ほんの少しの勇気 ★薬不
★注意(必読)★
・捏造要素過多
・闇堕ち表現あり
・刀剣男士同士の戦いあり
・本能寺爆発説を採用
――――?年?月?日。
火の爆ぜる音がする。焦げて、支えが利かなくなった天井の木材が、がらがらと音を立てて、傍に落ちて来た。他人事のようにそれを眺めてから、徐に目を上げる。部屋の中央では、腹に刃を突き立て倒れ込んでいる男がある。まだ、微かに動いているので生きてはいるのだろう。しかし、炎に包まれたここで、血を流してああして蹲っている状態を、「生きている」と表現して良いものか。
ここに人間は、彼しかいない。すなわち、本来切腹の際に必要とされる介錯人がいない。人間というのは案外しぶといもので、腹に刃を突き立てたところでさっさと黄泉の国へ去ることはほとんどないのだ。ましてや彼は、腹以外はほとんど無傷である。
こつりと頭を後ろに倒し、扉に預けた。つっかえ棒で止めてあるこの扉はもう開くことはない。開けようと思えば開けられるが、生憎、開けるつもりは毛頭なかった。
「信長様、薬研っ、なあ、いるんだろ、いるんだろって! 返事しろ!」
どんどんと、叩きつけられる拳を、扉越しに感じる。
視界は赤くなっていく。熱い、と思いながら、自分は立ち上がって逃げようとは思わなかった。己の主がそこで、人生に幕を下ろそうとしているのだ。しかも、この炎を放った家臣に対して最後、「天晴れである」などと宣って。ならば、懐刀である自分も共に、同じ場所で、同じ時に果てようと思うのは、当然の願いだろう。
泣きそうな声が外から聞こえる。いや、きっと泣き虫の、愛されたがりのあの刀は、泣いている。
「行光」
口を開くと、喉が焼けるように熱くなった。咳き込むことはないのは、彼が人間ではないからだろうか。ただ、人でいうところの肺に、煙が目一杯溜まっていくのが分かる。ぼんやりとした頭に、終わりの文字が浮かぶ。
扉を叩く音が止む。
「薬研っ」
「ありがとうな、今まで」
少し間があった。それが、彼の困惑している時間だと察するのは簡単だった。
「何、言って…! やっぱり、そこにいるんじゃねえか! 今ならまだ間に合う! ここ開けろよ! 急がないと、このままじゃ、お前も信長様も!!」
「大将は死んだよ」
息を呑む気配がした。
どんっ、と音がしたのは、扉の向こうで崩れ落ちたせいか。
視線の先で、炎が蛇のように床を這い、男を包み込んでいくのが見える。熱いだろうに、もがくこともなく、男はじっと丸くなったまま動かなかった。こうなっては死装束さながらである白い寝間着に、火が燃え移った。煌々と輝く炎は、男の魂を誇張しているかのようだ。
「俺も大将と逝く」
「薬研……」
「ずっと懐に入れてもらってたんだ。三途の川渡るときに、もし俺が懐にいなかったら、大将が焦っちまうかもしれねえだろう」
不思議と、心は落ち着いている。言いながら、三途の川ってどれくらいの規模の川なのかな、とか考えるほどの余裕があった。
扉の向こうにいる刀は、寂しがりやだ。懐刀となると往々にしてあることだが、彼の場合、愛された分いっとう誰かの傍にいたがった。自分にもよく寄り添った。だから、残していくことは心配だけれど、出会いがあるから別れもあるわけで。見目はともかく、子供ではないのだ。人よりも長く世を生きた付喪神なのだ。聞き分けがないわけがない。
現実を受け入れることなど、今までもしてきた。それと何も変わらない。
「さよならだ、行光」
――――ガラガラガラガラガラッ!!
天井が降って来る。
薬研藤四郎は、目を閉じた。
***
視界を真っ白な光が染め上げる。誰かが呼んでいるのが分かった。一体、誰が?
シャン、と神楽鈴のような音が響くと共に、桜の花が舞い上がる。自分の神気が視覚化されると、桜になるのだと初めて知った。
何処かの床に足がついた。ゆっくりと瞬きを繰り返すと、次第に景色が鮮明になった。そして、そこに見えたのは、
「………は、え?」
小柄で、華奢な体つきの、彼。
彼も驚いた様子で藤色の目と口の両方をぽかんと開いていたが、現状を理解するとその顔に、喜びが滲んでいく。
「……よう。久しぶり」
挨拶は無難なものだったが、必死に多くの感情を押し殺した結果なのだろう。もっと他に、思ったことはあった。
「っ!!!」
「うお、っと!」
だから、顕現したばかりの方の刀は、たまらなくなって、自分に霊力を注ぎ込んでくれた審神者に自己紹介もせずに、彼に全力で飛びかかり、抱き付いてしまったのである。迎えた方も無様に押し倒されることもなく、相手をきちんと抱き留めて、「また泣いてんのか」と笑いながら震える背中を撫でてやっていた。
その日、かつて織田のもとにいた二口の短刀。不動行光と、薬研藤四郎は、何百年越しの再会を果たした。
熱い再会を果たした結果、審神者と初めましての挨拶をして数秒と経たずに不動は赤面することとなったわけだが、幸い持っていた甘酒を一気に呷ることで、多少紛らわすことができた。
この本丸の基本方針や、今顕現している刀の数、種類、それに食事の時間、湯浴みの時間、出陣と内番の予定の組み方等、生活していくのに必要なことをあらかた話し終えて、薬研は不動を連れて審神者室を出た。このまま、古参である薬研が本丸を案内する手筈になっていたのである。
大広間、書庫、祈祷室、茶室、鍛刀部屋、刀装部屋、厨、浴場、厠、道場、畑に厩、離れ家と、一通り誰もが使う可能性のある(また確実に使うことになる)場所を案内し、最後に不動に割り当てられることになる部屋を訪れた。
一人で使うには広すぎるが、二人で使うにはちょっと狭い程度の部屋だ。部屋割りは既に審神者から聞かされていて、不動は薬研と同室らしい。昔の縁がある刀が来た際にはよくあることらしいが、今までの相部屋を崩して少しでも気安い間柄である刀同士を同じ部屋にするのは審神者の意向だ。早く本丸に慣れてもらうためだとか、色々理由はあるらしく、何にしても有難い。見知らぬ刀と一緒にいきなり同室と言われても、上手くやっていける気がしなかった。
「文机、そこにもあるだろ。こっちのは俺が今まで使ってた奴だから、そっち使っていいぜ」
「へー……」
まだ出したばかりの新品である文机に歩み寄って腰を屈め、興味津々に傷一つないその表面を撫でる不動を、薬研は微笑ましく眺めていた。城にいたことがある身として文机なんかは珍しくも何ともないだろうが、「自分の」文机となると話は別である。
恐る恐る文机の前に置かれた座布団に腰を下ろして、暫くつるつるとした面に手を滑らせていた不動が、ふと思い出したように振り向く。
「でも薬研、いいのか?」
「何がだ?」
不動が座ったことにつられて、自分の文机の前に置いていた座布団を引っ張り、その上に座りながら首を傾げて見せる。
「今まで、俺じゃない奴と相部屋だったんだろ」
確かにそうだが、同じ部屋だったのは粟田口派の兄弟だ。薬研の兄弟は両手の指にはおさまらないほどの数がいる。その中で組み合わせを変えることくらい大した問題ではなかった。
だが、不動からしてみれば、昔に縁があろうがなかろうが、この本丸において新参者であることに変わりはない。だから抵抗を覚えているらしかった。
「別に、部屋なんかなくても、何なら厩で寝るし……」
「厩は寒いだろ。そんな気にすんなって。俺は行光にまた会えて嬉しいぜ?」
薬研の発言を聞いた途端、不動は不貞腐れたようにそっぽを向いた。顕現して開けたばかりの甘酒の瓶に口を付けるが、中身はもうほとんど余っていない。
「へ……こんなダメ刀に会えてかよ……」
「何だ、お前だってさっき抱き付いてきたじゃねえか」
「そ、それはっ! 吃驚したんだよ! あのときいなくなったお前がここにいるから!」
「吃驚したら抱き付くのか、お前」
「やかましい!」
誤魔化すのが下手なことである。
顔を真っ赤にしてあらぬ方向を向いている不動に、くつくつと喉を鳴らしながら笑うものの、薬研には気になることが一つあった。
「なあ行光、訊いていいか?」
「ああ?」
「お前、何だって自分をそんな、〝ダメ刀〟なんて言ってるんだ?」
不動の肩が分かり易く揺れる。
「いやぁ、なかなかお前が来ねえなぁ遅せぇなあと思ってたところに顕現したんで、嬉しかったは嬉しかったんだが、前はそんな自己卑下酷かったかと思って、気になってなぁ」
軽い調子で続けたが、不動から反応はなかった。不思議そうに彼の顔を覗き込もうとしながら、薬研は彼の隣りに四つん這いで近づき、座り直す。
「……お前が、それを言うのか」
顔を俯かせ、高い位置で結った長い髪が前に垂れて来る。そのせいで、表情は判然としなかったが、声は酷く落ち込んでいた。
「あの日、何もできなかった俺を知ってるお前が、それを言うのか」
あの日とは、本能寺の変のときのことを言っているのだろう。
「俺は信長様にも、蘭丸にも……愛してもらったのに、その分、何も返せなかった。誰もお助けすることができなかった。懐刀? 守り刀? 聞いて呆れる…こんな俺は、ダメ刀だろ……いつかお返しするんだって思ってても、俺なんかじゃ、いつも間に合わない。…間に合わないんだ……」
「そんなことないだろ」
今にも泣きだしそうな声で、薬研は不動の頭にそっと手を乗せた。昔から恥ずかしがりやで、こういうことをすると何気なく頭を振って逃げられたりしたが、今は甘受してくれている。ぐりぐりと、ちょっと掌に力を込めて、強めに撫でつけてやる。
「お前はダメ刀じゃない」
そんなことない、と結局涙をこぼしてしまいながら、掠れた声で抗議された。だが、彼は聞こえないふりをして続ける。
「お前はちゃんと来てくれた」
開きもしない扉を一生懸命叩いて、炎の中から助けてくれようとした。その扉を開けなかったのは自分であるし、当時の主である織田信長と共に逝くと決めたのも自分だ。最期に不動の声を聞けただけで、充分だと思っている。そう告げると、泣いていた不動の身体の、微かな震えが止まる。と思ったら、がばりと勢いよく、顔を上げた。
「……な?」
これでもかと言うほど目が見開かれていて、明らかに驚きの感情と思われる色が顔面に濃く出ていた。妙に顕現してから自己卑下が酷い彼は、もっと詰られるものと思っていたのかもしれない。
薬研はあくまで優しく、声を掛ける。
不動の目は動揺したようにきょときょとと揺れ、最後に曖昧に頷くに留まった。
彼が本丸に来て数週間ほど経った、ある日のこと。
「……なあ、薬研」
行先は夜の京都市中とのことで、短刀である彼には有利な戦場であるが、そこに行くのは不動は初めてだった。更に、特はついていると言っても、部隊編成の中でも練度はかなり低い。だからこそ、周りは練度が頭打ちであったり、そうでなくとも出陣経験が豊富な刀で固めてあるのだろう。決して無茶な出陣を強いられているわけでもなく、他の刀はともかく不動が軽傷でも怪我を負った際には、速やかに帰城するようにと審神者から命令されている。
その出陣前、不動は困り果てた顔で、薬研の傍に寄った。
右耳に通信機を嵌めていた彼は、不思議そうに見返す。
「どうした?」
彼が差し出してきたのは、出陣に際して渡された金色の刀装だ。落とさないように両手で大事そうに包みながら、不動は眉をハの字にしている。
「…これ、重歩兵だろ」
「? ああ、そうだな」
刀装を一つしか装備することができない短刀には貴重な品である。兵力は十二と刀装の中でもなかなかの高さを誇るし、盾兵や大太刀なんかが装備できる刀装に比べればまだまだだが守備力の向上には申し分ない。
「…薬研は?」
「俺? 俺のはこれだが」
つけていた刀装を見せれば、それは銃兵だ。守備力は今一つだが、その分遠戦の力はかなりの破壊力を持つもので、先手必勝の戦場では重宝されるものである。
ただし、薬研が持っていたのは金ではなく、銀のもの。つまり、二番目に稀少とされるものだ。
「……交換しろ」
「何で。つーかだめだろ、大将がこれはお前にって渡したもんなんだから」
「だって……」
「……お前にそれを渡したってことは、そんだけ大将がお前を大事に思ってるってことだ。折れてほしくないんだよ、行光には」
「………大事に思われたって、俺は…」
「その分の愛は返せない、か?」
先読みして、言葉を返されて、不動は不快そうに眉根を寄せた。
未だに差し出されている金の刀装を、薬研は押し返す。
「行光。お前はダメ刀なんかじゃない」
「だから! 俺がダメ刀だってのはお前が―――」
そこで、ぎくりと不動が表情を強張らせ、唇を噛んで黙り込んだ。自分に渡された刀装を見下ろし、何かに耐えるように顔を顰める。眉間に力が入っているのが分かった。観念して、彼は刀装をつけ直す。
薬研は満足げに頷くが、心中で首を傾げた。
「じゅんびはできましたか? そろそろしゅつじんしますよー!」
間もなく、隊長である今剣の声が響いたので、薬研は疑問を口にしたりはしなかった。不動にしてみても、先ほどとは表情が若干異なる。気持ちは切り替えたようだ。
今剣を隊長に、副隊長が加州清光、そして、鯰尾藤四郎、骨喰藤四郎、不動行光、薬研藤四郎という編成だ。このうち、脇差の二人と、本丸の初期刀である加州が練度は頭打ち、今剣は頭打ちではないにしても間もなく最高練度、薬研は上位練度でありながら頭打ちにはまだ遠く、そして不動は特がついたばかりと言った状態である。
全員がお守りと刀装を所持しているか、通信機の準備も完了しているか確認を済ませてから、電子音が響く。そして彼らは指定された戦場へと繋がったゲートをくぐった。
夜の京都市中へと出た彼らは、着実に敵を斃しながら奥へと進み、じきに敵の本陣だという辺りで足を止めた。はっきりと敵の気配を肌に感じながら物陰に身を潜める。
「あれ、何か多い?」
小声ながらもあまり緊張感の無い声で言う鯰尾に、骨喰は無言で首肯した。
「でもまぁ多いって言っても、せいぜい数口程度じゃない。十も多かったりしないよ」
物陰から様子を伺いながら、加州が答える。それにも骨喰はまた首肯した。
「でもゆだんはきんもつですね。では……ふどう」
「うぇ、俺!?」
