ロトの石版 (DQツアー/DQ7)

2019年10月18日

 目映い光。海の中のような碧、水中のような浮遊感は、体に馴染んだものだ。初めて「これ」を通ったとき、海の中みたいだと思ったことは、昨日のことのように覚えている。まだ魔物など、おとぎ話の存在でしかないと思っていた頃のこと。当時は沢山の世界を飛び回ることになるなんて思っても見なかった。ましてや、封印された大陸を、自分と仲間の手で取り戻していくことになるなんて。
 だから、だろうか。こうして世界を飛ぶときに、ぼんやりと「いつも通り」の感覚に戻り始めるのだ。一番幼いであろう自分が落ち着きを払っているのだから、他の世界の彼らは度肝を抜かれた様子だった。しかし自分たちが救ってきた世界は、正確に言うなれば過去の大陸。自分が暮らすのと全く別の世界に飛んだことなどなかった。「向こう」の地に足をつけてからは、今までに経験のない感覚ばかりで、他の彼らと同様に困惑したし戸惑った。神の啓示のように自分のすべきことが明白になったことも例外なく、だ。
 ぐわん、と眩暈のような感覚が頭を襲い、顔をしかめる。過去と現在の行き来ではなく、世界を跨いだ移動には、旅の扉を通過する本人に多少なりとも負担があるらしい。
 歯を食いしばって耐えると、唐突に、所在なさげであった足の裏に確かな感触を感じた。瞼を持ち上げると、日の光が届いていない、暗く冷たい床が広がっているのが見えた。緊張で固まった体から力を抜きながら、振り向く。そこには、古ぼけた台座があった。沈められた石版からは、まだ微かに虹色の光の粉が零れ、台座から微々たる光が溢れている。

『封印された世界を救いし勇者・アルスよ』

 声が、響く。台座から溢れる光が、何者かの意思によって揺らめき、立ち上る。一ヶ所に集まり、虹色の光は、卵のような形にまとまり始める。かと思えば、光の卵は弾け、黄金色の小さな鳥に姿を変えた。

『あなた方のおかげで、彼の世界は救われました』

 凛とした声には、聞き覚えがあった。ただの鳥ではない。最後の最後で、自分たちが元の世界へと帰るための旅の扉を開いてくれた、不死鳥・ラーミアの声だ。
 あなた方、というのは、自分とはまた別の世界で、それぞれ世界の闇を払った勇者達のことだろう。アルス自身も、彼らは背中や腰にさげた武器が様になっていて、並々ならぬ力を感じた。己の仲間内にいる伝説の戦士である老爺を見たときの胸の高鳴りと、よく似た感覚だった。

『ですが、ゾーマの言ったとおり、これからも世界に闇が発生しないとは限りません』

 その通りだった。勇者と共に戦っていた、武闘家の娘や、山賊風の男、青い剣士、剽軽な旅芸人は、魔王ゾーマにはっきりと返した。そんなことはさせないと。人間はそんなに、愚かな生き物ではないし、闇が覆い隠そうとも振り払ってみせる、と。彼らの言い分は尤もであると思うし、アルスも大きく首を縦に振る。
 一方で、彼らが豪語した内容が綺麗事であることも忘れてはならなかった。アルスは知っている。欲に塗れた人間の愚かな所行が、憎しみを生み、争いを生んだ惨状を、彼は石版の世界で見てきた。ゾーマの言ったこともまた、事実なのだ。思いを、考えを持つからこそ、闇が生まれる。人間はそんなに愚かな生き物ではないかもしれないが、愚かな側面を持つことは確かなのである。
「そのための、僕達なんでしょう」
 相手は不死鳥。神と並ぶ位置に、存在する者。それでも彼はあくまで静かに言葉を並べる。
「闇に向き合って初めて、世界を救うために剣を握れる。それを僕達は、繋いで行かなきゃいけないんです」
 ゆらりと揺れるのは、時間がないからだろうか。しかし静かにラーミアは、小さな鳥の姿を台座の上で保って、言葉を待ってくれていた。
「僕は、〝過去〟に希望を繋いだ二人がいるのを知っています」
 灰色の雨が人を石に変えてしまい、町がなくなってしまったこと。その恐怖を、脅威を、旅をしながら語り継いでくれた老爺と青年がいたことを、知っている。絶望しかなかった町で、できることを見つけ、彼らは「その町に暮らした人間」として、町の命を、そして希望を繋いでいたことを、知っている。
「僕は、道を外れたけれど、自分でそれを戒めにして、何年も戦い続けて、沢山の人たちを救いながらもいなくなってしまった人を、覚えています」
 一族での戒律に従わず、自分の欲に忠実に生きた男が悲しげに奏でた民族楽器。儀式に失敗し、一族にいるべきではないと姿を消し、年老いてから一つの町を救ったこと。それでも町に腰を落ち着けるべきではないと、自分の闇を十二分に理解していた男のことを、覚えている。
「………僕には。〝現在いま〟に希望を繋げた、親友がいます」
 ある国の身勝手な王子。冒険をすることに憧れ、共に「冒険ごっこ」をした親友。そんな彼は、石版世界に残った。そして彼は、繋げたのだ。現在いまに、ある民族の身勝手な踊り手を。その踊り手は今、アルスの仲間の一人であり、共にオルゴ・デミーラを倒した者だ。仲間が一人でも欠けていれば、きっと、あの「闇」には勝てなかった。彼女がいなければ、あの「闇」には勝てなかった。
「彼らに恥じないように、僕達も希望を繋ぐ。それが、闇に世界を支配させない方法であり、すべきことなんだと思います」
 ラーミアの輝きが、アルスの瞳に映る。その瞳は、深海を思わせる深さがあった。気のせいかもしれないが、不死鳥が微笑したかのように感じられた。

