一年前の大喧嘩
「ふざけてんのか! もういっぺん言ってみろ不動!!」
「うるせぇいい加減にしろよ! 出て行け!!!」
安穏とした昼下がり。突然、本丸の屋根が吹っ飛ぶような声が迸り、自由に過ごしていた刀剣達は弾かれたように動き出した。
真っ先に駆けつけたのは、問題の部屋に最も近い厨で作業をしていた、燭台切光忠とへし切長谷部だ。怒鳴り声が響く部屋の襖を逡巡する間もなく開き、二人は驚きに目を見開いた。
畳の上で転がっている不動行光と、それに馬乗りになっている薬研藤四郎がそこにいた。不動の襟元を薬研が両手で掴み、その薬研の腕を不動は抵抗するように着かんでいる。その体勢のまま、興奮で顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら怒鳴り合っているのだ。
「そんなに不快ならとっとと何処にでも行け!!」
「どうしてそう極端なんだ!? いい加減にしろは俺の台詞だ!!」
「知るかよ! ダメ刀のことなんかほっとけっつってんだ!」
「またその話か!!」
「うるっせぇ! しつこいんだよ!!」
怒鳴り合いは留まることを知らない。騒ぎを聞いて駆けつけた他の刀剣達も、とくに粟田口の刀派の者達が、部屋の前に来るや表情を青ざめさせた。当然だ。いつもは彼らの兄のような立ち位置で、冷静で、喧嘩をしようものなら積極的に止めに来る薬研が、鬼の形相なのだから。
延々響く声の全てを拾うことはできない。付喪神とはいえ、得ている人の身の機能自体は、普通の人間と大差はない。だが、不動が言った何事かが、薬研の「まずいもの」に触れたのは傍目でも分かった。分かりやすかった。薬研の雰囲気が、明らかに変わったからだ。駆けつけて、いち早く気づいた一期一振が、進み出る。
「このっ、――――!?」
目を血走らせて、左手で不動の襟元を掴んで引き起こし、右拳を大きく振りかぶった。が、薬研の拳は振り下ろされることなく、後ろから伸びてきた手に止められた。
「やめないか薬研!」
「離せいち兄! 一発でも殴ってやらなきゃ腹の虫が収まらねえ!!」
気圧されてはならぬと、一期一振もかなり大声で言ったのだが、腕を掴まれても尚暴れる薬研は聞いたこともないほど大音声で怒鳴り返した。が、次の瞬間、彼の頬にはびりっと痺れるような痛みが走った。それと共に響いた破裂音。
呆けたように勢いを失った薬研が、顔を上げた。長谷部が、頬に平手打ちを見舞ったのだ。
「……はせべ……」
ぼんやりとした声で、言う。しかし、それも一瞬のこと。状況を理解すると、また、藤色の瞳に、戦場の目とはまた別の、ぎらぎらとした光が宿る。
「何す、」
「一期一振」
長谷部が部屋の外へと顎をしゃくる。連れて行け、ということなのだろう。一期も了解した旨を頷くことで示し、不動に馬乗りになっている弟を強引に引き上げた。
「いち兄!」
「薬研、いいから来なさい」
あくまで静かに告げ、彼の腕を引いて部屋の外へ。ざわざわと落ち着き無く囁き合う短刀達を見やると、同じく駆けつけていた次郎太刀が、わざとらしく陽気な声をあげた。
「いやーさぁ、たまには喧嘩もするよねぇ! ほら、あんたたちもよくするだろ? それとおんなじ! さあさあ、折角の非番でしょ。こんなところに溜まってないで、行った、行った!」
彼らはまだ何か言いたげな様子は残していたものの、このままいても埒が明かないと理解してか、ゆっくりとではあるが散っていく。見目は子供だが、その中身は人間よりも遙かな年月を生きた刀だ。駄々っ子の如く意味もない意地を張ることはほとんどない。駆けつけて考え込むように黙りこくっていた燭台切も、長谷部に何か耳打ちをして部屋を出て行った。
ある程度刀剣がいなくなるのを見届けて、やれやれ、と次郎は肩を竦める。部屋の中に目をやった。畳に倒していた体を起こし、乱れた襟元を直すこともせずに座り込んだままの不動、その脇に立つ長谷部。