突然名指しされた不動はぎょっとして隊長を見る。暗がりの中、気配を殺していながらもはっきりと動揺が伝わってきて、今剣は苦笑した。
「ていさつ、おねがいしてもいいですか?」
「何で……こんなダメ刀に頼んでも、上手くいかねえかもしれねえぞ」
よりにもよって敵の本陣という大事な局面である。
「なにごともけいけんです。だいじょうぶ、まんいちうまくいかなくても、やせんなんですから、ぼくたちがゆうりなことにかわりはありませんよ!」
ぐっと拳を握って見せる小天狗は頼もしい限りだが、敵方にも夜戦を得意とする短刀がいるのを忘れてはいないだろうか。恐らく忘れていないのだろう。今剣もかなりの古参で、無邪気な性格に騙されそうになるが、かなり頭も回る切れ者なのである。
「……本当に失敗する可能性高いからな」
「どんとこいです!」
「ダメ刀なんだからな、俺は」
「ふどうがだめでもそうでなくても、うまくいくときはうまくいくし、うまくいかないときはいきませんよ!」
「……拒否権は」
「ない! です!」
何を言っても無駄そうだと察した不動は、「どうなっても知らないからな」と前置きして一人、部隊から離れた。
瓦屋根の上に飛び乗り、極力自分と言う存在を消しながら空を駆ける。下で、今剣が白い歯を見せて小さく手を振っているのが見える。他の刀は皆、自身の得物に手を掛けていつでも迎え撃てるように構えていた。
(平安生まれの大先輩ねぇ)
ここまで、隊長らしく今剣は指揮をとっている。到底真似はできなさそうだ。立派な刀なことだ、自分と違って。口の中でそんな呟きを転がした。
「お前も立派な刀だけどな」
「っ!?」
まさか返事があるとは露ほども思っておらず、不動は跳ね上がらんばかりに驚いた。危うく足を滑らしそうになり体が傾いだが、すかさず後ろから伸びて来た手が彼の腕を捕まえてくれる。それはそれでまた驚いてしまい、思わず叫びそうになった。しかし、どこぞの白い太刀よろしく驚きを提供した張本人の薬研が、唇の前に人差し指を立てるものだから、何とか叫びは腹の中に落とし込んで堪えた。
薬研は顎で前をしゃくり走り出したので、慌てて不動も追走する。スピードを上げて並んでから、必死に声量を抑えながら言った。
「脅かすなよっ」
「すまん。一応何かあったときのために、フォローでな?」
「どうせ俺なんかに偵察は上手くいかねえと思ったんだろ」
「経験が浅いのは確かだし、そう言うなって」
敵の気配が強くなり、二人は軽口を叩くのをやめて足音を忍ばせた。そうっと様子を伺ってみて、不動と薬研は揃って眉を顰めた。先ほど、鯰尾や加州が言っていた通り、数が多い。同時に二部隊が挙っているのはなかなか珍しいが、戦場ならば何が起きてもおかしくない。冷静に、敵の編成や陣形を把握する。
不動が通信機が作動しているのを確認し、小声で告げた。
「不動だ。短刀、四。打刀、一。太刀、三。大太刀、一。薙刀、一。槍、二。陣形は逆行陣」
『多いな』
端的に返って来た声は通信機からで、恐らく骨喰の声だ。
『予想の範囲内だし大丈夫だって』
『俺達なら楽勝。で、不動、薬研、こっち戻って来れそう?』
鯰尾が相変わらず楽観的な物言いをして、続けて加州が尋ねて来る。通信機をつけている全員がこの会話を共有しているわけで、自然に不動は傍にいる薬研と目を合わせた。どうする、と目で訴えれば、薬研も数の多さに少し考え込む仕草をして見せた。
そのとき、二人の全身が、粟立つ。
「あー、すまん、加州の旦那」
言いながら薬研が立ち上がり、収めていた得物を抜いた。振り向きざまに剥いた刃は、夜空に金属音を響かせて跳ね返される。屋根の上に跳び上がって来たのは敵の短刀だ。
「戻れそうにねえから合流してくれっと助かる」
『りょうかい!』
薬研の目は、既に戦場のそれになっている。
刀が交わる音も通信機で聞こえたのだろう。今剣が素早く答え、それきり何も言わなくなった。恐らく全速力で此方に向かい始めてくれている。
「だからダメ刀に偵察なんて任せるなっつったんだ!」
ヤケクソ気味に叫びながら、続けて跳び上がって来た大太刀を睨みつける。緩慢な動きで見当違いな場所に刃を振り下ろすのを難なく躱し、この程度ならばと懐に飛び込んだ。ダメ刀であることに違いはない。けれど、だからと言って敵に舐められる筋合いはないのである。手始めに敵の腹を抉り、蹲ったところで急所を突く。
だが数が多いので、大太刀が消えていくのを見送る余裕もなく、次に飛びかかって来た打刀に応戦した。
「お前じゃなくても今回は気づかれた! 気にすんな!」
「いちいち返事しなくていいっての!」
怒鳴り返して振り向き、短刀をのした薬研の背後に目が行く。
「薬研後ろ!!」
「なっ、!」
構えた薬研の脇腹を、穂先が通り抜ける。不動の声で横に跳ねた結果、掠った程度で済んだが、背後にいつの間にか武器を構えていたのは槍だった。審神者の間では、短刀の機動をもってしても追いつけない素早さから通称「高速槍」と呼ばれる、厄介な敵だ。
舌打ちをしながらも果敢に槍へと向けて刀を振るい、しかし一撃で倒すことはできない。先ほどのように再び攻撃を受けるのも得策ではないと踏んで、ひとまず後ろへと跳ねて距離を取った。自然に、不動と背中合わせの形となる。
「大丈夫か、行光」
「お前こそどうなんだよ。食らったろ、さっきの」
「何、怪我するのも仕事の内さ」
「そういう無駄に前向きなところ相変わらずで腹立つ」
「褒めてんのか?」
「そうだよ馬鹿」
「おぉ、ありがと、なっ!」
二人が同時に駆け出し、屋根から下へと飛び降りる。
薬研は襲いかかって来た高速槍の二撃目を間一髪のところで躱して、首の後ろ目がけて刃を突き立てる。それでも絶命しないのを見ると苛立ちを露わにしながら乱暴に短刀を引き抜き、敵の首元に手を這わして一回転すると、横転させた。その無防備な腹に、刃先を向けたまま全体重をかけてのしかかる。
「柄まで通ったぞ」
厳かに告げて最後、高速槍は動かなくなる。
不動は打刀に向かって刀を振るい、しかし横合いから入り込んできた刃から、咄嗟に頭を下げて逃げた。意思のようなものを感じる、明滅する赤い光。短刀に真っ向で立ち向かう打刀の手助けのつもりだろうか。だが、手助けが太刀では、少々力不足だ。二口の刃が豪快に振るわれてくる。どちらの攻撃も不動は隙を見つけかい潜り、臆することなく間合いを詰める。
「ダメ刀だからってなめんな」
二体の急所を流れる様な動きで斬り、痛みに身体を反らせたところにすかさず止めの一撃をそれぞれに与えた。
首を回して、薬研と不動がお互いの無事を確認する。そこに、彼らの上を三体の敵の短刀が躍った。夜戦において凶暴なのはこの敵短刀であることは重々承知だが、機動の高い三体が同時となると、どうしたって一体は打ち損じる。降って来る攻撃のいずれかを受けるしかないかと歯噛みしながら二人が刀を構えたが、その敵短刀のさらに上に、新たな影が舞う。
「あっは、うえですよ!」
敵短刀が薬研に猛威を振るうより早く、降って来た小天狗が舞いさながらの動きで屠った。着地と同時に、一本歯の下駄が、カランと音を立てる。
呆けている余裕もなく、二体になった敵短刀を薬研と不動が仕留めた。
「おまたせしました、やげん、ふどう!」
「今剣、すまん、助かった」
「いえいえ! おれいはあとでいいですよぅ!」
赤い瞳が、剣呑に帯びる。向けられるのは、まだ牽制したまま動いていない残っている敵の刀。
「さあ、おそうじのじかんですね」
「おっかねえ……」
まだ頭打ちではないとは言え、古参の今剣から感じる殺気に、不動は身震いする。味方で良かった、と呟いたのが聞こえたのか、一瞬振り向いた天狗はにこりと微笑むだけだ。その笑顔すら怖いと言ったら流石に怒られるだろうか。
そんな彼らの脇を素早く走り抜けていく影がある。
「オラオラオラァ!!」
普段の言動からは想像できない、荒っぽい叫びを上げて刀を振るう加州は、先ほどのものとは違って、幸い機動があまりない槍に向かう。
「戦闘、始めます」
「出る!」
にやりと口の端を歪めた鯰尾が、わざとらしいほど静かに言い、その横を滑空するように骨喰が並んで走る。向かうのは、敵の太刀。相手は二人だが此方も二人、しかも夜戦を得意とする脇差だ。
勢いづいて戦う彼らを眺め、一気に薙ぎ払ってしまおうと思ったのだろう。敵の薙刀が動き出す。だが、敵が持つ薙刀が、ぐんと突然重くなった。驚いた様子で目を向ければ、不敵な笑みを浮かべた小天狗があろうことか刃の上に降り立っている。
「むりですよ。ここでそれをふるうのは」
障害物が多すぎる。薙刀を一気に振るったら、この辺にある建物は壊れてしまうであろうし威力も半減どころでは済まないかもしれない。それでも、元々歴史を修正するべく動いている彼らには、家屋を破壊しようがどうしようが大した問題ではないのだろう。だから、躊躇いなく薙刀を振りかぶれるのだ。
勿論、やらせはしない。
「岩融くらいつよくなってから、でなおしてください」
スパン、と至近距離の正面から喉元を短刀で裂いた。抵抗する間もなく、薙刀はそこに崩れ落ちる。他のところからも、ずしゃりと敵が倒れる音が響いたので、難なく勝利をおさめたらしい。
後から合流した彼らに全て持っていかれた偵察役の二人は、戦いの一部始終を眺めて、笑ったり身震いしたりと各々別の反応を見せていた。
「兄弟も刀種が違うと言えど、すげぇもんだ。俺も流石にあそこまではやれん」
練度の差を見せつけられた気分なのだろう。何処となく興奮気味に言う薬研は、やはり戦場育ちの刀である。
「こっわ……」
一方、不動は身内の強さに恐れに似たものを感じていた。
何が怖いかと言えば、敵の倒し方がである。夜戦が得意な短刀である自分も、確かに敵は倒しているが、正直比較対象にはならない。あそこまで無抵抗にやられていく敵はいっそ可哀想にさえ思えた。先ほどまでは、偵察したものの失敗に終わった自分にもやもやとした気持ちを抱いていたのだが、ここまで快勝になってしまうと偵察自体必要だったのかと疑問の方が大きくなる。
「っ……つつ…」
「…! お、おい」
脇腹を抑えて微かに声を漏らし身体をくの字にした薬研に気付き、慌てて不動はしゃがんで覗き込んだ。
「ああ、大丈夫大丈夫。かすり傷だ」
「……悪い。俺が偵察失敗したから…」
「敵の陣形は分かったんだから失敗したわけじゃねえだろ。気付かれちまっただけで」
「いや、でも」
「それに俺も一緒だったんだし、もしあれを失敗だって言うならその原因は俺にもある。そうだろ?」
「………」
薬研も一緒に悪いような言い方をされてしまうと、返事に困る。彼の性格を知っている上でわざわざそんな切り返しをしたのだろう。
「それに、想像だけだとよく分からなかったが、行光と共闘ってのは実際やるとなかなかいいもんだな」
「…想像だけって」
「忘れたか? お前、昔俺に言ったことがあっただろ。〝一緒に戦うようなときには、薬研のことは俺が護ってやる〟……だったか? 安土城に移って間もない頃に」
安土城に信長が居城を移した頃。確かに、一際大きな城を建てたことに不動は当時興奮していたし、刀としての本能も叫んでか、薬研と戦の話をすることは多かった。そのときに、確かに自分は豪語している。にこやかに話を聞いてくれていた薬研を守って見せると。それから数年の後、本能寺で起きる出来事で、記憶の底に埋没してしまっていたが。
「……あ……」
「後ろに槍がいたの、俺は気づかなかったからな。行光のおかげでこの程度の怪我で済んだ。約束通り護ってくれたってわけだ」
不動の頭の上に、半透明の桜の花弁がちらついた。逸早く本人がそれに気づいて、慌てて手でそれらをひっつかみ、無理矢理もみ消す。
「べ、別に! たまたまだ、たまたま!」
顔を背けて叫ぶ様子に、照れてんのか、と笑いを噛み殺しながら尋ねられたので、また、照れてない! と返した。傍目では照れているのも、薬研に感謝されたことを嬉しく思っているのも丸分かりなのだが、不動自身は全力で隠しているつもりになっているので滑稽である。
「なーにイチャついてんの」
「だからイチャついてねえって!」
刀を鞘に収め歩み寄って来る加州に、不動が恥ずかしさで半泣きになりながら答える。その後ろを鯰尾と骨喰がついてきて、今剣も軽やかな動きで戻って来た。骨喰が薬研の傍らに膝をつく。
「薬研、おぶろう」
「いいって。大した怪我じゃない。気にすんな」
「そー言って、悪化させて散々叱られたのも薬研だよねぇ」
鯰尾に半眼を向けられて、薬研がうっと詰まる。男前なのは良いことだが、この短刀は医療に精通していながらも自分自身のこととなると無頓着なのだ。
「いや、でも本当に大した怪我じゃ…」
「こいつさっき痛いっつってた」
「あ、こら行光!」
「はい、証言を得ましたー。黙って骨喰におんぶされてなよ」
骨喰が無言の圧力をかけながら薬研に背中を向けて見せる。それでも尚、悪あがきとでも言うのかオロオロと視線を彷徨わせながらも兄弟の背中に乗ろうとしない。結局、痺れを切らした加州が後ろから持ち上げて、無理矢理乗せてしまうことでこの場は落ち着いた(薬研は落ち着いた気配はなかったが、あれこれ騒がれても周りは全員無視をした)。
「よし、ともあれ、これでにんむかんりょうですね! さあ、きじょうしましょう!」
無邪気に笑い、隊長である今剣は通信機で審神者と連絡を取った。
それからと言うもの。
夜戦で、特がついて間もないながらも薬研と共闘し、好成績を修めたことが良かったのか、二人は同じ部隊に組まれて出陣することが増えた。しかも相部屋なので、自然と一緒にいるようになるのも当然と言える。
自分を「ダメ刀」と称し、愛を注がれることにも「返せない」ことに恐怖を覚えてしまっている不動は、どうしても周りと距離を取りがちであったが、そこを何とかするのは周りに頼られる薬研だ。実に自然な流れで、粟田口の兄弟が会話しているところに自称ダメ刀の彼を引き込んだり、他の刀とコミュニケーションを取らざるを得ないような頼み事をすることで、不動をだんだんと本丸の皆の中に馴染ませていった。相変わらずつれない部分は多いが、何だかんだ他の短刀とも遊ぶようになったし、自分なんかダメだとやさぐれることは減った。本能寺のことでだいぶ屈折しているが、あれで不動行光という刀は他人と関わること自体は嫌いではないのだ。