『私が、今更申し上げることは、ないようですね』

 不死鳥を相手に、随分と知ったような口を聞いてしまったかと思い、恐縮するようにアルスはそっと肩をすぼめた。しかしラーミアは意に介した様子もない。微かに光の強さが増した。時間のようだ。

『勇者アルスよ。あなた方のような人間がいることを、誇りに思います』

 金と、虹の輝きを放つ。光は更に強くなり――弾けるように、消えた。先ほどまで、微かに光を保っていたというのに、台座はそれすら忘れたかのように沈黙している。石版を確認しようと思い覗き込んで、あれ、とアルスは眉を上げた。台座に沈めていたはずの石版がなくなっている。それどころか、今の今まで台座であったはずなのに、奇妙な窪みを持ったただの岩と化していた。恐る恐る手を触れると、待ち構えていたかのようにたちまちボロボロと崩れ始めてしまう。初めから何も無かったと言えるほど、滑稽に消え去った。
 嗚呼、と嘆息する。先ほどまで、全く別の世界にいたとは思えない。先ほどまでのことは全て夢だったのではないだろうか。頭の芯がびりびり痺れた。静けさと暗闇を取り戻した神殿は、冷え冷えとしている。ふるりと頭を振る。此方ではどの程度の時間が過ぎているのだろう。歩き始めると、腰にさげた大洋オチェアーノの剣が揺れて、細やかな金属音が鳴る。
 神殿の外に出ると、眩しい日差しが容赦なくアルスを照りつける。太陽がおろす光の角度と、そのものの位置を、何気なく記憶の中にある時刻と照らし合わせて、日の出からあまり経っていない時刻だろうと見当をつけた。木々と神殿の壁という壁が風の通り道になっていて、彼の頬を撫でていく。独特の寒さに身震いした。
「遅かったわね」
 朝の冷たい空気の中を奔る声がある。逆光で少々見えにくいが、よく見えずともアルスには誰だか分かった。神殿の周りを囲うように在る崩れた壁。彼女は、そこによりかかって待っていた。
 身に纏ったワンピースの袖からは白すぎる肌が覗いており、普段長袖のものを着ることの多い彼女にしてはかなり軽装だ。当然、胸の前に竜の紋が施された法衣は見る影もなく、恐らく父のアミットが作らせた特注品の衣服であろう。また、何処かへ行くときには必ず帯びているグリンガムの鞭も持っていなかった。
 少し眠そうに目尻を拭い、歩み寄ってくるアルスに切れ長の目を半眼にして向ける。
「ええと……おはよう?」
 半眼になっている瞳の中に、わかりやすく不機嫌な色が宿る。
「あんたねぇ……」
「あっ、ごめん」
 長らく共に旅をしてきた仲間で、とくに二人は幼なじみという点でも付き合いは長く、言わずともいいところまで察することが出来てしまう。アルスなど人一倍勘が鋭いので、余計なことにまで気を回すところがあった。
「大体、このマリベル様が直々にお出迎えしてあげてるのよ」
 他に言うことがあるんじゃないの?
 腰に手をあてて覗き込んでくるマリベルに、困ったように眉を下げながら。
「ただいま」
「おかえり」
 待っていた挨拶に満足そうに笑う。だが、アルスは首を傾げながら彼女を見やった。
「何?」
 幼なじみの視線に意地悪な笑みを浮かべてみせるが、すぐに己の肩にかかっている赤毛を払い、肩を竦めた。
「急に、見覚えのない台座が出てきたって言ってたでしょ。しかもご丁寧に、石版だっていつの間にかアルスの家にあったって」
「ああ、うん」
 だいぶ前のことのように思えて、慌てて頷く。
 何とも不思議な話であるが、例の世界へと飛んだ台座の石版は、アルスの部屋の箪笥の上に鎮座していた。石片は三枚。全く見覚えのない形に色。更に言えば、奥に存在した白い台座も含めて、神殿の台座にはめるべき全ての石版は完成させていたはずだった。だから、今更新たな石版が見つかるなど、違和感しかなかった。
 まだ石版を沈めていない台座があっただろうか―――?
 そこで、アルスは一人で神殿に赴き、一先ず台座の有無だけを確認することにした。そして見つけたのが、例の台座である。今まで何故気づかなかったのかと思うような位置にあったので、十中八九、唐突にそこに出現したものだと考えた。元々、魔物にも魔法にも馴染みの無かった少年だ。そう結論づけることに、最早抵抗などなかった。
 すぐに石版を沈めるようなことはしなかった。新たに台座が現れ、新たな世界に飛べるとなれば、そこは今までと同様に闇に覆われた世界かもしれない。数々の戦いは、当然ながら少年を用心深くさせていた。
 相談をする相手は自ずと限られていた。世界に平和をもたらしてからのアルス達の忙しさは尋常ではなく、救世主として崇められ、剣や魔法の腕といった面からも各地の様々な国に引っ張りだこである。
 中でも、神の兵として天空神殿で働いているメルビンはとてもではないが新しい石版世界のことに気を配る余裕などないほど忙殺されているし、グランエスタード城で兵長となったアイラも、流石に離れるわけにはいかない。魔物と戦闘経験のない兵隊が多かった分、稽古の他にも教えなければならないことは山積みなのだ。
 残るのはガボとマリベル。だがこの二人も各地で求められていることに変わりはない。一つの場所に留まって自分のすべきことを進めるメルビン、アイラよりは予定を調整しやすいというだけだ。ガボは動物と魔物との線引きであるとか、他の仲間と比べて風変わりな面で必要とされており、世界各地を飛び回っている。マリベルは世界中の魔法使いの憧れの存在となっており、彼女もまた世界各地を飛び回りながら魔法そのものが何たるかということから魔法の正しい使い方、逆に恐ろしい側面を語り継ぐ立場にある。彼らに相談することが出来たのは、たまたま同じ頃にアルスの故郷であるフィッシュベルに、二人ともが留まっていたからだ。