この場は任せよう。
心配そうに同じく残っていた太郎太刀も同じ思いだったのだろう。大きな兄弟刀は顔を見合わせる、部屋から離れて行った。
部屋の周囲が静けさを取り戻すと、おもむろに長谷部が口を開く。
「……不動行光。何があった」
「………別に……」
「貴様、昨日の今日で騒ぎを起こすとはどういう了見だ。主にもご迷惑がかかる」
不動行光が本丸に来たのは、まさに昨日のことであった。政府が設置したという訓練のための合戦場の先で拾った短刀を、部隊が持ち帰り、審神者が霊力を注ぎ込むことで顕現。つい先日、新たに発見されたと噂されていた、まさにその短刀だったのである。
この本丸の審神者の意向で、新しい刀が顕現した次の日は、基本的に全員非番だ。新しい刀が他の刀と会話をできる機会を増やすためとか、早く慣れてもらうためとか。あとは、歓迎会と称した飲み会の次の日だから、酒の入った者はあまりまともに機能しないからそれも鑑みてのことという話もある。
昨晩、険悪な雰囲気は感じなかった。寧ろ、顕現した不動を見て、薬研は驚いたり喜んだりしていた。織田縁の刀だ、当然見知った存在ならば気持ちも浮つくというものだろう。少しでも知っている存在が近くにいたほうが落ち着くだろうとの考えで、歓迎会の席も(酒に酔ったものにより、やがて席に意味などなくなるのだが)、織田の刀で不動の周りは固められていたし、彼の隣で薬研は意気揚々と酒を飲んでいた。
「……へ、主ねぇ…」
「…何だ」
不動があまり良い意味とはとれないような復唱の仕方をしたので、長谷部の眉間にも自然に皺が寄った。
「審神者にとって俺が迷惑な存在だってんなら、切り捨てりゃあいいだろぉ」
見上げてくる目は、虚ろだ。決して、顕現したときから飲んでいた甘酒のせいではない。彼は今、素面だ。長谷部の眉間の皺が、更に深くなる。斬れよぉ、逃げも隠れもしねえぞ、俺は。何も見ていないような目が微かに細められ、出来損ないの笑顔を張り付けて繰り返す。
「仇なすならば斬る。……だが、主はそれをお望みにはならないだろう」
「何で」
「刀内のもめ事程度、どうこう言われるお方ではない。人の姿を得て感情も伴った我々は、醜いことに喧嘩もする」
「……じゃあ〝主〟に刀向けりゃ斬ってくれんの?」
ぴくり。長谷部は改めて不動を見つめた。目が、据わっている。
「……死にたいのか、貴様」
「死にたいって。折れる、だろ。随分人間じみてんのなぁ、へし切」
「長谷部と呼べ」
わざわざ不快な呼び方を選択する不動に舌打ちをした。嗚呼、それだけではない。何なのだろう、この短刀は。妙に苛々する。だが薬研が怒ったのはきっと、こうした苛々は関係ないのだろう。彼は懐が広い。不動の発言も飄々とかわすことができるのは想像も容易い。対して自分の方が狭いのは重々承知している。狭いと言うより、細かくて、口うるさいのだと思うが、そういう刀剣男士が一人くらいいてもいいじゃないかと思っている。
「……お前が死にたいのか死にたくないのかは置いておく。薬研はなぜあんなに怒っていたんだ。どうせお前が何かやらかしたんだろう」
「さすが薬研通吉光、信頼されてるなぁ?」
馬鹿にするように鼻で笑った。質問に答えろ、と今度は強めに言ってやれば無表情で「別に」と短く返してきた。
「……普通に喋ってたんだけど急にキレた。俺がダメ刀だからじゃねーの」
「普通に喋ってた内容を話せと言っているのがまだ分からんか」
「他愛もねえ話だよ」
是が非でも口を割る気はないらしい。長谷部がこれ見よがしに溜息を吐くと、
「出てってくれねえ?」
強めの声で不動が言った。
「お前も俺の傍にいると、ダメ刀になるぞ」
あ、と思う。
薬研が怒ったのは、これではないだろうか?