元々織田で縁があった薬研との間に不動が築いている壁は、他の刀ほど高くはなかった。だから、彼の前でだけ見せる表情や仕草もあったし、態度もあった。薬研はそんな彼のことを好ましいと思っていたし、甘やかすことが好きだったので進んで自分の傍にくる不動を邪見に思うことは無かった。
そんな二人。
薬研と不動の仲が、進展していくのは早かった。本来ならば、女と男の間で契りを交わす恋仲という縁が、この二人の間には結ばれた。同性だからおかしい、等と言い出す者はいなかった。昔から同性愛は普通にあるものだったし、所謂人間でいうところ「常識」は、人間より長く世の中を見ている彼らにとって範囲が狭すぎるものだ。よって、本丸全体で彼らは公認の恋仲となった。
そして―――
***
月が綺麗な夜、布団の中で眠っていた不動は、ふと目を覚ました。頭の中をぐるぐる回る悩みが、彼を夢の世界から引きずり戻したのかもしれなかった。
(朝……じゃ、ねえな、全然)
全くと言っていいほど頭は麻痺していない。目が覚めたばかりとは思えないほど覚醒していて眠気が欠片もない。寝たと思っていても、実のところ睡眠らしい睡眠はとれていないのかもしれなかった。
ああ、くそ。声に出さないようにしながら心で呟き、嘆息した。
違和感がある。恋仲になってから、ではない。恋仲になってからも、と言った方が正しい。決して極端な言い方をしているのでもなく、この違和感は顕現した日から、抱いているものだ。
薬研藤四郎のことは好きだ。ちゃんと会えば胸は高鳴るし、傍にいてくれるだけで心は満たされる。もしいなくなったらと思うと背筋が凍る。感情面では、自分の薬研に対する思いの上では、問題ないのだ。薬研から注がれる愛を時折怖いと思うことは確かにあるけれど、それは自分が、注がれた分の愛を返せないかもしれないというトラウマ的な恐怖心のためである。充分愛してくれているのは重々承知だ。一切不満はない。……ただ、ある違和感が消えない。
(……分かってるんだ。何に対してか、なんて)
不動は布団の中でそっと息を吐き出し、胸を抑える。どくり、どくりと心臓が脈を打っているのを感じた。
そう。分かっている。何に対して違和感を抱いているのか、言葉で簡単に説明できてしまう。思っているばかりで、口に出したことはないのだが。
恋仲になって結構経つが、薬研の近くにいればいるほど、言葉を交わせば交わすほど、違和感は大きくなる。まさか、と思いながら、追及できないでいる。見て見ぬふりをして良いものなのか分からない。この本丸にも、「そういう」刀がいるのは知っていた。だから伝えたところで問題ないのではないかと思うも、何か危うさを覚えるのだ。それがただ怖くて、勇気が出なくて、直接確認もできずもだもだとしている自分のダメさ加減には、ほとほと呆れていた。
そして、さらに悪いことに、薬研は不動が違和感を抱いていることに気付いている。察しの良い薬研にまず隠し通すことは無茶な話だった。時折、大丈夫かと覗き込んでくるし、何かあれば相談に乗ると笑って見せてくれる。だが、他でもないお前のことで悩んでいるんだとは言えず、曖昧に答えは濁していた。最近は心配そうな目を向けて来ることが増えているが、不動が正直に答えないことはもう学んだらしく、何も尋ねてこない。
(……へし切に相談…)
いくら本丸に馴染んできたといえど、いざとなると縋りたくなるのは、かつて縁があった刀だ。だが、ふと浮かんだ名前を慌てて頭を振って消す。
(…だめだ、あいつに言ったら絶対薬研のところに直接いく)
そうしたくないから相談するのだ。直接話をしようとする刀は論外である。
(……じゃあ、宗三…?)
慎重な刀ではある。時折ぶっとんだ発言をすることはあるが、言葉と行動は長谷部と違い直結しないタイプのはずだ。アクションを起こすにしても変な機動は見せつけないので止めることができる。
考え始めたら、今すぐにでも相談したくなってきた。まだ起きているかは分からないが、宗三は意外と誰かの酒盛りに付き合わされていることも多いので、確実に寝ているとは言い難い。起きていなかったら部屋に戻ってきて、何とか寝直せばよいだけの話だ。
衣擦れの音も最小限に抑えながら、不動は身体を起こした。隣りの布団で寝ている薬研を起こしてしまうといけないと思ったのだ。
「……薬研……?」
ところが、隣りの布団は、誰もおらずもぬけの殻だった。何処に行ったのだろうと部屋の中に視線を巡らせてみるも、薬研の姿はなかった。厠にでも行っているのかもしれない。その間に自分がいなくなっていたら薬研が心配するだろうかと思い、手近な紙に手早く「すぐ戻る」と文字を並べ、枕元に置いた。
廊下に出て、宗三がいるであろう部屋へ足早に向かう。裸足で歩く廊下は少しだけ冷たい。だが、目的の部屋へ着く前に、開きっぱなしになっている引き戸を見つけて、不動は眉を上げた。確かここは書庫ではなかっただろうか。書庫を使う刀剣は限られているが、この時間帯だと流石に籠りそうな者はいない。そこで、薬研が布団の中にいなかったことを思い出して、覗き込んでみる。
「おい、薬研~? いるの、か……」
目を、見開く。
「な、んだ、これ……」
どくん、と心臓が一際大きく脈打つ。
覗き込んだ書庫に、薬研の姿はない。代わりに、棚に収まっているべき本が散乱していた。震える足で中に入った。拾い上げた本の題名は、『織田信長という男』。は、と半開きになった口から声が出た。脈打つ心臓に合わせて、手が震える。その場で屈んで、床に散乱している本を次から次へと拾い、題名を見る。『戦国武将の生涯―織田信長―』、『織田家の歩み』、『戦国時代の記録』、『桶狭間の戦いを考察する』、『信長と秀吉』、『信長包囲網とは』、『京都御馬揃えから探る』……
悉く、信長に関する、あるいは織田家に関する本だった。他の刀の生きた歴史を理解するためであるとか、審神者がきちんと知識を蓄えるために置かれている本。だが、最近で織田に関する刀は顕現していなければ、今更審神者が学ぶこともない。
やばい。
不動は、誰がこの本を読んだのか分かった。今まで自分が見てみぬふりをしてきたことは、やはり間違いであったのだと思い知る。自分がこれだけ悩んでいたのだ。相手は察しのよい刀。何に悩んでいるのか、気づいていたとしたら。
―――違う。
持っていた本を投げ捨てて外に飛び出した。夜であるにも関わらず、叫ぶ。
―――何であいつ自身が気づいていないなんて思い込んでたんだ!
「薬研! 薬研どこだ!! 薬研!!」
聞けば良かった。尋ねれば良かった。怖いとか、勇気が出ないとか、そんな小さなことは気にせずに、動けば良かった。自分は、自分で悩むばかりで、訊くのは憚られるからと跳ねつけて。結局薬研も、一人で悩んでしまった。
既に寝入っていたであろう刀達が何事だと起き出してくる。しかし構わずに、不動は叫びながら本丸中を走り回る。すると、厨から顔を出した刀が怒鳴り声を上げた。
「何なんだ騒々しい!」
長谷部だ。この時間に厨にいた理由は分からないが、彼のことだ。仕事をしていて小腹が空いたので夜食を作っていたか、飲み物を飲みに来たかのどちらかだろう。
たまらず、不動は長谷部にしがみつく。
「へし切、薬研! 薬研見てないか!?」
「見ていない! だから一体何なんだ!?」
「一緒に探してくれ! もしかしたら、あいつっ」
そのとき。何かが作動するかのような電子音が本丸に響き渡った。切羽詰まった様子であった不動と、状況が分からず顔を顰めていた長谷部の二人の表情が凍る。この音には耳馴染みがあった。だからこそ、焦る。
不動が弾丸のように飛び出し、長谷部が遅れて全速力で彼を追いかける。
「おい不動、今の!!」
「ゲートだ! ゲートが開いた!!」
耳馴染みがあるのも当たり前。先ほどの電子音は、本丸から出陣する際に必ず通ることとなる門が、何処かに繋がったときの音である。騒ぎを聞きつけた刀たちも、寝間着のまま部屋を転がり出て門に全速力で向かい始めていた。中には、咄嗟に掴んできたのか本体を携えている者もいた。
門が見えて来たところで、一人の男の背中が見える。
「薬研っ!!!」
大声で呼び止めれば、彼はくるりと振り向いた。だが、微かに笑みを浮かべるだけで、足を止めたりはしなかった。薬研は、門へと歩き続ける速度を緩めない。
「薬研、待て! 待てよ! おい!!」
必死に手を伸ばした。だが、薬研は先ほど振り向いただけで、それからは一度も振り返ることはない。
「っ!!??」
手が届くか否かというきわどい距離で、一閃が奔ると同時に指先に鋭い痛みが走る。怯んだ瞬間、腕を掴まれる。身体がふわりと浮かび上がった。ごめん、と声が聞こえた気がする。次に襲ってきたのは背中に強い衝撃で、肺から一気に空気が吐き出された。逆さまの視界で薬研が門を潜って行き、閉じられてしまうのを見届けてから、自分は彼に背負い投げられたのだと理解する。
「不動!」
真っ先に追いついた長谷部が不動を抱え起こした。
とうの不動は苦しそうに咳き込んだが、身をよじりながら首を伸ばし、あらん限りで叫ぶ。
「薬研! くっそ!」
長谷部に続き駆け付けた厚藤四郎が、門のすぐ横に備え付けられている機械に近づいて手慣れた様子で操作し、使用履歴を確認する。
「場所は厚樫山だ!」
「おい薬研を連れ戻せ!!」
厚が場所を叫び、不動の行動から兎に角薬研を止めなければならなかったのだと察した長谷部が咄嗟に指示を出した。瞬時の判断で、集まって来る刀の内の数人が、勢いを殺さず門へ向かう。
「了解、時間が惜しい、このまま行こう! 開けてくれ厚!」
「死ぬほど周回した俺らに任せとけ!」
「すぐに連れ戻してくるから!!」
言われるままに厚樫山への門を開き、寝間着のまま、本体だけを携えたにっかり青江と和泉守兼定、堀川国広が脇目もふらず飛び込んでいく。
「……ちっ」
その後ろを、大倶利伽羅が追いかけ、また門の向こうへ消えて行った。彼も勿論寝間着で、持っているのは本体だけだ。薬研を連れ戻すためだけで、決して敵の本陣に向かうことは目的ではないにしても、三人でしかも防具無しの状態で厚樫山に突入すると言うのは、無鉄砲すぎると判断したのだろう。
「伽羅ちゃん!」
「伽羅坊!」
走り出て来る太鼓鐘貞宗に続いた鶴丸国永が、すかさず振りかぶって投げた。
門を通るか通らないかというタイミングで、手を伸ばした大倶利伽羅が、きちんと受け取る。それは金の刀装・盾兵だ。
「頼んだぞ!」
咄嗟に持ってきて投げ渡すことができたのはたった一つ。だが無いより遙かにマシだ。色黒の彼が通って行ったのを、声だけで追いかけた鶴丸の声も、どことなく緊迫していた。
慌ただしく出て行った彼らを見送ると、夜特有の静けさが一度は戻って来た。何が起きたんだ、とざわめく中、興奮と混乱とで息を乱した不動は、ずきずきと痛む指にふと目を下ろして、固まってしまう。指先からは真っ赤な血が流れていた。弾かれたと思った指にできていたのは、切り傷だ。―――恐らく、薬研藤四郎という刀の、刃でできたものだった。
「っ……」
不動が表情を歪める。その目に、見る間に涙が滲んだ。
「っ…あ……あ……」
指にできた傷など、些細なものだ。きっと薬研はそれ以上に辛い。自分の選択は間違っていたのだと痛感する。でも気付くのが、遅すぎた。
「……俺のせいだ……!」
身体を丸め、不動は流血する指を握るように折り込んで、拳を作り、それを胸に押し付ける。ぼろぼろと涙が零れる。嗚咽が漏れ、声もなく泣いた。
長谷部は、そんな不動を強めに抱きしめ、恨みがましい目で門を見つめた。
薬研を追いかけた者以外の、全ての刀剣男士が大広間に集合した。真夜中の時刻ではあったが、あんなことがあった後では、とてもではないが寝直すことなんてできるはずもない。できたらそれこそ神経を疑う。
一頻り泣いて落ち着きを取り戻した不動は、宗三が持ってきてくれた冷やしタオルを目に当てながら、畳の上に腰を落ち着けている。寧ろ大変だったのは粟田口派の、薬研の兄弟達と他の短刀だ。何故彼が一人で門を通って行ってしまったのかを初めとした疑問が次々に浮上し、泣いたり喚いたりの阿鼻叫喚の有様である。
どうにかこうにか太刀や大太刀の者があやしにかかり、何とか場の空気を治めるまでにはそれなりに時間がかかった。
「一体何があったんだい」
ぐちゃぐちゃに泣いた五虎退や秋田藤四郎に冷やしタオルを配りつつ、燭台切光忠が切り出すと、不動は暗い声で答える。
「……全部俺のせいなんだ」
「あなたのせい、とは一体どういう意味で?」
一期一振が尋ねる。声は落ち着きを払っているし、粟田口の長兄として流石の威厳だとは思うが、食い気味で尋ねてくるあたり、心中穏やかではないのだろう。隠しきれない焦りを感じた。
「……お前、さっきも自分のせいだと言っただろう」
長谷部が目を細め、探るように不動のことを見つめた。
「〝自分のせい〟と言うからには、何が起きたか分かっているんだろう、お前は」
「不動。長谷部は、説明をしてくれないと力になれないと、言っているんですよ」
横から宗三の声が飛ぶ。それに長谷部は不快そうに眉根を寄せたが、何も言葉は添えなかった。つまり、彼の言ったことは事実であるということなんだろう。
不動とて分かっている。長谷部とは馬は合わないが、何かと気を遣ってくれているし良い刀であることくらい知っている。ぎゅっと握った拳に力を込めた。指先は微かに痛むが、既に止血はしてあるし包帯も巻いてあるので問題はない。
「……俺も、あくまで予想みたいなとこはあるんだけど……」
ちらりと、並んで座っている鯰尾と骨喰に目をやった。
視線を受けた二人はきょとんとした顔になり、互いの顔を見合わせてから確認するように自分達を指さす。
「俺達が、関係あるの?」
「関係があるって、言うか…その……あんた達はさ、昔のこと覚えてるか?」
他の刀の表情が、不動の質問に硬くなる。