 結論から言って、アルスは一人で新たな石版世界に飛ぶことを決意した。今までと同じように台座に石版を沈めてみないことには何も始まらない。
 彼とて、世界を救った英雄の一人だ。世界中に求められていて、定期的に回るようにしているのも違いない。他の仲間と異なり、彼の身の振り方が軽いのは、強いて言うなれば転移呪文ルーラを使いこなしていることにあった。基礎は簡単なので、マリベルだって唱えることは容易だ。だが旅の道中、頻繁に唱えていたのはアルス。本来ならば地面や床に、転移するための魔法陣を描くが、彼はそれを必要としない。魔法陣を頭の中でサッと描くことができてしまうためで、頻繁に唱えて転移呪文ルーラの精度を増したからこそできる芸当だ。魔法陣を描かずに済むか、描かなければならないかで利便性はかなり違う。……とくに、彼らのように各地に求められてしまうと、魔法陣を描いている間に引き留められてしまうことなどザラなのだ。
 まだ見ぬ石版世界で何かがあれば、旅の扉を通って戻ってきて、すぐに転移呪文ルーラで仲間に声をかけにいくこともできる。一瞬一瞬が遅くなることで手遅れになってしまう現象を、彼らは嫌と言うほど感じてきた。石版世界と、この世界は、時間の経ち方にズレがあるのだ。
 だが、何を言ってもやはり、アルスにはまだ冒険に対する野心が残っていた。かつて、グランエスタードの王子の身分であった親友と、冒険ごっこをしたときと同じように。一人きりで新しい石版世界に飛ぶと決めた大部分は、転移呪文ルーラ云々よりも此方が占めていたのかもしれない。
「あんたのことだからすぐに行くんだろうなぁとは思ってたんだけどね。知ってる? ちょっと前に、この神殿から白い光の柱が立ったのよ」
 ほんの数日前のことだと言う。アルスたちが世界を平和にして以降、ずっと何事もなく沈黙していた神殿から、突如として真っ白の光の柱が天へと向かって伸びたらしい。
「また何か起きるんじゃないかって、大陸の封印を経験してるそこかしこがもう大騒ぎよ。まだ何も起きてないのに、助けてくれ、なんて言われちゃったわ」
 一種の精神的外傷トラウマだ。封印されたときの恐怖はそうそう拭い去ることができるものではない。些細な出来事が自分たちの命を脅かしはしないかと気が気ではなくなるのだろう。
「おかげさまで、神殿に様子を見てくるって言ったら、すんなり今回は放して貰えたわ。……まあ、メルビンとアイラは相変わらず、そうもいかなかったみたいだけどね」
 ただ、マリベルの元に、「自分のところが落ち着き次第急いで向かう」と、短くとも報せがあったようだ。
「あれ、じゃあ、ガボも?」
「タイミング。ずっとここにいたけど、眠くてたまらないから顔を洗ってくるって、さっきフィッシュベルに戻ったわよ」
 フィッシュベルの方向へと顎をしゃくりながら、マリベルは気が抜けた笑いを漏らす。
「あんた、平然と出てきたから分かってないでしょうけどね。閉まってたのよ、そこの扉」
 アルスの目がゆっくりと見開き、慌てて後ろを振り返る。まだ、神殿の謎を解き明かすんだと息巻いていた頃に、謎を解いて開いた荘厳な扉。あれが再び閉じていた瞬間があったというのだろうか。
 信じられないでしょ、とマリベルが肩を竦める。
「吃驚したわよ。台座の間に行けないどころか、神殿の中に入れないんだもの。閉まってたときのことなんて、あんたとバカ王子が謎を解くまで開かなかったって、話でしか聞いたことなかったしね。あの扉って閉まる機能があったんだー、なんて思ったりもしたわ。魔法でこじ開けようとしたら、何故かかき消されちゃうし」
 長い溜息。細い腕を組んで、上目遣いに少年を見つめる。そこに、いつもの彼女の気の強さは感じられなかった。迷った様子で何度か口を開き、閉じ、また開き――、
「生きてて良かった」
 アルスが、既にどれだけの力を持つ戦士かは知っている。どの大陸の強者が来たとしても、彼はきっと赤子を相手にするように簡単に倒してしまう。相手が人間なら本気すら出さないだろう。ふきだまりの町で、暴力で町を統治していたスイフーにすら、相手が人間と言うだけで本気を出せずにあえなく敗けたのだから。
 だが未知の石版世界の敵に勝てるかどうかは分からない。他の仲間たちもマリベルも、信じていた。それでもマリベルやガボは、初めの頃の衝撃を忘れられない分、危機感も強かった。今までに見たことのない奇妙な魔物。魔物といって、差し支えないのかすら分からない、機械仕掛けの兵隊。絡繰り兵との戦いは、そこに至るまで未知のものであったし、だからこそ苦戦を強いられた。同じ状況が再びアルスに襲いかからないという保障は、どこにもなかった。
 彼女の唇が引き結ばれて、ぎゅっと眉根を寄せて言われた言葉。よほど心配をかけていたのだな、とアルスは思い知った。
「うん。ごめん」
 頭を撫でようと手を伸ばせば、「子供扱いしないでよ」と払いのけられた。一瞬で彼女らしさが戻ったので、少年は嬉しそうに口元を緩ませた。
「何笑ってんのよ!」
 理不尽な暴力も、少女らしい照れ隠しであることは知っている。
 痛いが。