* * *
「それは、あしらえた」
長谷部が一期一振の部屋に行くと、その部屋の前の縁側で兄弟が並んでいるのが見えた。どうやら薬研も普通に会話をできる程度にはなったらしく、しかし縁側に投げ出されている足は落ち着き無く、何度もぶらぶらと揺らされていた。
不動の発言に怒ったとすればこれではないのか、と、最後に聞いた言葉をそのまま伝えてみたところ、あっさりと先のような返事であったわけだ。
「じゃあこのまま俺もダメ刀になりゃいいなっつったら黙った」
「相変わらずお前は……」
「もう少し子供らしい発言はできないんですか?」
「似たような弟持つお前が言えることか、それ」
「小夜は事情が違いますから」
額を抑える長谷部とは逆の位置に立った宗三左文字は、しれっと返しながらも呆れ顔で肩を竦めている。
短刀は見目が幼い。中身は長い時間を生きた刀剣そのものであることは先述した通りであるし、戦場ではどの刀も「幼子」には似ても似付かない。だがそれでも、戦場以外では見目相応の幼さが残る性格が形成されている場合も少なくないのだ。事実、太刀や打刀、脇差よりもずっと遊びに興じることが好きであったり、味覚も人間で言うところの「大人の味」よりももっと単純な味を好んだりする。
だが、薬研ときたら、下手をすると打刀か太刀の間違いではないかと思うほどに、好みが短刀から離れているし、普段の生活も遊びに興じることの方が少ない。たしかに、審神者の手入れ以外で必要とされる治療――病気や手入れまでは必要としない小さな怪我、あるいは手入れ待ちの際の応急処置など――は薬研にしかできない。が、普段の非番でさえ薬部屋にこもり、黙々と薬の調合をしているのはいかがなものか。遊ぶときといえば、薬部屋に他の短刀が「遊ぼう」と誘いに来たときくらいだ。一期がもう少し甘えてくれてもいいのにと困り顔で笑っていたのは、記憶に新しい。今も薬研の隣で、そのときと同じような困り笑いを浮かべている。
「……子供らしい発言って言うなら不動もだろ」
不動の名を出した瞬間、拗ねたような声になった。しかし、そこで長谷部と宗三が顔を見合わせる。
「……長谷部。そういえば、不動って元々ああいう子でしたか?」
「……いや、少し、違ったような……」
「全然ちげーよ!」
バン、と音がして驚く。薬研が、床を拳で叩いたのだ。
「薬研」
咎めるように一期が声を掛けると、先ほどは反抗していた弟はしおれたように動かなくなった。口もぎゅっと結んでしまったのを見て、一期は長谷部と宗三を見上げる。
「お二方、不動殿は昔は、ああした刀ではなかったので?」
「人の身を持ってなかったから具体的なことは言えませんが……」
宗三も言葉を濁していると、「ようは感覚的なもんだが、違うんだなぁ」と出し抜けに声がかかった。全く予想のしない方向に全員がぎょっとする。屋根の縁から、蝙蝠よろしく逆さまになって顔を出しているのは、真っ白な髪の彼だった。
「貴様、鶴丸! またそんなところで!」
「おお、おお、怒ってくれるな長谷部。別に驚かすつもりはなかった。俺は屋根の上で昼寝していただけだ、無実だぜ?」
よいせっと。声を出しながら器用に屋根の上から下りてくる鶴丸国永。戦装束だけではなく本丸内でも真っ白な装束で身を包んでいる鶴丸は、汚れを払い落とすように、数度、自分の袴を叩いた。彼も、色々な場所を転々としてきた刀だが、織田に身を寄せていた時期もあった。
「鶴丸殿、感覚的に違う、とは、一体どういう……?」
「宗三の言うとおり、これといって具体的なことは言えんが、少なくとも織田にいた頃の不動はもう少し『子供』だったなぁ」
「貴方、魔王のところにそんなにいなかったでしょう?」
「ああ。だがその俺でも思った。君たちが言いたいのはそういうことじゃあないのか?」