顕現した当時から、鯰尾にしても骨喰にしても、「焼けて記憶がない」と明言している。今更、記憶がないことに後ろめたさのようなものを感じている節はあまりないが、辛いことがないわけではない。一期と共に大阪へ向かった際、鯰尾は自分が燃えない道を探りたいと思ってしまったし、骨喰は「久しぶりだ」と挨拶してきた三日月宗近に「誰だ」と言って、悲しい顔をさせてしまった。記憶さえあればと思うような場面はいくらでもあるのだ。
誰もが、そんな鯰尾と骨喰の胸中は察していた。察するだけで、彼らにはどうにもしてやれない。だから二人に対しての記憶の話題をしてはならないというのは、暗黙の了解だった。
「何も覚えていない」
骨喰が答える。
「俺の記憶にあるのは、熱い炎のことだけだ」
「俺も同じ。時々、記憶かもって思うものが見えたりすることはあるけど、はっきり言えるものはほとんどないかな」
「それは、やっぱり燃えたからだと思うか?」
問いに、二人は頷く。覚えているのが熱い炎だけという時点で、記憶を失うことになった出来事にあたるものはそれくらいしかない。
目許に当てていた冷やしタオルを下ろして、不動は考える仕草をしていると、黙っていた宗三が眉根を寄せた。
「……不動。まさか、薬研は……」
「…全部じゃねえとは思うけど」
長谷部も宗三も顔を顰めているので、恐らく思い当たるものはあるのだろう。ならば不動が抱いていた違和感は気のせいではないはずだ。
ずっと胸にしまい続けていたことを口に出すのは、思ったよりもしんどかった。錆びついた引き出しを引っ張っているような気分である。だが目を背けるべきことではないことも、よく分かっていた。
「……薬研には昔の記憶が欠けてる」
不動は、自分が感じて来た違和感を全て吐き出していった。
最初に感じたのは顕現したばかりのときだ。本丸を案内してもらって、最後に部屋へ連れて行ってもらったとき、何故自分のことをダメ刀と称するのかと尋ねて来た。それに、何を言っているのだと思いながら、本能寺のことを語った。自分は、何もできなかった。助けるどころか、間に合わなかったと言ったのだ。それに対して、薬研は何と言ったか。
『お前はちゃんと来てくれた』
否だ。本当は、不動は薬研のところに、「行っていない」。比喩でも何でもなく、純粋に間に合わなかったのだ。必死に、信長と薬研がいるであろう部屋を求めて走ったが、たどり着く前に本能寺は爆発を起こした。何度も何度も呼んだのは確かである。だが当然、会話なんかできなかった。不動がちゃんと薬研の姿を見たのは、明智光秀率いる兵が攻めて来る前。外は任せたと、信長が蘭丸に伝える際、顔を合わせたきりであった。
薬研はそうは言わなかった。彼の話をそのまま飲み込むとすれば、不動は間に合ったことになる。でもそんな事実はない。開きもしない扉を叩いた記憶なんてないし、炎の中から助けようと躍起になっていたことなど本当は薬研は知らないはずだ。最期に不動の声を聞けただけで充分だとも彼は言った。最期に不動は、薬研と喋っていない。
「そんとき、こいつ記憶ないんじゃって聞こうかと思ったけど、すげぇ嬉しそうに喋るし……今度また聞こうって思って、後回しにしてた。…でも初めて夜戦に行ったときに、薬研は、安土城での俺との会話を覚えてた」
全て忘れてしまっているのに、都合のいいように記憶を捏造しているのかと思っていたが、それだけではないらしいと気付いた。
嬉しかった。共有できる記憶があることが分かってほっとした。
だが、一緒にいることが増えて、言葉を交わすことが増えて、違和感はどんどん大きくなる。覚えていることがあっても、話していると、忘れていることの方が圧倒的に多いということが嫌でも分かった。織田家にいた時代の、思い出話になるのは仕方ないのだが、どうしてもどこかで話が噛み合わなくなる。その内、薬研が楽しそうに話す「奇妙な」記憶を、そんな事実はないと言い出せずに不動がひたすら聞くばかりになっていった。
でもそれでは薬研が寂しそうにするものだから、不動は慎重に話す記憶を選んで聞かせた。下手を打ったことは勿論ある。薬研がぽかんとしてから、慌てて笑顔で頷いている時なんかは恐らく、記憶にないことを言われたのだろう。でも彼は笑いながら話を合わせた。
「……へし切、宗三。噛み合わねえなって思ったこと、あるだろ」
自分よりも聡いはずのお前らが気付かないわけがないだろう。言外に含まれた意味もすぐ汲み取ったらしい長谷部が肩を竦める。
「…俺達はお前ほど、織田信長の話はしない。……だが」
「薬研があの男の話をしたときに違和感を感じたのは、否定しません」
でも不動のように沢山話をしないせいで、一時の勘違いだと思うだけだったのだろう。実際、薬研には記憶がないことによって悲観的になる側面もなかったし、本丸での生活は滞りなく送れていた。
だから不動でさえ、今日まで気づけなかった。自分が考え込んでいたときに、薬研が考え込んでいたことに。
(昔からそうだった、あいつは)
誰よりも傍にいて、彼を見ていた分、責任を感じる。昔の薬研を知っている。本質的に何も変わっていないのも分かっていた。
『どうした、行光』
『…………』
『……お蘭のことか? 珍しく大将に叱られてたもんなぁ』
『…………』
『…うーん。じゃあ、話してくれるまで、隣り、邪魔するぜ』
『……何で』
『お前の悩みはお前だけのもんじゃないってな。聞かせてくれ』
彼は、誤魔化すのが上手すぎる。相談を受ける方が性に合っている、そんなことを言いながら自分の悩みは誰にも言わない。悩んでいる素振りも見せない。
『薬研、元気なくね?』
『そうか? ちと夜更かししたからな…眠いのかもしれん』
『ふぅん……そりゃ、俺たちは人間よりずっと丈夫だけどさぁ。あんまそういうことするなよなぁ』
『だが大将が起きてあれこれやってるのに俺が眠るわけにもいかねえよ。行光も、お蘭が夜遅くまで起きてたら付き合うだろ?』
『……そうだけど……って、信長様、最近そんな夜遅くまで起きてるのか!? 俺たちも手伝えたらいいのに…』
『まあ、俺たちは人間には見えんからなぁ』
いつも自然体で誤魔化す。それっぽい理由をつけて、尋ねてきた相手が納得してしまう言い回しをする。そして、いつの間にか話題をすり替える。そうなるように仕向けて、言葉を進める。
『俺だって信長様の…蘭丸の刀だ、お前の助けくらいになれる!』
『はは、逞しいな』
『……だから……一人で悩まないで、俺にも、話せよ』
『………』
『……薬研』
『……そんな顔すんな。俺は大丈夫だ』
誤魔化しきれないほど、辛いことがあったときでも。どんなに自分がいると訴えても、あの刀は何も言わない。逞しいとか頼りにしてるとか口先だけは頼るのに、いざ聞き出そうとすれば困った顔で笑うのみなのだ。
薬研藤四郎は、そういう刀だった。
「……ごめん。俺がもっと早く何かしてれば……」
不動は粟田口派の刀が固まっている方を向くと、深々と体を折った。
話に聞き入っていた彼らは沈痛な面持ちで見返し、中でも前に座っていた乱がゆるりと首を横に振った。
「不動が謝ることじゃないよ。薬研は、不動と本丸に来てから、凄く嬉しそうだったし楽しそうだった。不動に話さなかったことは、僕たちにもきっと話してくれなかったと思う」
「恋は盲目ってこういうことかーって言うくらい、ぞっこんだもんなぁ、あいつ」
便乗した厚が笑ってみせる。笑い方が薬研とよく似ていて、不動は一瞬見惚れそうになった。同時に、責任を感じている自分を安心させるために、兄弟刀である彼らは辛さを押し殺して笑っているのだと思うと、無力感と自分への怒りは一入だ。怒りが変な方向に滑って、これだからお前の眷属は、と薬研に怒鳴り散らしたくなってくる。
「でもそれなら、薬研はどうして本丸を出て行ったんだ? 不動のことが好きなら、忘れてることが多いことに気づいてもここに残ればいいじゃんか」
太鼓鐘の発言も尤もだが、そこが薬研の難しいところだ。あくまで、彼の言い分は「薬研の記憶がなくても気にしない」、すなわち此方側の意見なのである。
「……ああ。だけど……薬研はずっと、俺が悩んでるのを心配してくれてた。……自惚れじゃなけりゃ、だけど。もし、それが自分の記憶が欠けてるせいだって考えてたら……あいつは………」
「……薬研は自ら折れようとするでしょうな」
言いにくい予測を、はっきりと口にしたのは一期だった。全員の顔に緊張が走り、不動だけが唇を真一文字に結んだ。
「…弟は皆責任感が強く、粟田口の刀として誇りを持っております。ただ、薬研は責任感が強いと同時に、不動殿と似た部分も併せ持っている。自分のせいで起きたことは、自分を酷く責めながら、全力で何とかしようとするでしょう。しかし……」
「……記憶が無いのは、どうしようもない。ならば不動に浮かない顔をさせる自分は消えてしまえば良い、か」
一期の言葉を次いで言った長谷部は顔を歪め、馬鹿がと吐き捨てた。
織田信長の時代が終わった後の世で書かれた作品を読み散らかしたのは、自分が失っている記憶を再確認したかったからなのか、それとも記憶を求めてしたことなのかは分からない。だが薬研は嫌と言うほど自覚してしまったのだろう。自分に欠けているものを。
不動とて思う。あの馬鹿、と。
あくまで推測の域を出ないが、ほとんど確信していた。何故なら、彼らは分霊である自覚がある。自分たちがいなくなったところで、本丸での記憶や経験がリセットされた新しい自分が顕現することが可能なことを知っている。演練でも他の本丸の自分に出会ったことはあるし、実際に言葉を交わしたこともある。本丸ごとに個体差があるのも知っている。
炎に焼かれたことで、記憶が欠けるというなら。「昔の記憶を保持していない不動行光」がいる可能性だって勿論ある。そして、「昔の記憶を保持している薬研藤四郎」がいることも、誰も否定できはしない。
(お前以外の薬研なんかいらねえよ)
何も分かっていない。織田にいた時代の話がどんなに噛み合わなくても、寂しいと思っても、不動が好きなのは今、恋仲である薬研だけだ。きっと新しい薬研藤四郎を顕現されても、その薬研と恋仲にはなれない。関係を築くのは早かったけれど、安易な気持ちで恋仲になったつもりはない。簡単に他の同位体で上書きできはしない。
でも薬研は周りに頼らない分、良くも悪くも自分の意見に自信を持っている。自分のことになるととくにだ。だから急にこんな動きをしたのだろう。
指に巻いている包帯をそっと撫でて、顔を顰めた。
門を通って行った薬研の後を追いかけたのは、かつて、厚樫山で地獄の周回を経験したと言う刀達だ。何でも当時、かの天下五剣が存在すると噂され、政府から早急に手に入れるようにとお達しがあった際、審神者の指示の下死に物狂いで探し求めたのだと言う(問題の天下五剣の一口は無事発見され、現在集合している刀達の中に並んで座っている)。おかげさまで彼らはあの戦場に関してはまるで庭のように走り回れるし、練度も十分であるので信頼できる。
早く帰ってこい、薬研。
祈る気持ちで両手を組み合わせた瞬間、
「っ!?」
「ゲートの音!」
丁度のタイミングで、また、本丸に電子音が響いた。門が開いた音である。
先ほどとは違い、全員の目がしっかりと覚めていたこともあって、皆が我先にと外へ飛び出していく。急ぎすぎて誰かは判然としなかったが、襖を盛大に蹴倒したりもした。だが今は誰も咎めなかった。あとではめれば良い。
無論、不動も急いで外に出て、裸足のまま縁側を飛び降り、門へと走った。気を遣っているのか、そのすぐ傍を長谷部と宗三が走った。不動が心を比較的許している刀が傍にいるというのは、やはり、心強かった。だから無根拠にも、大丈夫なはずだと思った。戻ってきた薬研は落ち着きを取り戻して、先ほどのことを謝ったりするのだろうと思った。
「――――え」
だからまたしても、最悪の方向に予想が裏切られると、思考は停止せざるを得なかったのだ。
向かった門から帰ってきたのは、にっかり青江、和泉守兼定、堀川国広、大倶利伽羅。……薬研藤四郎の姿は、無かった。
戻ってきた彼らは全員、傷だらけだった。大倶利伽羅だけが他三人を両脇と背中とに無理矢理抱え込み、よろついた足で門を通ってくる。が、数歩歩いたところでずしゃりと膝をつき、倒れ込んだ。
「伽羅ちゃん!」
燭台切が叫び、伊達の刀が一斉に駆け寄る。
「青江さん!」
普段は緩慢な動きである石切丸が血相を変えて叫ぶと、大急ぎで彼らの元へ向かった。
「和泉守!」
「堀川!」
驚愕して固まっていたが、他の刀らの声で我に返ったのだろう。一拍遅れてから加州と大和守が急いで傍に寄る。
それから、誰からともなく、帰ってきた彼らに走り寄る。近くで見れば、皆痛々しい傷を体中に負っていた。寝間着の至る所から血が滴り落ち、顔色は真っ白。意識があるのは大倶利伽羅だけだが、彼も意識がある方が不思議なほどの怪我を負っている。
燭台切が大倶利伽羅を抱え起こすと、ころころと丸い玉が転がった。黄金色であったそれは真っ黒になり、ひび割れている。もう何も効力がない刀装だった。
「すま、ない……」
「どうしてこんな……!?」
「何でだよ伽羅ちゃん! 伽羅ちゃんならあの戦場の敵なんか大したことねえだろぉ!?」
しぶく血を止めようと、気休めにしかならないものの傷口を手で抑えてやる燭台切の隣で、太鼓鐘は涙声で言った。すると、大倶利伽羅は顔を顰めたまま、違う、と吐息と共に言葉を吐き出す。はくはくと開閉される口は、言おうとしているにも関わらず、なかなか言葉が声に乗らないようで、もどかしそうだった。喋っちゃだめだよ、と燭台切が心配そうに叱るものの、それでも喋るのをやめようとしない。
どうしても、何かを伝えたいようだった。様子を眺めていた鶴丸が、彼の金色の瞳が、不動に向いていることに気づいた。微かに目を見開き、息を呑んでから腰を屈める。焦点はあまり合っていないが、傍を動いた鶴丸に大倶利伽羅の目が寄った。
「……伽羅坊たちは敵にやられたわけじゃない。合ってるなら瞬きしてくれ」
すると、傷だらけの伊達の刀は、口を開こうとするのをやめて、一度、はっきりと瞬きをして見せた。
敵にやられたわけではない、ならば一体誰が?
