」
 わざとらしく声を張り上げたバーバラは、悪戯っぽく笑んでテリーの顔を無遠慮に覗き込む。
「勿論、あんた一人で食べろってんじゃないわよ。これはもうあんたが独り占めするものじゃないんだから」
 確かに、ホットケーキのサイズは今まで見た事もないほどに大きい。それが二枚、三枚と重なっているのだから相当なボリュームだ。その脇に、全員で分けるためであろう人数分の木皿があることにも気づいていた。
 一人で食べる物じゃない、と言われ、不思議な感覚を覚える。
 今まで、食事は一人でとることが当たり前だった。仲間に引き入れられた後も、必要以上に一緒にいようとはせず、野宿のときでさえ少し離れた位置で食事をとった。自分はずっと一人でやってきたから、一人が楽だと言い放って。
 ……だが。
 目の前でミレーユがホットケーキを切り分ける。木皿に載せて皆に渡して行き、テリーにも手渡される。ホットケーキの甘い香りが、鼻腔を擽った。
「テリー、食べてくれる……? 久しぶりで、昔の方が上手かったかもしれないけれど…!」
 目の前にあるホットケーキに、戸惑う。
 幼い頃、ミレーユがいなくなり、何もできなかった自分を酷く呪った。いかに自分が無力かを思い知った。だから力を求めたし、〝最強〟の剣士に拘った。
 ――――甘いものを避けるようになったのは、いつからだったろう?
 明確な時期は思い出せない。だから、避けよう、と決めて避け始めたわけではないのだろう。きっと自然に、自分は甘いものから遠ざかるようになっていたのだ。
 何故なら、甘いものを食べる、甘いものを好むという思考は、一般的な思考から子供を想起させるものだったから。
 テリーの中で、子供は……圧倒的に、弱いのだ。
 筋力はどれだけ鍛えたところで大人には敵わないし、力でねじ伏せられたら終わりだ。その残酷すぎる現実をテリーは身をもって知っていた。
 だからかもしれない。今この瞬間まで、自分が、昔これを好んで食べていたこと。時々、ミレーユに頼み作って貰っていたこと。確かに、姉と過ごした時間として大切なはずなのに、記憶の彼方へと追いやってしまっていた事実。
 テリーは、恐る恐るフォークとナイフで一口サイズにホットケーキを切ると、口の中に入れた。じゅわり、とケーキのスポンジから溢れるシロップの甘味、はっきりとした卵の濃い旨み、スポンジにしみ込んだ牛酪バターの風味。――――嗚呼、俺はこの味を知っている。
 気付けば、テリーは二口目、三口目と口に運び、普段の食事振りからは想像ができないほどホットケーキにがっついた。
 誰かが、ぷすりと笑う。またハッサンかと皆が思ったが、予想外にも、笑っているのはチャモロだった。口許に手を当てて、くすくすと行儀よく笑っている。子供ながら、ゲント族の彼は作法もしっかりとしたもので、こういう場でも崩れることはない。
「……テリーさん、そんな顔ができたんですね」
 む、とテリーが眉間に皺を寄せる。いつもなら冷ややかな声が飛んでくるところだろうが、今の彼の口にはいっぱいのホットケーキ。飲み込む前に詰め込むものだから、両頬が膨らんでぱんぱんの状態だ。今更怖い顔をされたところで、今の彼の状態がなくなるわけではない。
 今のテリーは、ここにいる誰よりも、子供の顔で。誰よりもホットケーキを喜んでいて、誰にも渡さないと言わんばかりに口の中に詰め込む、やんちゃ坊主だった。
「……久しぶりね。テリー」
 ミレーユが、涙で瞳を潤ませながら、目の前に屈んでフォークを持っている剣士の手に手を重ねる。覗き込んでくるエメラルドの瞳を、アメジストの瞳は不思議そうに何度も瞬いた。何を言ってるんだ姉さん、と言いたげな顔だ。もう再会して結構経ったじゃないか、と。しかし、ここでミレーユの言葉の意味を正確に理解していないのは、恐らく、〝帰ってきた〟彼だけだろう。
「よぅし、もう良いだろミレーユ! 俺達も食おうぜ!」
「ミレーユさん、この、ちょっと大きめの、頂いちゃっていいでしょうか…!?」
「あーっ! アモスさんずるーい! あたしも! あたしも!」
 わいわいと盛り上がり始める中で、相変わらず鬱陶しそうに眉根を寄せているテリーだが、ホットケーキを食べる手は止まらないし、どこかいつもよりも幼い顔で喜んでいる様に見える。言うなれば、ひねくれた少年が大人たちのどんちゃん騒ぎを面倒くさそうに眺めている、といった状況の方が、今は似つかわしいように思えた。
(……辛い思いしてきたんだなぁ……)
 ホットケーキを口に含むと、シロップとバターと卵の、優しい味がした。レックは、ぎゃいぎゃいとじゃれ合っている仲間達を眺めながら、静かに思う。
 詳細はきっとかなり省かれているのだろうが、昔の話は少しだけ、ミレーユから聞いている。道理で力ばかりを追い求めていて、自分達とはあまり触れ合おうとしないと、納得はした。痛みが分かる、などとは言える筈も無い。完全に、辛さを想像できる域からは脱していた。
 でも歓迎するのはいいことだと思ったし、もし少しでも、本当の意味で「仲間」になる近道となるのであれば、今回のこの「歓迎会」も悪くないと思ったのだ。
(まあ、勿論、すぐに馴染んでくれるとまでは期待してないけど)
 別にテリーも、レック達を仲間と認識していないわけではないらしいということは、分かった。彼は、クラッカーの音が響いたとき、咄嗟にバーバラを護ろうとしたのだから。
(これで少しくらいは馴染んでくれたら万々歳……)
「おい、レック!」
「!?」
 驚いて顔を上げた。……今、俺の名前を呼んだのは……?
 やっとホットケーキを飲み込んだ様子のテリーが不機嫌そうな顔で此方を見ている。まさか彼が呼んだのか、と信じ難く反応が遅れてしまうが、剣士は構わず続けた。
「早くこいつらっ、」
「応、テリー、良い顔すんじゃねーかよ、何だよ普段から仏頂面かましやがってもったいねえ、今の方がうんといいじゃねえか!」
「そうよそうよ、あたし吃驚しちゃった、ね、ミレーユもそう思うよね!」
「え、ええ……そうね、テリーは元々、少しやんちゃだったけれど、かわ」
「言わなくていいから姉さん! レック! 早くハッサンとバーバラ黙らせろ!」
 ――――仲間の名前、ちゃんと覚えてたんだ。
 青い閃光と呼ばれる剣士の口から、明確に仲間の名前が出てきたのは、初めてだった。いつも、あんた、とか、お前、とか。そういう言い方でしか呼ばれなかったのに。
(……嗚呼)
「おい、笑ってねえで助けろ! レック!」
 嗚呼、本当に。
「ミレーユのホットケーキは美味いなぁ」
 呟くレックに気付き、ミレーユははにかんだ。
 そうじゃない、と喚くテリーの声が、不思議と心地よく響く。
 美味しくて当然よ、と吐息に言葉を乗せる。彼女は振り向いて弟とよく似た切れ長の瞳を細める。

「だってこれは、テリーが好きだったホットケーキなんですもの」

 蜂蜜色の髪が、夕日を受けた波のように揺らめき、煌めく。
 そう言った姉は、幸せそうに微笑した。

fin.