図星であった長谷部と宗三は、何も反論はしなかった。
当たり前ながら、人の姿を見たのはここに来て初めてだった。だから違和感なく受け入れられた。だが、織田家にいた頃に刀として感じた不動行光の存在に果たして、「甘酒で酔っぱらう子供」の姿を見いだせたかと言えば、間違いなく否だ。
あの頃感じられたのは、もっと素直で、繊細で、暖かなもので。―――織田信長に愛され、誰よりも誇りを持っていた。だが今の彼は、どうだろう。
誇りなど、欠片も感じない。甘酒で酔っぱらい、淀んだ瞳で周りを見て、殺したければ殺せと言った、あの子供に。
「……あんまり、ずっと、甘酒飲んでるから、いくら飲む点滴って言っても、人間の体に慣れてねえだろうし、良くねえと思ったんだ」
薬研が小さな声で紡ぎ出す。普段の彼からは想像ができないほど、気弱そうに背中を丸めて、揺らしている足の先を目で追いかけて、瞳も一緒に揺らす。
「…だから軽い気持ちで、甘酒はしばらくやめとけって、言った」
自分の弟たちにするように、窘めた程度のつもりだったのだ。甘酒を取り上げて、取り返そうとする相手に、ダメだと笑った。だが……
「……すげえ形相で怒鳴られた」
呆気にとられた薬研の手から強引に取り返し、甘酒を抱えて「ほっとけ」と怒鳴った。そんなに気に障ったのかと焦って、慌てて謝ったが、そこからどんどん泥沼化した。初めは薬研も宥める側だった。でも多分、宥め方を、間違えた。落ち着かせるために言った言葉に対して、不動は眉を吊り上げて叫んだのだ。
『本能寺で消えたのが俺だったら良かったのにな!!』
「……腹が立った」
ぶらぶらと揺らしていた足を止めて、引き寄せる。眼鏡を外し、膝を抱えて、そこに顔を埋めた。
織田にいたことのある刀達は皆、何とも言えない表情で薬研を見下ろした。一期はそっと、隣の弟の頭を撫でる。
薬研藤四郎は本能寺で焼失しており、現存しない。ここにこうして、顕現していること自体が奇跡なのだ。たとえ、彼が戦場に赴く際に腰に差している本体が、時の政府の手で形作られた紛い物なのだとしても、織田にいた頃の記憶はそのままに、薬研藤四郎はここにいる。
「……不動はあの日、炎に焼かれた。僕も同じです」
宗三は自分の掌を見つめた。
「…ただ、勿論、いち刀としてあそこに全く執着がなかったといえば嘘になりますが、不動と比べれば、炎に焼かれたことに対する意味が違います」
「どういう意味だ」
「相変わらず鈍いですね」
どうしてこうも憎まれ口を叩くのか。自分のこめかみに青筋が浮いた自覚はあったが、今回は噛みつかなかった。長谷部と宗三が喧嘩をしても何もならない。し、二人のこうしたやりとりは、いつものことだ。
「あの子は本能寺の炎で、大事にしていた全てを奪われたんですよ」
気が付いたら本能寺が包囲されていた。火が放たれ、矢が飛び、明智光秀が率いる軍勢が飛び込んできた。自分を大事にしてくれていた蘭丸が斬られ、そのまま炎に包まれた。愛を返すはずだった織田信長は死んだ。その懐にいたであろう薬研も、炎の中消えた。
「『素直』だった時代に、その周りにいた人も、刀も、自分の存在意義も、悉く、あの炎が奪ったんです」
歓迎会の席でも、不動は鍋が置かれている近くには行きたがらなかった。火が、怖いのだろう。思えば、長谷部にはつっかかっていたが、薬研と積極的に話そうとしている様子はあまりなかったし、宗三にも何となく余所余所しい態度をとっていた。
焼かれた刀すら、不動にとってはトラウマのようなものなのかもしれない。
「……でもだからって、あいつが俺みたく消えて良かった、なんて」
膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で薬研が言った。
それに対し、鶴丸が、
「……だがなぁ、薬研よ」