はくり、とまた彼は口を開けた。今度は、きちんと言葉が、声に乗る。
「……や……げ、ん……」
震えた声は、決して大きくはなかったけれど、よく聞こえた。
そしてやっとの思いで告げた大倶利伽羅は、意識を失った。
***
目が覚めた。襖の隙間から朝日が差し込んできている。瞼に手をやると、微かに熱を持っていてぴりぴりと痛んだ。溜息を吐いてから起き上がる。隣りの布団は変わらず敷いてあったが、いつもならそこに寝ている短刀の姿はない。自分のものと隣りの布団を畳み、しかし押入れに運ぶのは面倒なので、足で押して部屋の隅に追いやった。
置いている戦闘装束に手を伸ばし、寝間着を脱ぎ捨てて、いつもよりも長く時間を掛けるように注意しながら身に纏った。赤いネクタイを首に巻き、締め付けられるのは苦手なのは変わらないため、首元は緩めておく。
――――たまには、しっかり締めたらどうだ?
空耳だ。気配は感じない、でも声だけが頭に響く。
「……うるせぇな。俺の勝手だろ。ほっとけよ」
――――ちょっといつもと違うお前も見たいんだよ。
「知らねえ」
――――なあ、ゆーき。
「んな声出しても嫌なもんは嫌だ」
空耳だと分かっていても返事をするのは馬鹿げているだろうか。他の刀がこの光景を見たら、青い顔をするかもしれないかもしれない。そう考えられるから、自分はまだおかしくなどなっていないのだと自覚する。
…おかしくなど、なっていられるか。
靴下を履く。ジャケットを纏い、おろしたままであった髪を慣れた手つきでまとめあげ、頭の後ろの高い位置で結う。文机の上に置いていた防具を取り、装着した。甘酒の瓶が視界に入ったが、今日はそのまま無視をする。
――――ごめん。
自分を背負い投げたとき、彼は確かにそう言った。何を謝ったのかは分からない。手荒な事をしてか、もっと別のことか。生憎自分は、あの一言の謝罪が何に向けられたのかをすぐに理解できるほど、察しは良くない。
襖を開けて外に出て、一瞬不動は驚いた表情になった。そこに、一期が立っていたからだ。
「不動殿」
目の前で深々と頭を下げられる。紡がれる言葉が、あんなことが起きても薬研を弟として大事に思う長兄として気持ちとして、そして刀派をあずかるものとしての責任として、心に響く。
さすがだよ、お前の兄貴は。呟かずにはいられない。
けれど、自分は聞き分けも良くないし、いつまでも過去に縋っている刀だ。やすやすと聞き入れることはしない。きっぱりと言い放てば、一期は困った顔で笑うだけだった。
「弟を宜しくお願いします」
自己卑下の塊の自分だ。胸を張って任せろなんて言えやしなかったけれど、不動なりに良い返事はしたつもりだった。
廊下を歩きだす。最初に厨に寄った。
「不動くん」
入った瞬間、待ち構えていたかのように、燭台切が「おはよう」と挨拶をしてきた。浅く頭を下げて挨拶を返す。差し出された皿に乗っていた卵焼きを手で摘んで食べ、大きなおむすびにもその場で立ったまま齧り付いた。ただの塩の握り飯だとばかり思っていたので、中に梅干しが入っていたのには思わずぎゅっと唇を窄めてしまう。
「驚いた? 元気が出るでしょ」
驚きを提供するのはお前じゃないだろうと思いながら、曖昧に頷き返すしかない。
後ろで物音がした。振り向けば厨の戸口に鶴丸と太鼓鐘が立っている。
「不動」
まず、不動は太鼓鐘に駆け寄られ、痛いほどに手を握り締められた。支離滅裂で、何を言いたいのかとんと訳が分からなくて、格好良さを強調する彼らしくなくて、噴き出してしまえばまた文句を言われた。ならばもう少し毅然としていればどうかと言えば、何とも言えない顔で睨まれた。
鶴丸は神妙な顔で歩み寄ってきて、一つの箱を差し出した。もしかしたら役に立つかもしれないから持っていけ、と言うのだ。しかし、刀装を入れるにしても大きすぎるし、何が入っているのかと問うと、確認すればいいじゃないかとの発言。言われた通り、その場で箱の蓋を開けると、中から大きな兎の人形が飛び出してきて、びよよん、と空中で静止した。中につけられたバネについているようで、俗にいう吃驚箱である。
目を白黒させた不動に「どうだ驚いたか!」と満面の笑みで言われては、先ほどの燭台切のことも相まって本家はもっと酷かったなあと思わざるを得ない。
鶴丸には、それから目の高さを合わせられ、肩に手を置かれる。横からも太鼓鐘に、後ろから燭台切に、肩に手を置かれ。
「君ならできる」
こんなダメ刀にできるか、とは言わなかった。その代わり、そっと肩を竦めておいた。
腹を満たした不動は、厨を出て、玄関口へ向かう。途中で、祈祷室の前を通ったのだが、そこで呼び止められた。
「不動さん」
祈祷室の中を覗き込むと、そこでは石切丸が正座をして手招きをしていた。促されるままに中に入ると、彼から差し出されたのは青の生地で作られたお守りだ。一見、審神者から出陣部隊の全員に配布されるものと同じものだが、実際に手に持った不動には、全く同じものではないことはすぐに知れた。
知らず、お守りを持つ手に力が籠る。しかしすぐ、身体を抱き締められた。優しく、強く。大太刀の腕の何と長く、掌の広いことか。ぽんぽんと背中を叩かれる。
「祈祷しながら待っているよ」
確信に満ちた声で、付け足された言葉に、不動は頷くのがやっとだった。
受け取ったお守りをしまって、不動は今度こそ玄関口へ向かった。行儀よく並べられている靴から愛用している革靴を見つけて、足を突っ込む。外に出て、別棟にある刀装部屋に行く。不器用でいつも適当に作ってしまっている手前、果たしてまともなものができるだろうかと、ふんわりとした不安を胸に戸を開けると、そこには先客がいた。加州と大和守だ。
「やっと来た」
他の刀は既にここに来た後だとも言われたので、確実に自分は遅刻だ。内心焦る。
分けられている資材を取ろうとすると、二人に止められた。急いでいる分不快そうな声が出てしまったが、目の前に金色の刀装が差し出されていてぽかんとしてしまった。
「迷ったけど、不動が一番求めてるのはこれかなってね」
重歩兵の刀装だ。一つの刀装であったが、そこからは二人分の神気を感じられた。不動、と名前を呼ばれて顔を上げると、いつもと何も変わらない様子で言葉を掛けられた。当然だと思った。でも、当然だ、と言葉にして返せないのは、やはり自分がそんな大層な刀ではないと常日頃言ってしまっているからか。不動が何も言わないことに関しては予想しえたことなのか、加州と大和守に豪快に頭を撫でられた。その場で髪は、結い直した。
気持ちは決まっている。どうなるかは分からない。しかしもう迷う段階はとっくに踏み越えた。あとは、進むだけ。
「遅いぞ」
門までやってくると、既に戦支度を終えて立っている刀がいる。へし切長谷部、宗三左文字。へいへい、すいませんねー、と答えると緊張感がないと怒られた。ただ、いつもほど本気の叱り方ではなかった。
「行けますか、不動」
昨日までは心配そうであったが、今はそんな気配はない。こんなところで、彼らにまで気遣われてはたまらないと思っていたので、不動からしてみれば有難かった。
「行けなくてここには来ねえよ」
自分でも驚くほど、声は震えておらず、はっきりとしていて、凛と響いた。
全員の耳に通信機がはまっていることを確認してから、電子音が大きくなる。
門が、開いた。
この本丸の審神者は、基本的に刀内の揉め事には関わらないようにしてくれている。人間に踏み込まれたくないこともあるだろう、ましてや刀がいた時代を知らないような者が。そんな気遣いのためだ。それは何だかんだ有難くもあり、誰もが感謝と謝罪をしつつそのスタンスを受け入れていた。だが、その審神者が大急ぎで部屋から出てくると、早急に青江と和泉守、堀川、大倶利伽羅の手入れを始めた。すぐさま対応してくれたので、寝ることはなく仕事をしていたか、騒ぎを聞きながら何となく身構えてくれていたのか。何にせよ、気にしてくれていたのは確かだろう。
だが手入れは難航した。薬研にやられたとはどういうことなのか、詳細を聞きたいと思い、霊力を一気に引き出して手入れのスピードを各段に上げることのできる手伝い札を利用しようとした際、何も効力を発揮しなかったのである。それでもここの審神者の霊力は元々基準値を大きく上回るほどのもので優秀だ。全力をかけて手入れを行い、どうにか数時間で四口分の刀の手入れを済ませた。だがそれはあくまで、傷を治したという段階であるだけだった。手入れを受けた全員は目を覚まさなかった。通常ならばすぐ目を覚ますはずなのだが、やはり審神者の霊力が馴染むまでに時間がかかっているということになるのだろう。
不動の指の傷も治すのにはいつもよりも時間がかかった。よりにもよってこのタイミングで審神者が不調なのかと思いきや、審神者は当たり前だという顔をしていた。
――――刀剣男士同士がつけた傷は治りが遅い。
それは、審神者の研修でも教わっていることだったのだと言う。つまり手入れの進まなさ加減から見ても、本当に彼らは薬研によって傷つけられたのは確定らしい。
『薬研兄さんは……堕ちたの、ですか』
五虎退が半泣きで尋ねれば、それもまた、違うと首を振る。
薬研は、堕ちかけなのだと。
完全に歴史修正主義者として堕ちた場合、審神者と刀剣男士の間にある主従としての縁はぷつりと切れるらしい。だが、審神者にはまだ「薬研藤四郎」の存在を感じられていた。不動も、薬研とは契りを交わしている間柄のためか、審神者が言わんとしていることはすんなりと理解できた。
刀剣男士が刀剣男士に刃を向けた場合、その時点で政府は「堕ちた」ものとして処理をし、まだ縁が残っていても切ることを指示する。だが審神者は「政府にバレなきゃ問題ない」と笑った。この本丸の薬研藤四郎は彼だけだときっぱり言い切った。それに堕ちるときは一気に堕ちるのが普通のはずなので、薬研にはまだ迷いがある、と推測もした。
何が原因で彼が堕ちるようなことになったのかは皆目見当もつかないが、それを探るのは連れ戻してからでも遅くはない。
『俺が行く』
不動が身を乗り出す。
『こうなったのは多分、全部俺の責任だ。俺が薬研を連れ戻す』
審神者は迷っているようだった。薬研と不動の間には、練度差がある。加えて歴史修正主義者の力を少なからずとも持ってしまった薬研の強さは、今のところ測定不能だ。彼がどんな動きをするかも分からない。堕ちかけとはいえ、正気とは言い難いだろうことも考えなければならない。
『頼む。……行かせてくれ。……薬研を助けたい!』
なかなか、自分が行くことによしと答えてくれない審神者に焦れて、不動は四つん這いで前に出てくると、土下座をした。畳に額をこすりつけるようにしながら、懇願した。
すると、その横にもう一人並んだ。彼のように土下座はしなかったが、正座をした宗三が口を開く。
『僕も行きますよ。薬研藤四郎は織田の刀です。織田の身内で解決するのが筋と言うもの』
驚いて顔を上げた不動に、宗三は何も言わなかった。理由としては無理矢理すぎる。身内と言うなら粟田口の刀派――すなわち兄弟刀の方が納得いくものだし、本丸にいる時点で誰もが身内だ。だが毅然として発言した彼に、咄嗟に周りの刀は何も言い返せなかった。
反応が出来たのは、長谷部だけだ。
『つまり、俺もか』
『異論がありますか?』
『……』
言葉では答えず、呆れたように肩を竦める。不動を挟む形で、宗三とは反対側に長谷部が出てくると正座をする。
とうとう、審神者は折れた。練度に関しては頭打ちの二人が一緒に行くならと。だが、絶対に生きて帰って来ることが条件として出された。長谷部と宗三はすぐに頷いたが、最悪薬研だけでもと思っていた不動は返事が遅れた。そこからまた「やはり不動はだめだ」とか、「帰って来る、絶対帰って来るから」とか、不毛な言い争いが始まるのだが、結果として不動は行くことを許可された。
もっと数は多い方が良いのではないかと、織田にいたこともある鶴丸や燭台切も一緒に行くことを望んだが、怪我を負って今も眠っている大倶利伽羅の傍にいてやってくれと意見が揃い、結局同行する話はなくなった。
諸々の予定を決めた後、少しでも睡眠を取った方が良いと、審神者を混ぜた全員での話し合いはその場でお開きとなった。三日月や骨喰が不動に近づいて、言葉を告げ、いなくなる。そのときに、不動は仲間に気を遣われたのだということに、何となく気付いた。だから、刀が皆出て行って、審神者も出て行って、長谷部と宗三と自分だけが広間に残った瞬間、大声で泣いたのだ。何で、とか。どうして、とか。別に誰を詰れるわけでもないだろうに、長谷部や宗三の胸を叩いて、ひたすら泣き喚いた。それを、不動に付き合った織田の刀は、甘受した。
やがて、泣き疲れて眠った不動の身体を宗三が抱え部屋に運び、長谷部は冷やしタオルの替えを取りに行った。
長い、長い夜だった。
***
残った微かな縁で審神者が探し当てた薬研の居場所に、門から直接飛ばす。そう言われていたので、門を潜り抜けた先を見るまでは、どこに行くのかは分からなかった。だが、実際に来てみて、彼らは一様に息を呑む。見覚えがありすぎる景色だったのだ。
「ここって……」
「……どういうつもりなんでしょうねぇ、あの子……」
不動が呆然と呟き、宗三が目を細める。遠く、二人の視線の先にあるのは、かの織田信長が最期を迎えた、本能寺。まだ火に巻かれる前の姿だ。時刻はもう日も暮れているので、ほどなく火に包まれることになるのだろうが。
(何考えてんだ、お前…)