 二人はフィッシュベルの方へと並んで歩き始めていた。見慣れた草木を瞳に映しながら、アルスは飛んでいた世界の話をマリベルに聞かせた。色々な石版世界を経験しているせいか、彼女の反応もなかなかに淡々としている。唯一、魔王ゾーマの話をしたところで、すっと声の温度が下がっていた。
「ふぅん。どこの世界にも、陰気な奴がいるもんだわね」
 世界を闇で覆い尽くそうとした魔物を「陰気な奴」で片付けるとはまた、少女も怖い者知らずである。
「それだけ、世界には魔物が巣食う隙があって、人間が醜いってことにもなるんでしょうけど」
 だが、怖い者知らずのような物言いをするのは、少女が無能だからではない。闇に覆われた果てを何度も見てきたから、言える。
「みーんな、あたしみたいに賢く生きなきゃだめよ。そう思わない?」
 出し抜けに問われ、慌てて首肯し―――かけて、世界中がマリベルのような生き方をしたらと想像し、ううん? それはどうかな? と首を捻った。彼女の眉間に皺が深く刻まれる。
「何? 文句でもあるなら、はっきりと言いなさいよ」
「あ、いや、えっと、うん、そう思う」
 どうだか、と仄かな林檎色に色づいている頬を膨らませる。しかしすぐに表情を改めて、空を見上げた。一度は闇に封印された大陸。今は、平凡な青空を広げているけれど、暗雲しか見ることができない時間があった。
「でもその勇者は幸運だったわね」
 風が強く吹いた。帽子がとれかかり、慌てて少年は手で抑える。
 赤毛を流れるに任せ、柔和な表情を浮かべる少女が、幼馴染でありながら、傍目でも扇情的な美貌を備えていることは明らかだった。いつからだろう、彼女が「幼馴染の少し我が儘なお嬢様」から、そうした魅力を備え始めたのは。
「あんたを初め、色んな世界の勇者が、集まって、希望を託して……思い出すことができたんでしょ? 贅沢者よ、贅沢者」