いつもとは違った、心なしか低い声に、ゆるゆると顔を上げる。顔を埋めていたせいで、妙に差し込んでくる光が眩しく感じられ、目を細めた。細くなった視界の先で、鶴丸は空を見上げたまま、ぽつりと。
「……置いて行かれるのは、割合、しんどいぞ」
多くの人の手を渡ってきた白い太刀のその言葉は、重かった。
* * *
その日の夜。薬研は本日の夕食一式を全て乗せた膳を手に、溜息を吐きながら廊下を歩いていた。
何でも、不動が薬研と顔を合わせたくないから広間で食べずに部屋で、一人で食べる等と我が儘を言ったらしい。空席を気にしながら席についたところ、自分の目の前に食事が何もなかったから驚いた。すると、燭台切が厨の方で手招きしているのが見えたので従うと、問答無用で彼の分の食膳が手渡されたのだ。「二人で話すには丁度いいでしょ」とのこと。折角顔を合わせないために、不動が部屋にこもっているというのに、その顔を合わせたくない張本人が部屋に来たらそれこそ地獄絵図じゃないかと訴えたが、「良いから行け」と長谷部や宗三にせっつかれては拒否権はまるでなかった。助けを求めるべく兄を見たが、わざとかたまたまか、一瞬も目が合わなかった。
これほど行きづらい部屋が今までにあっただろうか、いや、ない。
部屋の前まで来て、固まってしまう。いつも通り何気なく開けてやればいいじゃないか、と思う反面、どうしても昼頃の喧嘩がちらついて勇気が出ない。自分にこんなに女々しい側面があったなんてとほとほと情けなさを感じるが言っても仕方ない。息を、吸い込む。
「不動」
返事はない。
「……不動」
少し待つ。やはり、返事がない。
「……入るぞ」
ガラッ。
薬研は目を丸くした。食膳を持っているせいで両手が塞がっていた彼は、足で襖を開けようとしていた。しかし、その直前、目の前の襖が開かれたのである。中にいる、部屋の主によって。
襖の隙間から覗かせた顔は酷いものだ。瞼が真っ赤で頬に何かが伝ったであろう痕がはっきり残っている。長い髪もばさばさで結い直せばいいのに、結い残しがそのままだ。
あまりに酷い有様で、少し罪悪感が顔をもたげる。
「……何しに来た」
「…話を、しに」
「帰れ」
「断る」
「帰れよ」
「嫌だ」
「帰れ!!」
「………」
薬研が悲しげに目を細めたのを見て、不動は歯を食いしばる。
(嗚呼、嫌いだ、この目)
唇を噛んでいると、彼は食膳を落とさないようにしながら、浅く頭を下げた。
「……すまん、不動。昼のは俺が悪かった、この通りだ」
「………」
「……だが、正直、納得いってない部分も沢山ある。話をさせてくれ」
「………」
「……頼む」
違う。不動は思う。
違う。薬研に謝って欲しいんじゃない。そうじゃ、ない。謝らなきゃいけないのは、こっちだ。
「………は、」
不動は鼻で笑った。そうでないと、泣いてしまいそうだった。そして間違えたと思う。こういうとき、自分は多分、ろくなことを言わない。
「何か…? 謝っといてまだ何かあんの? 知らねえよ、ほっとけよ、もう。薬研通吉光様ってかぁ?」
……ほら。ろくなことを、言わない。やはり自分は、ダメ刀だ。
薬研の眉にぎゅっと力が入るのを見ながら、そう思った。
「……そうだ。俺は薬研通吉光様だ。兎に角、中に入れろ。寒い」
ここまで言っているのに立ち去らないとは。悩んで視線を彷徨わせたが、この調子だと薬研は本当に部屋の前に居座り続けそうだ。重く、重く、溜息を吐き出してから、襖を大きく開いた。
薬研の、入った先に見えた食膳は、一口も手がつけられていなかった。
食膳は持ち込んだものの、結局二人とも、食事に入ろうとはしない。この空気の中食べることができる輩がいたら、尊敬に値する。
「……俺が、お前から甘酒を取り上げたのは、そんなに飲んだら体に毒だと思ったからだ」
視線を彷徨わせながら、言葉を選び、注意深く話していく。