不動は眉根を寄せる。この時代に来る歴史修正主義者の目的は、織田信長に謀反を起こす明智光秀の軍を討つことで、本能寺の変を無かったことにすることであったはず。だが、堕ちた――否、堕ちかけた薬研が時間遡行軍に加担するとして、何の意味があるというのか。
俺達の役目は歴史を守ること。何度も不動にそう言っていた彼が、どうして今更そんなことをするのか。分からない事だらけで頭が痛くなってくる。と、
「伏せろ!!」
周囲を見回していた長谷部が、不動と宗三の頭に手をやって、強引に地面へと押し倒した。三人が倒れ込んだところで、立っていたところを矢と銃弾とが通過していく。咄嗟に発動した三人の刀装は、何と一発で全て吹き飛んだ。背筋が凍る思いをしながらも急いで身体を起こし振り向けば、彼らがいる場所よりも更に上の高台に敵はいた。思わず顔が引き攣る。見慣れた敵ではある。だが、この時代に出没する時間遡行軍よりも強い瘴気を放つ、赤い光を纏った歴史修正主義者達は、明らかに異質だった。
「甲、だと……」
鯉口を切りながら、長谷部が敵を見据えながらも驚きを隠せないで呟く。
審神者や刀剣男士の間で、敵の放つ瘴気の強さ、色、それに斬撃の強さ等の情報から分類する際の通称で、「甲」とは知る中でも最も強い敵であったはずだ。
「躱したか。流石だな」
大太刀の上に乗っていた人影が、身軽に飛んで前に出て来る。不動はそれを見て、変な風に息を吸ってしまいそうになり、喉に力を込めて堪えた。こんなところで混乱してはいられない。分かっていたことじゃないか。
他の歴史修正主義者よろしく体から骨が出ているなんてことはなく、姿は変わっていない。だが、放つ澄んだ神気は見る影もなく、赤黒く重い瘴気を小さな体に纏っている。
「だが俺も驚いてんだぜ。まさかもうここを嗅ぎつけられるなんて思わなかった」
薬研の目が、不動に向く。
隠す様子もなく、くしゃり、と泣き笑いのようになりながら。
「……まあ、来る気はしてたが。何で来ちまうかなぁ……」
「っ、やげ」
「だがもう遅いぜ」
不動が呼びかけようとしたのを遮って、薬研は先ほどの表情から一変、嗜虐的な笑みを湛える。
「俺は戻る気はない。大将にすまねえと伝えてくれ」
「できない相談だ」
長谷部が素早く切り返す。
「どうして」
「お前を連れ戻すようにとの主命だ」
「俺はもう堕ちてるのにか?」
「それでもだ」
「新しい薬研藤四郎を顕現すりゃあいい話だろ」
「俺達の本丸の薬研藤四郎はお前だけだと、主が仰せられた」
「へえ」
馬鹿にするように笑った。前の薬研なら絶対しなかった笑い方だ。
「だからって戻る理由にはならねえな」
「主命に背く気か」
「本丸に俺の記憶が全部戻る方法があるなら戻っても良いが?」
びくり。不動は身体を震わせた。柄に手を添えたまま、動けなくなる。
彼の様子に気付いた薬研は腕組みをした。
「行光が苦しそうだ。そいつ連れてさっさと帰れ。そうすりゃ意味も無く攻撃なんて無粋な真似しねえから」
ああそうだ、と付け足す。
「…行光、せっかくだから言っておくな」
「な、にを……」
「……ごめんな、色々。でももう終わらせるから」
「は……」
何を言っているのか分からない。だがとうの本人は説明する気などもうないのか、軽く笑うだけだ。再会した薬研は、不自然なほど、笑ってばかりだ。
「…俺達もそんな時間がないんだが……そうだ。じゃあ三つ数えるから、その間に帰ってくれ。できるだろ、長谷部、宗三? 行光の腕掴んで門開くだけだ。難しい事は何もない」
いーち。
長谷部と宗三に、苛立ちと焦りが滲む。互いの顔を見合わせ、しかしどちらも動き出すことができずに薬研と敵刀剣とを見上げた。
にーい。
薬研が何をしたいのか分からない。覚悟してきたつもりなのに、いざ会ってみれば深刻だった。取り付く島もない。
さーん。
不動が、歯を食いしばった。
薬研の目が妖しく光る。
「……時間切れだ。こいつらは厚樫山で俺がスカウトしてきた可愛い仲間でな。適当に遊んで……やられてくれや。御三方」
薬研が短刀を抜いた。それが待ちわびた合図かのように、薬研の後ろで大人しくしていた歴史修正主義者達が飛びかかって来た。
だが、同時に。
「不動!?」
刀を抜いた長谷部と宗三が叫んだ。
弾丸の如く、不動が地を蹴り跳び上がる。錆びたように動かなかった刀を、鞘から抜き放った。蠢いていた大太刀の背中に降りて、また蹴り、一直線に薬研のところへ向かう。
呆けた様に見ていた薬研が、おっと、と軽く言いながら後ろへ飛び退った。不動の攻撃は掠りもしなかったが、同じ高台に立つ。適当に間合いを取って、向かい合った。
……笑えない。
短刀を持つ手に、自然に力が籠る。どうにか冷静さを保とうと思って、唇を噛み締めて、そこに血が滲むのを感じる。口の中に鉄の味が充満するのは、別に初めてじゃあない。だから意に介さなかった。
ちっとも今の状況を、笑えやしない。
下から剣戟が聞こえる。どうしてこんなことになっているんだろうと、何度目か分からない自問自答を始めそうになる。彼のそんな悪癖を、覚えているからだろうか。先制を取られたにも関わらず、薬研から斬りかかってくることはない。此方が興奮で乱れた呼吸を整えている間も、ただ待ってくれている。これは、慈悲か、何なのか。
「……何してんだよ」
言葉を発した口の中は渇いていて、上手く言葉を紡げたのだろうかと分からなくなる。だが、前にいる相手は、困った様に眉を下げて笑い、肩を竦めていた。そうした反応が返って来るということは、ちゃんと言葉が届いた証だろう。
「見て分からねえか?」
「分からねえよ。分かりたくもねえ」
返事をしてくれたことに喜びを感じないのは初めてだった。距離を詰めようと思えない。でもこれ以上離れたくもない。
「そうか? お前なら他の奴らよりは理解があると思ったんだがな」
「何で」
「だってお前は顕現したときから、信長さんのことを悔やんでいただろ」
―――愛された分を返すことができなかった、ダメ刀だよ…
自分がそう言葉を繰り返していたせいで、彼に揺さぶりを与えてしまったのか。もしそうなら、それこそ悔やんでも悔やみきれない。
「……俺の方は、お前がまさかこんなことするなんて思ってなかった」
「ははっ、悪いな。驚かせちまったか?」
「白い鶴よりもよっぽど悪趣味な驚かし方だよ、ふざけんな」
そっか、と笑う。一対一で話す彼は、「堕ちた」とは思えないほど自然で、いつも通りで、だからこそ寒気がした。
薬研は、対峙している不動を見て、真紅の目を三日月型にして、微笑する。慣れ親しんだ、藤色ではない。血のような紅に染まった瞳である。
「一応、お前の口からも聞かせてくれ、行光」
「何だよ」
「お前は、『ここに何しに来た』?」
ちり、と頭の端が痛む。痛みに耐える顔をする彼を見ていられなかった。でもここで逃げ出すために自分は来たのではない。
……自分は、薬研藤四郎を、
「……『助けに来た』」
「助け」
「薬研」
不動は刀を持っていない方の手を持ち上げ、薬研に向けて差し伸べる。
「……帰るぞ」
「………」
ぎゅっと、一度目を瞑った薬研は、悲しさに染めた目を向けて、言った。
「……行光。ここが、いつか。分かるか?」
「……それをわざわざ訊くのかよ」
「なら、分かるんだろ?」
「……天正十年。六月二日」
「つまり?」
「……〝本能寺が炎に包まれる日〟だ」
分かり切っている。分かり切っているけれど、やはり胸が痛む。
はは、とまた軽く笑う声が聞こえた。薬研の声だ。
「…違うな」
ずっと向けられていなかった短刀の切っ先が、此方に向けられる。ああ、やっぱりそうなっちまうのか、と不動は歯噛みしながら、手に持っていた自身の短刀を構えた。火薬の匂いがする。剣戟の音がする。共に来た刀と、相手と共にいた刀とが、刃を交えている。そうだ、ここは戦場だ。
彼はこの上なく悲しそうに瞳を揺らしてから、改めて不動をそこに映した。
「『まだ炎に包まれてなんかいない』。この日、本能寺は、炎なんかに包まれなかったんだ」
「……薬研……それは、違うだろ」
「……じきに明智光秀の軍が来る。お前の相手をしていたら、間に合わない。だから……行光、頼む」
瞬間、一気に間合いを詰めた薬研が、不動の正面に飛び込んでくる。すぐに短刀で受け止めようとしたが、一瞬で持ち替えられた相手の刀に反応が遅れた。右手に握ったものから繰り出されると思っていた斬撃が、薬研の左手から降って来る。
咄嗟に半歩下がったが、前髪が切り裂かれ、ぱらりと足元に落ちた。そして、右肩からは微かに血飛沫が舞う。―――早ぇよ馬鹿。不動は思わず苦笑いを零しそうになった。迷わず利き腕を狙っている相手に内心舌を巻き、彼と練度に差があることを今更のように思い出す。
攻撃の手を緩める事なく、薬研は右手に持ち直した短刀を振るってきた。不動は後ろへと下がりながら受け流し、力強く振り下ろされた刃を己のもので受け止める。あまりの衝撃に腕が痺れた気がしたが、歯を食いしばって堪えた。
「俺の邪魔をしないでくれ!!!」
―――本能寺の変を、なかったことにする。
薬研は血を吐くように、そう叫んだ。
やはり、おかしい。どうして薬研が本能寺の変をなかったことにしなければならないのか。
勢いよく弾かれ、続けざまに突き出された短刀を上体を反らして躱した。そのまま後ろへ跳ね返って体勢を立て直し、不動の方から足払いを仕掛ける。薬研は難なくそれを避けて不動に近づき、襟元を掴みあげると背負い投げた。彼は二度目にしてまともに受ける気は毛頭なく、いち早く現状を理解すると、無様に背中から振り下ろされる前に体を捻り、受け身を取る。
本能寺の変を無かったことにする。
信長や蘭丸が生き永らえること。それは不動が願った形ではある。けれど。
(歴史を変えたらお前は本当に堕ちちまう)
審神者は彼を、堕ちかけだと言っていた。会って、悲しくなり、悔しくなったけれど、完全に堕ちていないことは理解できた。
もう居場所を嗅ぎつけられるなんて思わなかったと言った。けれど本丸の古参である彼は知っているはずだ。刀剣男士と審神者の間にある縁のことを。そしてそれが解けていないことも本当は分かっているはずだ。その証拠に、無意識であろうが薬研は、不動たちの主のことを、大将と呼んだ。
何より、彼はまだ言葉を交わすことができる。
「っ!!」
反応が遅れた。銀色の一閃が奔る。まずい、と半歩引いたが間に合わない。急速に腕が熱を帯び、鮮血が飛び散る。腕に刃を埋めている薬研を見て、呼吸が止まる。
―――泣いていた。
「っだあ!!」
不動は渾身の力で至近距離にいる薬研を蹴飛ばした。ほとんど手応えはなかったのは、実際に蹴飛ばされるよりも早く身を引いたからだろう。
ばしゃり、と右腕から血が溢れ、足元に血だまりが出来た。指からも力が抜け、掌から本体が滑り落ちる。
(持ってかれた)
それならいっそ斬り落としてくれた方が腕が邪魔にならないで済んだのに。骨が折られたというよりも腱と言う腱を斬られたようで、だらりと下がる右腕は不動の意思を全く信号として受け取っていなかった。やむなく、左手で自分の本体を拾い上げて、構える。
(ずるいよ、お前は、本当に)
腕の方に気を取られていた間にもう拭ってしまったのか、薬研の頬にもう涙は伝っていない。そこにあるのは不動の腕からしぶいた返り血だ。
「……もうやめたらどうだ。不動」
不動。
行光と呼ばなかった彼がここで一線を引いたのだと分かった。先ほどの顔を見ていなかったらさぞ動揺したことだろう。不動は冷静に耳を傾け、ふるりと首を横に振る。
「本当に時間がねえんだ」
鬨の声が上がるのが聞こえる。明智光秀の軍が、本能寺に着いたのだ。
「お前こそもう諦めろよ」
「なら本能寺の中にいる連中を助けるだけだ」
彼らが死ななければ、本能寺の変をなかったことにした場合と結果としてはほとんど変わらない。
「させねえ」
「俺はお前を斬りたくない」
「じゃあ戻って来いよ」
「戻って俺はまたお前にあの顔をさせんのか」
無表情に言った薬研の顔から、心の底は見えない。でも必死に全てを隠そうとして、そうなってしまっているようにしか見えなかった。
「…記憶がないことを指摘しないで、勝手に悩んだのは悪かった。でも記憶が無くても、薬研は薬研だ。だから」
「そんなことじゃねえ!」
薬研が纏う瘴気の匂いが強くなる。感情が高ぶって、瞳は赤い光がぎらついていた。息を吸ったので、また怒鳴るのかと思ったが、彼は顔を覆って指の間から此方を伺う。
「俺は……『覚えてない』自分が許せねえんだ……必死に思い出そうとしても、中途半端に残った記憶が勝手なもんを作り上げる…っ! 過去の事で苦しんでるお前を、慰めてやりたくても! 俺が話したらお前は全部辛そうにするんだ!!」
興奮して語られる言葉が、荒くなる。どこか、いつもと違う声に聞こえるのは、歴史修正主義者にどんどん堕ちて行っているからだろうか。不動が大好きな薬研の声は、いつもより、虚ろだ。
「分かってる、どうせまた俺の愉快な頭が作った妄想なんだろ! 分かってるさ! 俺だって必死だった! たまに、たまに不動がすげえ嬉しそうに聞いてくれたときだって、俺にもちゃんと残ってる記憶があるんだって思えた…でもほとんど! また間違えたって思った!! いっそ全部忘れてりゃ変な記憶なんか捏造しねえで済むのに! でも俺にそんなもん判別できなくて! しかもお前まで話合わせるから! 知ってるさ、気付かねえわけねえだろ! でも記憶なんてどうにもならねえんだ! あの日に焼いた炎のせいだ、あのとき死んだから俺は!!」