『俺の名前は………』

 魔王ゾーマと対峙した、あの勇者は、己の名前を思い出した。思い出して、そして叫んだ。つけてもらった、彼だけの名前。「勇者」という言葉は、人々に希望を与える記号でしかない。自分に希望を与えるのは、記号ではなく、彼だけが持つ「名前」だった。
 アルスと同じく、別の世界からやってきた勇者の一人。彼の身に纏う仰々しい甲冑と物々しい盾と剣は、艶やかに輝いていた。

『勇気という剣を持ち、闇に立ち向かう者……それを人は、〝勇者〟と呼ぶ』

 名前が在るから、勇気を奮い立たせることができた。そして、闇に立ち向かうことができた。だが名前を思い出すことができたのは、「彼の名前を呼んでくれる者達」がいたからだ。
 あのとき、他の世界の勇者たちは、アルスは、叫んでいた。「彼の名前」を。
「アルス」
 はっと我に返り、マリベルを見やる。
「何?」
 マリベルが悪戯っぽく口角を吊り上げる。
「呼んでみただけ。名前の力、ね。あたしには、よく分からないわ」
 名前の力。字や言葉だけでは、あまりに漠然としていて、現実味がない。だがアルスは確かに見た。名前が与えてくれる勇気と、闇を振り払う力を。目を閉じれば、あの光景を思い出せる。少年の瞼の裏に、しっかりと焼き付いている。
「でも、名前が持つ力は、凄かったよ」
 マリベルは微笑する。意地悪にでもなく、嘲るようにでもなく、侮蔑したようなものでもなく、ただ、静かに。いつかと同じように、短く返す。
「あら、そう?」

   *   *   *

 歩き慣れた小道を進むと、海の音が近くなる。漁村・フィッシュベルの、教会の鐘の音が聞こえてくる。
 アルスは思わず、ふはりと笑い声を漏らした。不審そうに見つめてくるマリベルに、真っ直ぐ前を指さしてやる。既に漁師達は海に出たのだろう。誰もいない真っ白な砂浜に、元気よくぴょんぴょん跳ねている野生児の姿がある。遠目でも誰か分かって、マリベルも続けて、たまらず吹き出した。
 跳ね回っている少年の傍に、見知った二人の姿も見られた。此方に向けて手を振っている。そういえば、何とか仕事の方を落ち着かせてから、すぐにフィッシュベルに向かうとか約束していたと聞いていたか。腰に剣をぶら下げた、未だ歴戦の戦士という様の、腰がぴんと伸びている老爺。出会った当初から変わらず今も親友の面影を残し、しなやかな肢体を大胆に露出しながらもきちんとした装備で身を固めた、黒髪の踊り子。
 遠くにいるせいで、遅れて声が届いてくる。「アルス」と、呼びかけてくれている。仕事を大急ぎで片付けた後とは思えないくらい元気ねぇ、とわざとらしく肩を竦める少女の隣で、少年はむず痒い思いで必死に足を歩かせた。が、結局たまらなくなって、マリベルの手を掴み、珍しくも「行こう」と促す。それに、仕方ないわね、と笑う少女も、満更でもなかったのだろう。
 一生懸命手を振り返しながら、アルスは勢いよく地面を蹴った。
 仲間達の名前を、大きな声で呼びながら。

fin.