「……でもそれだけじゃなくて……お前らしく、ないと思った」
「……俺らしいって何だよ」
「お前はもっと素直だったろ」
立て膝の体勢で話を聞いていた不動の手が、微かに反応するように、動く。
「お前は、もっと。昔は素直だったはずなんだ」
「………昔はな」
昔は、と言うからには、やはり今の自分が「そうではない」自覚はあるのだろう。甘酒を多く飲む理由として、自ら「そうではない」ようにしているのだとしたら当然だ。
「……何で、そんな風になっちまったんだよ」
「お前には関係ない」
「俺のこと見るたびにその顔になられちゃそうは思えねえな」
目をそらしたまま、返事をしない不動に溜息を吐いた。手につけている黒手袋を取り。
「不動」
手を差し出して、声をかける。視界に何かが入ると思い、ほとんど無意識に、彼の目が此方を向いた。そして、見開かれる。
差し出されていた手の甲には、はっきりと火傷の痕があった。
「ひっ!?」
早業、だった。差し出されている手の甲を、不動の手が覆い、勢いよく
畳に叩きつけるように、薬研の手もろとも振り下ろされる。そのまま、必死に抑えつけられた。
「いっ、て…!?」
「やだ、やだ、やだ、やだ」
虚ろな目がおろおろと揺れ、見る間に涙が溜まっていく。いっそ可哀想とも言えるほど体が震えだした。
「不動、」
「やだ、やだ、燃えて、信長様も、蘭丸も、全部」
「不動! 前見ろ!」
「俺が、俺が何も、守れ、守れなかっ」
「っ」
手を抑えつけられて無理な体勢である薬研は、それでもできる限り上半身を仰け反らせ―――不動の頭めがけて頭突きした。
がつん、と聞いた人がいれば、きっと皆が顔を顰めるほどの勢いがあったが、おかげで不動が呆けた顔で固まる。手を抑えつける力も、先ほどよりは緩くなったようだ。
「不動。前、見ろ」
先ほどは何も聞いてはいなかったが、ゆっくりと顔が此方に向く。同じ、藤色の瞳が、薬研を映す。
「……焼けても、俺は、ここにいるだろ」
「…………」
「お前が守れなかったんじゃない。そうなる運命さだめだったんだ。歴史はそういう風に刻まれた」
「……でも……俺が、…何もできなかった俺が、残ったって」
「…俺は残ったのが不動で良かったと思ってる」
黒手袋を外していない方の手で、未だに自分の火傷を覆い隠すようにしている不動の手を、安心させるように上から撫でた。
「……お前は織田信長の…あのお人のことも、蘭丸のことも、よく見てた。死んだってのにこんなに思ってもらえるなんて、贅沢なもんだろ。それは俺もだ。俺が消えたことを、まさか不動がそんなに気にしてたなんて知らなかった」
迷ってから、薬研は言う。
「……悪かった……お前を置いていって」
びくりと不動が体を震わせた。俯いた頭が横に何度も振られる。
「…辛かったよなぁ……」
言いながら、鶴丸の横顔を思い出す。自分は、置いていってしまった方だから、そのとき置いて行かれた方がどう思うかは、想像のしようがない。ただ、もし、あのときのように、今この本丸に火を放たれて、自分以外の刀剣が皆折れてしまったら。今、大将と呼んでいる審神者も、死んでしまって、一人きりで残ってしまったら。
(酒でも飲んでなきゃ、やってられねえわなぁ)
そんなもので意識をぐちゃぐちゃにしていなければ、やっていられない。何にも頼らず、まともな精神状態を維持できるとは思えない。やっと、不動が顕現したときから甘酒に頼っている理由が、分かったかもしれない。人は、身も心も脆い。なのに、刀としての経験は、人になっても尚彼らに残る。
不動は優しい。昔もそうだった。優しい分、心も脆い。だから酒に逃げた。正当な防衛本能だ。
「……でもな、不動。死んだ俺ばかり見て、悲しむのはやめてくれ」
鼻を吸い込む音が聞こえる。