薬研が深く息を吸う。顔を覆っていた手を下ろす。
顔が、先ほどより黒ずんで、目の赤い光が強さを増している。
「……そう考えたとき、俺は愕然としたよ。―――あの日って、いつだって、思った」
天正十年六月二日。その日付すら、薬研の記憶には残っていなかった。それに気づいたのが、昨日の夜のことだった。夜中に起き出して、書庫に籠った。織田に関する本を片っ端から読み漁った。そして、有名である戦の名前を見ても、ほとんど思い出せない自分に衝撃を受けた。書物で自分の記憶と照らし合わせたことなんて、今まで一度もなかった。
吐き気がしたのだ。この頃はこんなことをしたな、と語って、不動が良い反応を見せなかったとき、この記憶は捏造のものかと自覚して。その捏造の日付と照らし合わせたら、あまりに違いすぎて、眩暈がした。どこかの瞬間で、似た様な思い出はあるのかもしれない。でも、捏造にしたって度が過ぎた。
炎の熱さは覚えていた。自分が燃えたのは確かだった。頼れる記憶は本当に、それだけだ。
「……本能寺の変がなかったことになれば、俺は記憶を失わないで済むかもしれない」
そして、不動が、誰も助けられなかったダメ刀だと、今苦しんでいるようにはならないかもしれない。
本能寺の変が無くなって誰が困る? 堕ちても良い。修正したい。良いようになるように、操作したい。自分にはそれが、できる。
「……なあ不動……」
俯かせていた顔を、薬研が上げた。
不動が目を見開く。牙と、角のようなものが、額から微かに、肌を突き破る様に顔を出そうとしていた。
「―――俺ハ何か……間違っテるのカ……?」
頭に響くような気持ち悪い声に、身が竦んだ。
次の瞬間、薬研が突然走り出す。突進されるのかと思い身構えたが、予想した衝撃が襲って来ない。脇を通り抜け、全速力で駆けて行く。このままだと高台を下りるつもりなのだろうか。
「ま、待て!」
腕が揺れると痛みが強く、どんなに気にしないようにしても、自然と普段よりは機敏さを失う。今ばかりは痛覚が邪魔でならなかった。できる限りの全速力で薬研の背中を追いかけたが、あろうことか彼は高台の縁を踏み切ると、空を飛んだ。
「薬研っ!?」
不動の目の前で起きている現象は信じ難かった。飛んだり跳ねたりお手の物、と言う小天狗の如く、いや、それ以上に空を舞う薬研は、そのまま遠く離れた本能寺へと迷いなく向かって行く。本能寺には、もう火が放たれていた。
空中を漂う薬研の姿が一瞬、敵短刀の、魚のような動きを彷彿とさせた。着実に歴史修正主義者への道を進んでいる彼に、血の気が失せる。不動は大慌てで高台を下り、走り始めた。
「不動どこに行くんです!?」
打刀を斬り伏せながら宗三が叫ぶが、返事をしている余裕などなかった。通信機からも長谷部の声が喧しく届くが、喋るとまたスピードが落ちる。だから、あとでどやされるのを覚悟で、無視をした。林を駆け下り、出せるだけの機動を発揮する。力なく揺れる右腕が心底邪魔だが、自分で斬り落とす暇も惜しかった。
今から、また火に包まれた本能寺に向かう。その事実が重くのしかかってきて、それも足の速度を緩める原因になりそうだ。火が怖い。本能寺も、怖い。けれどこんなところで勇気が出せずに足踏みをしていては、いけない。自分は、薬研を取り戻さないといけない。自分のためにも、本丸の、皆のためにも。
――――薬研を折ってください。
部屋を出たとき、一期に言われた。
――――もし、薬研が本当に堕ちようとしているのなら。
きっと、堕ちることを弟は、本当は望んでなどいない。少し間違ってしまっただけだから、本当にそうなろうとしたのなら、他でもない不動の手で。
その申し出を不動は断った。言うと思った、と困った顔で笑う一期は、薬研と少しだけ似ていた。
――――薬研が帰ってくる前に伽羅ちゃんは元気にして見せるっ!
厨に入ったとき、太鼓鐘に支離滅裂ながらも言われた。
――――準備して、飯作って、待ってるから!
身体の小さい短刀のくせに、薬研はよく食べた。いつも美味しそうに頬張った。そして厨に立つ燭台切や太鼓鐘に感謝した。幸せで、些細な日常を、こんなことで逃したくはなかった。
――――僕なりの願いを込めたよ。
お守りを受け取ったとき、石切丸に言われた。
――――薬研さんと一緒に、帰っておいで。
石切丸には父親のような包容力がある。不動と薬研が恋仲になったときも、その前も、二人が並んでいるのを見れば、仲が良いねと声を掛けられた。悩んだときの良い相談相手にもなってくれた。まるで、普段の相談のときと変わらない、物言いだった。
――――薬研と一緒に初めて出陣したとき使ってたでしょ。
重歩兵の刀装を受け取ったとき、加州に言われた。
――――和泉守と堀川の分、殴るから、絶対に連れ帰って。
加州と大和守は刀装の作成をそれほど得意としていない。でも二人がかりで必死に、あの初めての夜戦で不動が装備していたものと同じ、黄金の重歩兵の刀装を作ってくれたらしかった。
(みんなお前を信じてるんだ)
堕ちたかもしれないなんて言われても、誰も、薬研を敵とみなせだなんて、言わなかった。帰って来ることを望んでる。帰ってきてほしいと思ってる。
――――俺が薬研を連れ戻す。
自分だって、同じだ。
薬研がいなくなるなんて、誰も、考えてなんかいない。
新しい薬研に来てほしいなんて、誰も、考えてなんかいない。
薬研藤四郎は、お前以外、いないんだ。
***
火の爆ぜる音がする。どこかで、がらがらと音を立てて何かが崩れ落ちたような気がした。
(……?)
気付けば、自分は炎の中にいた。不思議そうに周りを見回す。
(…俺は、さっきまで、不動と……)
向かい合って、話をしていたのではなかったか。だがどれだけ周りに目を凝らしても、不動の姿は見られない。
そして記憶が……記憶が正しいとするなら。今いる場所には見覚えがある。ここは、本能寺だ。
(いつの間に俺、こんなところに……)
頭痛を覚え、頭を抑える。でもすぐに、いや、と首を振った。
(どうせ来るつモりだったんダ……もう、火が回ってル…早く、早く助けに……行かネえと……)
妙に、思考がぶつぶつと途切れかかる。身体が先ほどまでと違って、他人のもののように思えた。何故だろう。ぼんやりとする。しかし薬研は、ふらふらと歩を進める。外で兵が叫ぶ声が聞こえる。こんなに騒々しかっただろうかと考えて、本能寺の中にいたから聞こえなかったのだと認識する。
(熱い、なぁ)
熱さだけ懐かしいというのも皮肉な話だ。
そうして、薬研は問題の扉の前にまで、たどり着く。ぺたりと掌を触れる。力強く開こうとするが、なぜかびくともしない。
(ああ、そうだ、俺、ここに寄りかかって……)
じゃあ、不動がそろそろ来る頃か。
彼が来てからではまた色々とややこしい話になる。先に、本能寺の中から〝薬研〟と信長を助けてしまいたい。今は、あの頃よりもずっと戦を沢山経験して、強くなった。ならばこの程度の扉なら蹴破れるだろう。考えて、思い切り足を引く。
「行光」
蹴りを繰り出そうとしたところで、中から微かに声が聞こえた。知っている声だ。……自分の、声だ。
「ありがとうな、今まで」
……こいつは。
薬研は、息を呑む。分かっている。本能寺の中にいる、この時代の〝薬研〟だ。
……こいつは、誰に、話しかけている?
「大将は死んだよ」
声が震えている。聞きながら、扉の外にいる薬研も体を震わせた。ここに不動はいない。ひたすら、〝薬研〟は一人で喋っているだけだ。
(……そっか)
ゆるゆると足を下ろす。扉に手を添えた。
思い出す。顕現した不動と会話をした際、固まって、曖昧に頷いていた姿を。そうか、そうだったのか。
「俺も大将と逝く」
〝薬研〟は、喋り続けている。
(……間に合わなかったって、そういう意味だったんだな、行光)
本当に、間に合わなかったのか。
最期の記憶すら、捏造されたものだったのかと、足元から崩れていくような気がする。
「ずっと懐に入れてもらってたんだ。三途の川渡るときに、もし俺が懐にいなかったら、大将が焦っちまうかもしれねえだろう」
(尚更、だ)
助けなければならない。こんな間違った記憶で、終わらせてたまるか。薬研は拳を握り締める。
「さよならだ、行光」
お前は誰とも話してなんかいない。ここに不動はいない。幻想なんか見ているな。
ぶわりと瘴気が溢れる。今すぐ、助けて、本当の記憶を。
「っ……最期に……会いたかった……!」
「――――」
涙声で、必死に紡がれた、言葉。薬研の頭が真っ白になった。
何だ、今のは。尋ねることもできず、その場に佇む。思考は何も回っていなかった。事実だけが、突きつけられる。
〝薬研〟は。あのときの自分は。
ここに不動がいないことに、気付いていた。
「薬研っ!!」
怒鳴り声が響き、機械的に振り向いた。長い髪を揺らしながら、炎の中をなりふり構わず、駆けて来る。ゆき、と唇が勝手に動いた。
「逃げろぉ!!!」
不動は薬研の身体を無我夢中で抱え込んだ。薬研は、抵抗しなかった。人間離れした速さで外へと飛び出した、瞬間。派手な爆発音とともに爆風が二人を襲う。人間ではないと言っても所詮図体は子供のそれと似た様なものだ。熱風に煽られ、更に遠くへと吹っ飛ばされる。
どしゃりと落ちた先は、長谷部や宗三が他の敵刀剣と戦っているであろう高台とは別方向の、林の中だ。暫くは二人とも伏したまま動かず、先に起き上がったのは薬研だ。また、きょろきょろと周りを見回して、傍に倒れている不動に目をやる。
「ふ、ふど……う…」
倒れた彼の腕からは、未だにとめどなく血が流れていて、地面を汚している。甘酒も入っていない不動の顔は、いつもに増して死人のように白い。恐る恐る薬研が手を伸ばすと、微かに呻き声が漏れた。
生きては、いる。それに安堵して息を吐き出した薬研だが、すぐに我に返る。立ち上がった首を伸ばした。本能寺からはもうもうと黒い煙がのぼり、酷い有様なのが遠目でも分かる。
助けねえと。
頭に浮かび上がる。今更? どうやって? 何も考えていないのに勝手に体が走り出そうとする。
「逃がすか」
かすれた声と共に、不動の左手が出し抜けに伸びた。薬研の細い足首が掴まれ、彼はぎょっとする。
「…は、離せ、不動」
「……何処、行くんだよ」
「…本能寺、急がねえと、急いで、助けねえと」
「まだそんなこと言ってんのか!!」
倒れ込んだまま不動が怒鳴った。走り出そうとする足が不自然に止まったのを見て、手を離すと、何とか腕一本で体を起こす。ふらついたまま立ち上がり、薬研の肩を強めに押した。すると彼はあっけなく尻もちをつく。そこに不動は馬乗りになって、薬研の胸倉を掴んだ。
「本能寺の変は起きた、もう信長様も蘭丸もこの時代の薬研もみんなみんな死んだ! 今行ったってもう何も残っちゃいねえよ!」
「でも助けねえと! 助けねえと俺の記憶が! 不動の、後悔が!!」
「うるせえ!!!」
襟元をさらに締め上げる。気道が狭くなって、薬研は言葉を止めると共に苦し気に顔を顰めた。鼻先がぶつかるのではないかという距離まで不動は顔を近づけ、唾を飛ばしながら叫んだ。
「しっかり目ぇ開け!! 俺の後悔が! お前の記憶が無いっていう事実が! 俺達の刻んだ本当の歴史だ! 信長様も蘭丸も薬研もここで死ななきゃいけねえんだ、そして俺はここを生き抜かなきゃいけねえんだ、助けられるとしても絶対に助けちゃいけねえんだ!!」
「そんなのっ……納得、できねえよ! だって俺達は、ここで、助けられたかもしれねえのに、焼かれないで済んだかもしれねえのに! 俺は!」
「でもお前はここにいんじゃねえか気付けよぉ!!!」
畜生、泣かないって決めてたのに。
必死に叫んでいるうちに、気が付いたら視界はぼやけていて、涙が頬を伝って顎に溜まって、ぼたぼたと落ちて、薬研の頬を濡らす。
薬研が口を半開きにして、不動を見上げた。
「俺もお前もここにいるってことに、気付いてくれよぉ……!!」
走馬灯のように浮かぶ。
――――よう大将。俺っち、薬研藤四郎だ。
覚えていた。自分が「本能寺で死んだこと」は。他の記憶なんて、不動が来るまで確認することはなかったけれど。でも、死んだ事実を覚えている自分は、確かに、薬研藤四郎に相違なかった。
――――よう、久しぶり。
覚えていた。不動行光が、自分の傍にいたことを。あのとき不動は喜んで、自分に抱き付いてきた。だから、間違ってなんかいなかった。嘘の記憶が沢山あるとしても、あのとき、再会できたことを喜んだのは、薬研藤四郎だったからだ。
薬研藤四郎は、ここに、生きている。
「………不動……」
しゃくりあげながら、自分の上にまたがって泣いている不動の頬に躊躇いがちに手を触れてやる。鼻水も垂らしながら、涙で顔面崩壊となっている不動が、鼻を鳴らしながら、薬研の瞳を見つめ返した。
(……あ、)
藤色、だった。
「……あったけぇなぁ……」
薬研が愛おしそうに目を細める。
喉が詰まって、上手く声が出ない。
「……手袋、越し、で、分かんのか、よ」
「……分かるさ」
藤色の瞳が、揺らめく。次第に、彼の目に涙が溜まっていく。仰向けに倒れている彼の涙は、つ、と目の横を流れて行った。
「……こんなに近くに、いたんだなぁ……」
何度も言葉を交わしたはずなのに、気付けなかった。
何度も手を繋いだはずなのに、気付けなかった。
何度も体を重ねたはずなのに、気付けなかった。
――――不動の顕現が遅いから、待っていたのは自分だと思っていたが。
「……待たせちまってたのは、俺の方だったんだなぁ……」