「俺はここにいるんだ。奇跡的に、燃えて、死んだはずの俺は、ここにいる。ちゃんとここで、人の体で、飯食って、寝て、厠で出すもん出して、戦に出て戦って、みんなで笑って、生きてる。生きてる俺が、ここにいる」
顔を上げてくれという意味を込めて畳に抑えつけられている手に力をこめて、持ち上げた。不動の手ごと、眼前にまで持ってくる。顔を上げた不動の顔は涙で濡れていた。
嗚呼。ひでぇ顔だなぁ。でも酔っ払ってるより、そっちの方が、「らしい」なぁ。
「……折角、また同じ場にいられてるんだ。なのに悲しんでばっかじゃあ、もったいねえだろう」
瞼から溢れていく大粒の涙。ひぐ、としゃくりあげながら、不動は背中を丸めた。それでも、しっかりと薬研の手は握っていて離さなかった。とりあえず仲直りはできたらしい、と安堵の息を吐き出す。
薬研が次に考えなければいけないのは、どうやって不動を泣きやませるかということだった。
***
「ってことがあったよなぁ」
からからと笑いながら杯の水面も、自分の肩も揺らす彼に、不動は顔を顰めた。
「余計なこと思い出してんじゃねえ」
「ん? あ、見るか?」
不動が顕現して間もなくあった大喧嘩のとき、火傷の痕を見せた方の手をひらひらと振っている薬研に肩を竦め、遠慮しておくと答えた。
「お前、その火傷、見せるの抵抗なさすぎだろぉ……」
「でも別に痛くもないし、俺としてはただあるってだけなんだがなぁ」
「生々しく映るんだよ、周りには」
いまひとつその感覚が分からん、と首を傾げる薬研は、一年前と比べて少し雰囲気が変わった。政府に許されたとかで、彼は一時期修行に出ていたのである。その修行先が織田信長の元だと聞いたとき、不動は動揺したし、薬研のことを心配に思ったりもした。
でも届く手紙は実に淡々としたもので、悲しみに暮れた様子もなかった。戻ってきた薬研の強さには、お前は一体どんな修行してきたんだと小一時間問いつめたくなる程度には驚かされたが。
「しかし一年経って知る事実があるとは思わなかった」
「お節介だよなぁ」
肩を竦める薬研に不動が首肯。二人してしみじみと言うのは、一年前のこと。「久々の再会を果たしたときは酷い喧嘩をした」と思い出話から始まったのだが、夕餉の際に不動が部屋で一人で食事をとろうとしていたのは、燭台切によって手が回されていたためだと、今更ながら発覚したのだ。喧嘩したばかりで顔を合わせるのは気まずく、部屋を出るのが億劫だろうからと、直々に食膳の配達が部屋にあったらしい。他でもない燭台切によってだ。実際億劫であったし、あのときは薬研の顔も見たくなかったので、有り難くそのまま部屋に居座ることにしていたらしい。そこに喧嘩相手が食膳を持って訪問するのだから、心臓に悪いことこの上ない。
「二人で話す場を設けるためって、他にやり方あっただろ……」
思い出してげっそりする不動に、でも仲直りできたから結果論として良かったと薬研はあくまで前向きだ。
ふと気配を感じて、二人は首を回した。廊下を歩いてきたのは、宗三だった。
「おや、珍しい。酒盛りですか」
「おう。今日は月もなかなか良いのが出ててなぁ」
すぐに薬研が答え、その隣で不動がこてりと首を傾げた。
「……宗三もやってくかぁ?」
きょとんとした顔。慌てて表情を改めて、仕方ないですね、と言った表情に直す。
「一杯だけですよ。僕、明日出陣なんですから」
「お、いいねぇ!」
一杯だけとはいえ、断らないのもまた珍しい。薬研が上機嫌に胡座をかいてその膝を叩いた。
それを見た不動が、思わず、あ、と声を出す。
勿論、気づかないわけがなかった。宗三も、薬研も、お互いの顔を見合わせて、表情を緩めた。膝を叩きながら、歌った。
「 不動行光、九十九髪。人には五郎左御座候 」
その歌を聞きながら、不動行光は今日も、笑っている。
了