ごめんな。
そう謝った薬研の身体に纏われていた瘴気も、肌を突き破ろうとしていた角や、口許の牙も、いつの間にか、消えていた。
***
書類に筆を走らせていたところ、傍らにどんと新しい束が積み上げられて、薬研は心底嫌そうに彼を見やった。
「……おい、俺まだ書いてんだが……」
げんなりしながら言えば、怒りの形相の長谷部は腕組みをする。
「反省文がそんなに少なくて済むと思うなよ薬研通吉光。お前がああいうことになってから主にどれだけのご迷惑がかかったか分かっているのか? 主は政府に隠せばいいと仰られていたが、お前の知る主はそんなに器用な方か? 隠し通せるとでも思ったか? その全部の説明は主ではない、張本人のお前がするべきことだ。違うか? ああ、まだまだ書類はあるから全てに目を通して必要事項を記入するように」
「こんな先の見えない書類作業初めてだぞ……」
「あと、明日から遠征に出ずっぱりだからな。書類は今日中に片付ける様に」
「はぁ!? これ全部!? しかも遠征!!?」
「当たり前だ。あの出陣で俺と宗三は中傷、不動はお前のせいで重傷だ、元々裕福な本丸ではないと言うのに資材を消費した分しっかりお前が賄うのは道理だろう」
「……ってことは」
「無論、単騎遠征だ。拒否権はない」
「しんどすぎるだろ何だそりゃ……!」
だが自分が悪い以上それ以上の文句は垂れることはできず、頭を抱えるばかりだ。いい加減疲れた。薬研は眼鏡を外すと目許を揉んだ。
無事に歴史修正主義者となることは免れ、正常な状態に戻ることができた薬研は、最初に不動の腕の応急処置をした。自分がやったと思うと酷く後悔したが、
『気にするなとは言わねえけど。どうせ無理だろうし。でもいつか仕返ししてやるから、覚悟してろよぉ』
と青白い顔で言われては頷くしかなかった。割と目が本気だったので追々怖い。
だが、大変なのはこの後だった。
通信機で連絡を取り、敵を全滅させたらしい長谷部と宗三が合流してからだ。二人は真剣必殺を発動せざるを得なかったのか、見事にはだけていた分怪我も目立ったが、不動ほどではないらしかった。
『薬研、そこに直れ』
『僕からもいくつか言いたいことがあります、そこに直りなさい』
『待ってくれ、説教はいくらでも受けるが、今は不動の怪我も心配だし…』
『いや、平気だから。薬研、そこに直れよ』
唯一の頼みの綱だと思っていた不動にもばっさり切り捨てられ、完全に逃げ場を失った薬研は、言われた通り指示された場所で正座をした。
まず長谷部から豪快な拳骨を頂戴し、続いて宗三からは延々と説教を頂戴することになった。ちなみに、帰る前、であるので、全員身体から血が滴り落ちている状態で、である。一言で言うならばカオスだ。しかも宗三の説教は小一時間にのぼった。助けを求めようと不動を見たら、恐ろしいほど青白い顔をしていて半分意識を飛ばしているような状態で、薬研はそれこそ叫びそうになった。だがあろうことか、不動は「説教終わるまではもたせる」と豪語。その意気だ頑張れと叫んだ長谷部。じゃあ遠慮なくと説教を続行した宗三。控えめに言ってわけがわからない。医学に精通している分青ざめた薬研は、ならば早く説教を終える他ないと判断してひたすら土下座をし続けた。
ちなみに説教が終わった頃には、不動は失血で失神していた。四人揃った織田勢は転がる様に本丸に帰城した。死人さながらな出血量と顔色の不動を見て審神者が叫んで即手入れ部屋にぶちこまれたのは言わずもがなである。
一度は堕ちたようなものである薬研も霊力による浄化が行われ、一日は手入れ部屋の中に入っていた。宗三、長谷部も同様に手入れ部屋に入り、本丸にある手入れ部屋四つを織田の刀が占領する事態となった。
手入れ部屋から出てからは、よく帰って来たと泣きながら兄弟達に喜ばれ、新撰組の刀に見事なほどぶん殴られ、伊達の刀には常識外れの量の食事が振舞われ、石切丸と青江には宗三に続く第二ラウンドとても言えば良いのか、長い説教をくらった。せめてもの救いは宗三ほどトゲトゲした物言いではなかったことくらいだろうか。自分が悪かった自覚がある分、奇妙な優しさもまた痛いと言えば痛いのだが。
そして審神者。よく帰って来たと喜んでくれたと思ったら笑顔が一変。敵の大太刀も裸足で逃げ出すような顔になったときには「もしかしてこの本丸堕ちてたんじゃ」と本気で思ったほどである。言い渡されたのは謹慎処分。……だけだと思っていたら、後から後から書類が舞い込んできて、しかもそれが自分絡みだと言うのだからやらないわけにもいかず。事実上、罰は謹慎、書類作業といったところだった。
不動とは。
帰ってきてからまだ、口を利いていない。
用件は以上だとばかりに、書類を渡してさっさと部屋を出て行こうとする長谷部が、はたと足を止める。
「…そういえば、薬研」
「ん?」
「謹慎は終わりだそうだ。今日からは自由に部屋を出て良いぞ」
「えっ、良いのか」
「まあ、書類作業もあるだろうし明日からは遠征ばかり。自由に部屋を出る余裕があるとは思えんが」
皮肉だろう。わざとらしく薬研がやらなければならないものの語調を強めた長谷部に苦笑を返してから、言いにくそうに頭を掻く。
「あ、その……。……不動、は。どうしてる?」
「……あれから、部屋にこもりきりだが。それがどうした」
「…それって、…その、腕とか……」
「主の手入れで直らないわけがないだろう。戯言もほどほどにしろ」
つまり部屋に籠っているのは、不動の意思によるものなのだろう。考えてみれば、彼が気丈に振舞えるはずはない。最も嫌な記憶として残っている本能寺に出向いたばかりか、ちょっとした焚火でさえ怖がっていたのに、薬研を助けるために炎に巻かれた本能寺の中に入った。どれだけの勇気を振り絞ったのか、想像できるはずもない。
帰って来てから、もしかしたら一人で、炎の夢を見て、魘されているかもしれない。
「……会いたいなら会ってくれば良いだろう」
溜息交じりに言われる。それにも薬研は煮え切らない反応だ。
「……どんな顔して会えばいいのか分かんねえ」
正気を失っていたことに違いはない。だが、それが免罪符になるとは思えなかった。自分の記憶が消える事象を防ぐためだけならまだしも、薬研は「不動の後悔も消し去る」と彼を理由に使ってしまっている。
どの面下げてと言われても何も言い返せない。また、自分には記憶が欠けたままだ。無意識に捏造した記憶も、きっと沢山残っている。
「いつも通りではだめなのか」
「………」
やっていた書類を右の山に積んで、左の山から新しい書類を取る。ざっと文字に目を通して、薬研は筆を置いた。喋りながらこなせる書類ではなかったのだろう。
「…結局俺に記憶が無いのは相変わらずだし……また喋って、不動が困った顔するのは、嫌だし……」
もう、ならば歴史を変えてしまえ、などと考えはしないが、記憶がないことにはやはり引け目を感じる。
自分が堕ちそうになっていたとき、不動は過去を自ら口にした。それも、後悔ではなく事実としてだ。どれだけ重い口をあのとき開かせてしまったのだろうと思う。これは、気にする気にしないといったレベルの話ではなく、言いようのない罪悪感だ。
「薬研、入りますよ」
障子が開く。宗三の目が丸くなって長谷部を見たが、すぐに関心がなさそうに逸らされた。
「おや、凄い書類の量ですね。また増えましたか?」
「おう…今日中に終わらせなきゃならんらしい」
「大変ですね。頑張ってください」
「……流石、はっきり言うな…」
「あれだけのことをしたんです、当然でしょう。…ということは忙しいですか」
首を傾げる。忙しいと言えば勿論この上なく忙しいが、手が離せないわけでもない。宗三は微かに笑った。
「謹慎が解けたんでしょう? 不動が、もし暇があるなら部屋に来てくれって言ってましたよ」
「え……」
薬研の表情が曇ったことに、不思議そうな顔をする宗三に、長谷部が言葉を添えた。
「合わせる顔がないらしいぞ」
「え、馬鹿ですか、この期に及んで」
「馬鹿って!」
あまりにあけすけな言い方に薬研が立ち上がると、シッシッと虫を払うような動きをされる。
「元気ならさっさと行きなさい」
「いや、でも」
「……良いから行け」
長谷部に睨まれて、いたたまれなくなった彼は、結局不承不承頷いて廊下に出た。部屋を求めて、ゆっくりと足を進める。自分も同じ部屋で過ごしていたはずだが、何だか久しぶりに行くと不思議な感覚があった。
「……不動。薬研だ」
外から声を掛けると、「おー、入れよ」とすぐに返事があった。襖に手を掛けようとして、薬研は瞠目した。自分の手が小刻みに震えている。
不動に何を話せばいいのか、分からなかった。怒涛の勢いで、頭の中を悪いことが埋め尽くしていく。何故不動は自分を呼んだのか。もう、嫌いだから、別れようと言うのか。冷めた目で、最低だと、言われるのか。いや、あそこまでして助けてくれた不動が、そんなことを言うなんてと考えを否定しようとするも、時間が経って冷静になったのかもしれないぞ、と別の自分が嘲笑する。不動は、怒っているかもしれない。謹慎中も、一度も部屋に顔を見に来なかった。
顔を合わせたら最初に何を言うべきなのだろう。謝罪か? それとも、感謝か? いや、あるいは、不動が言いにくそうにしていたなら、此方から別れを…。
「遅い」
勝手に襖が開いた。思わず後退る。呆れ顔の不動は、早く入れよ、と顎で部屋の中をしゃくった。それだけで襖を開けっぱなしにして、さっさと部屋の奥へ戻ってしまう。覚悟を決めて、彼の後を追って薬研は足を踏み入れる。
文机に向かって書き物をしている不動から、適当に離れた場所で正座した。
暫く、筆が紙の上をさらさらと走る音だけになる。
「……不動、俺は……」
「謹慎解けたんだろ。良かったな」
ことりと、筆が置かれる。紙面を眺めて、よし、と呟くとそれを半分に折り畳む。隣に重ねていた紙の束に重ねて、まとめて持ち上げると不動は振り向いた。歩み寄って、薬研の目の前に置く。
謹慎部屋でも嫌と言うほど書類を見ているので、自然に表情が引き攣る。
「…不動、これは?」
「俺が覚えてること全部」
へ、と間の抜けた声が漏れる。慌てて手に取って、二つ折りにされている紙を広げて文字に目を走らせる。そこには、織田で起きたことが事細かに記されていた。そのときに、不動がどう思ったかも、信長や蘭丸が何を話していたかも、隣にいた薬研が何と言ったのかも。時々、こんな感じだった、と下手な絵で景色が描かれていたりもする。
「……これ、全部、不動が…?」
「……お前の兄弟の……骨喰と、三日月の爺さんが、言ってたんだ」
薬研を助けに行く話をしたとき、広間で彼らは不動にこう言った。
「……〝記憶が無くても昨日が無くても、何とかなる〟んだって。〝新しい思い出を作って、覚えてないことは、話してやればいい〟んだって」
三日月には、忘れられることの辛さが分かった。骨喰には、忘れることの辛さが分かった。けれど、かつて共にいたことが分からなくても、二人は良い仲間としてここにいた。忘れられていることに、記憶がないことに、それぞれが向き合ったのだ。
薬研の正面に腰を下ろした不動は、ぎゅっと拳を握り締める。
「…俺だって覚えてねえことあるかもしれない。だけど……覚えてることは全部書いた。お前と一緒にいたときのことは、全部、全部書いた」
忘れられていることが怖いなんて、記憶がないことが怖いなんて、些細なことだ。小さなことだ。そんなものは、ちょっと勇気を出して踏み出せば、笑い飛ばせてしまうはずだ。
だって、お互いに一人ではないのだから、一人で悩む必要なんてなかったはずなのだ。それに気づくのが、少し遅かっただけ。お互いがここにいるのだから、まだ間に合うだろう。
「お前が覚えてねえことが嫌だって言うなら、俺はいくらでも、お前に話す。何があったのかとか、お前と俺がどんなこと喋ったのかとか。俺は記憶がない薬研藤四郎を受け入れる。もう悲しいとか、辛いとか、絶対に思わない」
不動が息を吸い、真直ぐに見つめた。
「だから、傍にいてくれ。俺は薬研のことが好きだ」
「……っ、」
不動の方から、はっきりと好意を口にされたのは、初めてだ。いつも、恥ずかしいからと顔を赤らめて背けるばかりだった彼から、こんな言葉を受けることになるなんて思わなかった。
ずっと支える立場だと思っていたが、知らないうちに不動は逞しくなっている。相変わらずダメ刀と宣うようではあるけれど、自分なりに整理をしている。そして今、向き合ってくれている。辛い顔をさせたくないとか、それは此方のエゴでしかなくて、彼もちゃんと考えていて、そんなに弱い存在ではない。
だから、自分も支えられて良いのだ。
「……不動……」
「それ」
人差し指が向けられる。
羞恥から顔を赤くした不動が、ぼそぼそと「嫌だ」と呟いた。
「…嫌だ?」
「だ、だからぁ……お前、何を負い目に感じてるのか、知らねえけどさ……やっぱ、やだ……」
察しの良い薬研は、何を言われたのか分かった。
でも本当に、良いのだろうか。逡巡し、躊躇いがちに、口を開く。
「……行光…」
そう呼べば、不動は微かに肩を揺らして、真っ赤な顔のまま、へにゃりと笑って見せた。幸せそうな顔だった。
記憶が無くても、自分の一言で、愛しい相手をこういう顔にさせることができるなら、存外、やっていけるのかもしれないと、思った。
怖がって踏み出せなかった一歩は、決して大きな一歩ではないけれど、それだけで何かが変わるなら―――
「おかえり、薬研」
『ほんの少しの勇気』
了